吉川福音教会開拓38周年記念礼拝でのメッセージ。「流れのほとりに植えられた木」詩篇1篇より
カテゴリー: ヨハネ福音書 JOHN
聖書全体を貫く3つの出来事
LOVE SUGITO RADIO 2020-07-09 聖書が教えている基本的なこと イエス・キリストはどんなお方?前半
LOVE SUGITO RADIOは、杉戸キリスト教会の「のまちゃん牧師」によるラジオです。杉戸町に関すること、聖書に関すること等について話しています。杉戸町と宮代町を愛するラジオです。41回目の配信。コロナと集中豪雨と地震。今日も有志の学び会で共に学んだ内容をシェアします。「聖書が教えている基本的なこと〜聖書入門のてびき」より、第6課、イエス・キリストはどんなお方?前半。
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LOVE SUGITO RADIO 2020-06-25 私の人生を変えた一冊の本
見よ、世の罪を取り除く神の小羊 オンライン礼拝2020-04-26
動画(YouTube)によるオンライン礼拝はこちらです。
音声(LOVE SUGITO RADIO)によるオンライン礼拝はこちらです。
式次第は以下の通りです。
2020年 4月26日 第4主日オンライン礼拝式
前 奏
賛 美 讃美歌461 主われを愛す
使徒信条
われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
われはそのひとり子、われらの主、
イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより
生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、よみにくだり、
三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、
全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより
来たりて生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。
われは聖霊を信ず。聖なる公同の教会、
聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、
とこしえの命を信ず。アーメン
主の祈り(マタイ福音書6章、ルカ福音書11章参照)
天にましますわれらの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国をきたらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
われらの日用の糧を、今日も与えたまえ。
われらに罪を犯す者を、われらが赦すごとく、
われらの罪をも赦したまえ。
われらを試みにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。アーメン
祈 り
賛 美 讃美歌271 いさおなき我を
聖 書 ヨハネ福音書1章19−34節
メッセージ 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」
賛 美 讃美歌164 こひつじをば
献 金 感謝と献身の告白として
(郵便振替 00110-3-177729 杉戸キリスト教会)
祈 り
頌 栄 讃美歌542 世をこぞりて
祝 祷
後 奏 主に栄光あれ
報 告 その他
メッセージアウトラインは以下の通りです。
見よ、世の罪を取り除く神の小羊(メッセージアウトライン)
2020年 4月26日 第4主日オンライン礼拝式 杉戸キリスト教会から
聖書:ヨハネの福音書1章19−34節
結論:神のかたちであられる主イエスは、世の罪を取り除く神の小羊として、
あなたの身代わりに死なれた。
導入:神のかたちそのものであるイエス・キリストの姿
①十字架に向かわれた神のしもべ(目的概念)
②世の罪を取り除く神の小羊(関係概念)
③第二のアダム(実体概念)
起:私は『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。(19ー23節)
19 さて、ヨハネの証しはこうである。ユダヤ人たちが、祭司たちとレビ人たちをエルサレムから遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねたとき、 20 ヨハネはためらうことなく告白し、「私はキリストではありません」と明言した。 21 彼らはヨハネに尋ねた。「それでは、何者なのですか。あなたはエリヤですか。」ヨハネは「違います」と言った。「では、あの預言者ですか。」ヨハネは「違います」と答えた。 22 それで、彼らはヨハネに言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人たちに返事を伝えたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」 23 ヨハネは言った。「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。」
承:その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。(24ー27節)
24 彼らは、パリサイ人から遣わされて来ていた。 25 彼らはヨハネに尋ねた。「キリストでもなく、エリヤでもなく、あの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」 26 ヨハネは彼らに答えた。「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。 27 その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」
転:ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。(28ー31節)
28 このことがあったのは、ヨルダンの川向こうのベタニアであった。ヨハネはそこでバプテスマを授けていたのである。 29 その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。 30 『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。 31 私自身もこの方を知りませんでした。しかし、私が来て水でバプテスマを授けているのは、この方がイスラエルに明らかにされるためです。」
結:私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。(32ー34節)
32 そして、ヨハネはこのように証しした。「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。 33 私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』 34 私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」
結論:神のかたちであられる主イエスは、世の罪を取り除く神の小羊として、あなたの身代わりに死なれた。
ドイツの画家、マティアス・グリューネバルトが描いたイーゼンハイム祭壇画。その中心には、十字架に磔にされているイエス様の姿が描かれています。非常に生々しく、そしてリアルに、十字架で処刑されるということ、十字架の上で死ぬということの恐ろしさが描かれています。
暗く塗られた背景に、十字架の主イエスが浮かび上がっています。太い釘が両手を刺し貫いて打ち込まれた十字架の横木は、イエス様の体重によって大きく曲がっています。全身鞭打たれ、傷だらけの皮膚。よく見ると、身体中に刺のようなものが刺さっています。槍で刺された脇腹。イエス様のお体は裂かれ、釘で刺し貫かれた足元に、血が流れ落ちています。左右に広げられた両腕、その先の両手の指は引きつっています。すでに命が絶たれているのでしょう。茨の冠が被せられた頭を、垂れておられるイエス様の姿。
十字架で死なれたイエス様の左側には、気を失って後ろに倒れかけている白装束の女性がいます。イエス様の母マリアです。そしてその卒倒しているマリアを、しっかりと抱き抱えている使徒ヨハネ。十字架の下にひざまづき、組んだ手を高く上げ、嘆いているマグダラのマリアの姿もあります。
十字架に磔にされて死なれたイエス様の横に、イエス様を指差しているバプテスマのヨハネが描かれている。その指の所には、「あの方は栄え、私は衰えねばなららない」と、バプテスマのヨハネの言葉が書かれています。
そしてバプテスマのヨハネの足元、十字架のイエス様とバプテスマのヨハネの間には、小羊がいけにえとして屠られています。屠られた小羊は十字架を抱えていて、小羊の血が、下に置かれた杯に流れ落ちています。
適用:自分では自分の罪を取り除くことができません。ですから、「あなたの罪を取り除く神の小羊」であられる主イエス・キリストを、ぜひ見てください!そして、あなたも主イエス・キリストを信じ受け入れてください。イエス様があなたの罪を取り除いてくださいます。
LOVE SUGITO RADIO 2020-04-07
SUGITO GOSPEL CAFE HD 2018-04-06 罪人を誰が裁ける?
This Is How Much (Chapter 3) – The Book of John in Song
新約聖書が語る主イエス
新約聖書が語る主イエスは、一言で言えば、エホバの証人が証言するような「最も偉大な人間」ではありません。新約聖書が語る主イエスは、明らかに全てが、私たち人間とは質的に違います。まるで天と地の違いのように。そのような質的な違いが認識されていなければ、新約聖書が語っている啓示のメッセージを本当に聞いていることにはならないでしょう。
新約聖書が語る主イエスは、私たち人間を断罪しつつ、しかも解放する全権を持っておられるお方です。また、私たちを御許に召すと共に、御自身に結びつける全権を持っておられるお方です。そして、人間があらゆる宇宙的制約を持っているのに対して、宇宙的全権を持っておられるお方。主イエスとならんでは、他に先行者も後続者もない救い主・キリスト。すなわち「神の行為」であり「終末的な救いの出来事」であるお方です。主イエスは、「人間になられた神」であられ、万物を創造し、万物を支えておられる「神の言葉」です。
キリスト論と三位一体論について
イエス・キリストは、ナザレのイエスとして処女マリヤの胎内で受胎し、出生した時(クリスマス)に、はじめて存在するようになった方ではありません。永遠のはじめから神とともにおられ、父のふところにおられ、永遠のはじめから父との愛の交わり、聖霊の交わりの中におられる方です。永遠の神の内的生命の中におられるのは、単に永遠なるロゴスではなく、肉となった永遠のロゴス、人間イエスです。このことは教会の教理の中で、三位一体論と呼ばれています。
John 1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 2 この方は、初めに神とともにおられた。 3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。 5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。 6 神から遣わされたヨハネという人が現れた。 7 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。 8 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。 9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。 10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。 11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。 12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。 14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」 16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。 17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。 18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
三位一体の神の内部において、イエス・キリストだけを切り離し、父および聖霊との関係をぬきにして考えることはできません。それ故、私たち人間の間でも、人間を他者との関係から切り離して考えたり、男性と女性という関係をぬきにして人間とは何かを考えてはならないのです。