イザヤ書は、旧約聖書の中に収められた、壮大な大河ドラマの中の一巻。聖書は66巻だが、イザヤ書も66章ある。しかもちょうど聖書が、旧約聖書39巻と新約聖書27巻に分かれているように、イザヤ書は、1章から39章までと、40章以降の27章に分かれているような印象を受ける。 イザヤが長い生涯に渡って書き記したからそのような違いも見られる。イザヤ書には、世界の国々の背後にあって歴史を導かれる神、忍耐と燃えるような愛をもって神の民イスラエルを導かれる神と、その神を裏切り続ける神の民イスラエルの姿がある。誠実を尽くし続けて下さる神と不誠実の限りを尽くす神の民の姿がある。 聖書には、旧約聖書の創世記から新約聖書の黙示録まで、イスラエル、ユダヤ人を中心とした歴史が、かなりの紙面を割いて記されている。なぜか?まずそのことを考えてみたい。イスラエル、ユダヤ人とは、私たちと何ら変わらない一人の人間、そして一つの民族の形成へと導かれた民である。けれども、全世界のすべての民族の造り主なる神は、あえてイスラエルを全世界の祝福の基として選ばれた。それは決して、イスラエルが他の民族と比べて優れていたからではなかった。 いつくしみ深い主なる神は、ただあわれみによってイスラエルをご自分の民として選ばれ、愛を持って養い育て、導き続けておられる。けれども、イスラエルがもし選民意識を持って高慢になったり、まことの神様以外のものを頼るなら、主なる神はイスラエルに忍耐を持って警告を与え続けられる。しかしそれでも悔い改めないならば、主は特別な厳しさを持って、速やかにイスラエルを裁かれる。 聖書をじっくりと読み、イスラエルの姿を見ていくならば、恩知らずで人殺し、遊女のようなイスラエルの姿を知ることが出来る。しかし、そういう姿と生き方を続けているイスラエルの姿こそが、実はすべての国民、すべての民族の姿、つまり私たちの姿なのである。そしてそれが、イスラエルを中心とした歴史が、聖書にかなりの紙面を割いて記されている理由なのである。 ある人は、私たち日本人のルーツはユダヤ人であると考えている。しかしそのような考えをしている人の多くが、日本人は他の民族に比べて優れているという優越意識に基づいて、そのことを考えている。しかしそれは間違っていると言わざるを得ない。なぜなら、まさに神の愛を裏切り続け、神に反逆しつづけ、神に敵対し続けている存在であるという点においてこそ、ユダヤ人、イスラエルは、私たちの醜い姿を映し出す鏡として存在しているからである。 そして全世界の救いは、ユダヤ人から、イスラエルから出た。他ならぬ、イエス・キリストこそ、一人のユダヤ人としてクリスマスに生まれて来て下さったメシア(救い主)、主キリストであった。 預言者イザヤの活躍した時代 †
サウル王の時から始まったイスラエル統一王国は、ダビデ王、そしてソロモン王の時代と続いたが、ソロモンの死後、B.C.922年、イスラエルは南北に分断された。その後、南ユダ王国と北イスラエル王国は、それぞれ神に背を向け続け、滅びに向かって歩んでいた。それが、預言者イザヤが遣わされ、活躍した時代。 具体的には、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤがユダの王であった時代に、イザヤは活躍した。イザヤはB.C.740年代に召命を受け(おそらく20歳前後の若い時)、その後預言者として歩んだ。イザヤは、主から預かった神のことば(預言)を、かたくなな民に向かって60年以上語り続けた。 「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。」 †
1、子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。 †親不孝と神不幸の関係。 愛をもって育ててくれた親に感謝をしないこと、労苦して育ててくれた親を親として認めないこと、親を無視すること、親に逆らうこと…。愛をもって造り、生かして下さっている天の父に感謝をしないこと、神を神として認めないこと、造り主を無視すること、いのちをかけて救い出して下さった天の父なる神に逆らうこと…。それこそが聖書の語っている罪!罪人。 2、牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。 †動物の中でも一番鈍感な牛やろばが引き合いに出されている。その反面、人間一般ではなく、神によって選ばれたイスラエルはどうなのかと主は問いかけられる。 3、それなのに、イスラエル(すべての国民の代表)は知らない。わたしの民は悟らない。 †私たちは自分のものではない。実はすべては造り主のもの。健康、結婚相手、子供、友人、職場(仕事)、能力、生きるために必要なすべて、時間、そしていのち。それらすべては私たちが自分で作り出したものではなく、すべて主なる神からの贈り物、預かりもの!本当の持ち主は造り主、天の父なるまことの神。主は良い羊飼いでわたしたちはその牧場の羊。飼い主は造り主、天の父なる神。 神はイスラエルを子として選び、愛を注いで育て、大きくされた。それなのに、イスラエルはその造り主、飼い主、贖い主を忘れ去ってしまっている。悟ることがない。神から遠く離れて、自分勝手に生き、欲望の奴隷として罪にまみれ、汚れに汚れを重ね、迷える羊のように、解決を求めて絶望と空しさと孤独の中を、死と滅びに向かってさまよい続けている。 結論:主が私たちに語られる理由は、悔い改めて生きるためである。 †
そのために、神の言葉であられる主イエス・キリストが、クリスマスに飼い葉おけに御降誕された。 聖書箇所:イザヤ12 †賛美と世界宣教への呼びかけ
聖書箇所:イザヤ13 †バビロンに対する宣告 残酷な主の日が来る。 聖書箇所:イザヤ14 †堕天使としての悪魔・サタンについての啓示 聖書箇所:イザヤ15−16 †モアブに対する宣告、神の叫び・神の痛み
聖書箇所:イザヤ17 †ダマスコに対する宣告
聖書箇所:イザヤ18 †羽こおろぎの国(クシュ・エチオピア)に対する預言
聖書箇所:イザヤ19 †エジプトに対する宣告 エジプトの霊はその中で衰える。3節
聖書箇所:イザヤ20 †3年間裸になり、はだしで歩いて実物預言を行ったイザヤ。 聖書箇所:イザヤ21 †海の荒野(バビロン)、ドマ(エドム)、アラビアに対する宣告
イザヤ22 †幻の谷(エルサレム)に対する宣告 イザヤ23 †ツロ(そしてシドン)に対する宣告 船と海路を利用して貿易を行い、巨額の富を得ていたツロとシドン。 世界中の国々と貿易を行い、巨額の富を得ていた日本への宣告でもある。 イザヤ24 †まるで三国志のように、傾国していく国々。主が諸国の地を荒れすたらせる理由。それは神の民が律法を犯し、定めを変え、とこしえの契約を破ったことにある。 イザヤ25 †
聖書箇所:イザヤ41− †神の約束と励まし †
神の瞳に映る姿 †
偶像(人間が作った神々)のむなしさ †
聖書箇所:イザヤ54−66 †神の約束と導き †
神の招き †
神のことばは出来事となる †
不信仰を超えて 神が目を留めてくださる者 †
新天新地の預言 †永遠の喜びと永遠の苦しみ †最後にイザヤ書は、明確に死後の世界を語っている。そこにはいわゆる新天新地と呼ばれる天国とともに、地獄がある。天国ではいついつまでの喜びと楽しみが用意されてある。しかし地獄では蛆が死ぬことはなく、炎が消えることがない。
火葬場のバーナーは1時間半ぐらいで消えるが、地獄では永遠に炎が消えない。地上では死体にたかる蛆もやがて死ぬが、地獄では蛆が死なないで、永遠にその体をはい回り続ける。そのような神の祝福が一切届かない、神に見捨てられた場所に行くことがないようにと最後に警告を与えて、イザヤ書は締めくくられる。 |