ダビデの賛歌 †
「主」とは、私たち人間一人一人と、本当に親しい関係をもって、 どんなときも共に歩んでくださる神様の名前です。 かつて羊飼いであったダビデは、神様をよく「主」と呼んでいます。 そしてダビデは、「主は私の羊飼いです」という書き出しで始まる素敵な詩を書き残しています。 キリスト者が「われらの主、イエス・キリストを信ず」と告白する時、 それは、「イエス様は私たちの良い羊飼いなんです」と告白しているのです。 主という言葉の持つ響きは、羊飼いというイメージととてもよく重なります。 羊飼いはいつもひつじの傍にいて、一匹一匹のひつじを気にかけています。 羊飼いは一匹一匹のひつじの名前を呼んで、 群れを緑の牧場やいこいの水のほとりに導いて下さるのです。 狼が襲ってきたりした時、羊飼いはいのちがけでひつじを危険から守ってくれます。 100匹のひつじを飼っていて、そのうちの一匹でも迷い出たなら、 羊飼いは見つかるまで必死になって、失われたひつじを捜し出して下さるのです。 聖書は人間をよくひつじにたとえています。 そしてイエス様は、ご自分のことを、次のように自己紹介して下さいました。
神は霊であって、唯一全能の主である。 †旧約聖書の中に啓示された主なる神(YHWH) 新改訳聖書において太字で主と表記されている所にはすべて、神の御名(YHWH)が記されている。 ここで主なる神(YHWH)とはどのようなお方であるのかを考えるために、出エジプト記3章14節に着目したい。
出エジプト記3章14節には、エヘイエーという動詞が2回使われている。実はこの動詞は、主と表記されている神の御名(YHWH)と同じ語根の言葉である。このエヘイエーという言葉の意味について、浅井導は以下のような考察をしている。
ここで浅井は、エヘイエーという動詞は、「わたしは存在する」というような静的な意味の言葉ではないとし、「わたしはあろうとする」というような動的な意味を持つ言葉であると結論付けている。そして、出エジプト記3章14節の主の語りかけを「わたしは、『わたしはあろうとする(エヘイエー)』者である。」と訳している。 一般的に、へブル語は動的な言語だと言われ、ギリシャ語は静的な言語だと言われるが、浅井の上述のような考察は、そのような考えを裏付けるような内容となっている。 旧約聖書の中に啓示された主なる神とは、永遠に存在しておられるお方であるが、ただ永遠に自存しておられるお方というイメージを超えて、「なろうとするものに何でもなれる全能の神」であると言える。 そしてこのお方が、私たちのために、肉体を持った人間の幼子となって降りて来て下さり、私たちの間に住まわれ、その愛を余すところなく示して下さったことを覚え、深く感謝を捧げる。 新約聖書の中に啓示された主なる神(エゴー・エイミ) ヨハネ福音書の中には、イエス・キリストが、エゴー・エイミという言葉を7回用いて、ご自分のことを紹介して下さったことが記されている。その内容は以下の通りであるが、それぞれの言葉が主イエスの口から語られた言葉として記されている。
エゴー・エイミという言葉は、「わたしはある」のギリシャ語訳である。故にここで主イエスは、ご自分が旧約聖書に啓示された主なる神(YHWH)であることを宣言しておられることになる。 いのちのパン、世の光、門、よい牧者、よみがえり・いのち、道・真理・いのち、そしてまことのぶどうの木。これらはすべて、私たち人間にとってなくてはならないもの、必要不可欠のものばかりである。 さらに7という数字は完全数であるので、主イエスが7回エゴー・エイミと語られたということは、「わたしはあなたがたの必要に応じて何にでもなれる全能の神(YHWH)である!」という驚くべき主なる神宣言と言える。実に主イエスは、私たちの必要に応じて、何にでもなれる唯一全能の神ご自身として、ご自身を啓示されたお方である。 (野町) |