オアシスを見いだすために To find out OASIS in this world

砂漠が、荒野が、不毛の地が、この国に広がりつつある。しかし聖書は、あなたの造り主からの、あなたに対するラブレター、人生の北極星、羅針盤、コンパスだ。聖書を指針として生きるなら、あなたは必ず、憩いのオアシスを見いだすことできる。

もしあなたが、聖書に耳を傾け、その導きに従うならば、不信とあきらめ(静かな絶望)と無関心(愛の反対)に生きるのではなく、信仰と希望と愛に生きることができる。あなたの造り主(メーカー)は、あなたにとって何が最善なのかをご存知で、万事を益と変えてくださる。

聖書に耳を傾けることは聴く祈り。聴く祈りは願う祈りよりも大切。どうしても必要なただ一つのこと。

もうだめだと思う時に

もう一歩も先に進めないと思う時がある。
もうだめだと思う時がある。
もうこれ以上は頑張れないという時がある。
信じることに非常な困難を覚える時がある。
でも、苦しい時、試練は必ず過ぎ去る。

だから恐れないでただ信じ続けよう。
神がすべてのことを働かせて良いことに変えてくださるから。
信仰によって山をも動かすことができるから。
私たちの信じている神は、死者をよみがえらせることもできる方だから。

礼拝メッセージ「ノアの箱舟」

ノアの箱舟 Noah's ark

礼拝メッセージ「ノアの箱舟」(クリックで聴けます)

聖書箇所:創世記6章9−22節

あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。その幅は五十キュビト。その高さは三十キュビト。箱舟に天窓を作り、上部から一キュビト以内にそれを仕上げなさい。また、箱舟の戸口をその側面に設け、一階と二階と三階にそれを作りなさい。創世記6章14-16節

主なる神は、神とともに歩んでいたノアという人物に、巨大な箱舟を建造するように命じられ、上記のように詳細な設計図を示されました。

1キュビトとは、前腕、ひじから中指の先までの長さを表す単位です。1キュビト50センチとすると、ノアの箱舟の寸法は、長さ150メートル、幅25メートル、高さ15メートルでした。3階建てタンカーのようで、十分すぎるスペースがありました。

これだけのスケールの箱舟を建造するためには、少なくとも以下のようなものが必要でした。

1、時間が必要:約100年(創世記5章32節と7章11節参照)
2、費用が必要:おそらく全財産
3、労働力が必要:猫の手も借りたい状態
4、信仰が必要:神のことばに対する信頼が必要

ノアの箱舟は救いの箱舟です。新約時代に生かされている私たちにとって、救いの箱舟とは、主イエス・キリストの教会です。

映画「ミッション THE MISSION」

この映画の脚本は史実をもとに書かれているが、まず宗教改革以降の国外宣教という視点から見ると、プロテスタントよりも早い時期に、国外に宣教師を派遣したローマ・カトリック教会の素晴らしさを覚えた。

南米のイグアスの滝に、十字架に磔にされた宣教師が落ちていく場面から映画は始まる。

殉教者が起こされた故に、新たな宣教師が派遣されることになった。そして音楽の賜物が与えられていた後続宣教師によって、頑なであった現地のインディアンたちの心が開かれ、多くの人々がキリスト教に帰依していくことになった。ジャングルの中、武器を持った現地の人たちに取り囲まれた宣教師が、「ガブリエルのオーボエ」という曲を奏でた時、賛美の調べが人々の琴線に触れ、宣教の門が開かれていくシーンは感動的だった。

やがて宣教(ミッション)は目に見える形で大成功を収める。現地に教会堂が建てられ、抜群の音楽的センスを持つ現地の人々は、美しい声で神を賛美する者とされた。人々は勤勉に働き、少なからずの収益を得るようにもなっていった。

しかし、国と国との間に利権争いが起こり、宣教師の派遣母体であるイエスズ会も政治的理由から現地の教会を切り捨ててしまう。最終的に現地の教会、村の人々は、現地にとどまった宣教師たちと共に、武力、軍事力をもって虐殺されるに至る。

1755年、イグアスの滝上流に住むグァラニー・インディオたちがカアイパテの戦いでスペイン軍に滅ぼされた史実が脚色されて描かれる。その際、何人かの宣教師たちは武器をもって戦ったが、銃弾に倒れていった。しかし一人の宣教師は非暴力を貫き、武器ではなく十字架を掲げ、神を賛美しながら行進し、銃弾に倒れていった。

あなたが宣教師の立場であるなら、どういう行動に出るだろうか?もし私がそのような立場に立たせられたなら、人間的な怒りや憎しみに主の祈りをもって打ち勝ち、非暴力を貫きたいと心から願う。

病気になったら

病気になったら

病気になったら どんどん泣こう
痛くて眠れないといって泣き
手術がこわいといって涙ぐみ
死にたくないよといって めそめそしよう

恥も外聞もいらない
いつものやせ我慢や見えっぱりを捨て
かっこわるく涙をこぼそう
またとないチャンスをもらったのだ
自分の弱さと思いあがりを知るチャンスを

病気になったら おもいっきり甘えよう
あれが食べたいと言い
こうしてほしいと頼み
もうすこしそばにいてとお願いしよう
遠慮も気づかいもいらない

正直に わがままに自分をさらけだし
赤ん坊のようにみんなに甘えよう
またとないチャンスをもらったのだ
人の情けとまごころに触れるチャンスを

病気になったら 心ゆくまで感動しよう
食べられることがどれほどありがたいことか
歩けることがどんなにすばらしいことか
新しい朝を迎えるのがいかに尊いことか

忘れていた感謝の心を取りもどし
見過ごしていた当たり前のことに感動しよう
またとないチャンスをもらったのだ
この瞬間に自分が存在しているという神秘
いのちの不思議に感動するチャンスを

病気になったら すてきな友達をつくろう
同じ病を背負った仲間
日夜看病してくれる人
すぐに駆けつけてくれる友人たち
義理のことばも 儀礼の品もいらない

黙って手を握るだけですべてを分かち合える
あたたかい友達をつくろう
またとないチャンスをもらったのだ
神様がみんなを結んでくれるチャンスを

病気になったら 安心して祈ろう
天にむかって思いのすべてをぶちまけ
どうか助けてくださいと必死にすがり
深夜 ことばを失ってひざまずこう

このわたしを愛して生み慈しんで育て
いつかご自分のもとへ呼んでくださるお方に
すべてをゆだねて手を合わせよう
またとないチャンスをもらったのだ
まことの親である神に出会えるチャンスを

そしていつか 病気が治っても治らなくても
みんなみんな 流した涙の分だけ優しくなり
甘えとわがままをこえて自由になり

感動と感謝によって大きくなり
友達を増やして豊かになり
信じ続けて強くなり
祈りのうちに神の子になるだろう
病気になったら またとないチャンス到来
病のときは恵みのとき

晴佐久昌英 カトリック司祭