創世記

日本的思惟について

 土居健郎はその著書『「甘え」の構造』において、日本的なもの、つまり日本的思惟を一言で表現するキーワードは「甘え」という言葉であることを論じている。

 土居によると、日本的思惟の特徴は非論理的な甘えの心理である。そこでは自己と他者との境界を消し去り、情緒的に自他一致の状態をかもしだすということが生じる。甘えの世界ではすべての他者性が消失し、同一化、あるいは摂取が行われる。甘えは相手との一体感、連続性を求めるのである。それゆえに日本人の求める神は非常に母性的な包む神である。天皇信仰と祖先崇拝はいずれも甘えの葛藤の彼岸にある者を神と呼んでいる。そして、天照大神も女神なのである。ここに日本人の神観の本質がある。天皇制は、「異教」の本質としての「民族や学問や《人格性》や徳などの神格化(Apotheose)」を最も典型的に表明するものである。

 日本政府による、教育勅語、日の丸、君が代を用いた、天皇を神格化し、天皇に絶対献身するための教育が、この日本的思惟を著しく強めるために用いられたことも見逃すことのできない事実である。それは教育と情報操作という両輪によって行われた国家レベルのマインドコントロールであったといっても過言ではないと思われる。これによって、「日本のため(国のため)にしたかどうか」という絶対的な価値判断基準が個人の中に根付いていったと考えられる。

 『日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書翰』によって提示されている問題は、第一戒、最も大切な戒めの問題である。この「神を神としない」、「基督を主としない」という罪の根によって、日本の基督教会が天皇教会へと変質し、傲慢・虚偽・怠惰を身にまとっている姿がここに明らかにされている。

『神の痛みの神学』における課題点について

 日本的思惟についての以上のような考察と、バルトの『神の痛みの神学』に対する真剣な疑問符を受け止めた上で、『神の痛みの神学』における課題点を考えたい。その際、まず痛みの類比における課題点を考え、次に神観についての課題点を考察したい。

A、痛みの類比における課題点

北森は『神の痛みの神学』において、痛みの類比(analogia doloris)を用いることによって神の痛みを証ししようと試みている。しかしその際、キリスト中心的に類比を行なわず、日本人としての痛みの感覚によって類比を試みる故に、日本的思惟の影響を受け、以下の3つの問題を引き起こしていると考えられる。

(1)神の痛みの超越性を引き下げる傾向にある。

それゆえ、神の痛みが人間的な(感傷的あるいは浪花節的)レベルにまで引き下げられる。

(2)人間の持つ痛みの感覚の限定性を越えることを困難にする。

 他者に対しての痛みの感覚を持つことを困難にする。

 特に他民族に対しての痛みの感覚が持てない。

 その結果、責任転嫁、開き直りといった虚偽によって、すべての過去の過ちを水に流す、 過去に目を閉ざす、心に刻まないという歩みをあくまでも続けることになりかねない。

(3)日本民族優越性の主張、高慢。

   これらの問題は、北森が神の痛みと日本的つらさの比較をする時に生じている問題である。北森自身がそのことについて言及しているので、まずそれを見たい。

『神の痛みと日本のこころとをめぐる以上のごとき考察は、以下に述べるごとき反省を伴わねばならぬ。  第一、日本の悲劇における「つらさ」すなわち痛みは、他者を生かすために自己を死なしめ、もしくは自己の愛する子を死なしめるとき、具体化したのであるが、しかしこの時の他者は自己にとってもっとも尊きものであった。しかるに神の痛みという言葉は、二重の意味において用いられた。まずそれは神が愛すべからざる者を愛し給うときの御心であり、次にそれは、神がその愛し給う独子を死なしめ給うときの御心であった。そして、前者のために後者が生起したのである。しかるに日本の悲劇における痛みは、もっぱら後者をのみ指し示すものであった。人間が価値なき者・愛すべからざる者を愛し、さらには敵をさえも愛するというとき生起する痛みについては、日本の悲劇といえども知らなかった。(たとい相手が敵の様相を帯びるにせよ—例えば『寺子屋』の菅秀才や『熊谷陣屋』の平敦盛や『鮨屋』の平維盛のごとく—しかし内実においてはあくまで尊き者である)。したがって日本の悲劇における痛みは、神の痛みの一面のみを指示し、他の一面は脱落している(ローマ5:7−8参照)。

 第二、痛みへの感覚をもって神の痛みを捕らえるとき、その感覚は神の痛みに対する奉仕者ではあるが、しかし、それが人間の感覚であるかぎり、なおそこには恣意と錯覚とが潜んでいる。痛みへの感覚のもつ不従順は、神の痛みそのものによって克服されねばならぬ。…

 第三、痛みへの感覚は、神の痛みに奉仕するとき始めて真に生産的となり、真理として結実する。痛みへの感覚はそれ自身として放任されるときには、真実さを失う危険性がある。Spielやplayは劇と遊戯との二義をもつ。痛みへの感覚が遊戯となるとき、もはや致命的である。遊戯の特質は倫理と絶縁することにある。日本の庶民のこころが痛みへの感覚をもちながらも、倫理との絶縁への傾向をもつことは、寒心すべきこととして反省されねばならぬ。この傾向は、痛みへの感覚が神の痛みに奉仕するに至っていないために生ずるものと考えられる。神の痛みのみが倫理の根本たる痛みの切実さを可能ならしめるのである。』

 北森は日本の悲劇における「つらさ」、すなわち痛みの例として『寺子屋』を挙げ、「神の痛み」との痛みの類比を試みている。父松王丸は主君への忠誠を示すために、愛する子を犠牲にし、死におもむかせる。主君への封建主義的な忠誠心と、わが子への父としての愛情にはさまれて、松王丸はつらさを感じる。北森はこの『寺子屋』における「女房喜べ、倅は御役に立ったぞ」という松王丸のことばを日本的つらさ、痛みとして提示するのである。

 これは戦時下の日本において、天皇のために、日本国のために子どもを死なせることが最も尊きものであったことと同じ感覚であると思われる。同様の感覚は北森が本居宣長の古事記伝(二七)の言葉を引用して述べることについても当てはまる。以下にその引用を記す。

『本居宣長が日本(やまと)武尊(たけるのみこと)の悲運に連関して述べている次のごとき言葉は十分注目されねばならぬ。—「此後しも、いささかも勇気は撓(たゆ)み給はず成功をへて大御父天皇の大命を、違へ給わぬばかりの勇き正しき御心ながらも、如此恨み奉るべき事をば恨み、悲しむべき事をば悲しみ泣賜ふ、これぞ人の真心にはありける。此若漢人ならば、かばかりの人は、心の裏には甚く恨み悲みながらも、其はつつみ隠して其色を見せず、かかる時も、ただ例の言痛きこと武勇きことをのみ云てぞあらまし、此を以て戎人のうはべをかざり偽ると皇国の古人の真心なるとを万の事にも思ひわたしてさとるべし」(古事記伝二七)。日本的なるものは「悲しむべき事をば悲しみ泣」くことであって、これを「つつみ隠して其色を見せ」ぬことではない。』

 敗戦を迎えた日本の教会が、まずキリストを裏切ったことに対する痛みを持つことができなかった理由がここに潜んでいると思われる。北森はここで「父」なる神の痛みについては語っている。しかし寺園が指摘しているように、北森は痛みの類比を試みているが、神の痛みを「子」の痛みとして、キリスト論的に展開しているわけではない。ここでは子なる神の痛みは主題とはなっていない。

 また、日本人としての痛みの感覚をもって神の痛みを捕らえようと試みる際、北森が指摘しているようにあくまでもそれが人間の感覚である故に、恣意と錯覚がまさに潜んでいると考えられる。北森は神の痛みそのものによってこの問題の解決を求めようとしているが、実際には神の痛みを認識する手段として痛みの類比を試みている故に、問題は解決されず、神の痛みの超越性が引き下げられることになる。それゆえ、神の痛みが人間的な(感傷的あるいは浪花節的)レベルに引き下げられている。

 痛みの類比を行う際、北森は日本の庶民のこころが他の民族のこころよりも痛みへの感覚を持っていることを前提にしている。しかし、本当にそんなことがいえるのであろうか?日本人が持っている痛みへの感覚は、他の民族と同様に、あくまでも、愛すべき人間、価値ある者、同胞に対してのみ有効であると考えられる。そして、日本人は、日本人以外、特にアジア諸国の民族に対して、痛みの感覚を持ち合わせていないとさえ考えられる。更に言えば、生まれながらの日本人は、罪に対して痛む感覚、つまりまず神に対する罪の痛みの感覚を持っていないのである。神を神としない日本人が、今でも倫理との絶縁への傾向を持つこと、痛みの感覚を持ち得ないことは当然であるといえる。

B、神観についての課題点

 北森は『神の痛みの神学』において、絶対他者としての神観、神学的公理としての第1戒、人間との「対立」における神を否定する。これはキリスト中心的に神学をしない故に、日本的思惟の影響を受けるためだと考えられる。これによって、以下の2つの問題を引き起こしていると考えられる。

(1)神と人間の質的差異、つまり神の超越性を認識して「神を神とする」ということを困難にする。

 ⇒ 偶像礼拝の罪

 ⇒ あるいは神を自分のために利用する信仰、

私のためのキリストにとどまる信仰

(2)律法を福音の内に含まれる恵みとして認識することを困難にする。

 ⇒ 安価な恵み、服従を伴わない信仰、実質的には自分が主である信仰

 北森は『神の痛みの神学』において、「絶対他者」という神概念を否定する。この点はまさに北森が強烈なバルト批判をしたことによって明らかである。北森はキリスト論的に神学を試みようとしているが、実質的にはエレミヤ31:20を土台とし、父なる神を中心にした神論によって『神の痛みの神学』を構築している。それゆえに日本的思惟の影響を避けることが出来ず、結果的に神の神性を犠牲にするような形で神の受苦性(人間性)を強調していると考えられる。

 このことは十戒に代表される律法、そして主イエスが示された一番大切な戒めに関する重大な問題である。北森はバルトの『神の人間性』をあくまでも転向として受けとめ、また、バルト神学のモティーフ、神学的公理が十戒の第一戒であることを最も受け入れ難いこととして批判している[12]。このことは第一戒に代表される律法を、北森が福音として聞くことができないことに起因しているのではないか。十戒に代表される律法は人間に真の自由を与えることのできる恵みである。そして、十戒の語られる大前提は、恵みによる救いである。

 かつて日本の教会は神社参拝が宗教であるかどうかという判断をキリスト(聖書)に聞かず、日本政府に聞いた。その結果、教会は教会としてのアイデンティティを喪失し、神社参拝は宗教ではないとの政府の意見を受け入れて積極的に神社参拝を行ったのである。韓国のキリスト者にまで神社参拝を勧めに赴いた日本の教会の指導者たちに対して、韓国の抵抗して殉教していったキリスト者は「それは第一戒に反することではないのですか?」と命をかけて問うたのである。しかし、日本人キリスト者は信仰の堕落を食い止めるための歯止めを次から次へと外し、最後の歯止めである第一戒さえも外してしまったのである。

 この日本的思惟の問題は、まさに私たちに真剣な疑問符を提示する。言い換えれば、「神を神とする」という所まで、福音がしっかりと根ざすかどうかという大きな問題が提示されているのである。私たちは今、本当に主を主としてこの国でキリストに従っているのだろうか?本当に聖書を神の言葉として受けとめているのだろうか?もしそうでないならば、今こそキリストによる和解に立って、過去にしっかりと目を向け、神を神とするということから、すべてをやり直し始めなければならないのではないか?私のためのキリストからキリストのための私へと導かれるようにと祈る。他者のための祝福の基、世の光、地の塩としての使命に生きるために。


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Last-modified: 2019-05-15 (水) 19:21:48