礼拝メッセージ「洗礼とは何か」ローマ14

礼拝メッセージ「洗礼とは何か」ローマ14(クリックで聴けます)

聖書箇所:ローマ人への手紙6章1ー14節

1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。ローマ人への手紙6章1-5節

自分に都合のいい解釈をしたい人間は、恵みが増し加わるために罪の中にとどまるべきだと主張します。それに対してパウロは、絶対にそんなことはないと反論し、洗礼(バプテスマ)とは何かを語ります。

キリストの死にあずかるバプテスマによって、私たちはキリストとともに葬られたのだとパウロは語ります。それは私たちが、キリストとともに復活し、新しい歩みをするためです。

礼拝メッセージ「罪をおおわれた人たちの幸い」ローマ9

礼拝メッセージ「罪をおおわれた人たちの幸い」ローマ9(クリックで聴けます)

聖書箇所:ローマ人への手紙4章1ー16節

それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」 ローマ4章1-8節

今年も受難週を迎えました。春を迎えるために厳しい寒さを通らなければならないように、イースター(復活祭)を迎えるためには、厳しい受難週を通らなければなりません。

同様に、あなたが罪をおおわれた人たちの幸いに至るには、あなたが自分の罪深さと無力さをごまかさずに認め、自分で自分を救えないことを素直に認め、神に降伏することがどうしても必要です。

何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、アブラハムやダビデのように、その信仰が義とみなされるのです。罪がおおわれるとは、神があなたの罪を完全に忘れてくださり、すべてなかったことにしてくださるという恵みです。

礼拝メッセージ「悪者と共に葬られた神 A grave with the wicked」

悪者と共に葬られた神 A grave with the wicked

礼拝メッセージ「悪者と共に葬られた神 A grave with the wicked」(クリックで聴けます)

聖書箇所:イザヤ53章7−9節

彼(イエス・キリスト)の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。イザヤ53章9節

今年もいよいよ受難週に入りました。聖書に記されているように、無罪のイエス・キリストが、私たちが受けるべき天罰を身代わりに受け、十字架で死なれたのが金曜日でした。それで受難週の金曜日は、「良い金曜日 GOOD FRIDAY」と呼ばれています。

東日本大震災が起こったのは、受難節に入ったばかりの3月11日金曜日14時46分でした。

イエス・キリストが十字架の上で息を引き取られたのは、金曜日の15時すぎでした(マタイ福音書27章等参照)。あらゆる苦難の中に十字架が立っています。

預言者イザヤは、上記のみことばのように、救い主の墓は悪者どもとともに設けられることを預言しました。しかし福音書には、まだだれも葬られたことのない新しい墓にイエス・キリストは埋葬されたと記録されています(ヨハネ福音書19章等参照)。

実に信仰のスタートラインであるバプテスマ(洗礼)においてこそ、預言者イザヤが預言した神の言葉は出来事になるのです。

「私たち(悪者ども)は、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。」ローマ書6章4節

礼拝メッセージ「偶像のむなしさ」

礼拝メッセージ「偶像のむなしさ」

聖書箇所:出エジプト記20章1ー17節

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。・・・それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。出エジプト20章4-6節

ある時私は、相手が浮気をしても怒らない人がいるのを知って大変驚きました。あなたの彼氏や彼女、あなたの伴侶が、あなた以外の人と親しくし、浮気をしていることを知ったら、あなたはどんな気持ちになるでしょうか?

その時あなたが本気で怒るとすれば、その反応こそが、あなたが相手を本気で愛しておられる証拠です。相手が浮気をしても怒らないということは、相手を愛していない証拠です。

結婚は人と人との契約ですが、十戒は主なる神とあなたとの契約です。結婚の誓いと同じように、十戒は誓いの言葉です。結婚の際に、「あなたは自由に浮気をしてもいいです」などと誓う人はいません。「どんな時にも、変わらない愛をもって、生涯あなただけを愛します」とお互いが誓うのです。

主なる神は本当にあなたを愛しておられるので、あなたが他の神々(偶像)と浮気をすれば、ねたみ、本気で怒られるのです。なぜなら浮気とは、相手を憎み、相手を裏切る行為だからです。

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