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万物のデザイナーである神は、一羽のスズメにも目を注がれている。
そしてあなたのデザイナーである神は、あなたにも目を注いでおられる。
父なる神の許しなしには、一羽の雀でさえ地に落ちることはない。
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万物のデザイナーである神は、一羽のスズメにも目を注がれている。
そしてあなたのデザイナーである神は、あなたにも目を注いでおられる。
父なる神の許しなしには、一羽の雀でさえ地に落ちることはない。
2016年8月23日(火)、東京中野にある、いのちのことば社本社ビルで持たれているWord Chapelに招かれ、感謝な時が与えられました。書籍やCDなどのプレゼントもいただき、5階建てビルの見学もさせていただき、本当にありがとうございました。いのちのことば社のすべての出版物が、これからますます、まだ聖書の素晴らしさを知らない方々のために、豊かに用いられますように。
メッセージタイトル:天を見上げて地上を旅する
聖書箇所:創世記15章1−6節
20160823Word Chapelメッセージ「天を見上げて地上を旅する」(クリックで聴けます)
まだ聖書の素晴らしさを知らない方々のために、以下の文章をこれからさらに練り直します。
昨日、これまで敬遠していた東京の良さと、東京に隣接する埼玉の良さを改めて知る素敵な時が与えられた。
いろいろな事が重なって、素敵な時が与えられたことに深く感謝。まず、私が牧師をしている杉戸キリスト教会のある方が、「上野の国立西洋美術館で開催されているカラヴァッジョ展をぜひ見に行ってください」と言って先立つものをプレゼントしてくださった。そして、昨日予定していた求道中の方との聖書の学びが急遽キャンセルになり、午後の予定が空いた。さらに、外に出かけたくなるような青空と陽光と新緑が眩しい5月の晴れた日だった。
私の住んでいる埼玉県北葛飾郡杉戸町から東京の上野までは、東武スカイツリーラインと地下鉄日比谷線の相互乗り入れのおかげで約1時間で行ける。飛行機や電車を乗り継いではるばる東京に出てこられる方も多いのに、わずか1時間で上野の美術館に行けるというのは埼玉の素晴らしい点。
東京と言っても超高層ビルが立ち並ぶ所だけではない。上野公園には新緑の木々や正岡子規記念球場や西郷さんの像がある。関東大空襲による戦後の焼け野原では、遠くから上野の西郷さんの像だけが見えたと聞く。
さて、最初私はカラヴァッジョと聞くと、残酷な首切り画家というような印象しかなく、あまり行きたくないなと思っていた。けれども調べてみると、私の大好きなレンブラントにも大きく影響を与えた画家だということがわかり、楽しみにしながらいろいろとネットで下調べをして鑑賞に備えたが、百聞は一見に如かずだった。
西洋の文学や美術には、BIBLE・聖書の内容をテーマにしたものが多いが、もちろんカラヴァッジョの作品にも多い。「洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)」、「エマオの晩餐」における復活の主イエス・キリスト、「エッケ・ホモ(この人を見よ)」、「法悦のマグダラのマリア」などが今回の公開作品にはあった。
世界初公開という「法悦のマグダラのマリア」。実は彼女の前になるキャンバスの左上には、ライティングによって背景の闇の中からかすかに浮かび上がってくる十字架が描かれている。彼女は、手をしっかりと水平に組みながら仰け反り、左腕を後ろによじらせながら、骸骨の上に左肘をつけて体重を支えている。
注目すべきは左上の十字架と右下の骸骨を結ぶライン。そしてもう一つは左上に仰け反り右下に下半身を投げ出している彼女の体の傾きによって描かれているライン。この二つのラインがキャンバスにXの構図を描き出している。そして対照的なのは左右の腕の色。十字架に近い右腕は明るく白く描かれているが、骸骨に上半身の体重を預けている左腕は暗く、ほとんど黒に近い濃さで描かれている。そして彼女が見上げている左上、十字架の上だけにはうっすらと光がある。彼女は上半身は白い衣を着て、下半身は赤い衣をまとっている。彼女のお腹は妊婦さんのように膨らんでいるが、腹部の衣は白がかなり黒ずんでいることから、罪を孕んでいることの象徴のように見える。
この作品は、人を殺め、逃亡しながらも最後までカラヴァッジョが手放さなかった作品だそうだ。恐らくカラヴァッジョは、罪を孕み、赦しを求め、死との闘いの中で十字架を見上げ、神のあわれみを求め、晩年には罪の赦しに基づく平安と歓喜の中で、自ら描いたマグダラのマリアのように法悦していたのではないかと私は想像する。
十字架も骸骨も死の象徴である。けれども十字架は罪の赦しの象徴であり、罪から来る報酬である死に打ち勝ち、復活の命を与える神の愛の象徴である。罪のない神の御子、主イエス・キリストが、私たちの罪の身代わりに十字架で死なれた。けれども主イエスは3日目に復活なさり、罪と死に勝利された。そのような主イエス・キリストの福音による罪と死に対する勝利がこの絵には描かれているように感じた。