北森嘉蔵とカール・バルト

Tue, 06 Mar 2007 09:26:55 JST (3703d)

北森嘉蔵師の「神の痛みの神学」についてですが、 狭義の福音主義者アリスター・マグラス師、ルーテル教会の牧師であった宮本威師らは非常に高く評価しています。

私も最初は非常に傾倒しました。でも、卒論で取り上げさせて頂いた様に、今は評価出来る点と共に、深刻な課題点もあることを覚えています。

日本のキリスト者たちがなぜ、戦時下において、神の言葉としての聖書に聞き従うことが出来なかったのか?

日本のキリスト者たちがなぜ、戦後においても、罪責告白に立った真の聖書信仰に生きる(現実の生活において神の言葉である聖書に聞き従う)ことが出来ないのか?

実は北森嘉蔵師の「神の痛みの神学」の中に、それらの原因を見ることが出来ます。

戦時下、日本政府によって教団・教派が束ねられ、日本基督教団なるものが作られました。

この中には日本同盟基督教団をはじめ、いわゆる狭義の福音派の諸教団や諸教派も含まれていました。

一つに束ねられた戦時下の日本の諸教会は、国家神道のナショナリズムに対して信仰の歯止めを外し、抵抗出来ませんでした。

神の言葉としての聖書に聞き従うのではなく、神社参拝は宗教ではないという日本政府の声に聞き従い、日本基督教団教団統理者であった富田満氏は、伊勢神宮に参拝しました。

そして、日本のほとんどの教会で、神社参拝や天皇礼拝が行われました。

また、アジア諸国の教会に対しては、『日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書翰』を公的に発信し、アジア諸国のキリスト者にも神社参拝を強要しました。

カール・バルト師の問題点は、ウィリアム・スティル師の本の中にもあるように、「聖書そのものを書き記された神の言葉と告白しない」という点にあります。

この点において、バルトはリベラルだというレッテルが貼られ、狭義の福音主義に立つ方々は、バルトの本を読もうともしない方がほとんどだと覚えます。

ところがバルトは、同じ戦時下において、日本の諸教会とは対照的に、ナショナリズムに傾いてヒットラーに盲従する諸教会に対して、「それは違う!」と叫び、神の言葉であるイエス・キリストにだけ聞き従うようにと呼びかけ、信仰の戦いを勇敢に戦った人物なのです。

沖縄に住んでおられるのなら、まず以下の本をお勧めします。そしてその上で、私の卒論PainofGodを参考にしながら、神の痛みの神学を読まれることをお勧めします。

21世紀ブックレット「沖縄は問いかける」 信州夏期講座編 いのちのことば社 1999年

もくじ

はじめに 小寺肇

沖縄から日本の宣教史を再考する 渡辺信夫

沖縄から… 島田善次

アジア的視点・世界的視点から見た日本 油井義昭

沖縄問題とは何か 登家勝也

この本の要旨を以下に記します。

沖縄の人たちは、よく知っている。 今なお教育改革という名のもとに、国家が知らず知らずのうちに実施している教育は、 皇民化教育、つまり天皇のために死ぬ国民を育てる教育であることを。 そこにはいつも日の丸と君が代があることを。

沖縄の人たちは、よく知っている。 天皇制こそ無責任な日本人の原点であることを。

沖縄の人たちは、よく知っている。 「愛国心」という言葉がペテンの言葉であることを。

沖縄の人たちは、よく知っている。 「国家・公あっての個人」ではなく、「個人あっての国家・公」であることを。

沖縄の人たちは、よく知っている。 「民族」はエゴであることを。

沖縄の人たちは、よく知っている。 平和憲法が空洞化していることを。

沖縄の人たちは、よく知っている。 天皇制とは死であり、戦争の地獄であることを。

沖縄の人たちは、よく知っている。 天皇元首化と靖国神社こそ、死のためのイデオロギーであることを。

沖縄の人たちは、よく知っている。 私たちの政治的無知、現実放棄が全体主義国家を生み出していることを。

沖縄の人たちは、よく知っている。 天皇制に歯が立たない神学ではだめだということを。

PainofGod