礼拝メッセージ「教会とは何か」

礼拝メッセージ「教会とは何か」

聖書箇所:使徒の働き20章28-38節

あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。使徒20章28節

「教会」とは何でしょうか?あなたは「教会」と聞いて何をイメージされるでしょうか?教会(チャーチ)とは、教会堂(チャペル)ではありません。単なる仲間(フェローシップ)でもありません。

教会形成という大切な働きを、しっかりと引き継いでもらうために、パウロは以下のような聖書に基づく教会観を持って、告別説教を語りました。

①教会とは、呼び集められた自分自身と群れの全体である。集まるための建物ではなく、信仰告白による共同体である。

②教会は、神ご自身の尊い血をもって買い取られた。故に、教会の所有者であり雇い主は、神である。

③教会は、様々な嵐の中に置かれる。

④教会は、みことばによって育成され、苦しみを通って栄光の御国を受け継ぐ。

⑤教会は、地上における神の国の前衛であり、労苦して弱い者を助け、与える幸いに生きる。

礼拝メッセージ「別行動」

礼拝メッセージ「別行動」

聖書箇所:使徒の働き15章36ー41節

そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。使徒15章39-40節

バルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネと一緒に、2回目の宣教旅行に出かけようとしました。ところがパウロは、1回目の宣教旅行において、途中でいなくなったような者は一緒に連れて行かないほうがよいと考えました。

それで激しいにらみ合いになり、結局互いに別行動をとることになりました。

パウロは即戦力と期待されるシラスという人物を選び、先に主のことばを伝えた町々を尋ね、諸教会を力づけました。バルナバは、パウロが見捨てたマルコを連れて、船でキプロスに渡って行きました。

別行動によって、同時並行的に教会形成、つまり人育てがなされていきました。

後にマルコは、イエス・キリストの福音をいち早くまとめ、福音書を執筆するほどの人物となりました。

バルナバのように、捨てられた者を拾い、決してあきらめずに私たちを育て上げてくださる神。それが私たちの主イエス・キリストです。

礼拝メッセージ「苦しみの意味」

礼拝メッセージ「苦しみの意味」

聖書箇所:使徒の働き14章19ー28節

弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言った。使徒14章22節

主イエス・キリストは、敵であった私たちのために重い十字架を背負い、身代わりに死んでくださいました。そのキリストは、「自分の十字架を負ってわたしについて来なさい。」と言われます。

実にキリストに従う歩みは、キリストの苦しみの欠けたところを満たす歩みです。キリストの愛に捕らえられて、自分の十字架を背負い、本気でキリストに従おうとするなら、苦しみに直面することは避けられません。

苦しむことが目的(ゴール)ではありません。しかし、苦しみを通して、神は私たちをイエス・キリストのように造り変えられるのです。

苦しみの意味は、キリストに従うことを通して、私たちがキリストのように変えられるというところにあります。それは私たち自身が、全世界の祝福の基として他者のために存在する教会となるためです。

福音宣教の使命に生きる教会として、ともに公同のキリストのからだである世界教会の、キリストを目指して成長していきましょう。

礼拝メッセージ「大風呂敷の幻」

礼拝メッセージ「大風呂敷の幻」

聖書箇所:使徒の働き11章1ー18節

すると、もう一度天から声がして、『神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。』というお答えがありました。こんなことが三回あって後、全部の物がまた天へ引き上げられました。使徒の働き11章9-10節

使徒たちやユダヤにいる兄弟たちは、異邦人たちも神のことばを受け入れた、ということを耳にしました。そこで割礼を受けた者たちは、エルサレムに戻ってきたペテロを非難しました。「あなたは割礼のない人々のところに行って、彼らといっしょに食事をした。」

それでペテロは、事の次第を順序正しく説明しました。海辺の町ヨッパで見た大風呂敷の幻。カイザリヤのコルネリオを尋ねるに至った経緯。コルネリオの家で起こった聖霊降臨の出来事。ペテロはそれらを丁寧に語り、こう締めくくりました。「こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」

人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。」と言って、神をほめたたえました。しかしこの問題は尾を引きます。

礼拝メッセージ「すべての人の主」

礼拝メッセージ「すべての人の主」

聖書箇所:使徒の働き10章24ー48節

「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。使徒の働き10章34-36節

ヨッパの海辺に滞在していたペテロは、使者たちと共にカイザリヤにあるコルネリオの家を尋ねました。ローマの軍人でありながら、敬虔な信仰者であったコルネリオは、家族だけでなく親族や親しい友人たちも呼び集めて、ペテロを待っていました。

出迎えたコルネリオは、ペテロの足もとにひれ伏して拝みました。ペテロは彼を起こして、「お立ちなさい。私もひとりの人間です。」と言いました。ペテロを招いた理由をコルネリオが語った時、ペテロは上記の言葉を語り始めました。

すべての人の主であるイエス・キリストについて、ペテロが語り続けていると、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊の賜物が注がれました。割礼を受けていない外国人たちが聖霊を受けたことに驚いたペテロは、「いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」と語り、イエス・キリストの御名によってバプテスマ(洗礼)を受けるように彼らに命じました。

礼拝メッセージ「海辺のペテロ」

礼拝メッセージ「海辺のペテロ」

聖書箇所:使徒の働き10章1ー23節

さあ今、ヨッパに人をやって、シモンという人を招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれています。この人は皮なめしのシモンという人の家に泊まっていますが、その家は海辺にあります。使徒の働き10章5-6節

広くて大きい海の近くに住めば、私たちの心が広くて大きくなるかというと、そうではありません。広くて大きい平野に住んでも、同じことでしょう。

私たち人間は、お互いに自己中心な物差しや、地元意識のような狭い心を持って生きています。

-実は、自己中心な物差しを持つことこそ、聖書が語る罪です。それは自分を基準とし、自分を神とする罪です。-

そしてお互いに、自分と他者をはかりあって生きています。そして「きよい」とか「きよくない」とか、「仲間」だとか「よそ者」だとか区別し、壁を設けます。同じ人間が、血筋や肌の色、学歴や肩書き等によって人を差別し、受け入れたり拒んだりします。

実は神の選びの民であるユダヤ人も、まさにそのような罪深さを持って生きていました。使徒ペテロでさえ、せまくて小さい心で生きていました。しかし主イエスは、不思議な夢と出会いを通して、ペテロの心を徐々に広く大きくされました。

礼拝メッセージ「歩く聖書」

礼拝メッセージ「歩く聖書」

聖書箇所:使徒の働き9章32ー43節

さて、ペテロはあらゆる所を巡回したが、ルダに住む聖徒たちのところへも下って行った。使徒の働き9章32節

ペテロは、歩く聖書とされて、魂の救いのために、豊かに用いられていきました。

ルダという所では、八年間中風を患い、寝たきりだったアイネヤをいやし、それを見た人々の魂を救いました。

ヨッパという所には、タビタ(ギリシヤ名ドルカス)という女の弟子がいました。彼女は、多くの良いわざと施しをしていましたが、病気になって死にました。しかしペテロは、ひざまずいて祈ることによって、彼女を生き返らせ、生きている彼女を人々に見せたのです。このことがヨッパ中に知れ渡り、それを見た多くの人々の魂が救われました。

危機の時代に生かされている私たちも、主イエス・キリストを信頼して受け入れ、聖書のみことばを実生活に適用して生きるなら、歩く聖書とされます。

その時私たちは、「魂の救い」と「弟子作り」という教会の存在目的のために、豊かに用いられます。実に、「魂の救い」と「弟子作り」こそ、奇跡の中の奇跡です。