聖書66巻

創世記には、創造主による創造(万物の起源)、人間の堕落(絶望の起源)、そして再創造(希望の起源)が記されている。

人間は神に愛されるために、神の最高傑作(マスターピース)として、神のかたちに創造された。人間は、神を中心として、神と共に生きるように造られた。その時人は、エデン(喜び)の園で、喜びを持って生きることができていた。

しかし堕天使となった狡猾な悪魔(サタン)が、人を誘い、人は堕落していった・・・。

人間の堕落によって、この世界は光から暗やみに滑り落ちました。神の愛からサタンの支配に滑り落ちてしまったのです。滑り落ちた先は、創世記冒頭に記されている、あの天地創造前の風景に似ています。

『地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。』創世記1章2節(新改訳第3版)

突破口をなかなか見つけられず、暗く重苦しい閉塞感に覆われているこの地は、茫漠として何もなく、やみが大水の上にあります。しかしそこには、まさしく神の霊がおられ、神の霊は私たちのために休むことなく動いておられるのです。

やがて神は仰せられます。「光があれ。」と。すると光が訪れるのです。光とは昼であり、やみとは夜です。光の訪れとは、夜明け・サンライズの時なのです。信仰をもって東を見つめるなら、やがて昇ってくる光の軌跡を、夜明け前の最暗黒の中にも見ることができるでしょう。

創世記全体の概観

1章:宇宙・世界の起源

2–11章:民族・国家の起源

12–50章:イスラエルの起源

1:1–2:3 プロローグ

1) 2:4–4:26 天地の歴史

2) 5:1–6:8 アダム家族の歴史

3) 6:9–9:29 ノア家族の歴史

4) 10:1–11:9 ノアの子どもたち家族の歴史

5) 11:10–26   セム家族の歴史

6) 11:27–25:11 テラ家族の歴史

7) 25:12–18   イシュマエル家族の歴史

8) 25:19–35:29 イサク家族の歴史

9) 36:1–37:1 エサウ家族の歴史

10) 37:2–50:26 ヤコブ家族の歴史

1章1節から2章4節前半までの研究

ジャンル=神からの啓示を受けた人間の詩的な信仰告白。科学論文ではない。神話でもない。

「この聖書の箇所(創世記)はある一日で書かれたものではない。ここに大まかなものは何一つなく、すべてが熟考され計算されつくされており、厳密に受け取らなければならない。」フォン・ラート

天地創造:誰も直接観察した人はいない。人間は最後に創造されたので。

神の言葉(神の意志)による天地創造

観点(ビューポイント)は地球を覆っていた海の上 with 信仰。

大気圏外からではない。

地は茫漠(カオス、混沌、混迷、無秩序、形がなくなにもない)として何もなかった。

1日目

光(昼)とやみ(夜)の区別

夜明け

厚いカーテンのように光を遮っていた濃い大気を切り裂いて、地表を覆っていた水面に、遂に光が差し込んだ。地上に夜明けが訪れ、夜から昼へ、昼から夜へと

2日目

夜明け→水の蒸発→大空の下の水と大空の上の水の区別

光によって暖められた水が蒸発し、気体となった水は空高く舞い上がり、上空でわき上がる雲となっていった。

大空を挟んで、下の水と上の水とに区別がなされた。

3日目

水の蒸発と共に、水底に沈んでいた地が隆起し、乾いた地が姿を表し、陸と海の区別がなされた。

秩序、時間と空間の枠組みをお造りになった

カオス(無秩序)からコスモス(秩序ある宇宙)

エントロピーの法則(熱力学第二法則)に逆らう神の創造の力

光とやみの区別 昼と夜 夕があり朝があった=時間の秩序

天と地の区別 大空=天

海と地の区別

リズム by 繰り返し規則正しく使われるフレーズによってリズムが生み出される

神は仰せられた。

「〜あれ」

そのようになった。

神はそれを見て良しとされた。

種類にしたがって

夕があり、朝があった。=恵みの2ビート

7日間=一週間というリズムが7日目の安息によって生み出される。

7日目には「夕があり、朝があった。」というフレーズがない。

8日目=再創造

メロディ=主旋律(主題、基調音)は「初めに、神が天と地を創造した。」

     明るく、わくわくドキドキするようなメロディ

1章1節から2章4節の一行目までがひとかたまり。

ハーモニー=神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。1:31

     地球環境問題に対する聖書の指針 アニミズムではなく

あなたの造り主?

夕があり、朝があった

ハーモニー?

不協和音?

最大の神不孝?

責任転嫁?

和解への道?

Reunited Family

講解説教「アブラハムの神」

アブラハムとサラに対する全能の神のお取り扱い

アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、 こう仰せられた。「わたしは全能の神(エル・シャダイ)である。 あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」創世記17:1−2

 アブラハムという人物は、ユダヤ人の父、イスラエル民族の父である。また、ユダヤ人に限らずどんな国籍を持つ人であっても主イエス・キリストを信じる者は、アブラハムを「信仰の父」と呼ぶ。アブラハムはもともとアブラムという名前であったが、後に神から「多くの国民の父」という意味のアブラハムという名前を与えられた。イエス・キリストも、このアブラハムの子孫として生まれて下さった。新約聖書の冒頭に、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」(マタイの福音書1:1)と記されている通りである。

 アブラハムは、ユーフラテス川の川下のウルという町に生まれ育ち、そこから川上にあるカランに移り住んだ。ウルもカランも月神礼拝が盛んに行われていた所であった。ヨシュア記には、アブラハムの父テラもまことの神ではない他の神々に仕えていたと記されているので、おそらくアブラハムも、父に連れられて偶像の神々を拝んでいたであろう。

 このアブラハムに、ある日神からの呼びかけがあった。神はアブラハムを、多くの国民の父として選ばれた。そしてアブラハムは「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。…(創世記12:1-2)」という神の約束を信じて、妻のサライ、おいのロト、財産、人々をたずさえて旅立った。アブラムが75歳の時、妻サライは65歳の時の出来事である。サライは不妊の女で、サライに約束通り子どもが与えられたのは、それから25年後のことであった。

 アブラハムは神からの約束を信じて信仰の歩みを始め、行く先々で祭壇を築いて神を礼拝した。しかし困難な状況の中で、神を信じきれない弱さが表れることとなった。 信仰生活の中で、いつでも問題になってくるのは、神様と神様の約束を信じきれないという弱さである。約束が与えられていて、そのために祈っているがなかなか答えられない時。祈っていても困難な状況が起じた時。いくら神様でもこの状況で約束が現実のものになるとはとても信じられない時。創世記を見ると、信仰の父と呼ばれているアブラハムも、そういう時を何度も経験したことが記されている。

 そのような時アブラハムは、不信仰から自分の命だけを守ろうとして取り返しのつかないような大失敗をしたり、人間的な小細工によって約束を実現しようとした。信仰にとって危機的な状況の中で、神の約束を信じきれないアブラムの弱さが露呈したのであった。けれどもアブラハムを多くの国民の父として選んだ主なる神様は、そのような時に、力強い御手をもって介入し、問題を解決してくださった。

 人間的な小細工によってどうしようもなくこじれていく人間関係の中でも、神は祝福を与え、問題を解決してくださった。アブラムが不信仰でも、神はいつも真実と忍耐をもってアブラムを導かれた。主なる神は何度も何度も約束を再確認させて下さり、契約を結んで下さった。そして神は、アブラムにアブラハム(多くの国民の父の意)という名前を、妻サライにサラ(女王の意)という新しい名前を与えられた。

アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。 それに主人も年寄りで。」そこで、主がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ 『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』と言って笑うのか。 主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、 定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」サラは「私は笑いませんでした。」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」創世記18:11−15

 創世記18章11節から15節には、不信仰の故に心の中で冷たく笑うサラに対して、全能の主がアブラハムに告げられた言葉が記されている。そしてそこには「主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」という全能の神からの問いかけと約束が記されている。

主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに 主はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、 年老いたアブラハムに男の子を産んだ。アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子を イサクと名づけた。そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、 八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに 乳を飲ませる。』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」創世記21:1−7

 四半世紀、25年の長い歳月の末、アブラハムが100歳、サラが90歳の時に約束の子イサクが与えられた。実に聖書の神は、不信仰な人間の冷たい笑いを笑い飛ばし、感謝と喜びに満ちた暖かい笑いに変えることのできる全能の神であられる。

 なお、不信仰の冷めた笑いをしたのはサラだけではなかった。アブラハムの心中にも、不信仰からの笑いがあったであろうことは、創世記17章17節から容易に想像出来ることである。そしてこれが、旧約聖書が語っている信仰の父アブラハムの赤裸々な姿である。

アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の 女が子を産むことができようか。」創世記17:17

 しかし全能の神は、そのような者を信仰の父として養い、育て上げることの出来るお方である。不信仰を超えて約束を成就してくださる全能の主を深く体験させられたアブラハムは、後にひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげよと主に命じられた時、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考え、死者の中からイサクを取り戻したのである(へブル11:17−19参照)。

 神は人を死者の中からよみがえらせることもできる全能のお方である。実にアブラハムは、そのような信仰をもって全能の神を仰ぐ者へと変えられたのである。

冷笑から微笑みへ

創世記15章

アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。・・・創世記15:1

そして、彼を外に連れ出して仰せられた。さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」・・・創世記15:5

彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。・・・創世記15:6


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Last-modified: 2019-05-15 (水) 19:19:35