聖書66巻

エレミヤ2−

罪とは?

わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。…2:13

エレミヤ4−

神の命令

主はこう仰せられる。四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ。…6:16

わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの声となり、あなたがたは、わたしの民となる。あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め。…7:23

神の嘆き

空のこうのとりも、自分の季節を知っており、山鳩、つばめ、つるも、自分の帰る時を守るのに、わたしの民は主の定めを知らない。…8:7

エレミヤ31:20

エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。それとも、喜びの子なのだろうか。わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。・・主の御告げ。・・エレミヤ31:20

 ここには、「メイエッハ」という名詞と「ハーマー」という動詞の組み合わせがある。「ハーマー」は第一に種々の音が「鳴り響く」(英to sound)の意に用いられ、第二にはこの言葉は人間の、そして神の心的状態、精神的状態の激しい動きを表現する言葉である。すなわち心の最も深い所から、痛みを伴って憐れむことの意である。「メイエッハ」は「腸」(英bowel)の意味であり、心(情)の存在する場所、ひいては「心」そのものの意に用いられる言葉である。

ラハム

 エレミヤ31:20において「我が腸かれの為に痛む(文語訳)」と並行して用いられているラハムという動詞に注目したい。ラハムは子宮を意味する名詞レヘムあるいはラハムから派生した動詞で「あわれむ」という意味である。エレミヤ31:20において、このラハムという語は重ねて2回用いられている。

 ここでレヘイムはラハムの不定詞の独立形(強意法)であり、強意語幹の能動態(piel形)である。さらにその直後に重ねて用いられている語は、同じくラハムの強意語幹の能動態(piel形)であるが、未完了形、1人称、両性、単数である。これに「彼を」を意味する3人称男性単数の接尾辞がついている。

 ここではラハムが強調形で重ねて用いられることによって非常に強調され、「私は必ず深くあわれむ!いや、私は彼をあわれまずにはおれないのだ!」というようなニュアンスの言葉になっていると考えられる。このようなニュアンスはまさに平行してその直前に記されている「我が腸かれの為に痛む」と同じニュアンスを持つ言葉であると言える。

 従って、このラハムというヘブル語はギリシア語スプランクニゾマイと同じニュアンスを持った言葉であると言える。12部族の遺訓における翻訳の用例も、このことを確証づける強力な根拠となる。ヘンリー・J.M.ノーエン、J・シュニ—ヴァント、らもこのことを指示している。

 けれども新約聖書において、スプランクニゾマイによって、キリスト中心的に神の心が語られているのを見る時、エレミヤ31:20における「我が腸かれの為に痛む」という表現のニュアンス、また、同じテキストにおいて強意形で重ねて用いられているヘブル語ラハムの持つ「深くあわれまずにはおれない、必ずあわれむ」という言葉のニュアンスを、さらに豊かにまた雄弁に語っていると考えられる。

 なお、エレミヤ31:20の前の文脈を見ると、このように神の心を深いあわれみへと揺り動かしたものが何であったのかが記されている。

わたしは、エフライムが嘆いているのを確かに聞いた。『あなたが私を懲らしめられたので、くびきに慣れない子牛のように、私は懲らしめを受けました。私を帰らせてください。そうすれば、帰ります。主よ。あなたは私の神だからです。私は、そむいたあとで、悔い、悟って後、ももを打ちました。私は恥を見、はずかしめを受けました。私の若いころのそしりを負っているからです。』と。…エレミヤ31:18−19

 これは自らの高ぶり、偶像礼拝、背信によって神の怒りの懲らしめを受けたエフライムが、砕かれた魂、砕かれた悔いた心をもって、自分の罪を嘆いているのを聞いたときに主なる神の心の底から生じた動きであった。

 エレミヤ31:20の「我が腸かれの為に痛む(文語訳)」という言葉、また「彼をあわれまずにはおれようか。私は彼を必ずあわれむ」という言葉によって表現される神の心の動きは、自らの高ぶり、偶像礼拝、背信によって神の怒りの懲らしめを受けたエフライムが、砕かれた、悔いた心をもって、自分の罪を嘆いているのを聞いたときに、主なる神の心の底から生じた動きであった。

 砕かれた人間の姿によって、心の底から揺り動かされる神がここに啓示されている。

ラハミム(ラハム)とヘセッドについて

 ラハムの名詞形ラハミムというヘブル語はヘセッドと組み合わせて用いられることが多い。以下にラハミム(ラハム)とヘセッドの違いを、レオン・モリスの著書『愛—聖書における愛の研究』から引用する。

 ヘセッドは相応しくない者と一方的に結んだ恵みの契約に対する誠実である。しかしラハミム(ラハム)は、契約を破り、裏切った相手に対する愛であると言える。本来ならば、相手が契約を破った故に、裏切られた者には相手に誠実を尽くし続ける何の義務もない。しかしラハムは、ただ恵みによって、悔いた裏切り者を自由に赦す驚くべき愛である。

『ラハミムが用いられるときには、ヘセッドの場合のように義務に対する忠誠という意味あいは含まれていない(2)。ヘセッドは普通、対応する義務(おそらく契約)との関係を含むように思われる。それゆえ、W・アイヒロットは、その語[ラハミム]は「いかなる義務によっても喚起されない愛の全く自然な表現(3)」を指すと主張している。 この用語が用いられるとき、「愛」の意味内容は、それが特に悩みや窮乏のうちにある人々に対する愛であるにもかかわらず、表面的である。だが、これで全部というわけではない。なぜなら、この語はすべての人に対する神の愛を記述するためにも用いられているからである—事実、それは、すべての被造物に対する神の愛を指している。「主はすべてのものに恵みを与え、造られたすべてのものをあわれんでくださいます」(詩145:9)と言われている。この愛には限界がない。そして、神のあわれみは神のすべての被造物に及んでいる。(4)この用語は、さらに限定された意味において、ヤハウエとイスラエルの結婚の「結納」の決定的な要素である。すなわち、「わたしはあなたと…いつくしみとあわれみとをもってちぎりを結ぶ」(ホセ2:19)と言われている。N・グレックは、ラハミムは「ヘセッドの境界を越える」と注釈している。彼は、「ヘセッドは契約に対する誠実であり、ラハミムはゆるす愛である(5)」と言って、両者の対照をいっそう簡潔にしている。名詞は全部で三九回用いられているが、そのうちの二七回が神に言及するために、そして、わずかに一二回が人間に言及するために用いられている。この種の愛は特に神(LORD)に特有なものであり、その用語は、神の恵みが豊かであることを強調するために用いられている。これに対応する動詞ラハムも、全く同じ仕方で用いられている。この語に固有な訳は「あわれむ」(出33:19、など)であり、ヤハウエとの関連が、名詞の場合よりもいっそう明らかに認められる。四九回出てくるうち四十回も、主が、慈愛、あわれみ、愛を示し給うことについて語っている。形容詞ラフムは、語根を同じくする他の語ほど頻繁には用いられていない(全部で一三回出てくる)。それは常に神について語るために用いられている。それは普通、恵みの思想と関連づけられている(一一回)。そのことは、「主よ、あなたはあわれみと恵みに富む」(詩86:15—この節はさらに神のヘセッドについて語っており、これはこの形容詞が用いられている他の個所にも見られる現象である)とある通りである。悩みのうちにある者に対する神の恵み深い愛という思想は、旧約聖書の重要な要素である。』

『神の痛みの神学』のキリスト中心的理解−キリスト者の生活における苦難の積極的意味を求めて


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Last-modified: 2019-05-15 (水) 19:27:55