杉戸キリスト教会では、毎週日曜、朝10時半からと夜20時から、礼拝があります。マスクをし、入り口で手の消毒をしてお集いください。午後からは、杉戸キリスト教会のホームページにて礼拝メッセージを配信しています。ご利用ください。現在スマイルキッズ礼拝とJJ礼拝はお休みしています。朝の礼拝もしくは夕礼拝にお集いください。一階でも礼拝中継ビデオにて礼拝に参加できます。
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2021年1月13日の聖書と祈り会メッセージ。ルカの福音書20信仰によって主イエスを驚かせた人。聖書箇所はルカの福音書7章1ー10節。信仰によって主イエスを驚かせた人は、異邦人の百人隊長でした。彼の信仰は、ただ主イエスのおことばにある権威を信じる信仰です。
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敬虔のための鍛錬(マタイ4:1-4)
河野勇一(緑キリスト教会牧師・現東海聖書神学塾塾長)
クリスチャン市民の会「アーモンド」No.3より引用
物質文明を謳歌している現代。その豊かさを楽しむ一方で、人間性や心の回復の必要を訴える声があちこちから聞こえてきます。そんな時に、クリスチャンならずともよく引用する聖書の言葉に、「人はパンだけで生きるのではない」があります。これを引用する人は、人間は物質的なものだけでは満たされない精神的・霊的な存在だから、パンによって肉体の必要が満たされるだけでなく、神の言葉によって心(霊)も満たされなければ生きることはできない、と言いたいようです。
しかし、このポピュラーなみ言葉の使い方は、誤った解釈に基づいています。ギリシャ的な霊肉二元論の影響を受けて、パン(物質的領域)と神の言葉(霊的領域)を別々の領域のものと考えているからです。物質も大切だが霊も大切だ、という考え方は、物質の問題は霊の問題とは関係ない、という考えに容易におちいってしまうのです。
荒野での誘惑において、サタンは空腹のイエス様に向かって、「あなたには人人を救うための大事な仕事がある。あなたは生きなければならないし、あなたは神の子で奇蹟を行う能力もある。いま、その力を使って石をパンに変え、そして神から託された仕事をしなさい」と語ったのでした。
それに対する答えとして、イエス様が引用されたのがこのみ言葉で、申命記8章からのものです。そこには、荒野での40年間、食べ物も水もままならない環境の中で、神が天からの食物(マナ)によってイスラエルの民を養われたのは、人は神に養われ、守られ、生かされている存在であるということをわからせるためであった、と書かれています。
ですから、イエス様がこのみ言葉を引用しておっしゃりたかったことは、「サタンよ、黙れ。人はパン自体で生きているのではなく、パンを創造し、それをご配慮によって与える神ご自身のみ言葉によってこそ生かされているのだ。だから、私は自分の力でパンを獲得することはしない。この父なる神のみ心に全てをゆだねて生きるのだ」ということです。ここにおいて二元論は克服され、パンをも含めた一元的な神の支配への信頼が語られています。
このように考えますと、飽食の時代に生きるクリスチャンにもサタンが同じように誘惑の手を伸ばしていることが見抜けてきます。あり余る食料に囲まれて自分のお金で自由に好きなものを選べる私たちの生活から、日毎のパンを主に求める祈りが消えます。また、日毎の糧が主から与えられているという感覚がマヒして、感謝がなくなるのです。
そんな中でのこのみ言葉の二元論的誤用は、物質的な事柄を信仰の範囲外のこととする考えを生み、浪費やぜいたくの是認につながりかねず、サタンの誘惑を助長しこそすれ、これに打ち勝つ力にはならない、と言えるのではないでしょうか。
クリスチャンのシンプルライフ指向が、単なる資源の節約や博愛精神ーそのこと自体、もちろん大切なことですがーに終わらないで、信仰生活に統合されるためには、霊肉二元論的な思考からくる、肉体的・物質的な生活と霊的・信仰的な生活との遊離という誤りを克服しなければなりません。
テモテへの手紙第一(4:1-11)において、パウロも二元論に基づく禁欲主義という悪霊の教えに警告をうながし、すべてのものに感謝する生き方を教えています。
ここでパウロが言う「敬虔のための鍛錬」(4:7)とは、まず、すべてのものが神の口から出たみ言葉によることを理解し、次にそれらを「神のことばと祈りとによって、聖めて」(4:5)用いる生き方のことです。すなわち、ひとつひとつのものを神の目的にしたがってふさわしく、適量、しかも楽しんで用いるところの「感謝の鍛錬」です。その意味で、シンプルライフとは、クリスチャンが「本当に霊的なライフスタイル」を確率するための鍛錬としてとらえるべき信仰のわざなのです。
最近のデジタルカメラの進歩には目を見張るものがありますが、私はPENTAXのデジタルカメラを愛用しています。
私たちの不信仰を超えて、昨年秋、結婚11年目に子どもを神さまから預かりました。神のみことばは人間の不信仰を突き破って、時が来ると必ず出来事になり、閉塞感を突き破るのです。ハレルヤ!
以下に記すのは、閉塞感を突き破るブレイクスルーフェイスです。死の影と閉塞感に覆われたこの国とこの世界に、神は一条の光を与えてくださいます。人生をあきらめてはいけません!
『ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。 私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。ルカ福音書1:20』
ルカ福音書1章には、ザカリヤという祭司と彼の妻エリサベツが登場する。エリサベツは不妊の女であったが、後に全能の神によって身ごもり、バプテスマのヨハネの母となった。ザカリヤ夫婦に子どもが与えられる経緯を通して、全能の神がどのようなお方かを知ることが出来る。
ザカリヤは不信仰であった故に、神の言葉が出来事になるまでものが言えなくなった。しかし神の約束の言葉は、人間の不信仰を超えて、その時が来れば実現し、現実の出来事となった。
もし厳密な意味で、私たちが信じたとおりにしかならないのなら、全能の神の素晴らしいご計画は、計画倒れになるであろう。そして、この世界のすべてを再創造するという神の壮大なご計画は凍結し、私たちは罪の中で滅んでいくだけとなってしまうであろう。
しかし全能の神のことばは、人間の不信仰を超えて、時が来れば必ず出来事になることを、聖書は力強く証しし続けている。「神のことば」を「出来事」と訳すことが出来る理由がここにある。