徒然読書放浪記

Mon, 16 Jun 2008 00:12:17 JST (3270d)

『キリスト教の霊性』著者 A.E.マグラス 教文館

原題はChristian Spirituality: An Introdaction。スピリチュアリティに非常な関心が持たれている現代において、とても興味深い一冊です。

『非戦論』著者 富岡幸一郎 NTT出版

『命の泉を掘りあてる』著者 水谷惠信 キリスト新聞社

『手渡そう子どもに生きる力−北海道余市<恵泉塾>での体験から』著者 水谷惠信 キリスト新聞社

『受肉者イエス その生涯と教え』著者 J.S.ステュアート 椿憲一郎訳 新教出版社 

『宣教のパラダイム転換』著者 ディビッド・ボッシュ 翻訳 東京ミッション研究所  (新教出版社)

難しそうな本の題名に抵抗感を持ってしまい、なかなか読めませんでした。2分冊という分量と、2冊を買うと1万円を超えてしまうということも大きな障害でした。それで、借りて読んでみることにしました。読んでみると、そのおもしろさ(!)に驚きました。スピーディーな展開や感動のラストなど、誤解を恐れずに言えば、並の小説以上のおもしろさがありました。

この本を読んでみて、プロテスタントの信仰を持っている私(しおくん)は、カトリック教会や正教会、はたまた自分の所属する教団以外の教派に対する偏見が、表面に出ては来ませんけれども、確かに「持っている」ということに気付かされました。

さらにこの本は、教団を超えて翻訳がなされています。各章を色々な先生が担当をして、翻訳されています。この本の内容とは直接関係ないことですが、こういったことも私にとっては一つの驚きでした。共に作り上げていくことは、決して不可能ではないんだとということに気付かされました。それは、本から得られられたものとはまた違った種類の感動でもありました。機会がありましたら、一読をおすすめします。(しおくん)

(以下野町より)

デイビッド・J・ボッシュについて

彼は世界教会会議会(WCC)からも、世界福音同盟(WEF)やローザンヌ世界宣教継続委員会からも尊敬されている「橋渡しをする人」であったそうです。私もいろんな意味で「橋渡しをする人」になりたいです。ちなみに上記の本、『宣教のパラダイム転換』は上だけ買っていますが、本棚に眠ってました。見つけ出しましたので、時間を作って読んでみますね。

『死刑執行人サンソン』 著者 安達正勝 (集英社新書)

歴史の苦手な僕ですが、本のタイトルにやられてしまい、手に取りました。 シャルル・アンリ・サンソンについて書かれています。彼は、ルイ16世の処刑に関わった人物だそうです。またサンソンは、敬虔なカトリック教徒だったようです。死刑執行人であって、カトリックの敬虔な信者・・・そのように生きていくことが、一体どのようなものであったのか、僕には想像すら出来ません。

フランスの歴史だけでなく、死刑制度についても考えさせられました。 色々な意味で、考えさせられる本でした。 すごく読みやすいのが良かったです。(しおくん)

『絶滅していく言語を救うために』 著者 クロード・アジージェ (白水社)

これもそうなのですが、やはり、本のタイトルにやられてしまいました。最初の序文を立ち読みして(もちろん図書館で)、完全にノックアウトされました。少し引用してみます。

「あなたはこの恐るべき事実に目を向けたことがあるだろうか。そう、平均して毎年約25の言語が死んでいくこと、せめてこのことだけでも知っているだろうか。現在、世界にはおよそ5000の言語が話されている。ところが、現在の状態がこのまま続くならば、今日現存する言語の半分は死に絶えることになるのだ。」

ちょっとセンセーショナルな書き出しですが、僕のような読者を引き込むには十分すぎるほどでした。内容も、かなり面白かったです。なかでも、ヘブライ語がいかにしてよみがえったかについて書かれた箇所は、非常に良くまとまっていてわかりやすかったです。 ヘブライ語は、聖書とも大いに関係していますよね。とてもよくまとまっているので、すごく参考になると思います。

言葉を大切にすること。それは人間を大切にすることなんだなー、と思わされました。

映画「パッション」(PASSION)を見ました。驚いたことは、台詞が英語なのではなく、字幕が英語だったことです。今はもう使われなくなって久しい言葉がこのようにして映画のなかで生き生きと力を持っていることに驚くと共に、この本のことを思い出しました。(しおくん)

  • 聖書翻訳の働きについて

野町です。 以下、日本ウィクリフ聖書翻訳協会(Wycliffe Bible Translators in Japan)のサイトより引用させて頂きます。

現在、聖書が訳されている言語は、2212言語です。また、現在聖書翻訳プロジェクトが1500以上の言語で推進されています。そのプロジェクトの多くは現地の人々によって推進されています。しかし、4.4億人以上の人々は自分の母語で聖書を手にすることができません。

世界の言語6800のうち、約3100言語は、聖書の翻訳があるかプロジェクトがスタートしています。残りの3700言語は、聖書翻訳を必要としているか、調査が必要で、まだ翻訳が必要かどうか確定していない言語です。

いつ世界のすべての人々は母語で聖書を持つようになるでしょうか。今までのペースで行くと、後150年はかかります。速いペースで頑張っても、100年はかかります。しかし、この10年新人メンバーが減り、高齢化し退職するメンバーが増え、 全体としては約6000人のレベルで留まっています。

現在のペースで行くと、あと約3000の言語に聖書を翻訳する働きが終了するまでに150年かかる計算になります。今まで2000年間待っても、少数民族の所には福音が届いていません。 待ちくたびれています。ビジョン2025は、少しでも早く聖書を全ての人々に届けたいという切なる祈りの表現です。

http://www.wycliffejapan.org/vision/

THE PURPOSE DRIVEN LIFE(WARREN)

天よりの声 ヒロシマ・被爆二年目の手記

末包敏夫編

日本YMCA同盟出版部 1983年6月10日 第1刷発行

…とくに、日支事変以来のことであるが、国家が、キリスト教の神観と、キリスト教倫理の超民族的超国家的性格を問題とし、キリスト教に対する思想的、あるいは直接的弾圧がはげしかった。日本のキリスト教界は、純なる愛国的動機からそのような態度に出たのであろうが、いかにして国家の要望するものに応じうるかを発見するのに腐心し、いわゆる、日本的キリスト教の樹立への神学的探求労作が行われてきたのである。これはキリスト教信仰の最後的のものを断固として守りぬくとともに、心の向かうところは、なんとかして、国家の要求と相一致する領域を見出したいとの願いをもち、主張すべきものを明確に主張するというよりも、第一の関心はどこまでも主張せずに置いて、国家の要求に応じうるかということを発見するにあった。

このように、われわれの当然主張すべきものを、明確に主張しなかったことは、たとえ事態の真相を知らされていなかったためとはいいながら、今や、痛烈に、神の前に責任を問われることになった。もしも日本のキリスト教徒が、終戦後の今日のような考えに、戦時中も、断固として立ち、わが身を犠牲の祭壇にささぐる覚悟をもって、戦争反対と、世界平和のために行動していたならば、あるいは、広島数十万の人々が、死し、また傷つかずに済んだかもしれぬと思い、深い責任を感ぜざるをえない。…

(広島キリスト教会牧師 木村文太郎師の寄稿文「つぐないの道」より引用)

日韓の歴史のはざまにて−韓国元老牧師たちの証言

安載禎 編著

韓国教会元老牧師手記編纂委員会 2000年4月15日 第一刷

発売 プレイズ出版

本書は私たちに加害者としての自覚と、同じ日本民族としての深刻な認罪の思いに目覚めさせ、悔い改めと執り成しの祭壇に跪かしめるでしょう(エズラ・ネヘミヤ・ダニエル書の各9章参照)。このことは日本の全国的リバイバルに先行しなければなりません。 …日本の多くの牧師・信徒の方々が本書をお読み下さることにより、悔い改め運動が拡散し、リバイバルの障害が取り除かれ(歴代誌下7:14) 、愛する祖国日本の福音化に大きく道が開かれて、一日も早く全国の津々浦々にリバイバルの慈雨が降り注がれるようになることを確信し、隣国より切にお祈り致しております。

(ソウル日本人教会牧師 吉田耕三師の推薦のことばより引用)

牧会者の神学

Working the Angles-The Shape of Pastoral Integrity

E・H・ピーターソン著 越川弘英訳

日本基督教団出版局

牧師の本来的な働き

日の丸は紅い泪に <第七三一部隊員告白記>

越定男 著(元関東軍第七三一部隊第三部本部付運輸班員)

教育史料出版会 1983年8月15日 第1刷発行

…今まで戦後の三十数年は、沈黙を至上のことと考えてきたが、今や私は語らねばならないと思う。なぜなら、三十数年を経た今日でも、未だこの世に戦争の起きる危険性が存在し、時にそのカマ首をもたげようとしている。そしてひとたび戦争が起これば、またあの忌しき七三一の亡霊が眠りをさますかもしれないからである。 歴史の空白を埋める作業こそが二度と戦争をおこさない道につながることだと信じる。…もう「日の丸」のうたを歌わないために、私は、これから、ありのままを話したい。

(序 私はもう「日の丸」のうたを歌わない より)

戦時下の日本が、日の丸・君が代のもとに、どれほどの暴虐を行ったのかが、生き証人としての著者たちによって書き記されています。

この本には、日本人が同じ人間をマルタと呼び、まるでマウスやモルモットのように、おぞましい生体実験のための材料とした過去が記されています。

著者はマルタと呼ばれる中国人やロシア人たちにとって、まさに死への強制連行人として生きたことを証言しています。

ハルピン付近で密かに行動した七三一部隊によって、ペスト米、ペストのみをはじめとする細菌兵器の実験台として、また、ガス実験の標本として、生きたまま解剖され、多くの人間が生き地獄の中で殺されていった事実が記されています。

それらはすべて、子どもの頃から教育によって植え付けられた、日本民族優越感に基ずく愛国心によるものだと著者は記しています。

THE PURPOSE DRIVEN CHURCH(WARREN)

邦題:健康な教会への鍵

リック・ウォレン著 河野勇一訳編

いのちのことば社 1998年

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この本の原題は「目的によって導かれる教会」というような意味である。

すべての教会は、何らかの力によって主導されている(ドライブされている)。

伝統に主導される教会、個人に主導される教会、財政に主導される教会、プログラムに主導される教会、建物に主導される教会、行事に主導される教会、求道者に主導される教会などなど…。

この本は聖書的な教会のモデルとして、新約聖書が示す5つの目的によって主導される教会を提示している。

じっくり読めば、聖書的でバランスのとれた、組織的な教会成長論が提示されている。教会はバランスのとれた健康状態であれば、自ずから成長する主のからだである。

21世紀ブックレット 沖縄は問いかける

信州夏期講座編

いのちのことば社 1999年

もくじ

  • はじめに 小寺肇
  • 沖縄から日本の宣教史を再考する 渡辺信夫
  • 沖縄から… 島田善次
  • アジア的視点・世界的視点から見た日本 油井義昭
  • 沖縄問題とは何か 登家勝也

沖縄の人たちは、よく知っている。今なお教育改革という名のもとに、国家が知らず知らずのうちに実施している教育は、皇民化教育、つまり天皇のために死ぬ国民を育てる教育であることを。そこにはいつも日の丸と君が代があることを。

沖縄の人たちは、よく知っている。天皇制こそ無責任な日本人の原点であることを。

沖縄の人たちは、よく知っている。「愛国心」という言葉がペテンの言葉であることを。

沖縄の人たちは、よく知っている。「国家・公あっての個人」ではなく、「個人あっての国家・公」であることを。

沖縄の人たちは、よく知っている。「民族」はエゴであることを。

沖縄の人たちは、よく知っている。平和憲法が空洞化していることを。

沖縄の人たちは、よく知っている。天皇制とは死であり、戦争の地獄であることを。

沖縄の人たちは、よく知っている。天皇元首化と靖国神社こそ、死のためのイデオロギーであることを。

沖縄の人たちは、よく知っている。私たちの政治的無知、現実放棄が全体主義国家を生み出していることを。

沖縄の人たちは、よく知っている。天皇制に歯が立たない神学ではだめだということを。

荒れ野の40年−ヴァイツゼッカー大統領演説全文 

岩波ブックレットNO.55

リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー 永井清彦訳

岩波書店 1986年

…問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。 ユダヤ民族は今も心に刻み、これからも常に心に刻みつづけるでありましょう。われわれは人間として心からの和解を求めております。

まさしくこのためにこそ、心に刻むことなしに和解はありえない、という一事を理解せねばならぬのです。何百万人もの死を心に刻むことは世界のユダヤ人一人一人の内面の一部なのでありますが、これはあのような恐怖を人びとが忘れることはできない、というだけの理由からではありません。心に刻むというのはユダヤの信仰の本質だからでもあるのです。 … (本文より)

ドイツの敗戦40周年にあたる1985年の5月8日、ドイツ連邦共和国のリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領は、連邦会議で「荒れ野の40年」という演説を行なった。

このブックレットには、その全文が紹介されている。

日本がアジア諸国と和解をしていくために必要なこと。また、全世界の民族が、互いに和解をしていくために必要なことが、この演説の中にある。

同時代としての戦後

大江健三郎著

講談社文庫 1976年

新しい「戦前」が、重く、制禦しがたく、苦しく、時代によって懐胎されていると告げる声が起こっている。しかし、よく「戦後」を記憶し、それをみずからの存在のなかに生かしつづけている者のみが、もっともよく新しい「戦前」を感知するであろう。 …われわれの前には、戦後文学者と呼ばれた作家たちの、現にこの時代にかかわりつづけながらの活動がある。 かれらに冠せられた戦後文学者という名は、およそ近代以来の、わが国の文学的造語のうち、もっとも充実した意味内容をもつ言葉であろう。それは、個人の恣意や、集団の政治がつくりだした言葉ではなかった。 時代そのものが、この言葉をつくったのである。

戦後文学者たちは、新しい時代にむけて、その仕事をはじめた。しかも、かれらはことごとく、ひとつの終末観的ヴィジョン・黙示録的認識を、その存在の核心においているように感じられる。それはいま、新しい「戦前」の凶々しいものをはらんだ微光に照して、その全体が、かならずしもくっきりと浮びあがるというのではないが、しかしそれがそこに実在することは、疑いようがないと思える。それらの存在の芯をつらぬくようにして、僕は、同時代としての「戦後」をとらえなおすことをしたい。われわれの時代を明日にむけて新しくとらえることをしたい。(前書きより)

この本では、以下のような戦後文学者の生き様が論じられている。

野間宏、大岡昇平、埴谷雄高、武田泰淳、堀田善衛、木下順二、椎名麟三、長谷川四郎、島尾敏雄、森有正…。

大江氏はこれらの戦後文学者の仕事を見つめることにより、同時代としての「戦後」をとらえなおすこと、われわれの時代を明日にむけて新しくとらえることを試みている。

彼らが身をもって味わったことは、「人間の歴史において<戦後>は常に<戦前>でしか有り得なかった。」という事実であった。

この本は大江健三郎氏によって、1976年に出版されている。しかし今日においてこそ、その深い洞察にもとづく警鐘が聞かれなければならないと私は思う。

日本伝道百年史

バラ・マカルピン宣教記念誌発刊編集委員会

つのぶえ社(1978年)

この本を読んで、最も心の内に残ったものは、3代に亘るバラ・マカルピン宣教師の日本伝道に対する燃えるような宣教スピリットである。とても心が燃やされ、これからの伝道者としての生き方の一つの良き見本であると受け止めた。

また、ある伝道師の先輩が私にアドバイスして下さった、「伝道者は伝道することによってのみ、人々から尊敬を受ける」という言葉を思い出し、改めて心に刻むことが出来た。

教会が偏見と誤解の中で信頼をかちえて、土着の人々の入信がなされていった理由は、これらの宣教師たちが、よき信仰とよき生活の証しに生きられたと言うことに尽きると思う。

しかし、見えるものの度合いによってキリストへの信仰の軽重を量る世俗主義や天皇を主とする国家主義に、いつしか支配された日本のキリスト教会の姿をも見ることが出来た。

その中で、異国の宣教師たちは名利を捨て、ただ主のために黙々と農山村の人々を相手に宣教の業に励んだ。

そのような宣教師たちに心を開いて、福音に接した多くの人々は、農村に根付いて教会建設の土台となった。

私は高知県で生まれ育った。そして91年春から豊橋に移り住んでいる。豊橋に在住しながら、4年間は名古屋の東海聖書神学塾に週3回、名鉄と市電を乗りついで片道1時間40分かかる距離を通った。

高知、豊橋、名古屋。いずれの土地における宣教も、この本の中に多くの紙面を割いて書かれてあった。そして私の郷里において、かつて伝道集会に1000人の聴衆が集まり、600名を越す教会が建てられていたという事実は、私にとって大きな励ましとなった。

現代社会は、かって宣教師たちが宣教した時代とは比べ物にならないほど、交通機関、通信網が地球規模で整備されている。

遣わされた場所で、マイチャーチ主義、教団主義ではない、教団教派を超えた、世界を視野に入れた宣教をし続ける伝道生涯を歩んでいきたい。

塩狩峠

イエスの御名で−聖書的リーダーシップを求めて

ヘンリ・ナーウェン著 後藤敏夫訳

あめんどう(1993年)791円+税

ヘンリ・ナーウェンはかつてハーバード大学の神学部教授として活躍し、人々から賞賛を得ていた。しかし彼は、祈りのうちにハーバード大学でのアカデミックな生活を捨て、カナダのトロントにあるラルシュ共同体の司祭となる。

ラルシュでの生活を通して、自らの過去が、いかに能力を誇示し、人々の歓心を集め、権力を手にしようとする欲求に影響されていたかを知る。

すでに召されたヘンリ・ナーウェンによる、21世紀におけるクリスチャン・リーダーシップについての豊かな洞察と指針がこの本にはある。

「神学」という言葉の本来の意味は、「祈りにおいて神と結ばれる」ということなども改めて教えられる良書である。

http://shinrinomachi.at.infoseek.co.jp/ttsob1.html

世界がもし100人の村だったら

If the world were a village of 100 people

池田香代子 再話

C.ダグラス・スミス 対訳

マガジンハウス(2001年)

私たちが住んでいるこの世界には、63億人の人が住んでいる。もしそれを100人の村に縮めるとどうなるか…。インターネットで世界中を駆けめぐった話題のeメールが、本となって出版された。

52人が女性で、48人が男性。30人が子どもで70人が大人(内7人がお年寄り)… 。

61人がアジア人、13人がアフリカ人、13人が南北アメリカ人、12人がヨーロッパ人、あとは南太平洋地域の人…。

20人は栄養がじゅうぶんではなく、1人は死にそうなほど。でも15人は太り過ぎ…。

村人のうち、1人が大学の教育を受け、2人がコンピューターを持っている。けれど、14人は文字が読めない。

…などなど。

世界の中の、アジアの中の日本にいる村人の1人として、自分がいかに豊かさの中に生かされているかを覚えさせられる一冊である。

豊かさそのものは神様からの祝福であって罪ではない。神を神とせず、神に感謝もできない生き方、自分さえよければ他の人はどうなってもかまわないという自己中心な生き方が罪なのである。

自分のためだけに時間とお金と能力、そして他者を使うならば、孤独とむなしさと罪責感がつきまとう。

しかし聖書には、私たち人間が自己中心、エゴから解放されて、他者とともに、そして他者のために、感謝をもって生きていくことができるようにされるという喜びの福音がある。

失敗学のすすめ

畑村洋太郎著

講談社(2000年)

この本は、以前から教えられていることを、改めて考えさせられる本だ。

最近注目されているものは何か?それは成功学ではなく失敗学!

なぜか?(失敗学が注目されている理由)

もし失敗の経験から学ぶことをしなければ、 同じ過ちを何度でも犯し、成長がない。 けれどももし失敗から学ぼうとするならば、少なくとも同じ過ちを犯すことから守られ、成長する。失敗から学ぶということは、なぜ失敗したのかという原因を追求し、それに対処しながら生きること。自分の失敗から学ぶことも大切であるが、他人の失敗から学ぶことも、とても大切。

改めて聖書に耳を傾けると、聖書は失敗学のテキストで満ちている。創世記2章以降は、人間の失敗の連続の歴史が記されているといっても過言でない。

サタンの誘惑に負け、 善悪の知識の木の実を取って食べた(神を神としない) という大失敗。

神ではなく自分の知恵や力に頼ることによる失敗。

自分に栄光を帰したいという誘惑に負ける失敗などなど。

牧会伝道・教会形成において、時に牧師・伝道師も失敗を犯す。あるいはキリスト者・教会の歩みにも様々な失敗がある。

しかし聖書は、決して失敗なさらない神が、私たちと共に歩んで下さっていることを語っている。取り返しのつかない失敗を犯した者に、やり直しの機会を与えて下さる神。失敗を益に(マイナスをプラスに)変えて下さる救い主なる神。そのお方こそ、私たちのすべての罪過のために身代わりに十字架について下さったお方。 その御名は、Jesus

成功談を聞いても、慰めを受けることはほとんどないが、失敗談には慰めとやり直すことが出来るという福音がある。

レフトビハインド

ティム・ラヘイ/ジェリ−・ジェンキンズ著

上野五男訳

フォレストブックス(2002年)

「とても単純なことなんです。神はわたしたちのために簡単にしてくださったんです。だからといって霊的な行ないは抜きにするとか、自分に都合のいいところだけを選んでいいというわけじゃありません。私の犯したまちがいは、それだったんですけどね。けれども、わたしたちが真理を知ってそれに従えば、神は決してわたしたちをお見捨てになりません。」(本文より)

この本は、「いかさまクリスチャンには救いがない!救いのチャンスはいつまでも続くわけではない(いつ死ぬか、いつ主が再臨なさるかわからないので)!悔い改めてイエス・キリストの福音を信じなければ良い行いをしていても救いがない!」 という目をさますメッセージによって、悔い改めさせられる良書です。

【隠された】十字架の国・日本−逆説の古代史

ケン・ジョセフ シニア&ジュニア著

徳間書店

しばらく前、ある青年が私にこのようなことを尋ねた。「日本にキリスト教が伝わったのは1549年ですよね。じゃあそれまでイエス様のことを知らずに生きていた日本人はどうなったんでしょうかねー。」 と。

キリスト教を最初に日本に伝えたのはフランシスコ・ザビエルであって、それは1549年(「いごよく」広まったなどど語呂合わせで私は覚えている)のことである。これが、日本で通説とされている歴史である。

しかしこの本を読むと、「本当にそうだろうか?」という疑問とともに、その一つの答えがある。

かつてアジア大陸を横断するかたちで、シルクロードと呼ばれる道が西アジアから日本にまで伸びていた。そのシルクロードを通して、はるばる日本の京都や奈良にまでやってきた人々によって、日本には昔から様々な国の人々との国際交流があった。そしてその交流の中で、文化や様々なものと一緒に、キリスト教も伝えられていた。ザビエルよりもはるか以前から、キリスト教は日本に伝わっていて、その文化的影響が日本に色濃く残っている。そう考えるのに何の無理もない。

著者たちはこの本を通して、アッシリア人である自らのルーツと日本人のルーツを探っている。彼らは日本人は単一民族ではなく、多民族国家であると結論づけている。最近の遺伝子情報もそのことを支持しているという情報もある。また、仏教や神道の中に見られるユニークな聖書の思想と神観、全国に存在するキリシタン遺跡などがそれを支持している。

聖書を見ると、すべての人類、すべての民族のルーツはアダムとエバに辿り着く。 またバベルの塔によって人種がわかれていった地こそ西アジア、中近東の地域である。

そこからヨーロッパに向かっては白色人種(コーカソイド)が、アフリカに向かっては黒色人種(二グロイド)が、そしてアジアに向かっては黄色人種(モンゴロイド)が主に移り住んでいった。

黄色人種だけではなく、白い人たちや褐色の人たちの血も日本人には流れている。 彼らはシルクロードを通って渡来し、帰化した日本人のルーツである。そう考えるのに何の無理もない。

日本は今、先進国の中で、唯一人殺しの武器を外国に輸出していない唯一の国である。そして、日本人は今、世界中を訪れている。この日本という国が、聖書が示す平和をつくる者(ピースメーカ)として、戦争が起こる前に予防外交(PDO:Preventive Diplomacy Operations)をする国であってほしい!私は著者らと共に、切にそう願う。

パンドラの箱−ものみの塔に幽閉された人々のために

中澤啓介著

新世界訳研究会

「ものみの塔という宗教団体、およびエホバの証人と呼ばれる人々についてどのように考えたらよいのか。」 本書は、この問題を明らかにしている。このテーマは、日本人のすべてが知っておかなければならない。なぜなら、日本中のどこに住んでいても、2、3週間に一度の割合で、エホバの証人たちの訪問を受けるからである。…前書きより引用

良心の危機−「エホバの証人」組織中枢での葛藤

Crisis of Conscience by Raymond Franz

レイモンド・フランズ著 樋口久訳

せせらぎ出版(http://www.seseragi-s.com/

2001年 定価 3,800円+税

http://www.sala.or.jp/%7Ethosana/raymondfranz.html

放蕩息子の帰郷−父の家に立ち返る物語

The Return of the Prodigal Son(1992)

by Henri J. M. Nouwen

ヘンリ・ナーウェン著 片岡伸光訳

あめんどう(2003年) 2000円+税

ナウエンの著作の中でも最高傑作と言われる本が日本語に翻訳され、出版された。

晩年のレンブラントの描いた絵と、聖書の御言葉に導かれた黙想の中で、父となることに召されている苦悩する一人の人間の、魂の遍歴に触れることが出来る良書です。

http://shinrinomachi.at.infoseek.co.jp/prodigalson.html

『性差別と神の語りかけ フェミニスト神学の試み』 R=R.リューサー(新教出版社)

フェミニスト神学に興味があったので、べつの本で、この本が紹介されていたので手に取ってみました。色々な意味で刺激になりました。性差別について、思い当たる節があり、読んでいてすごく痛かったです。エコロジー的なところが多分にあり、こんな事を言うと間違いかもしれませんが、それが何となく郷愁を感じさせました。

『罪は、常に制度的側面同様、私的側面を持っている。しかし、決して「個人的」なものとしてのみ存在することはない。関係性のない悪はない。罪は自分自身との関係性も含む、関係の歪曲のなかにまさに存在するのである。これらのまさに私的な行為でさえ、制度的、歴史的、社会的文脈のなかで起こる』という指摘は、なるほどなー、と頷かされました。今の教会では、極端に個人の罪が強調されるきらいがないか、そんなふうに漠然と考えていたので、余計にそう思ったのかもしれません。(異論はあることと思いますが)

「しかし、この制度(性差別)は、神や堕落した天使の創造したものではなく人間の造ったものである。私たちがそれを造ったのだ。私たちが協力することで広めているのだ」という指摘には、胸を刺されました。クリスチャンとして、男性として、これからのことについて考えさせられました。(しおくん)

『網状言論F改』 東浩紀編集 (青土社)

東さんは、僕が好きな作家(?)のひとりです。東さんの言っていることは難しくて、よく分からないのですが、それでもその著作からは目が離せません。本の内容は、ほとんどが対談集になっています。いろんな分野の方々が話しあう、すごく刺激的な内容だと思います。クリスチャンの間でも、このような議論が出来たらすばらしいだろうなー、と夢を持ちました。サブタイトルに、ポストモダン・オタク・セクシュアリティとありますが、まさにそれらのことについて、熱い議論が展開されます。セクシュアリティの問題などは、クリスチャンにとっては禁忌ともいえる話題ですが(異論はあると思います)、こういったことを真っ正面から真剣に取り上げています。たとえば、こんな事が書いてありました。

『私たちのチップには、私たちの属する文化によって、「裸=エロチック」と書き込まれている・・・このデフォルトな欲望の記述をエロスの正当とし、それ以外の記述をバグとみなし、異端や変態や逸脱と呼んできたのが、これまでの社会規範である。もちろん、多少なりと物を考えたことがある人ならば「そんな物は制度だ」とか「幻想にすぎない」とか鼻で笑うだろう。ところが笑っているご本人たちが(私も含めてだが)その幻想に骨の髄まで縛れていることもまた事実である。・・・』

欲望を罪として回避し、そこから救われるように、きよめられるように言われてきました。また、自分もそのようにしてきたつもりです。しかし今振り返ってみて、そこに慰めがあったかといえば、僕は考えてしまいます。このように真剣に考えてくれていることの方が、よっぽど慰めになります。(もちろん、こんな事は著者の意図からかけ離れていますけれど)

永山薫さんが、次のように書いています。

『だからこそ「網状」は述語の違いを超えて刺激的であり、私の直感と感情を波立ててくれる。』

本当にそうだなー、と思いました。こういう本は、あまりないかもしれないなー、と思いました。(しおくん)

『解離のポップスキル』 斎藤環著 (勁草書房)

僕(しおくん)の好きな作家(?)が続きます。この斎藤さんも、僕の好きな作家(?)の一人です。先の『網状言論F改』でも、このお二人は対談しています。ポップカルチャーや、オタク、引きこもりなどについて考えるとき、このお二人をはずすことは出来ないと思います。この本も、本当に刺激的で、示唆的です。 難しいのですが、読み進めるうちに、理解が深まっていくというような啓蒙的な側面もあるのですごく良心的な本でもあると思います。斎藤さんは精神医ですから、処方箋(つまり解決案)も出してくれています。そういった意味でも良心的です。 若者について、真剣に考えてくれているなー、ということがすごくよく分かります。 やっぱり目が離せない人の一人ですね。(しおくん)

『ドゥームズデイ・ブック』 コニー・ウィリス (ハヤカワ文庫SF)

SFです。コロラド州出身の女性作家です。21世紀のイギリスと、14世紀のイギリスが舞台となる、時間旅行系のSFです。題材としてはありふれていますが、読み出したら止まりません。定評のあるストーリーテリングと、人物造形の面白さで、全く飽きさせません。ほとんど一気読みでした。2002年にソニーマガジンズから、『航路』が出ましたが、それに先だって書かれた本作(1992年)は、モチーフが似ている気がします。『ドゥームズデイ・ブック』では、ペスト。『航路』では、脳死、と扱う題材は違いますが、いずれも『死』ということに関連しています。けして避けることが出来ない『死』とどのように対していくか。物語は、圧倒的な力でおそってくる『死』の力に駆動されるかのようにして、怒濤のごとく進んでいきます。そして感動のラスト!ネタバレになってしまうので詳しくかけませんが、是非読んでいただきたい作品です。この本は文庫で手に取りやすいですが、『航路』は単行本です。でも、両方一緒に読むことをおすすめします。(しおくん)