真のターミネーター

「ターミネーター」という言葉は、映画のタイトルとして使われることで、有名なカタカナ英語になったかと思う。

「ターミネイトterminate」が動詞で、「(何かを)終わらせる・終結させる」という行為を表す。例えば、いのちを終わらせるということで「殺す」とか「中絶する」、雇用を終わらせるということで「解雇する」といった意味になる。

「ターミナル」と言えば「終着駅とか終点」、「ターミナルケア」と言えば、ホスピスや在宅介護のような「終末期医療」となる。そして、「ターミネーターterminator」と言えば、「何かを終わらせる(終結させる)もの」という意味になる。

人間は、恐ろしいターミネーターになり得る。それは、人間が神のようになろうとして一線を越えることから始まる。人間が神のようになろうとして一線を越えようとする時、人は自分の心の中で、まず神をターミネイトする。もしそれを実行に移してしまうと、自分にとって都合の悪いものはすべてターミネイトしようとする、恐ろしいターミネータの誕生となる。

しかしイザヤ書34章4節に耳を傾けると、『天の万象は朽ち果て、天は巻き物のように巻かれる。その万象は、枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。』と語られている。

聖書は、「すべてをご自分の栄光のために創造し、すべてを始められた主なる神こそが、すべてのものを終わらせることのできる真のターミネーターである」と語っている。

P.S.私たち人間の罪を完全にターミネイトするために、神のひとり子、イエス・キリストがご自分のいのちを十字架の上でターミネイトしてくださったことに関しては、改めて記すこととします。

お勧めの映画「ヤコブへの手紙」

フィンランド映画「ヤコブへの手紙」を鑑賞して。

ヤコブ牧師と刑務所から出てきた女性との生活。

ヤコブ牧師は、悩み相談や祈りのリクエストが書かれた手紙を、毎日心待ちにしながら生活しているおじいちゃん牧師である。

手紙はいつも、「ヤコブ牧師!郵便ですよ!」と言って、自転車に乗った郵便配達員が届けてくれる。

ヤコブ牧師は目が見えないので、手紙を代読し、返事を代筆してもらう人が必要である。

代読代筆をしてくれていた方が老人ホームに入られたので、ヤコブ牧師は困っていた。

そこでヤコブ牧師は、ヘルパーさんを雇った。

そのヘルパーさんが、刑務所から恩赦によって出てきたばかりの、心を閉ざした女性だった。

だれかのために祈るというとりなしは、もちろん祈りなのだが、素直な思いを手紙として書くことも祈りであり、そのようにして書かれた手紙を聴くこともまた祈りである。

そんなことを、書き留めておきたい。

人生の分岐点

人生の分岐点

写真は東武鉄道東武動物公園駅から下り方面に伸びる線路です。右側は日光線、左側は伊勢崎線です。

日光線は、杉戸高野台、幸手、南栗橋、栗橋、新古河、柳生、板倉東洋大前、藤岡、静和、新太平下、栃木、そして新栃木へと向かいます。新栃木からは宇都宮線も出ています。下今市からは鬼怒川線も出ています。

伊勢崎線は、和戸、久喜、鷲宮、花崎、加須、南羽生、羽生、川俣、茂林寺前、そして館林へと向かいます。館林からは小泉線と佐野線も出ています。太田からは桐生線も出ています。

tobu railway map

人生にも、鉄道路線と同じように、至る所に分岐点があります。

どこの幼稚園・保育園に行くか。どこの小学校に行くか。どこの中学校に行くか。どこの高校に行くか。どこの大学、短大、専門学校に行くか。どこに就職するのか。誰と結婚するのか。どこに住むのか。転職するのかしないのか。退職後はどうするのか。などなど。

けれども、人生において最も大切な分岐点は、「どのような信仰の道を歩むのか」ということではないでしょうか。それにおいて死の向こうの永遠を過ごす終着駅が変わってしまうからです。

私は20歳の時、キリスト信仰の道、キリスト教会へと導かれ、もうアラフォー世代になりました。信仰の分岐点でこの道へと導かれていなければ、私は今も死へと急ぎ、永遠の滅びに向かって暴走していたことでしょう。今あるはただ主イエス・キリストの恵みです。感謝。

杉戸キリスト教会牧師 野町真理

中野教会にて関東宣教区講壇交換メッセージ「目的志向の人生」

中野教会

中野教会にて関東宣教区講壇交換メッセージ「目的志向の人生」(クリックで聴けます)

聖書箇所:ルカ福音書11章1-13節
今年の関東宣教区講壇交換は、中野教会で奉仕させていただきました。感謝。

礼拝メッセージ「審判の日」

礼拝メッセージ「審判の日」

聖書箇所:使徒の働き17章16-34節

神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。使徒17章30-31節

ギリシアのアテネ。そこはギリシア神話の神々の像に溢れている町でした。また、エピクロス派とストア派の哲学者たちが論じ合っている町でした。

パウロはアレオパゴスに連れて行かれ、ギリシアの中心で神を叫ぶことになりました。

まずパウロは、アテネの人たちが宗教心にあつい方々だとほめました。評価できる点を最初に語ることは、福音提示の土台となる大切なことです。

次にパウロは、道ばたにあった『知られない神に』と刻まれた祭壇について触れ、そこから創造主なる神について語り始めました。

最後にパウロは、上記のみことばのように悔い改め(生き方の方向転換)の必要について、審判の日と死者の復活から論じました。

新年礼拝メッセージ「過ぎ去った時代」

新年礼拝メッセージ「過ぎ去った時代」

聖書箇所:使徒の働き14章1ー18節

過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。 とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」使徒14章16-17節

最初のクリスマス。その時歴史が大きく動きました。キリストによって的が照らし出され、それまでの時代は「過ぎ去った時代」となったのです。

暗闇の中で、弓を射ることを考えてみて下さい。もし的を照らし出す光がなければ、どんなに一生懸命になったとしても、的を外すことしかできないでしょう。

同じように私たちの人生においても、歩むべき道を照らし出す光がなければ、的を外した人生しか生きられません。

的外れなこととは何でしょうか?それは、本当の神を無視して感謝もせず、かえって他の神々に心を向けて自分のために生きることです。創造主なる神ではなく、自分のための神(偶像)を造って拝むこと。自分のために神を利用すること。自分が神になろうとすること。これ以上に的外れなことは出来ません。

「罪」という言葉と「証言する者がいない」という言葉がギリシア語で似ている理由。それは、「証言する者がいなければ、的外れな罪を犯してしまう」という関係があるからです。

パウロとバルナバは、神以外のものを神として拝むことがむなしく的外れであること、そして、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神こそが、礼拝を捧げるべき唯一の方であり、立ち返ってこの方に感謝を捧げ、この方のために生きることが、的を射た生き方であることを、必死になって訴えました。

礼拝メッセージ「悔い改めなさい」

礼拝メッセージ「悔い改めなさい」

聖書箇所:使徒の働き2章22ー41節

「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」使徒の働き2章38節

聖霊に満たされたペテロは、まさしく「神の伝令」として、イエス・キリストを真っ直ぐに伝える伝道説教を熱く語り続けます。

ペテロが語る伝道説教は、鋭いメスによってなされる切開手術のようです。なぜなら、ペテロが上から預かって語っているのは、私たち人間の心に溜まっている膿や癌のような罪をすべて取り除き、私たちを死と永遠の滅びから救おうとする神の言葉だからです。

心を刺され、ペテロのことばを神の言葉として受け入れた人々は悔い改め(向きを変え)、行列となってバプテスマ(洗礼)を受けました。その日3000人ほどが弟子に加えられたと聖書は記録しています。

神の言葉と聖霊が、にわか雨のように豊かに降り注ぐ時、そこに行列のできる教会ができるのです。にわか雨は予測できません。恵みの雨は神の主権の中で局地的に注がれます。しかし私たち教会が、十字架のもとに力を合わせ、祈りに専念するなら、神はこの地域にも、豊かに雨を降らせてくださるでしょう。