砂漠が、荒野が、不毛の地が、この国に、全世界に拡がっている。新自由主義、市場原理主義、進化論、人間中心主義、実利主義、啓蒙思想が産み落とした弱肉強食の格差競争社会は、容赦なくミドルにいる者たちをふるいにかけ、下にたたき落としていく。

派遣社員、貧困労働層、ワーキングプア、ネットカフェ難民、マック難民、後期高齢者、リストラされた人たちの呻きや魂の叫びが聞こえてくる。人殺しの武器を売りさばく死の商人たちが横行し、やがて望みのある求人広告は、民営化された戦争のために派遣される兵士募集(自衛隊員募集)しかなくなる。そんな悪夢がリアルになりつつある。

しかし聖書は、あなたの造り主からの、あなたに対するラブレター、人生の羅針盤、コンパスだ。聖書を指針として生きるなら、あなたは必ず、憩いのオアシス、北極星のようなキリストを見いだすことできる。そして希望は失望に終わらない!!!人生あきらめたらアカン!!!

方向を指し示すコンパス(方位磁石、羅針盤)を持たず、現在位置を知ることができる地図もGPSも持たず、自分の方向感覚や位置感覚だけに頼って山や海を旅する。それはとても危険な行為だ。霧や暗闇、嵐などによって視界がきかなくなったら大変。ルートから外れると、滑落や座礁の危険が高まり、最悪の場合はいのちを失うことになる。

しかし多くの現代人は、コンパスも地図も持たないまま、人生という過酷な旅を続けている。山あり谷あり。荒野、砂漠、大河あり。子育て、介護、闘病あり。この人生という旅において、約束の地、天の都、天国にたどり着くためには、目指すべき方向と現在位置を示すコンパスと地図が必要不可欠である。

人生において、目指すべき方向と現在位置を示すコンパスであり地図。それが聖書だ。聖書は、北極星のようなイエス・キリストを指し示している。道、真理、いのち。天国に至る唯一で確かなルート。それがイエス・キリストというお方です。

ですから、聖書の権威を受け入れ、聖書の真理を自分のものとし、聖書の原則を自分に適用することを心がけよう。真理はあなたを自由にし、やがてあなたをキリストに似た者に造り変えるであろう。

もしあなたが、聖書に耳を傾け、その導きに従うならば、信仰と希望と愛に生きることができる。あなたの造り主(メーカー)は、あなたにとって何が最善なのかをご存知で、万事を益と変えてくださる。

聖書に耳を傾けることは聴く祈り。聴く祈りは、話す祈り、願う祈りよりも大切。どうしても必要なただ一つのこと。

聖書は通読する必要がある。バランスよく66巻すべての書を定期的に読まなければならない。食事の時、バランスを欠いた偏食が健康によくないのと同じである。

キリスト者が静まって聖書に聞くことを止めてしまうと、速やかに霊的に枯渇してしまう。

霊的に枯渇すると、足場を失い、あらゆる誘惑に対して、無力、無防備となり、流されていく。

暴力や権力の誘惑、性的誘惑、金銭的誘惑、物質的誘惑、地位や名声的誘惑、実利主義、成果主義の誘惑。この世の中に渦巻いている強力な流れに逆らうことができなくなり、流されてしまう。

聖書に聞くことを止める時、神に代わってキリスト者が教会のオーナー(所有者)、主権者となる。

聖書に聞くことを止める時、キリスト者は仕えることを止め、仕えられることを切に求めるようになる。

聖書に聞くことを止める時、キリスト者は愛することではなく、狡猾に支配する者となる。

聖書に聞くことを止める時、キリスト者は自分のことは棚に上げて、人を批判するだけの者となる。

要するに、聖書に聞くことを止めてしまえば、キリスト者もただの罪人になるのである。マグロが泳ぐことを止めてしまえば、呼吸ができなくなり、死んでしまうのと同じように、キリスト者が聖書を読むのを止めてしまえば、霊的呼吸ができなくなり、霊的に死んでしまう。

だからキリスト者は、どんなに忙しくても、静まって聖書に聞き続け、いつもいのちの水によって潤され続けなければならない。

旧約聖書(39巻)

旧約聖書を読む意味

 旧約聖書には、この地上におけるすべての民族に対する神のことばが記されている。しかし、「聞きなさい。イスラエル。」と語られているように、旧約聖書のほとんどの紙面を割いて、中心的に記されているのは、やはりイスラエル民族に対する神の言葉である。

 そして、すべての民族の創造主である唯一まことの神も、やはり中心的には、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神として、つまりイスラエルの神として記されている。アブラハム契約に約束された祝福も、契約としての十戒も、もともとは神の民イスラエルに与えられたものであった。

 旧約聖書を概観すると、イスラエル民族は、ただ神のあわれみによって神の民として選ばれ、神の民として愛され、神の民として育まれ続けた民族であることがわかる。

 しかし、旧約聖書が語る神の民イスラエルの歴史は、罪と恥と裏切りに満ちている。ただ神のあわれみによって神の民として選ばれ、これ以上ないというほどに神に愛されたはずのイスラエルは、ことごとく自らの神に逆らい続け、恵み深い神に反逆し続けたうなじのこわい民であった。

 実にイスラエルの歴史、神の民の歴史は、神によって自由にされたにもかかわらず、ことごとくこのような律法を破り続けた歴史であった。まことの神だけを神とし、まことの神だけにより頼む道から外れ、ほかの神々と共に歩み続けた故に、自ら滅びを刈り取った民、それがイスラエル民族であった。そのようなイスラエルの歴史を、あのエルサレムがことごとく焼き払われ、イスラエルの人々が異国バビロンへ捕囚として強制連行されていった罪の歴史を、旧約聖書は記録している。

 イスラエルという民族は、いわば全世界のすべての国民、すべての民族の代表である。旧約聖書を読み、イスラエルという民族の歴史を見ていくということは、いわば、本当の自分を映し出す鏡の前に立たされ、見たくない本当の自分の姿を見させられるということに他ならない。そして、この事実が、「なぜ旧約聖書にイスラエル民族の歴史が中心的に記されているのか」、「なぜ、ほとんどイスラエルの歴史が記されているこの旧約聖書の語りかけに、全世界の人々が耳を傾ける必要があるのか」という疑問に対する答えだと、私は確信している。

 仮に日本民族が神の民として選ばれていたとしても、イスラエルとまったく同じように、うなじのこわい民としてほかの神々を持ち、神の愛を裏切り続けたであろう。また、救い主として来られた主イエスを拒み、イスラエルとまったく同じように、十字架につけてこの世から抹殺しようとしたことであろう。日本のキリスト教会の歴史を見るなら、そのことを覚えることが出来る。

 日本のキリスト教会にも、真の神だけを神とすることを止め、天皇を現人神として拝み、天照大神(太陽)を拝んだという歴史があった。日本におけるキリスト教会の将来のために、また、私共キリストの弟子が、祝福の基、世の光、地の塩としての使命に生きるために、主イエスの十字架と復活による赦しの宣言をしっかりと聴き取り、赦された過去をしっかりと心に刻むことから始めたい。

 戦時下において、ほとんどの日本のキリスト教会は、日本政府によって、日本基督教団として一つにまとめられた。私共の所属する日本同盟基督教団は、日本基督教団の第八部に所属していた。

 その時日本のキリスト教会は、国家神道ナショナリズム(国家主義)に対して抵抗出来ず、教団の統理は、伊勢神宮に参拝して偶像礼拝の罪を犯した。日本の教会は、神社参拝が宗教であるかどうかという判断をキリスト(聖書)に聞かず、日本政府に聞いた。その結果、教会は教会としてのアイデンティティを失い、神社参拝は宗教ではないという政府の意見を受け入れ、積極的に神社参拝を行ったのである。

 そして戦時下、日本の教会の指導者たちは、特高警察と共にアジア諸国に行き、「神社参拝は宗教ではないから参拝しなさい」と同胞に勧めた歴史がある。韓国のキリスト者にまで神社参拝を勧めに赴いた日本の教会の指導者たちに対して、韓国の抵抗して殉教していったキリスト者は「それは第一戒に反することではないのですか?」と命をかけて問うたのである。

  • 日本同盟基督教団105周年記念大会−横浜宣言より

4.かえりみて、戦時下、特に「昭和15年戦争(1931-1945年)」の間、私たちの教団は、天皇を現人神(あらひとがみ)とする国家神道を偶像問題として拒否できず、かえって国民儀礼として受け入れ、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」・「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない」との十戒の第一戒と第二戒を守り抜くことができませんでした。さらに近隣諸国の諸教会と積極的に平和をつくり出す者として生きることができず、国家が推進した植民地支配や侵略戦争に加担し、アジア地域の侵略に協力しました。こうして神と隣人の前に、とりわけアジアの人々に、偶像礼拝の強要と侵略の罪を犯し、しかも戦後、この事実に気付かず、悔い改めに至ることもなく、無自覚なままその大半を過ごしました。近代日本の100年余の歴史に重なる私たちの教団の歴史をかえりみ、私たち教職・信徒は、「信仰と生活の唯一絶対の規範」である神のみことばに、十分聞き従い続けることができなかったことを主のみ前に告白し、悔い改め、神と隣人とに心から赦しをこい求めます。私たちは、今、あらためて、堅く聖書信仰の原理に立ち、聖霊の助けにより、福音にふさわしい内実を伴ったキリストの教会へと変革されることを心から願います。1996.11.19 MISSION 21 Yokohama

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Last-modified: 2019-05-15 (水) 19:18:26