日本国憲法の制定過程

水草修治

2014年12月 終章に追加しました。

<アウトライン>

㈵ 「押し付け」憲法論について

 1 「押し付け」憲法論の根拠と目的

 2 「押し付け」憲法論への簡潔な反論

㈼ 日本国憲法の制定プロセス

1 日本国憲法の制定過程概観

(1)日本国憲法関連 略年表

(2)日本国憲法を書いたGHQ民政局の人々

(3)米国務省極東班と戦後計画委員会(PWC)

2 「基本的人権尊重」「国民主権」は明治の自由民権運動の復活である

(1)憲法研究会「憲法草案要綱」

(2)起草者鈴木安蔵の思想的源泉・・・植木枝盛

(3)「象徴」天皇

3 9条の起源

(1)その発案者は

(2)幣原喜重郎の深謀遠慮

むすび

㈵ 押し付け憲法論について

1 押し付け憲法論の根拠と目的

(1)ポツダム宣言は新憲法制定は求めていない  産経新聞は「そもそも「ポツダム宣言」は、「新憲法制定」については何ら規定せず、「GHQ はポツダム宣言に反し、当初から占領政策の大きな柱として新憲法の制定を決定した」(産経新聞1997年2 月3 日参照)という。

(2)ハーグ陸戦条約 違反である 「日本国憲法は、形式上、日本の国会の審議による明治憲法の改正という手続きをとってはいるものの、アメリカ占領軍が6 日6 晩で起草し、これを日本側に押しつけたものである。占領下におけるこのような憲法の改正はハーグ陸戦条約に規定された国際法の違反である」(藤岡信勝『汚辱の近現代史』)

(3)英文原案が日本政府に交付されたから 「原案が英文で日本政府に交付されたという否定しえない事実、さらにたとえ日本の意思で受諾されたとはいえ、手足を縛られたに等しいポツダム宣言受諾に引き続く占領下においてこの憲法が制定されたということは、明らかなのであるから、この面に関する限り、それを押しつけられ、強制されたものであるとすることも十分正当であるというべきである。特に、日本側の受諾の相当大きな原因が、天皇制維持のためであったことも争えない事実である。

ただ、それならば、それは全部が全部押しつけられ、強制されたといい切ることができるかといえば、当時の広範な国際環境ないし日本国内における世論なども十分分析、評価する必要もあり、さらに制定の段階において、いわゆる日本国民の意思も部分的に織り込まれたうえで、制定された憲法であるということも否定することはできないであろう。」これが憲法調査会の憲法制定に関する結論部分であります。(西修、衆議院憲法調査会、2000 年2 月24 日)

(4)自主憲法制定のために 「明治憲法は天皇が下された欽定憲法であり、今の憲法は、占領中、占領軍の有力な指導、影響でできた占領憲法だ。我々は初めて、国民憲法をみんなでつくろう、そうゆうような意図で国家の形と心をはっきり固めて、この国家構造をしっかりした上で、戦略的に米英で軽視されない、中国やロシアにも軽視されない、顔のある国家に作っていかなければならぬ、そういう段階に入ったと私は見ています」(中曽根康弘、衆議院憲法調査会、2000 年5 月11 日)

「占領中にできた、そのことはハーグ条約に違反しているということもありますが、それよりも、やはりこれは私たち日本人の精神に大きな影響を結果として及ぼしているんじゃないか、このように思います。・・・そういう意味で、今度こそ根本的に私たちは私たちの手で新しい憲法を作っていくということが、私は極めて重要なんだろうと思います。」(安倍晋三:自民党幹事長、衆議院憲法調査会、2000 年5月11 日)

2 押し付け憲法への簡潔な反論

(1)ポツダム宣言12か条の第十項、第十二項 「十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ 」

「十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ 」

 ポツダム宣言には上記のように記されており、わが国がこれを公的に受諾した以上、「民主主義実現」「言論、宗教思想の自由、基本的人権の尊重」「平和的傾向と責任ある政府」を具体的に実現するために、憲法改正が求められた。必ずしも不当・新憲法無効とは思われない。

(2) 憲法改正要求はハーグ陸戦条約に違反するとされる件に関して

「第43条:国の権力が事実上占領者の手に移った上は、占領者は絶対的な支障がない限り、占領地の現行法律を尊重して、なるべく公共の秩序及び生活を回復確保する為、施せる一切の手段を尽くさなければならない。」

 GHQは、憲法を抜本的に改正しなければ日本が再び軍国主義に陥りうると考え、それが「絶対的な支障」であると判断した。不当・新憲法無効とは思われない。

(3) 政府に渡された英文のGHQ草案の内実は、相当に日本製である

 後に「㈽」で詳しく見るように、この英文原文は、GHQ法規課長ラウエルが中心となって憲法研究会の「憲法草案要綱」(起草者、鈴木安蔵)の影響を相当受けており、また幣原喜重郎の提案による戦争放棄・軍備放棄条項を加えているものである。実質的に、日本人の中のリベラルな人々の影響を受けている。

(4)「自主憲法制定」というスローガンは、愛国的に見えて実は売国的である

 後に「㈼」で見るが、岸信介以来、「自主憲法」「自主軍隊」は、実のところ、米国の戦争に日本が兵士を提供するためのカモフラージュされたスローガンである。

㈼ 日本国憲法の制定プロセス

序  「米国から押し付けられた」と宣伝されている日本国憲法。誰が作ったものであろうと、よいものはよいわけで、押し付けられたからといって改正しなければならない理由にはならない 。

 だが、歴史的事実として、少なくとも日本国憲法の根幹は、日本人の「発案」によるものと相当一致している。「GHQ押し付け憲法論」を主張する論者は、自説に不都合な憲法研究会のことと、幣原喜重郎首相とマッカーサーのやり取りについて一般読者の目から覆い隠すか、過小評価することに務めている 。

日本国憲法の三大原理は<基本的人権尊重・国民主権・戦争放棄>である。

1 日本国憲法制定の過程の概観   (1)日本国憲法を書いたGHQ民政局の人々

 改憲派はしばしば、日本国憲法はわずか九日間でGHQの素人たちがつくったお粗末な憲法にすぎないというのが常なのだが、果たしてれは事実なのか。

 民政局長コートニー・ホイットニー准将。運営委員会。コロンビア・ナショナル・ロースクール夜間部で法学博士。本職は弁護士。

民政局次長チャールズ・L・ケーディス大佐。運営委員会と司法権に関する小委員会を兼任。コーネル大卒、ハーバード・ロースクール卒。弁護士。連邦公共事業局服法律顧問など歴任。ニューディーラー。

民政局法規課長マイロ・E・ラウエル中佐。運営委員会。司法権に関する小委員会を兼務。スタンフォード大、ハーバード・ロースクール卒。弁護士。政府諸機関で法律顧問。高野岩三郎ら「憲法研究会」のメンバーなど、在野の憲法草案を取り入れる橋渡しをした。

アルフレッド・R・ハッシー中佐。ハーバード大学政治学学士・バージニア大学ロースクールで法学博士。弁護士。日本国憲法前文の草稿を記述した。文章家。

フランク・E・ヘイズ陸軍中佐。立法権に関する小委員会。本職は弁護士。国会に関する部分を記述。 サイラス・H・ピーク博士。行政権に関する小委員会担当。コロンビア大学で修士号・博士号取得。コロンビア大学で助教授。

ミルトン・J・エスマン陸軍中尉。行政権に関する小委員会担当。コーネル大学卒、プリンストン大学で政治学と行政学で博士号。合衆国人事院で行政分析担当官。

ピーター・K・ロウスト陸軍中佐。人権にかんする小委員会担当。オランダのライデン大学医学部卒。シカゴ大学で社会学と人類学で博士号。

ハリー・エマソン・ワイルズ。人権にかんする小委員会。ハーバード大学で経済学卒。ペンシルベニア大学で博士号。テンプル大学で人文学博士号。

ベアテ・シロタ嬢。人権にかんする小委員会。特に女性の人権の項目を担当。日本生活の実体験があり、六ヶ国語を駆使して諸国憲法の人権条項を調査・起案した。

その他、多士済々であって、到底、改憲論者たちがいうような「素人集団」ではない。

 以上に見るごとく、日本国憲法の原案であるGHQ憲法(マッカーサー憲法)は、開戦直後に知日派の米国知識人たちが準備したものをもととして、練り上げ準備されてされてきた米国の占領政策を背景としているものであって、現憲法をおとしめる人々がいうように、短時日で素人たちが作り上げた粗末なものではない。

(2)日本国憲法関連 略年表

米国の日本占領政策には二つの指針があった。一つは、ポツダム宣言であり、もう一つはSWNCC-150「降伏時におけるアメリカの初期対日指針」である。これらは日米開戦直後から準備されてきたものを背景としてできあがったものであった。

1928年8月27日 パリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン協定)締結。米国はじめ15カ国が国策の手段としての戦争の放棄を宣言する。日本の全権代表は幣原喜重郎。

1942年8月 太平洋戦争開始直後、米国国務省内に極東班が設置され、日本全面降伏後の政策について研究を始める。

1944年2月 戦後計画委員会(PWC)が設置され極東班の研究をより具体化し始める。

1945年8月14日 ポツダム宣言受諾。

    9月27日 昭和天皇、マッカーサー(以降Mと略記)を訪問。

10月9日 幣原内閣成立

10月11日 Mと幣原喜重郎首相の面談。      Mは婦人解放など五大改革を幣原首相に指示、

10月25日 政府は憲法問題調査委員会(松本委員会)を設置する。          →委員長の松本烝治は、国体護持を最優先課題とする。          →Mが天皇に関する議論も解禁。

12月8日 松本国務相、憲法改正四原則を表明。

12月26日 憲法研究会「憲法草案要綱」(儀礼的天皇・国民主権・人権尊重)発表。 モスクワでの米英ソ中外相会議で極東委員会(FEC)を46年2月26日に 創設することを決定。

1946年1月1日 天皇、人間宣言

   1月24日 幣原首相がMを訪問。天皇維持と戦争放棄を憲法に盛り込むことで合意。

1月25日 Mがワシントンへ「天皇擁護」の電報を打つ。

2月1日 毎日新聞が松本委員会の改正案をスクープ

2月3日 ホイットニー民政局長、M憲法改正三原則(天皇元首・戦争放棄・封建制度     廃止)を示して、民政局に草案作成を命ず。

2月4日 GHQ民政局 条文化作業を開始→2月10日成案。

2月8日 日本政府松本委員会「憲法改正要綱」をGHQに提出。

2月13日 ホイットニー民政局長ら、GHQ草案を吉田外相・松本国務大臣らに手渡す。

2月22日 幣原首相は受け入れを閣議決定する。       →GHQ案を邦訳作業が極秘ですすめられる。

2月26日 極東委員会(FEC)発足←Mにとっての憲法改正デッドライン。

3月4日 政府案をGHQへ提出するも、否定される。

3月5日 GHQ原案で対訳作業を徹夜で完成し、「憲法改正草案要綱」完成。

3月6日 政府は緊急記者会見で「憲法改正草案要綱」発表。 天皇は「憲法改正発議」の勅語を発出。

4月10日 戦後初の衆議院総選挙。30人を超える女性議員が選ばれる。

4月17日 憲法改正草案発表。

5月3日 極東国際軍事裁判所開廷。

5月16日 第90回帝国議会が開かれる

5月22日 第一次吉田茂内閣成立。

6月20日 憲法改正案、帝国議会に提出。

7月2日 極東委員会、憲法に国民主権を明示することを求める。

10月7日 帝国議会、憲法改正成立。

11月3日 日本国憲法発布。

1947年5月3日  日本国憲法施行。

(3)米国務省極東班(1942年8月)と戦後計画委員会(PWC1944年2月)

 1942年8月、太平洋戦争開始直後、米国国務省内に極東班が設置され、極東・日本の専門家が集められ、戦争後、日本の無条件降伏を前提として戦後処理についていかなる方針で臨むかの研究が開始された。研究成果のうち占領政策に関連するものをいくつか挙げてみる。この研究に携わった人々は知日派・親日派知識人たちであったことは、戦後の米国の対日政策に大きな影響を与えることになった。

T357「日本の戦後処理に適用すべき一般原則」(1943年7月28日)ブレイクスリー 満州・朝鮮・台湾は国家と民族自決の原則から独立させる。軍事力は「日本がふたたび国際平和の障害になることを防ぐ」。「日本の軍備撤廃」「重工業の抑制」「常設の国際軍事査察組織の設立」などを考慮すべきである。・・・言論の自由、憲法改正、教育改革にも触れる 。

T354「戦後日本経済の考察」(1943年7月21日)フィアリー  「日本は経済的安定のために国内改革を遂行せねばならない。地主制と小作制度は長年の積弊であり、農地改革の必要は日本国内でも認められている。しかし終局的には農村の過剰人口を工場労働者として吸収する以外に解決はない。産業部門については、約七割の工業生産と貿易を支配する四台財閥とその他数個の財閥を解体せねばならない。 」・・・農地改革、財閥解体の必要

T358「日本、最近の政治的発展」(1943年7月28日)ヒュー・ボートン  「軍部への優先や、東条首相のもつ独裁的権力の集中は、明治22年発布の、君主制が確立された大日本帝国憲法の枠組みの中で達成された。」  「陸軍大臣と海軍大臣は天皇に直接奏上するという慣習が認められている。したがって両大臣は、奏上した軍事的に重要なこと以外を内閣総理大臣に報告する。この軍部の独立した権限は、大日本帝国憲法の第十一条(統帥大権)と第十二条(編制大権)で明白にされている。」  「その結果、軍部は政治的に力を持つことになり、軍事的な政策、方針を政府に強要することができた。」  「陸海軍大臣現役武官制は、軍の好まぬ政策を内閣が遂行することを阻止できた。」 ・ ・・・統帥権の独立が問題だった点を指摘

T381「日本の戦後の政治問題」(1943年10月6日)ヒュー・ボートン 「軍部が二度と優位を奪えないように、日本の国内政治体制は再編制されなければならない。」と制度変革の必要を述べている。その骨子はGHQ憲法草案の原則がすべて記されている。 ㈰ 内閣強化と軍部の抑制  ㈪ 議会の強化  ㈫ 天皇制の存続と改正 ㈬ 報道の自由と権利章典(基本的人権の尊重) 1944年2月 戦後計画委員会(PWC)が設置される。Tシリーズを基礎として、占領政策に具体的に反映する前提でCAC『国と地域の諸委員会』文書として書きなおされていく。特に注目されるのはCAC116『米国の対日戦後目的』(1944年3月14日)。先にあげたブレークスリー「日本の戦後処理に適用すべき一般原則」をもとにしたもの。ここにはポツダム宣言 の主要条項が網羅されている。すなわち、領土的目的、軍事的手目的、経済的・財政的目的、政治的目的、終極的目的という5項目にわたって、実質的にポツダム宣言の内容と重なっている。  さらに、そのGHQ憲法は、濃厚に憲法研究会の「憲法草案要綱」の影響を受けている。このことは次の項で述べたい。

(4)

3 「基本的人権尊重」「国民主権」は明治自由民権運動の復活である

(1)憲法研究会の「憲法草案要綱」  1945年10月4日、マッカーサーは、近衛文麿元首相と会談し、憲法の改正について示唆を与えた。そこで、近衛は佐々木惣一元京大教授とともに憲法改正の調査に乗り出す。さらにマッカーサーは、10月11日、幣原首相との会談において、「憲法の自由主義化」に触れたので、幣原内閣は、憲法改正に対応することになった。こういうわけで松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会(松本委員会)が10月25日に設置された。  だが、翌年2月1日、松本委員会がGHQに提出する予定の「憲法改正要綱」が毎日新聞にスクープされた。その内容は、帝国憲法と本質的に変わるところがない旧態依然たるものだった。

(松元委員会)憲法改正要綱

第一章 天皇 一 第三条ニ「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」トアルヲ「天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラス」ト改ムルコト 四 第九条中ニ「公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福ヲ増進スル為ニ必要ナル命令」トアルヲ「行政ノ目的ヲ達スル為ニ必要ナル命令」ト改ムルコト(要綱十参照) 五 第十一条中ニ「陸海軍」トアルヲ「軍」ト改メ且第十二条ノ規定ヲ改メ軍ノ編制及常備兵額ハ法律ヲ以テ之ヲ定ムルモノトスルコト(要綱二十参照)

第二章 臣民権利義務 八 第二十条中ニ「兵役ノ義務」トアルヲ「公益ノ為必要ナル役務ニ服スル義務」ト改ムルコト 九 第二十八条ノ規定ヲ改メ日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有スルモノトスルコト

第三章 帝国議会 十三 第三十三条以下ニ「貴族院」トアルヲ「参議院」ト改ムルコト 十四 第三十四条ノ規定ヲ改メ参議院ハ参議院法ノ定ムル所ニ依ル選挙又ハ勅任セラレタル議員ヲ以テ組織スルモノトスルコト

(2)GHQ憲法案の背後にあった、憲法研究会「憲法草案要綱」

㈰マッカーサー三原則(「マッカーサー・ノート」)  これを受けて、マッカーサーは2月3日、憲法改正三原則をGHQ民政局に命じ、翌日から民政局はひそかに憲法改正案の条文化作業を始めた。「マッカーサー三原則 」は下記の通りである。 ㈵ Emperor is at the head of the state. His succession is dynastic. His duties and powers will be exercised in accordance with the Constitution and responsive to the basic will of the people as provided therein.

II War as a sovereign right of the nation is abolished. Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes and even for preserving its own security. It relies upon the higher ideals which are now stirring the world for its defense and its protection. No Japanese Army, Navy, or Air Force will ever be authorized and no rights of belligerency will ever be conferred upon any Japanese force.

III The feudal system of Japan will cease. No rights of peerage except those of the Imperial family will extend beyond the lives of those now existent. No patent of nobility will from this time forth embody within itself any National or Civic power of government. Pattern budget after British system. Copyright©躄003-2004 National Diet Library All Rights Reserved.

同日、松本委員会はマッカーサーに憲法改正要綱を提出するも当然拒否される。民政局は2月10日に成案を得た。

㈪憲法研究会「憲法草案要綱」 実は、このマッカーサー草案をこれほど早く作成することが可能であったのは、すでに述べたように、日米開戦直後からの米国による戦後政策研究があったからである。そして、それに加えて日本人の手になる憲法改正の民主的な草案があったからである。すでに、民間ではさまざまな団体・新聞が憲法改正案を発表しており 、GHQはこれを手に入れて逐次翻訳・閲覧していた。http://www.ndl.go.jp/constitution/gaisetsu/revision.html#s3

そのなかで、格別に日本国憲法に直接的影響を及ぼしたのが、憲法研究会による「憲法草案要綱」である。憲法研究会は、1945(昭和20)年10月29日、日本文化人連盟創立準備会の折に、高野岩三郎の提案により、民間での憲法制定の準備・研究を目的として結成された。事務局を憲法史研究者の鈴木安蔵が担当し、他に杉森孝次郎、森戸辰男、岩淵辰雄等が参加した 。室伏・岩淵は中道的で反共派であり、馬場も左翼というよりは自由主義者であった。社会主義的な考えをもっていたのは、高野と森戸と起草者の鈴木。

 高野岩三郎の強い勧めにしたがって在野の憲法研究者であった鈴木安蔵が第一案を起草し、上記メンバーによる研究会の討議を経て第二案、さらに討議されて第三案(最終案)が完成している。 当時、天皇に対する考え方はだいたい三つあった。「その第一は、国家主権論に基づく天皇機関説の立場から、行政の首長としての天皇をみとめよう、というものであった。第二は、主権は天皇をふくむ国民共同体にあると考え、儀礼的精神的存在として天皇を残そうとするもので、いわゆる『シンボルとしての天皇』制論と呼ばれた見解である。そして第三の立場が、いかなる意味においても天皇をみとめず大統領をもって元首とせよ、と主張する共和制論であった。」 。高野は天皇制廃止・共和制の立場であったが 、憲法研究会の多数意見は、第二の「主権在民・象徴天皇制」となり、また平和主義については「国民ハ民主主義並平和思想ニ基ク人格完成社会道徳確立諸民族トノ協同ニ努ムルノ義務ヲ有ス」と表現されている。

 そして11月末に第一案を公表し、12月26日、最終案「憲法草案要綱」として、同会から内閣へ届け、記者団に発表された。

鈴木安蔵はかつて京都帝大生の時代、1925年マルクス主義に傾倒して、京都学連事件で治安維持法逮捕第一号となって投獄された人物である。 彼は、その後、マルクス主義の輸入ではなく、日本に生まれた明治の自由民権運動に学ぶべきであると考え、日本の憲法史の研究にいそしんできていた。鈴木は、起草の際の参考資料として、明治15年に起草された植木枝盛の『東洋大日本国国憲按』、土佐立志社の『日本憲法見込案』など、日本最初の民主主義的結社自由党の母体たる人々の書いたものを初めとして、私擬憲法時代といわれる明治初期、弾圧に抗して情熱を傾けて書かれた二十余の草案、また外国資料としては1791年のフランス憲法、アメリカ合衆国憲法、ソ連憲法、ワイマール憲法、プロイセン憲法を参照したとしているが、読んでみれば『憲法草案要綱』は植木枝盛の影響が圧倒的であるという印象を受ける。

同要綱の冒頭の根本原則では、「統治権ハ国民ヨリ発ス」として天皇の統治権を否定し国民主権の原則を採用する一方、天皇は「国家的儀礼ヲ司ル」として儀礼的天皇の存続を認めた。また人権規定においては、『国家ノ安寧秩序ヲ妨ゲザルカギリニオイテ』という留保が付されることはなく、具体的な社会権、生存権が規定されている。このように憲法研究会の憲法草案要綱の基本構造、象徴天皇制・基本的人権の尊重・国民主権という日本国憲法の基本構造そのものである。下記の国会図書館のサイトを見れば、憲法草案要綱全文を写真版でも読むことができる。↓http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/052shoshi.html

憲法草案要綱 抜粋

憲法研究会案 高野岩三郎、馬場恒吾、杉森孝次郎、森戸辰男、岩淵辰雄、室伏高信、鈴木安蔵

根本原則(統治権) 一、日本国ノ統治権ハ日本国民ヨリ発ス 一、天皇ハ国政ヲ親ラセス国政ノ一切ノ最高責任者ハ内閣トス 一、天皇ハ国民ノ委任ニヨリ専ラ国家的儀礼ヲ司ル 一、天皇ノ即位ハ議会ノ承認ヲ経ルモノトス 一、摂政ヲ置クハ議会ノ議決ニヨル

国民権利義務 一、 国民ハ法律ノ前ニ平等ニシテ出生又ハ身分ニ基ク一切ノ差別ハ之ヲ廃止ス 一、爵位勲章其ノ他ノ栄典ハ総テ廃止ス 一、国民ノ言論学術芸術宗教ノ自由ニ妨ケル如何ナル法令ヲモ発布スルヲ得ス 一、国民ハ拷問ヲ加へラルルコトナシ 一、国民ハ国民請願国民発案及国民表決ノ権利ヲ有ス 一、国民ハ労働ノ義務ヲ有ス 一、国民ハ労働ニ従事シ其ノ労働ニ対シテ報酬ヲ受クルノ権利ヲ有ス 一、国民ハ健康ニシテ文化的水準ノ生活ヲ営ム権利ヲ有ス 一、国民ハ休息ノ権利ヲ有ス国家ハ最高八時間労働ノ実施勤労者ニ対スル有給休暇制療養所社交教養機関ノ完備ヲナスヘシ 一、国民ハ老年疾病其ノ他ノ事情ニヨリ労働不能ニ陥リタル場合生活ヲ保証サル権利ヲ有ス 一、男女ハ公的並私的ニ完全ニ平等ノ権利ヲ享有ス 一、民族人種ニヨル差別ヲ禁ス 一、国民ハ民主主義並平和思想ニ基ク人格完成社会道徳確立諸民族トノ協同ニ努ムルノ義務ヲ有ス

議会 一、議会ハ立法権ヲ掌握ス法律ヲ議決シ歳入及歳出予算ヲ承認シ行政ニ関スル準則ヲ定メ及其ノ執行ヲ監督ス条約ニシテ立法事項ニ関スルモノハ其ノ承認ヲ得ルヲ要ス 一、議会ハ二院ヨリ成ル 内閣(省略) 司法(省略) 会計及財政(省略)

経済 一、経済生活ハ国民各自ヲシテ人間ニ値スヘキ健全ナル生活ヲ為サシムルヲ目的トシ正義進歩平等ノ原則ニ適合スルヲ要ス 各人ノ私有並経済上ノ自由ハ此ノ限界内ニ於テ保障サル 所有権ハ同時ニ公共ノ権利ニ役立ツヘキ義務ヲ要ス 一、土地ノ分配及利用ハ総テノ国民ニ健康ナル生活ヲ保障シ得ル如ク為サルヘシ 寄生的土地所有並封建的小作料ハ禁止ス 一、精神的労作著作者発明家芸術家ノ権利ハ保護セラルヘシ 一、労働者其ノ他一切ノ勤労者ノ労働条件改善ノ為ノ結社並運動ノ自由ハ保障セラルヘシ 之ヲ制限又ハ妨害スル法令契約及処置ハ総テ禁止ス 補則(省略)

㈫GHQ民政局が「憲法草案要綱」に注目した背景

この憲法研究会の「要綱」には、GHQが強い関心を示し、これを英語に翻訳するとともに、民政局のラウエル中佐 から参謀長あてに、その内容につき詳細な検討を加えた報告書が提出されている。また、政治顧問部のアチソンから国務長官へも報告されている。憲法研究会案はGHQの英文日本国憲法の骨子となっている。http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/060shoshi.html .  ラウエル中佐の証言がミズーリ州のトルーマン・ライブラリーに保管されている。 「私は民間グループから提出された憲法に感心しました。これで(憲法改正が)大きく進展すると思いました」「私はこの民間草案を使って、若干の修正を加えれば、マッカーサー最高司令官が満足しうる憲法ができると考えました。それで私も民政局の仲間も安心したのです。『これで憲法ができる』と」。

さらに、ラウエル中佐は「民間の『憲法研究会』草案について、ケーディス(陸軍大佐・民政局次長)たちと話し合ったことについても、次のように述べている。

「たしかに話しました。憲法研究会の草案に関する私のリポートをケーディスと議論しホイットニー准将(民政局長)に提出する前に彼の承認を受けたはずです。私たちは確かにそれを使いました。私は使いました。意識的あるいは無意識的に影響を受けたことは確かです」 。

 また、GHQの憲法草案の中心となったケーディス大佐は、憲法研究会の「憲法改正案要綱(ママ)」があったから、アメリカ側は九日間で憲法草案を作成することができたのだ、と回想している 。鈴木昭典はケーディスにインタビューした際のことばを次のように記している。

「この憲法研究会案と尾崎行雄の憲法懇談会案は、私たちにとって大変参考になりました。実際これがなければ、あんなに短い期間に草案を書き上げることは、不可能でしたよ。ここに書かれているいくつかの条項は、そのまま今の憲法の条文になっているものもあれば、いろいろ書き換えられて生き残ったものもたくさんあります。 」

 また民政局内での議論のなかでは、ケーディスは次のように述べている。

「しかしアメリカの政治イデオロギーと、日本の中での最良、または最もリベラルな憲法思想の間には、日本政府案との不一致ほどのギャップはないと思う 」

 それにしても、憲法研究会のものが特に民政局のラウエルの目に止まり、マッカーサー草案作成上、格別の影響を持ったのにはつぎのような背景があった。ラウエルは直接には起草者の鈴木安蔵を知らなかった。しかし、「鈴木安蔵と植木枝盛は、ラウエルが来日した当初からもっとも注目してきた名前であった 。」というのは、ラウエルは鈴木の『現代憲政の諸問題』の巻頭論文「日本独特の立憲政治」の英訳されたものを読んでいたからである。ラウエルはこれをカナダの外交官であり当時最もすぐれた日本研究者であったハーバート・ノーマンから借りたが、実は、ノーマンはこの本を親交のあった鈴木安蔵から借りていたのだった。ノーマンは、明治に植木枝盛という偉大な民主主義者がいたこと、そして、鈴木安蔵がその研究者であることを知悉していた。こうしてノーマンを介して渡された件の論文によって、ラウエルの中に鈴木安蔵と植木枝盛の名がセットで刻まれることになった。ラウエルは鈴木の件の論文の英訳されたものを民政局の同僚たちにも回覧して読ませた記録が残されている 。

 憲法研究会の鈴木安蔵がものした憲法草案要綱が発表されたとき、ラウエルと民政局がただちにこれに注目して英訳したのには、このような背景があった。   ㈬『憲法草案要綱』とマッカーサー草案  事実、鈴木安蔵らの手になる「憲法草案要綱」の内容は、事実、松本委員会に押し付けられたマッカーサー草案によく似ている。ここに、憲法研究会案のうち、根本原則として述べられる<国民主権、天皇の位置づけ、基本的人権>が述べられているところをもう一度引用しておこう。

「根本原則  1 日本国の統治権は日本国民より発す  1 天皇は国政を親らせず国政の一切の最高責任者は内閣とす  1 天皇は国民の委任によりもっぱら国家的儀礼を司る   (中略)

国民権利義務  1 国民は法律の前に平等にして出生または身分に基づく一切の差別は之を廃止す   中略  1 国民の言論学術芸術宗教の自由に妨げるいかなる法令をも発布するをえず   中略  1 国民は健康にして文化的水準の生活を営む権利を有す   中略  1 男女は公的並びに私的に完全に平等の権利を享有す  1 民族人種による差別を禁ず」

 1946年2月13日、GHQ民政局は英文の日本国憲法草案を日本側に渡した。日本政府松本委員会にとっては青天の霹靂だった。もっとも首相幣原喜重郎首相のみは、マッカーサーとのやりとりで、内容について相当承知の上であったという観測(堤堯)もあって、筆者はそれが的を射ていると思う。この英文新憲法の骨子は、日本人からなる憲法研究会「憲法草案要綱」だったのである。 http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html

(2)「憲法草案要綱」起草者、鈴木安蔵の思想的源泉・・・植木枝盛

 鈴木安蔵のおもな思想的源泉は、植木枝盛の「東洋大日本国憲案」をはじめ、明治時代、弾圧下に自由民権運動のなかで起草された数々の民間憲法草案であった。明治時代に国権主義と民権主義のたたかいがあったが、結局、国権主義が勝利を収めて、外見立憲君主制(実質専制君主制)の帝国憲法ができた。だが、敗戦後、ひとたび葬られていた民権主義が民主立憲君主制の日本国憲法というかたちで復活してきたというわけである。日本国憲法の三大原則のうち二つ<主権在民と基本的人権>は、日本製なのである。

家永三郎は次のように指摘している。「日本国憲法は、植木枝盛草案ときわめてよく似ている。主権在民、基本的人権の保障、地方自治の確立、みなしかり。その平和主義は枝盛の『無上政法論』と精神を同じくする。男女同権、家の廃止を確信とする新民法は、枝盛の家制度改革論と寸分たがわない。枝盛の政治上、社会上の改革論は、日本国憲法体制の青写真であり、半世紀前に国民が臨みながら実現しえなかった期待が、敗戦という不幸なまわり道をたどって実現したと見るのは、決して強弁ではない。・・・(中略)・・・日本国憲法について言うならば、その原案となったいわゆるマッカーサー草案の作成に当り、占領軍は日本人有志の憲法研究会の草案を参考としてその内容を取り入れているのであり、かつ、その憲法研究会草案は、戦前におけるほとんど唯一人の植木枝盛研究者であった鈴木安蔵が植木枝盛草案その他を参考にして起草したものなのであるから、日本国憲法と植木枝盛草案との酷似は、単なる偶然の一致ではなくて、実質的なつながりを有するのである。 」

植木枝盛「東洋大日本国国憲案 」から抜粋しておく。

●基本的人権の保障に関する条項 第五条 日本国家ハ日本各人ノ自由権利ヲ殺減スル規則ヲ作リテ之ヲ行フヲ得ス 第六条 日本国家ハ日本国民各自ノ私事ニ干渉スルコトヲ施スヲ得ス 第四十条 日本ノ政治社会ニアル者之ヲ日本国人民トナス 第四十一条 日本ノ人民ハ自ラ好ンテ之ヲ脱スルカ及自ラ諾スルニ非サレハ日本人タルコトヲ削カル丶コトナシ 第四十二条 日本ノ人民ハ法律上ニ於テ平等トナス 第四十三条 日本ノ人民ハ法律ノ外ニ於テ自由権利ヲ犯サレサルヘシ 第四十四条 日本ノ人民ハ生命ヲ全フシ四肢ヲ全フシ形体ヲ全フシ健康ヲ保チ面目ヲ保チ地上ノ物件ヲ使用スルノ権ヲ有ス (レ脱) 第四十五条 日本ノ人民ハ何等ノ罪アリト雖モ生命ヲ奪ハサルヘシ 第四十六条 日本ノ人民ハ法律ノ外ニ於テ何等ノ刑罰ヲモ科セラレサルヘシ又タ法律ノ外ニ於テ麹治セラレ逮捕セラレ拘留セラレ禁錮セラレ喚問セラル丶コトナシ 第四十七条 日本人民ハ一罪ノ為メニ身体汚辱ノ刑ヲ再ヒセラル丶コトナシ 第四十八条 日本人民ハ拷問ヲ加ヘラル丶コトナシ 第四十九条 日本人民ハ思想ノ自由ヲ有ス 第五十条 日本人民ハ如何ナル宗教ヲ信スルモ自由ナリ 第五十一条 日本人民ハ言語ヲ述フルノ自由権ヲ有ス 第五十二条 日本人民ハ議論ヲ演フルノ自由権ヲ有ス 第五十三条 日本人民ハ言語ヲ筆記シ板行シテ之ヲ世ニ公ケニスルノ権ヲ有ス 第五十四条 日本人民ハ自由ニ集会スルノ権ヲ有ス 第五十五条 日本人民ハ自由ニ結社スルノ権ヲ有ス 第五十六条 日本人民ハ自由ニ歩行スルノ権ヲ有ス 第五十七条 日本人民ハ住居ヲ犯サレサルノ権ヲ有ス 第五十八条 日本人民ハ何クニ住居スルモ自由トス又タ何クニ旅行スルモ自由トス 第五十九条 日本人民ハ何等ノ教授ヲナシ何等ノ学ヲナスモ自由トス 第六十条 日本人民ハ如何ナル産業ヲ営ムモ自由トス 第六十一条 日本人民ハ法律ノ正序ニ拠ラスシテ室内ヲ探検セラレ器物ヲ開視セラル丶コトナシ 第六十二条 日本人民ハ信書ノ秘密ヲ犯サレザルベシ 第六十三条 日本人民ハ日本国ヲ辞スルコト自由トス 第六十四条 日本人民ハ凡ソ無法ニ抵抗スルコトヲ得 第六十五条 日本人民ハ諸財産ヲ自由ニスルノ権アリ 第六十六条 日本人民ハ何等ノ罪アリト雖モ其私有ヲ没収セラル丶コトナシ 第六十七条 日本人民ハ正当ノ報償ナクシテ所有ヲ公用トセラルコトナシ 第六十八条 日本人民ハ其名ヲ以テ政府ニ上書スルコトヲ得各其身ノタメニ請願オナスノ権ア   リ其公立会社ニ於テハ会社ノ名ヲ以テ其書ヲ呈スルコトヲ得 第六十九条 日本人民ハ諸政官ニ任セラル丶ノ権アリ

●革命権 第七十条 政府国憲ニ違背スルトキハ日本人民ハ之ニ従ハザルコトヲ得 第七十一条 政府官吏圧制ヲ為ストキハ日本人民ハ之ヲ排斥スルヲ得   政府威力ヲ以テ壇恣暴逆ヲ逞フスルトキハ日本人民ハ兵器ヲ以テ之ニ抗スルコトヲ得 第七十二条 政府恣ニ国憲ニ背キ擅ニ人民ノ自由権利ヲ残害シ建国ノ旨趣ヲ妨クルトキハ日本国   民ハ之ヲ覆滅シテ新政府ヲ建設スルコトヲ得 第七十三条 日本人民ハ兵士ノ宿泊ヲ拒絶スルヲ得 第七十四条 日本人民ハ法庭ニ喚問セラル丶時ニ当リ詞訴ノ起ル原由ヲ聴クヲ得   己レヲ訴フル本人ト対決スルヲ得己レヲ助クル証拠人及表白スルノ人ヲ得ルノ権利アリ

●皇帝(天皇)について・・・立憲君主制における無答責の原則 第一章 皇帝ノ特権 第七十五条 皇帝ハ国政ノ為ニ責ニ任セス 第七十六条 皇帝ハ刑ヲ加ヘラル丶コトナシ 第七十七条 皇帝ハ身体ニ属スル賦税ヲ免カル  植木枝盛の憲法案http://homepage2.nifty.com/kumando/si/si010515.html これも・・→http://www.ndl.go.jp/modern/cha1/description14.html

●植木枝盛「男女の同権」 「男子にして権利あれば婦女もまた権利あるべし。婦女にして権利なしとすれば、男子もまた権利なしと謂わざるべからず。何となれば男女の二者は特に分かってこれを称すればこそ爾かく男女と別るれども、そもそも人類たるの大段落に至ってはかつて少しも相異なることなければなり。同じくこれ人なり、しかして甲には権利ありとなし、乙には権利あらずとなす、これ自ら撃切するものと謂わざるべけんや。むしろ上帝人を造るの初めにおいて甲の人の額には『汝権利あるべし』との七字を印し乙の人の額には『汝権利あらざるべし』との九字を印するなどの約束あらんには、世間あるいはこれを証拠として甲には権利を有せしめ、乙には権利を有せしめざるも可ならん。ただ上帝の人を造る至公、至正、決して甲の人の額には『汝権利あるべし』と印し、乙の人の額には『汝権利あるべからず』と印するが如き、偏仁偏愛なきをいかんせんや。(中略)それ男もまた人なり、女もまた人なり。男もまた幸福を享けざるべからず、女もまた幸福を享けざるべからず。あに男子に権利ありて、しかして女子には権利なしとの道理あらんや。(後略) 」

● 植木枝盛「如何なる民法を制定す可き耶」・・・個人の尊重 「その民法を制定するには一民一民を以て社会を編成する者となすや、一家一家を以て社会を編成する者となすやを一定せざるべからず。・・・かつてつらつらこれを察す天下一民一民を聯(つら)ねて国を成す者あり、けだし最もその理を得たるものにして進化の徴にあらずんばあらず。一家一家を聯ねて国を成す者あり、理欠くる所ありて進化未だ足らざるものなり。 」

 まとめると、明治の自由民権運動特に植木枝盛の主権在民・基本的人権尊重・個人尊重が、憲法研究会(とくに鈴木安蔵)によって「憲法草案要綱」に流れ込み、これがGHQに提出されて、マッカーサー草案の骨子となり、それが日本国政府に押し付けられたというわけである。

(3) 象徴天皇について   2月3日に出された「マッカーサー三原則」においては、天皇にかんしては国家の元首に位置付けられていた。Emperor is at the head of the state. ところが、GHQ民政局行政部の天皇その他を担当した小委員会が作成した第一次案には、「第二条、日本国は皇統が君臨し、天皇は世襲である。皇位は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であり、天皇は、皇位の象徴的体現者である。天皇の地位は、主権を有する国民の意思に基づくものであって、それ以外の何ものに基づくものでもない」とあった 。「国家の元首」と「象徴symbol」という表現はかなり違う。

にもかかわらず、「象徴」は第一次案に現われ、民政局内で議論の的になることもなく、すんなり合意された。小西豊治の推定によれば1946年1月に民政局内で回覧され読まれていた弁護士布施辰治「打倒?支持?天皇制の批判」(新生活運動社)を背景としているのではないかという。布施はここで天皇のありかたについて「民の心を酌んで君の心とする」と表現しており、これが上記第一次案のsymbolということばで表現されたのであろうとしている。あるいはそうかもしれない。 さらに肝心なことは、この象徴という表現は、すでに前年12月26日に発表され、民政局が深い関心を寄せていた憲法研究会「憲法草案要綱」の根本原則第三項、「1 天皇は国民の委任によりもっぱら国家的儀礼を司る」とぴったり内容的に一致する用語であったということである。  また、天皇は「象徴」であるという表現は、憲法研究会で元来共和制論者であった室伏高信が議論の中で発案・発現したのが最初だという岩淵辰雄と三宅晴輝の証言があるが、発言した当人の室伏は記憶になく、鈴木安蔵の書記録にも残されていない 。1945年12月、岩淵はこの象徴天皇説をGHQ憲法顧問コールグローブに伝えた。岩淵は、コールグローブが民政局に「象徴天皇」を伝えられたのだと信じている 。コールグローブの証言、通訳者の証言は得られていないが、あるいは、そうであったのかもしれない。

 いずれが事実であったにせよ、GHQ民政局内には、第一次案が検討されたときには「天皇を象徴とする」件については、異論は発せられなかったほどに、すでに彼らは合意していたし、それは憲法研究会の「憲法草案要綱」の「天皇は国民の委任によりもっぱら国家的儀礼を司る」と一致していたのである。

 幣原喜重郎が最晩年(昭和26年)に述べていることであるが、「元来、象徴が天皇本年の姿であり、権力などとは関係はなかった。民族のふるさとと言うか、日本人全体のお友達である。だから永くつづいてきたのであり、本来のその在り方に戻るのが陛下の願いであった。 」幣原が「象徴天皇」を発案したというのではないが、たしかに明治から戦前の軍事大権・政治大権をもった天皇のあり方は、確かに伝統にそぐわない異形のものであった。逆に言えば、明治以降の覇王のような天皇制が伝統に背くものであったからこそ、数十年で破綻してしまったと言えよう。

3 第9条の発案

(1)その発案者は  日本国憲法は、憲法研究会の鈴木安蔵が書いた草案を骨子としてGHQが作成した英文憲法草案を邦訳したものである。しかし、憲法研究会の「憲法草案要綱」には軍隊に関する定めがなかった。では、憲法9条はどこから来たのだろうか?では、9条は誰の発案によるものか。

㈰マッカーサー発案説 一見すると、それは先に述べた「マッカーサー三原則」(マッカーサー・ノート)が出典であるかに見える。ここで、

第一項には天皇は元首として存続、 第二項は戦争放棄・戦力放棄、 第三項では封建制度の廃止

という三点が指示されている。第二項には、「国権の発動たる戦争は廃止される。日本は、紛争解決の手段としての戦争のみならず、自国の安全を維持する手段としての戦争も放棄する。日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に信頼する。日本が陸海空軍を保有することは、将来ともに許可されることがなく、日本軍に交戦権が与えられることもない。」と書かれている。防衛のための戦争をも禁ずる(この部分の記述は、当時運営委員会のケーディスの主張によって削除)という部分を除いてほぼ現行の憲法第九条と同じである。ちなみにケロッグ・ブリアン条約 を嚆矢として、今日では憲法において平和主義を掲げる国は148に及ぶから 、第一項の戦争放棄はめずらしくはないが、第二項戦力不保持が日本国憲法9条の特異性を示している。

GHQ 草案第8条は次のとおり。「国権の発動たる戦争は、廃止される。いかなる国であれ他の国との間の紛争解決の手段としては、武力による威嚇または武力の行使は、永久に放棄する。陸軍、海軍、空軍のその他の戦力を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が国に与えられることもない」こちらも現行憲法とほぼ変わらない。昭和憲法の骨格は、マッカーサー・ノートが若干の改変を経てそのまま用いられた。

話がここまでなら、9条はマッカーサー発案であり、9条は「押し付け」ということになる。

㈪9条は幣原喜重郎の発案

 だが、マッカーサーはこの戦争・戦力・交戦権放棄条項を自ら思いついたのか?そうではなく、九条戦争放棄条項は日本の首相幣原喜重郎の発案であるとマッカーサーは証言した。(以下は、伊藤成彦氏の「軍縮問題資料」1995年所収論文から略述。)

1946年1月24日正午、幣原首相はペニシリンのお礼としてマッカーサー元帥を訪ね、約二時間半会談をした。この会談の内容について、マッカーサーは1951年5月5日米国上院軍事・外交合同委員会聴聞会で証言をしている。

 「日本の首相幣原氏が私の所にやって来て、言ったのです。『私は長い間熟慮して、この問題の唯一の解決は、戦争をなくすことだという確信に至りました』と。彼は言いました。『私は非常にためらいながら、軍人であるあなたのもとにこの問題の相談にきました。なぜならあなたは私の提案を受け入れないだろうと思っているからです。しかし、私は今起草している憲法の中に、そういう条項を入れる努力をしたいのです。』と。

 それで私は思わず立ち上がり、この老人の両手を握って、それは取られ得る最高に建設的な考え方の一つだと思う、と言いました。世界があなたをあざ笑うことは十分にありうることです。ご存知のように、今は栄光をさげすむ時代、皮肉な時代なので、彼らはその考えを受け入れようとはしないでしょう。その考えはあざけりの的となることでしょう。その考えを押し通すにはたいへんな道徳的スタミナを要することでしょう。そして最終的には彼らは現状を守ることはできないでしょう。こうして私は彼を励まし、日本人はこの条項を憲法に書き入れたのです。そしてその憲法の中に何か一つでも日本の民衆の一般的な感情に訴える条項があったとすれば、それはこの条項でした。」

 マッカーサーは『マッカーサー大戦回顧録Reminiscences』でもこの件に触れていて、内容は一致している 。

 この会談については、日本側からの証言もある。幣原首相の友人枢密顧問官大平駒槌は次のように回想している。

「(幣原は)世界中が戦力を持たないという理想論を始め戦争を世界中がしなくなる様になるには戦争を放棄するという事以外にないと考えると話し出したところがマッカーサーが急に立ち上がつて両手で手を握り涙を目にいつぱいためてその通りだと言い出したので幣原は一寸びつくりしたという。・・・マッカーサーは出来る限り日本の為になる様にと考えていららしいが本国政府の一部、GHQの一部、極東委員会では非常に不利な議論が出ている。殊にソ聯、オランダ、オーストラリヤ等は殊の外天皇と言うものをおそれていた。・・・だから天皇制を廃止する事は勿論天皇を戦犯にすべきだと強固に主張し始めたのだ。この事についてマッカーサーは非常に困つたらしい。そこで出来る限り早く幣原の理想である戦争放棄を世界に声明し日本国民はもう戦争をしないと言う決心を示して外国の信用を得、天皇をシンボルとする事を憲法に明記すれば列国もとやかく言わずに天皇制へふみ切れるだろうと考えたらしい。・・・これ以外に天皇制をつづけてゆける方法はないのではないかと言う事に二人の意見が一致したのでこの草案を通す事に幣原も腹をきめたのだそうだ。 」

 幣原首相は外相時代、平和外交の旗手であった。ところがその後、日本は中国において「自衛」と称して侵略を続け日米開戦にまで暴走してしまった。その苦い経験に基づいて、明瞭な戦争放棄が必要と考えたのだろう。また連合国側の天皇処罰要求を前に、国体護持のためには、これ以外に道はないと考えたという面もある。他方、軍人マッカーサーは太平洋戦争の残酷さを経験し、かつ核兵器の登場という事態を見て、少なくともこの一時期、戦争の廃止以外には人類を滅亡から救う道はないと思い至ったのである。マッカーサーは、その後の朝鮮戦争の頃の動きを見ればわかるように、永続的に戦争放棄を維持し続けるほどの信念を持っていたわけではなかったのだが、この一時期、幣原発案の戦争放棄の理想に感激し、それが日本国憲法に刻み込まれるということになったらしい。一種奇跡に近いタイミングだった。

 だが、「自主憲法」制定を目指す人々にとっては、9条が幣原の発案であるということは我慢ならないことであるらしい。格別、幣原喜重郎の長男幣原道太郎(元獨協大学教授)は、激越な調子で父幣原喜重郎が9条発案者だという説を否定しており 、半藤一利はマッカーサーの証言を疑っている 。しかし、文書的証拠は明白に、幣原が9条の発案者であった事実を語っている。幣原の発想と提案を受け入れ、憲法に書き込むことを決定したのはマッカーサーである 。

 古関彰一は、戦争放棄が幣原の発想であるという説に疑問を投げかけて、二点根拠をあげている 。 ㈰ 幣原首相の下に組織された憲法問題調査委員会委員長、松本烝治が、1945年12月8日の国会答弁で憲法改正4原則として、天皇を統治権の総覧者とし、議会の議決条項の拡大、国務大臣の権限の拡大、さらに自由・権利の強化を行うことを挙げている。

㈪ 厚生大臣だった芦田均の日記によれば、2月19日の閣議でGHQ案について蒼ざめた松本委員長から報告があった後、「以上松本氏の報告終ると共に、三土内相、岩田法相は総理の意見と同じく『吾吾は承諾できぬ』と言ひ、松本国務相は頗る興奮の体に見受けた」とあること。

そして古関は戦争放棄・戦力放棄はマッカーサー発案だという説を唱えているのであるが、いかがなものだろうか。ごちごちの守旧派の松本国務大臣がGHQ案を押し付けられて蒼ざめて閣議に臨んだという当時の状況に対する想像力が欠けていると思われる。

1月30日の閣議における軍に関する規定の討論において、軍の規定を改憲に含めるべきであると主張する松本に対して、幣原は次のように発言している。

「軍の規定を憲法の中に置くことは、連合国はこの規定について必ずめんどうなことをいうにきまっている。将来、軍ができるということを前提として憲法の規定を置いておくということは、今日としては問題になるのではないかと心配する。この条文を置くがために、司令部との交渉が、一、二ヶ月も引っかかってはしまいはしないか 」

 幣原喜重郎『外交五十年』には彼の亡くなった3月2日付で書かれた序が付けられているが、彼はその10日に逝去していて、彼の遺書にあたる一文である。序文の中で幣原は「ここに掲ぐる史実は仮想や潤色を加えず、私の記憶に存する限り、正確を期した積もりである。若し読者諸賢において私の談話に誤謬を発見せられたならば、幸いにご指教を賜わるよう、万望に堪えない。 」と言っている。下に、その全文を掲げる。

「私は図らずも内閣組織を命ぜられ、総理の職に就いたとき、すぐに頭に浮んだのは、あの電車の中の光景であった。これは何とかしてあの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく努めなくてはいかんと、堅く決心したのであった。それで憲法の中に、未来永劫そのような戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることにした。つまり戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならないということは、他の人は知らないが、私だけに関する限り、前に述べた信念からであった。それは一種の魔力とでもいうか、見えざる力が私の頭を支配したのであった。よくアメリカの人が日本へやって来て、こんどの新憲法というものは、日本人の意志に反して、総司令部の方から迫られたんじゃありませんかと聞かれるのだが、それは私の関する限りそうじゃない、決して誰からも強いられたのではないのである。

軍備に関しては、日本の立場からいえば、少しばかりの軍隊を持つことはほとんど意味がないのである。将校の任に当ってみればいくらかでもその任務を効果的なものにしたいと考えるのは、それは当然のことであろう。外国と戦争をすれば必ず負けるに決まっているような劣弱な軍隊ならば、誰だって真面目に軍人となって身命を賭するような気にはならない。それでだんだんと深入りして、立派な軍隊を拵えようとする。戦争の主な原因はそこにある。中途半端な、役にも立たない軍備を持つよりも、むしろ積極的に軍備を全廃し、戦争を放棄してしまうのが、一番確実な方法だと思うのである。

も一つ、私の考えたことは、軍備などよりも強力なものは、国民の一致協力ということである。武器を持たない国民でも、それが一団となって精神的に結束すれば、軍隊よりも強いのである。例えば現在マッカーサー元帥の占領軍が占領政策を行っている。日本の国民がそれに協力しようと努めているから、政治、経済、その他すべてが円滑に取り行われているのである。しかしもし国民すべてが彼らに協力しないという気持ちになったら、果たしてどうなるか。占領軍としては、不協力者を捕えて、占領政策違反として、これを殺すことが出来る。しかし八千万人という人間を全部殺すことは、何としたって出来ない。数が物を言う。事実上不可能である。だから国民各自が、一つの信念、自分は正しいという気持ちで進むならば、徒手空拳でも恐れることはないのだ。暴漢が来て私の手をねじって、おれに従えといっても、嫌だといって従わなければ、最後の手段は殺すばかりである。だから日本の生きる道は、軍備よりも何よりも、正義の本道を辿って天下の公論に訴える、これ以外にはないと思う。

あるイギリス人が書いた『コンディションズ・オブ・ピース』(講和条件)という本を私は読んだことがあるが、その中にこういうことが書いてあった。第一次世界大戦の際、イギリスの兵隊がドイツに侵入した。その時のやり方からして、その著者は、向こうが本当の非協力主義というものでやって来たら、何も出来るものではないという真理を悟った。それを司令官に言ったということである。私はこれを読んで深く感じたのであるが、日本においても、生きるか殺されるかという問題になると、今の戦争のやり方で行けば、たとえ兵隊を持っていても、殺されるときは殺される。しかも多くの武力を持つことは、財政を破滅させ、したがってわれわれは飯が食えなくなるのであるから、むしろ手に一兵をも持たない方が、かえって安心だということになるのである。日本の行く道はこの他にない。わずかばかりの兵隊を持つよりも、むしろ軍備を全廃すべきだという不動の信念に、私は達したのである。 」

(2)幣原喜重郎の深謀遠慮

幣原喜重郎の側近であった平野三郎は、昭和39年2月憲法調査会で「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について 」という通常「平野文書」と呼ばれる陳述をしている。「昭和二十六年二月下旬のことである。同年三月十日、先生が急逝される旬日ほど前のことだった」というから、『外交五十年』と並んで、あるいはそれよりさらに最終的な遺言的な意味をもつことばである。ここには、幣原が改正憲法に戦争・戦力放棄条項を入れることにどういう意図をこめたかが示されている。そこには三つの意図があった。

第一の意図は、天皇制の存続である。米国は共産主義に対する防波堤として、天皇制存続を方針としていた。当時、ソ連、オーストラリア、ニュージーランドは天皇制の存続に反対していた。ソ連は天皇制の存続そのものに反対だったがオーストラリア、ニュージーランドは天皇制そのものよりも天皇制存続することによって日本が再び軍国化することを恐れていたのだった。だから、ソ連以外の国々は日本が戦争・戦力放棄をすると宣言すれば、天皇制が存続することに反対する理由がなくなり、天皇制を維持することができる。しかも、幣原は、そもそも明治以後の大元帥としての天皇というのは本来的なものではないのだという見方をしていたから、天皇から政治的軍事的実権を外すことはよいことであると見ていた。

「問 よく分りました。そうしますと憲法は先生の独自の御判断で出来たものですか。一般に信じられているところは、マッカーサー元帥の命令の結果ということになっています。もっとも草案は勧告という形で日本に本に提示された訳ですが、あの勧告に従わなければ天皇の身体も保証できないという恫喝があったのですから事実上命令に外ならなかったと思いますが。

答 そのことは此処だけの話にしておいて貰わねばならないが、実はあの年(昭和二十年)の春から正月にかけ僕は風邪をひいて寝込んだ。僕が決心をしたのはその時である。それに僕には天皇制を維持するという重大な使命があった。元来、第九条のようなことを日本側から言い出すようなことは出来るものではない。まして天皇の問題に至っては尚更である。この二つに密接にからみ合っていた。実に重大な段階であった。

 幸いマッカーサーは天皇制を維持する気持ちをもっていた。本国からもその線の命令があり、アメリカの肚は決まっていた。所がアメリカにとって厄介な問題があった。それは豪州やニュージーランドなどが、天皇の問題に関してはソ連に同調する気配を示したことである。これらの国々は日本を極度に恐れていた。日本が再軍備したら大変である。戦争中の日本軍の行動はあまりにも彼らの心胆を寒からしめたから無理もないことであった。日本人は天皇のためなら平気で死んでいく。殊に彼らに与えていた印象は、天皇と戦争の不可分とも言うべき関係であった。これらの国々はソ連への同調によって、対日理事会の評決ではアメリカは孤立する恐れがあった。この情勢の中で、天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案することを僕は考えた訳である。

  豪州その他の国々は日本の再軍備化を恐れるのであって、天皇制そのものを問題にしている訳ではない。故に戦争が放棄された上で、単に名目的に天皇が存続するだけなら、戦争の権化としての天皇は消滅するから、彼らの対象とする天皇制は廃止されたと同然である。もともとアメリカ側である豪州その他の諸国は、この案ならばアメリカと歩調を揃え、逆にソ連を孤立させることができる。

  この構想は天皇制を存続すると共に第九条を実現する言わば一石二鳥の名案である。もっとも天皇制存続と言ってもシムボルということになった訳だが、僕はもともと天皇はそうあるべきものと思っていた。元来天皇は権力の座になかったのであり、またなかったからこそ続いていたのだ。もし天皇が権力をもったら、何かの失政があった場合、当然責任問題が起って倒れる。世襲制度である以上、常に偉人ばかりとは限らない。日の丸は日本の象徴であるが、天皇は日の丸の旗を維持する神主のようなものであって、むしろそれが天皇本来の昔に戻ったものであり、その方が天皇のためにも日本のためにも良いと僕は思う。」

 第二に、しかし、天皇から軍事的政治的実権を剥ぎ取ったうえで存続させるということを日本側から発案することは実際的には不可能であった。そんな提案を内閣がすれば、頭に血の上った連中が内閣は国体と祖国を売り渡す売国奴であるという猛反対をすることは目に見えており、大混乱に陥るであろう。そこで、幣原は戦争・戦力放棄をGHQから出させようと考えた。 

 「この考えは僕だけではなかったが、国体に触れることだから、仮にも日本側からこんなことを口にすることは出来なかった。憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。

 そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出してもらうように決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。松本君にさえも打ち明けることのできないことである。幸い僕の風邪は肺炎ということで元帥からペニシリンというアメリカの新薬を貰いそれによって全快した。そのお礼ということで僕が元帥を訪問したのである。それは昭和二一年の一月二四日である。その日僕は元帥と二人きりで長い時間話し込んだ。すべてはそこで決まった訳だ。」

第三の意図は、理想として世界に軍備廃絶による恒久平和をもたらすために自発的戦争放棄国となるという掲げつつ、緊迫の度を増しつつあった資本主義と共産主義の戦場に、日本が米軍の尖兵として引っ張り出され、血を流させられることを未然に防止することであった。この平野証言には次のようにある。

「問 元帥は簡単に承知されたのですか。

答 マッカーサーは非常に困った立場にいたが、僕の案は元帥の立場を打開するものだから、渡りに舟というか、話はうまく行った訳だ。しかし第九条の永久的な規定ということには彼も驚いていたようであった。僕としても軍人である彼が直ぐには賛成しまいと思ったので、その意味のことを初めに言ったが、賢明な元帥は最後には非常に理解して感激した面持ちで僕に握手した程であった。   元帥が躊躇した大きな理由は、アメリカの侵略に対する将来の考慮と、共産主義者に対する影響の二点であった。それについて僕は言った。 

  日米親善は必ずしも軍事一体化ではない。日本がアメリカの尖兵となることが果たしてアメリカのためであろうか。原子爆弾はやがて他国にも波及するだろう。次の戦争は想像に絶する。世界は亡びるかも知れない。世界が亡びればアメリカも亡びる。問題は今やアメリカでもロシアでも日本でもない。問題は世界である。いかにして世界の運命を切り拓くかである。日本がアメリカと全く同じものになったら誰が世界の運命を切り拓くかである。日本がアメリカと全く同じものになったらだれが世界の運命を切り拓くか。

  好むと好まざるにかかわらず、世界は一つの世界に向って進む外はない。来るべき戦争の終着駅は破滅的悲劇でしかないからである。その悲劇を救う唯一の手段は軍縮であるが、ほとんど不可能とも言うべき軍縮を可能にする突破口は自発的戦争放棄国の出現を期待する以外にないであろう。同時にそのような戦争放棄国の出現もまた空想に近いが、幸か不幸か、日本は今その役割を果たしうる位置にある。歴史の偶然は日本に世界史的任務を受けもつ機会を与えたのである。貴下さえ賛成するなら、現段階における日本の戦争放棄は対外的にも対内的にも承認される可能性がある。歴史の偶然を今こそ利用する秋である。そして日本をして自主的に行動させることが世界を救い、したがってアメリカをも救う唯一つの道ではないか。

  また日本の戦争放棄が共産主義者に有利な口実を与えるという危険は実際ありうる。しかしより大きな危険から遠ざかる方が大切であろう。世界はここ当分資本主義と共産主義の宿敵の対決を続けるだろうが、イデオロギーは絶対的に不動のものではない。それを不動のものと考えることが世界を混乱させるのである。未来を約束するものは、たえず新しい思想に向って創造発展していく道だけである。共産主義者は今のところはまだマルクスとレーニンの主義を絶対的真理であるかのごとく考えているが、そのような論理や予言はやがて歴史のかなたに埋没してしまうだろう。現にアメリカの資本主義が共産主義者の理論的攻撃にもかかわらずいささかの動揺も示さないのは、資本主義がそうした理論に先行して自らを創造発展せしめたからである。それと同様に共産主義のイデオロギーもいずれ全く変貌してしまうだろう。いずれにせよ、ほんとうの敵はロシアでも共産主義でもない。

 このことはやがてロシア人も気付くだろう。彼らの敵もアメリカでもなく資本主義でもないのである。世界の共通の敵は戦争それ自体である。」(アンダーラインは筆者による。平野文書には、この後続いて、天皇が受け容れた経緯についての問答が記されている 。)

やがてマッカーサーは、自分が幣原の深謀遠慮にはめられたことに気づいたようである。1950年5月3日憲法記念日、幣原は衆議院議長としてマッカーサーを訪ねている。そのとき同行した衆議院事務総長大池真の手記に次のようにある。

「マックァーサー元帥から次のような発言が出たことを記憶している。『日本国憲法制定に当たり、ミスター幣原は日本は一切の戦力を放棄すると言われたが、私はそれは約五十年間早すぎる議論ではないかというような気がした。しかしこの高邁な理想こそ世界に範を示すものと思って深い敬意を払ったのであるが、今日の世界情勢から見ると、何としても早すぎたような感じがする』 マックァーサー元帥の発言に対し、幣原議長はニガ笑い して聞いておられただけであった。その後間もなく朝鮮事変が起こった。 」

  以上、まとめておく。マッカーサーと幣原という当事者両名の証言をあえて疑って、9条は幣原由来ではないと主張する のは、無理があると思われる。日本国憲法の三大原理の三つ目、憲法第九条戦争・戦力放棄条項もまた、本質的に国産だと見るのが妥当である。

1946年1月24日に幣原がマッカーサーに戦力放棄についての発案を伝えた。このあと30日に守旧派で国際政治の状況の見えていない松本委員長による改正案 が閣議に配布されているが幣原は沈黙を守っている。そして、2月3日にマッカーサーは件のマッカーサー・ノート三項目を発し、その第二項に戦争・戦力放棄を盛り込んだ。そして、2月8日、松本委員会は松本案をGHQに提出したが、これは当然棚上げにされ、2月10日GHQマッカーサー草案は完成し、13日に日本政府に提示された。 1946年3月6日、日本政府は戦争放棄、象徴天皇、基本的人権などを盛り込んだ「憲法改正草案要綱」を発表したが、同時に、昭和天皇は次の勅語を発している。

「朕曩(さき)ニポツダム宣言ヲ受諾セルニ伴ヒ日本国政治ノ最終ノ形態ハ日本国民ノ自由ニ表明シタル意思ニ依リ決定セラルベキモノナルニ顧ミ日本国民ガ正義ノ自覚ニ依リテ平和ノ生活ヲ享有シ文化ノ向上ヲ希求シ進ンデ戦争ヲ放棄シテ誼ヲ万邦ニ修ムルノ決意ナルヲ念ヒ乃チ国民ノ総意ヲ基調トシ人格の基本的権利ヲ尊重スルノ主義ニ則リ憲法ニ根本的ノ改正ヲ加ヘ以テ国家再建ノ礎ヲ定メムコトヲ庶幾フ(こいねがう)政府当局其レ克ク朕ノ意ヲ体シ必ズ其ノ目的ヲ達成セムコトヲ期セヨ(官報号外)」(アンダーラインは筆者による)

昭和天皇の勅語には、ポツダム宣言受諾を法的根拠として、戦争放棄、国民主権、基本的人権の尊重が表現されている。公文書として、「昭和天皇が、はっきりと「ポツダム宣言の受諾」という言葉を使ったのはこれだけですが、ここには国民主権の原則も戦争放棄も基本的人権の尊重も明記され、それが『朕の意思』であると宣言している。 」注31に記したように、昭和天皇はすでに徹底した憲法改定をするように、幣原に指示を与えていた 。

 以上のようなわけで、「日本国憲法はGHQ押し付け憲法だ」、「自主憲法制定!」という主張には根拠がない。たしかに、日本政府にとって日本国憲法はGHQによって押し付けられたものであった。しかし、押し付けたれたものの骨子は日本人の発案であったからである。ハワイ旅行でお土産物屋さんに押し付けられたのだけれど、家に帰ってよく見たらmade in Japanとあったというようなものである。

  しかも、この憲法9条は、日本の青年たちが米国の尖兵として朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争など米国が各地で行ってきた戦争に使役されないために機能してきたことは、先に記したとおりである。幣原がひそかに意図したとおりである。

 1946年5月27日の毎日新聞に憲法に関する世論調査の結果が掲載されているが、象徴天皇制に反対した人は13パーセントにすぎず、85パーセントの人が支持している。当時の日本国民は国民主権となった新憲法を支持していた 。

 日本国憲法の三大原則は、<国民主権・基本的人権の尊重・平和主義>であるが、前の二つの原則は、明治の自由民権運動の憲法案(特に植木枝盛)を研究した鈴木安蔵が起草した憲法研究会案が出典であり、第三原則は時の総理大臣幣原喜重郎の発案である。象徴天皇制も内容的には憲法研究会の儀礼的天皇と一致している。これらがGHQによって英訳され肉付けされて、GHQ草稿日本国憲法が作られ、これを日本政府が邦訳した。日本国憲法はこういうわけで、その根本的要素については逆輸入国産品であるといってよい。

 大きな歴史の流れを見ると、明治初期の自由民権運動を国権論の帝国憲法が押しつぶして軍国主義に暴走して破綻し、戦後、民権論が復活して日本国憲法ができた。しかし、今また、自民党改憲案(2012年4月27日版)は昔の国権論に戻そうとしているわけである。

結び

 日本は憲法9条の戦争放棄条項のゆえにこそ、米国の戦争に巻き込まれ、米国の奴隷とされることなく歩むことができた。実際、憲法9条のなかった韓国はベトナム戦争に延べ35万人の兵士を出させられ、4万人のベトナム人を殺し、5000人の戦死者を出した。もし9条がなければ、日本の青年たちもまた、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争、その他で多くの血を流させられたであろう。

 以上のようなわけで、いわゆる自主憲法制定こそ対米追従の奴隷の道であり、日本国憲法こそ自主の道なのである。自民党憲法改正草案が実現され9条が改変されていくならば、日本はますます奴隷化へと進むことになってしまう。

 現行の日本国憲法は国民主権という原理に立っている。国民がその主権を具体的に行使するのは、参政権を行使することによってである。自ら国会議員・地方自治体の議員になる道が参政権のひとつにはあるが、ほとんどの人が参政権を行使するのは選挙を通してであろう。では、われわれキリスト者はどのようなことを基準として、投票行動をすべきなのだろうか。

 われわれは、ローマ書13章から、神様が政治家に託している務めは社会秩序の維持(剣の権能)と富の再分配によって貧富の格差をほどほどに是正することであると学んだ。また黙示録13章から、悪魔が政権担当者に影響を与えるとき、侵略戦争に走り、偽預言者をもちいて国家崇拝を強要し、神の民を迫害するということを学びんだ。

 したがって、選択基準は、次の4点である。

1.社会秩序を公正に維持し、

2.貧富の格差をほどほどに是正し、

3.侵略戦争に走らず、

4.国家崇拝を求めるような思想統制をしない。

 もし、この基準に照らして該当する政党や人物がないばあい、時代の動向を観察して、1〜4が社会に実現するような方向を意図して選択をすることである。


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Last-modified: 2019-05-17 (金) 11:03:53