中野教会にて関東宣教区講壇交換メッセージ「目的志向の人生」

中野教会

中野教会にて関東宣教区講壇交換メッセージ「目的志向の人生」(クリックで聴けます)

聖書箇所:ルカ福音書11章1-13節
今年の関東宣教区講壇交換は、中野教会で奉仕させていただきました。感謝。

礼拝メッセージ「助けてください」

礼拝メッセージ「助けてください」

聖書箇所:使徒の働き16章1ー10節

ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。使徒16章9節

何事でも、やりだせば必ず壁にぶつかります。けれども、明確な目的を持っている人は、迷っても壁を乗り越えていくことができます。

けれども、明確な目的を持っていなければ、壁を前にしてただ迷い、焦り、そして徒労に終わってしまいます。

ですから、聖書に聞く祈りによって、人生の目的を明確にし、死の向こうの永遠を見据えた長期計画、ロードマップを立てることがとても大切です。

実に人生の目的は「魂の救い」と「人育て」のために「共に生きる」ことです。

聖なる神の霊(聖霊)の導きによって、具体的計画は何度も軌道修正され、その都度、計画変更を余儀なくされるでしょう。その繰り返しが歴史であり、私たちの人生ではないでしょうか。

しかし、あらゆる壁を乗り越えることのできる知恵と力を与え、夢をかなえさせてくださるのは、全知全能の神御自身なのです。

礼拝メッセージ「苦しみの意味」

礼拝メッセージ「苦しみの意味」

聖書箇所:使徒の働き14章19ー28節

弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言った。使徒14章22節

主イエス・キリストは、敵であった私たちのために重い十字架を背負い、身代わりに死んでくださいました。そのキリストは、「自分の十字架を負ってわたしについて来なさい。」と言われます。

実にキリストに従う歩みは、キリストの苦しみの欠けたところを満たす歩みです。キリストの愛に捕らえられて、自分の十字架を背負い、本気でキリストに従おうとするなら、苦しみに直面することは避けられません。

苦しむことが目的(ゴール)ではありません。しかし、苦しみを通して、神は私たちをイエス・キリストのように造り変えられるのです。

苦しみの意味は、キリストに従うことを通して、私たちがキリストのように変えられるというところにあります。それは私たち自身が、全世界の祝福の基として他者のために存在する教会となるためです。

福音宣教の使命に生きる教会として、ともに公同のキリストのからだである世界教会の、キリストを目指して成長していきましょう。

新年礼拝メッセージ「過ぎ去った時代」

新年礼拝メッセージ「過ぎ去った時代」

聖書箇所:使徒の働き14章1ー18節

過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。 とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」使徒14章16-17節

最初のクリスマス。その時歴史が大きく動きました。キリストによって的が照らし出され、それまでの時代は「過ぎ去った時代」となったのです。

暗闇の中で、弓を射ることを考えてみて下さい。もし的を照らし出す光がなければ、どんなに一生懸命になったとしても、的を外すことしかできないでしょう。

同じように私たちの人生においても、歩むべき道を照らし出す光がなければ、的を外した人生しか生きられません。

的外れなこととは何でしょうか?それは、本当の神を無視して感謝もせず、かえって他の神々に心を向けて自分のために生きることです。創造主なる神ではなく、自分のための神(偶像)を造って拝むこと。自分のために神を利用すること。自分が神になろうとすること。これ以上に的外れなことは出来ません。

「罪」という言葉と「証言する者がいない」という言葉がギリシア語で似ている理由。それは、「証言する者がいなければ、的外れな罪を犯してしまう」という関係があるからです。

パウロとバルナバは、神以外のものを神として拝むことがむなしく的外れであること、そして、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神こそが、礼拝を捧げるべき唯一の方であり、立ち返ってこの方に感謝を捧げ、この方のために生きることが、的を射た生き方であることを、必死になって訴えました。

礼拝メッセージ「栄光は神に」

礼拝メッセージ「栄光は神に」

聖書箇所:使徒の働き12章18ー25節

するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた。使徒の働き12章23節

ヘロデが神に打たれて即死した理由は、神に栄光を帰さなかったからです。実はこれこそ、私たち全人類が犯した「死に至る罪」です。なぜ人が死ぬようになったのか。それは、「取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」と警告されていた善悪の知識の木から取って食べたからです。それは以下のような、死に向かう方向転換でした。

神を基準とせず自分を基準とする。神を神とせず自分を神とする。神を主とせず自分が主となる。神中心でなく自己中心になる。栄光を自分に帰す。

しかしイザヤ書53章には、そのような私たちの身代わりに、神に打たれた主イエスのことが記されています。主イエスはあなたの罪のために十字架で死なれ、復活して今も生きておられます。

この主イエスを受け入れて向きを変える。それは以下のような、いのちに至る悔い改めです。自分を基準とせず神を基準とする。自分を神とせず神を神とする。自分を主とせず神を主とする。自己中心でなく神中心になる。栄光を自分にではなく神に帰す。

礼拝メッセージ「歩く聖書」

礼拝メッセージ「歩く聖書」

聖書箇所:使徒の働き9章32ー43節

さて、ペテロはあらゆる所を巡回したが、ルダに住む聖徒たちのところへも下って行った。使徒の働き9章32節

ペテロは、歩く聖書とされて、魂の救いのために、豊かに用いられていきました。

ルダという所では、八年間中風を患い、寝たきりだったアイネヤをいやし、それを見た人々の魂を救いました。

ヨッパという所には、タビタ(ギリシヤ名ドルカス)という女の弟子がいました。彼女は、多くの良いわざと施しをしていましたが、病気になって死にました。しかしペテロは、ひざまずいて祈ることによって、彼女を生き返らせ、生きている彼女を人々に見せたのです。このことがヨッパ中に知れ渡り、それを見た多くの人々の魂が救われました。

危機の時代に生かされている私たちも、主イエス・キリストを信頼して受け入れ、聖書のみことばを実生活に適用して生きるなら、歩く聖書とされます。

その時私たちは、「魂の救い」と「弟子作り」という教会の存在目的のために、豊かに用いられます。実に、「魂の救い」と「弟子作り」こそ、奇跡の中の奇跡です。