杉戸キリスト教会 2011年度方針

杉戸キリスト教会 2011年度方針(教会総会資料2010年11月より)

★ビジョン


『そして、彼を外に連れ出して仰せられた。
「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」
さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』創世記15章5-6節

 1、星の数ほど老若男女が満ちあふれる教会、行列のできる教会
 2、日々みことばに聴く祈りをし、主の祈りに沿って熱心に願い求める教会
 3、天から聖霊を受け続けることにより、与える幸いに生きる教会
 4、熱い祈りによって信仰、希望、愛、そして賛美が満ちあふれる教会
 5、人と緑を生かしてオアシスを再創造する教会
 6、魂を救い、人を育てることによって神の国を建て上げ、世界を変える教会
 7、日本とアジアと世界に仕える教会(JAWS21:地域、宣教区、国内、国外)

★2011年度の取り組み

 1、各個人が日々聴く祈りをし、目的宣言文に沿った「目的志向の人生」を目指す

 2、私たち杉戸キリスト教会の目的宣言文を共に作成し、
   「目的志向の教会」を目指す

★5つの目的に基づいた教会の働き

 1、礼 拝ーあなたは神の喜びとしてデザインされた
 
 2、交わりーあなたは神の家族としてデザインされた
 
 3、成 長ーあなたはキリストのようにデザインされた
 
 4、奉 仕ーあなたは神に仕えるためにデザインされた
 
 5、宣 教ーあなたは使命(魂の救いと人育て)のためにデザインされた

★目的志向の人生と教会を目指して

 参照聖書箇所:ルカ福音書10章38節-11章13節

ある時主イエスが祈っておられました。「天と地がつながっているような祈りだ。私もあんなふうに祈りたい。」そんな憧れを弟子たちに抱かせるお姿でした。ですから、「主イエス様。祈りを教えてください。」そう弟子の一人が尋ね求め、素直に聴く祈りをしました。その時主イエスが「祈る時にはこう祈るんだよ。」と教えてくださったのが主の祈りです。

主の祈りをひっくり返すと、以下のような大変恐ろしい祈りになります。主の祈りを自分の祈りとし、「目的志向の人生」を日々選び取るために、ぜひ覚えてください。そしてこの祈りに絶対にアーメン(それが私の心からの願いです)と言わないでください。無意識に祈ることがあっても、意識的には祈らないでください。悪魔的な祈りで、これ以上的外れで罪深い祈りはありませんから。これは、善悪の知識の木の実を食べた者の恐ろしい祈りですから。

自分の名前があがめられ、ほめられますように。

自分を中心とした自分の思い通りになる国が来ますように。

私の願い、考え、計画が、その通りになりますように。

私が今日もがんばって、日ごとの糧を得よう。(神など必要ない)

誰でも私に罪を犯す者があるなら、絶対に赦さないで、必ず報復しよう。

私は自分の力であらゆる誘惑に打ち勝つことができ、

 自分で自分を悪から救い出すことができる。(救い主など必要ない)

国と、力と、栄え、世界に満ちるすべてのものは、私(俺)のものだ。

これは「罪人の自己中心な祈り」です。正直にあなたの心の中をのぞいて見てください。心密かに願っている本音がこのような内容と方向性であるなら、あなたも聖書の言う「罪人」です。行き着く先は死と永遠の滅びです。しかし主の祈りの行き着く先は、喜びと感謝と永遠のいのちです。どちらに向かって生きるのか、あなた自身が日々選び取らなければなりません。

以前の私は、主の祈りをひっくりかえした内容をいつも願い求めていました。けれども、死と永遠の滅びに向かって暴走していた私のために、十字架で命を捨ててくださり、よみがえった主イエスによって、主の祈りの指し示す内容を目指して、喜んで生きるように変えられたのです。「まず向きを確認し、次にその方向性で、聖霊を与えてくださる天の父にあつかましいほど熱心に祈り続けなさい!」そう主イエスは教えておられます。

用いられれば用いられるほど、目に見える結果が出せれば出せるほど、すべての栄光を神にお返しすることが難しくなります。自分に栄光を帰したいという誘惑、神を十字架につけて殺し、自分が神になりたいという誘惑がますます強くなるからです。

ですから電波時計のように、毎日聖書に耳を傾けて聴く祈りをし、主の祈りがコンパスのように指し示している向きに軌道修正しながら生きる。そうすれば、造られ、救われ、生かされ、杉戸キリスト教会に神の家族として呼び集められている本来の目的に導かれた、目的志向の人生を生きることができます。

閉塞感を突き破るもの ブレイクスルーフェイス

Hello World! with PENTAX K-7

最近のデジタルカメラの進歩には目を見張るものがありますが、私はPENTAXのデジタルカメラを愛用しています。

私たちの不信仰を超えて、昨年秋、結婚11年目に子どもを神さまから預かりました。神のみことばは人間の不信仰を突き破って、時が来ると必ず出来事になり、閉塞感を突き破るのです。ハレルヤ!

以下に記すのは、閉塞感を突き破るブレイクスルーフェイスです。死の影と閉塞感に覆われたこの国とこの世界に、神は一条の光を与えてくださいます。人生をあきらめてはいけません!

『ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。 私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。ルカ福音書1:20』

 ルカ福音書1章には、ザカリヤという祭司と彼の妻エリサベツが登場する。エリサベツは不妊の女であったが、後に全能の神によって身ごもり、バプテスマのヨハネの母となった。ザカリヤ夫婦に子どもが与えられる経緯を通して、全能の神がどのようなお方かを知ることが出来る。

 ザカリヤは不信仰であった故に、神の言葉が出来事になるまでものが言えなくなった。しかし神の約束の言葉は、人間の不信仰を超えて、その時が来れば実現し、現実の出来事となった。

 もし厳密な意味で、私たちが信じたとおりにしかならないのなら、全能の神の素晴らしいご計画は、計画倒れになるであろう。そして、この世界のすべてを再創造するという神の壮大なご計画は凍結し、私たちは罪の中で滅んでいくだけとなってしまうであろう。

 しかし全能の神のことばは、人間の不信仰を超えて、時が来れば必ず出来事になることを、聖書は力強く証しし続けている。「神のことば」を「出来事」と訳すことが出来る理由がここにある。

The Rose のまちゃん牧師のギター弾き語り

埼玉県杉戸町、古利根川の流れのほとりから、THE ROSEを歌います。
以下歌詞の試訳。

Some say love it is a river that drowns the tender reed
愛は、柔らかな葦を沈め、溺れさせる川だという人がいる。

Some say love it is a razor that leaves your soul to bleed
愛は、魂を切り裂き、出血させる剃刀だという人がいる。

Some say love it is a hunger and endless aching need
愛は飢えであり、飽くなきうずきだという人がいる。

I say love it is a flower and you its only seed
私は言おう。愛は花だ。そしてあなたは、愛の花を咲かせる種だと。

It’s the heart afraid of breaking that never learns to dance.
決してダンスを学べないもの。それは傷つくことを恐れる心。

It’s the dream afraid of waking that never takes the chance.
決してチャンスを掴むことができないもの。それは目覚めることを恐れる夢。

It’s the one who won’t be taken, who cannot seem to give,
取られることをいやがる者は、与える幸いを知ることはない。

and the soul afraid of dyin’ that never learns to live.
死ぬことを恐れる魂は、決して生きることを学べない。

When the night has been too lonely and the road has been too long
さみしすぎる孤独な夜が訪れ、夜明けまでの道のりがあまりにも長い時。

And you think that love is only for the lucky and the strong
愛は、ラッキー(幸運)な人や強い人だけのものだとあなたが思う時。

Just remember in the winter far beneath the bitter snows
思い出して欲しい。凍てつく冬、雪のはるか下でじっと耐えている種を。

Lies the seed that with the sun’s love
雪の下で耐えているその種は、あったかい太陽の愛をいっぱい受けて、

In the spring becomes the rose
やがて春には、美しい薔薇になるということを。

苦しみの中におられる方々のための告白…A CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED

苦しみの中におられる方々のための告白…A CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED

I asked God for strength, that I might achieve   
I was made weak, that I might learn humbly to obey…

I asked for health, that I might do greater things   
I was given infirmity, that I might do better things…

I asked for riches, that I might be happy   
I was given poverty, that I might be wise…

I asked for power, that I might have the praise of men   
I was given weakness, that I might feel the need of God…

I asked for all things, that I might enjoy life   
I was given life, that I might enjoy all things…

I got nothing that I asked for — but everything I had hoped for
Almost despite myself, my unspoken prayers were answered.  
I am among all men, most richly blessed!
(Author unknown)

This creed is hung on a wall at a waiting room of Institute of Rehabilitation Medicine, 400 East 34th Street NYC

この詩は、青銅の盾に刻まれて、ニューヨーク市イーストリバー沿いの東400丁目、34番街にある物理療法リバビリテーション研究所の受付の壁にかけられている。作者不明。以下、野町試訳。

私は神様に強さを求めました。成し遂げるために。
でも私は、弱い者とされました。従うための謙遜を学ぶためにと。

私は健康を求めました。より偉大なことをするために。
でも私は、病弱を戴いたのです。より良きことができるようにと。

私は富を求めました。幸せになるために。
でも私は、貧しさを授かりました。賢い者であるようにと。

私は力を求めました。世の人々の称賛を得るために。
でも私は、弱さを授かりました。絶えず神に寄りすがる必要を覚えるためにと。

私はあらゆるものを求めました。人生を楽しむために。
でも私は、命を授かったのです。すべてのことを喜び楽しめるようにと。

私が求めたものは何一つとして与えられませんでした。
けれども、私の願いは、すべて神に聞き届けられたのです。

私は神の意に添わぬ者であるにも拘わらず、
心の中の言い表せない祈りは、すべて叶えられたのです。

私はすべての人の中で、最も豊かに祝福されたのです。