日記/2007-02-16

Sat, 17 Feb 2007 00:13:06 JST (3752d)

日記

共に生きる生活」byボンヘッファー

『交わりの中で、ひとりが他の人に対して負っている第一の奉仕は<他の人の言葉に耳を傾ける>ということである。神への愛は、われわれが神の言葉を聞くことから始まるように、兄弟への愛の始まりは、われわれが兄弟の言葉を聞くことを学ぶことである。神がわれわれに、ただそのみ言葉を与えて下さるだけでなく、われわれにその耳を貸して下さるのは、われわれに対する神の愛である。だから、われわれが、兄弟に聞くことを学ぶ時、われわれが兄弟に対してなすことは、神のわざである。キリスト者、特に説教者は、他の人たちと共にいる時に、常に何かを「提供し」なければならない、そしてそれが彼らの唯一の奉仕である、と考えがちである。彼らは、<語ることよりも、聞くことの方が、より大きな奉仕でありうる>ということを忘れているのである。多くの人たちが、聞いてくれる耳を求めている。そして彼らは、その耳をキリスト者の中に見出さない。なぜなら、キリスト者は、聞いて上げなければならないところでも、自分で語ってしまうからである。しかし、もはやその兄弟に聞こうとしない者は、やがてまた神にも聞かなくなり、神のみ前においても、いつもただ語るだけの人になってしまうであろう。ここに霊的生活の死が始まり、遂には、敬虔な言葉に窒息させられた霊的なおしゃべり、坊主くさい低い物腰だけが残るのである。…』

教会と宣教双書2 共に生きる生活 ボンヘッファー著

森野善右衛門訳、新教出版社、1975年、p95−96

ディートリッヒ・ボンヘッファー:ヒットラー、反ユダヤ主義、ナショナリズム的キリスト教と闘ったドイツ告白教会牧師。

聴く祈りから的を射た祈りへ

耳が二つで口は一つの理由。

どんなに熱心であっても、もし的外れなことをしていたら、とても残念。

熱心に、しかも的を射た人生を生きるために、どうしても必要なこと。

それが聴く祈り。御言葉に耳を傾けて聴く祈り。

主の祈りと罪人の祈り

主の祈り=神中心の祈り=的を射た祈り=義人の祈り=罪人にとっては不自然な祈り

自己中心の祈り=的外れな祈り=罪人の祈り=罪人にとっては自然な祈り