神を愛するための神学講座(水草修治)

Thu, 19 Aug 2010 23:14:13 JST (1526d)

神を愛するための神学講座 水草修治

WEB公開にあたって

 稲本印刷さんが「売上は小海キリスト教会の会堂献金に」というご厚意で作ってくださった『神を愛するための神学講座』第四版が、とうとう売り切れました。以前から「より内容を充実して第五版を」と求めてくださる方もいらっしゃいますが、当面、再版の予定が立たないので、第四版のまま野町真理牧師の管理なさるWEB上に公開させていただくことにいたしました。野町先生のご協力を心より感謝いたします。

2007年10月31日

水草修治(日本同盟基督教団小海キリスト教会牧師)

*松原湖高原教会は2002年1月1日に小海キリスト教会と改称したしました。

第一版のはしがき

 本書は1990年度、日本同盟基督教団徳丸町キリスト教会(当時、牧師山口陽一師)の毎月第四主日夕拝での「神を愛するための神学講座」の教理説教の原稿に、若干の筆を入れたものです。願っていたことは、神を畏れ愛する教会とキリスト者の形成に的を定めて、分かりやすく説くということでした。それがどの程度かなったかは神様と教会のご判断に、お委ねするほかありません。また、各項目で言及の深さの程度やスタイルにばらつきがあったり、あるいは一冊の教理書ならば当然あるべき項目が欠けているのは、おもに、本来が一回一回の説教として語られ、最後は時間切れとなったということから来ています。

 教理説教者として、私の念頭に常にあったのは、宗教改革者が編んだ問答書の次の一節です。

「問 神についての、真の正しい知識はなんですか。

 答 神をあがめる目的で神を知るときであります。」『ジュネーブ教会信仰問答』

1991年3月 水草修治(日本同盟基督教団大泉聖書教会牧師)

第二版によせて

 第一版を丁寧に読んでくださった兄弟姉妹から励ましを頂き、感謝しています。この度同盟教団横浜上野町教会(結城晋次牧師)でこの本をテキストとして奉仕をさせていただくことになり、この機会に、字を大きく読みやすくしていただくことになりました。「続編を」という励ましを複数の方からいただきましたが、余力なくお答えできませんでし た。真理の全貌を見渡すという教理的学びの目的からしても、この種のものはとにかく最後まで書かねばならないと思ってはおります。ただ、本書の各章はもともと夕拝の教理説教として成立したものですから、兄弟姉妹との神礼拝というコンテクストを離れて続きを「書く」のに思わぬ困難を感じています。

 ただ、近年の新宗教およびニューエイジ・ムーブメントと、それに意識的・無意識的に同調しているキリスト教の汎神論化への危機感から、新たに啓示論を加え、神論に加筆しました。その他、三位一体論、受肉論と予定論に若干加筆し、註を付けました。  続編は、神様の許しがあれば後日を期したいと思います。

1992年3月 主に栄光がありますように 筆者

第三版のはしがき

 母校で久しぶりでお会いした菅野悟師(単立シャローム教会牧師)から、しばらく絶版となっていた本書の復刊を勧められました。ある兄弟姉妹たちはこれを繰り返し読んでは何か得るところがあるということで、それは神のことばの力ゆえと思います。第三版ではエコロジー問題にかんがみて「人と自然」の項目、今日の人間中心主義的傾向にかんがみて「罪」の項目、そして、不十分ではありますが「聖霊」の項目を加えました。この春から念願の農村伝道に立つことを許され田畑をお手伝いし始めたことが、「人と自然」における創世記解釈に益するところがありました。教会論、終末論はいまだ公にするほどのものがなく他日を期したいと思います。

 また、末尾に92年秋の横浜上野町教会の修養会の講義ノート「教会と教理」「神を知ること、神を愛すること」「提案:教理の学び方」をつけました。あるいは、これを最初にお読みいただいたほうが本書の意図されることを理解していただくにはよいかもしれません。

 第二版同様、菅野先生とシャローム教会の兄弟姉妹たちが製本をしてくださいました。主にある愛を感謝いたします。

1994年7月 主に栄光がありますように 筆者(日本同盟基督教団松原湖高原教会牧師)

第四版のはしがき

 今回、土浦めぐみ教会の兄弟姉妹の聖書の学びに用いていただくということで、この機会に少々増補しました。一つは、1998年1月に、同盟教団銚子キリスト教会で行なわれた教会論の学びが加わりました。同盟教団の信仰告白に基づき、実際的見地からお話ししたものです。

 「三位一体論」に「唯一性」に関するヘブル語の若干の学びが加わりました。エホバの証人対策のみならず、キリストにある救いの豊かさの理解に役立てばと思います。

 また「罪論」に「権威」についての聖書的考察を加えるため、少々筆を入れました。終末的様相を呈している現代社会の混乱に対して聖書的原理からどのようなことが言えるのか、どのように回復の道を示せるのかということをごく原理的にまとめたものです。

 そして、「終末論」です。議論の多い分野ですが、現在の筆者の理解するところを簡潔にまとめてみました。

1998年3月 マラナ・タ! 筆者(日本同盟基督教団松原湖高原教会牧師)

もくじ

はしがき

序説「知りえぬ方を知る」・・・・・・  

 1.神を知る

 2.神学の目的と限界

啓示・・・・・・・・・・・・・・・・

 1.啓示とは何か

 2.啓示の類別

 3.ことば啓示と事実啓示の並行性

 4.再生した理性と非再生の理性にとっての一般啓示の機能の違い

イエス・キリストの神・・・・・・・・

 1.聖書に起源を持たない神観

 2.聖書に啓示される神

三位一体論・・・・・・・・・・・・・ 

 1.三位一体の教義

 2.父と子と聖霊

 3.三位一体の意義

創造と摂理−生きる意味−・・・・・・  

 1.創造

 2.摂理

人間について−文明の問題−・・・・・

 1.神のかたち

 2.目的達成のための二つの使命

 3.堕落した人間

人と自然・・・・・・・・・・・・・・

 1.本来の人と自然

 2.呪われた地で

罪・・・・・・・・・・・・・・・・・

 1.悪の起源を論じること

 2.「善悪の知識の木」の意味

 3.律法と罪

 4.傲慢

 5.権威の問題−−夫婦の秩序・社会の秩序の変化

 6.罪と恥

 7.性と対自的罪

 8.自然との関係

 9.原罪論−−神学体系におけるアルキメデス点

仲保者キリスト・・・・・・・・・・・  

 1.御子の基本的職務:仲保者

 2.キリストの受肉

 3.第二のアダム(「わざの契約の成就者」)

 4.三職二状態

 5.受肉の意図

予定の告白の位置・・・・・・・・・・

予定(選び)・・・・・・・・・・・・  

 1.キリストのうちに

 2.ただ神の恵み

 3.予定と教会

 4.予定の目的

召し・・・・・・・・・・・・・・・・

 1.召しのおごそかさ

 2.神の召しの方法

宣義(義認)・・・・・・・・・・・・

 1.贖いについての教えの歴史

 2.神の義を示し、人を義とすること

 3.義認ということ

 4.義とされる根拠

 5.救いを受ける信仰

子としての聖化(聖化1)・・・・・・

 1.神の計画全体の中で−同義語の整理−

 2.義認と聖化の矛盾?

 3.子とされること

 4.子としての聖化

 5.聖化は教会的なこと

2ミリオンのいのち(聖化2)・・・・

 1.聖化の主体

 2.聖化の内容(ロマ書6〜8章)

 3.聖化の手段

聖霊・・・・・・・・・・・・・・・・

 1.聖霊とはどなたか

 2.聖霊のお働き

キリストのからだなる教会・・・・・・

 1.キリストのからだ

 2.教会の任務

 3.主のみこころが成るために−−教会政治−−

付録

 1.教理と教会

 2.教理の学び方

 3.神を知る、神を愛する  

序説「知りえぬ方を知る」

「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることが出来るようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。」ピリピ書1章9節から11節

 神学は普通、次の四つの部門に分けられます。

 聖書部門・・・聖書緒論、聖書釈義、聖書神学

 歴史部門・・・教会史、教理史、キリスト教思想史

 教理部門・・・組織神学、キリスト教倫理、弁証学

 実践部門・・・牧会学、説教学、礼拝学、教会政治学

 組織神学という表現は、systematic theology の訳語ですから、むしろ、体系神学と言うほうが良いのではないかと私は常々思っています。つまり、聖書における神知識を論理的体系に構成したものが組織神学です。組織神学を教理学とか教義学と呼ぶこともあります。また、単に「神学」ということによって、組織神学を意味することもあります。

 組織神学的な神知識の表現の一番簡単な例は『四つの法則』です。第一に神はどんなお方か、第二に人間の罪、第三にキリスト、第四に信仰による救い。このように論理的順序にまとめることによって、私たちは聖書の真理を、理解しやすくなるのです。また、今迄よく見えていなかった真理もよく見えてくるということがあります。同盟教団の「信仰告白」文もそういう論理的順序になってまとめられています。第一に聖書、第二に神、第三に人間の創造と堕落、第四に救い主イエス・キリスト、第五に聖霊、第六に教会、第七に終末という順序です。あるいは、「使徒信条」は最初に父なる神、第二に御子、第三に聖霊という三位一体論的体系になっています。私たちは、本書で組織神学的な方法・順序にしたがって、神を知ることに努めて参ります。

 ところで、そもそも神学とはどういう営みなのでしょうか。神学とは、「神を知る」こと、しかも、「学的に神を知る」ことです。そこで、初めに「神を知る」ということについて考え、次に「学的に神を知る」ということについて考えましょう。こには、神というお方を知るということに伴う困難さと特殊性があります。有限な私たちが無限な方を知るということに伴う本質的な困難さです。

1.神を知る

「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:23)

(1) 物を知ることと霊を知ること(1コリント2:11-16)

 私たちは、「知る」「認識する」という場合、必ずそれは何かを知るのです。言い換えると、知るということには対象があるのです。ですから、私が「何か」と関係を持つことは、知るということの前提条件です。

 ところで、私たちが関係を持つ対象は、モノである場合と、霊である場合とがあります。そして、モノが対象の場合には、そこに成り立つ関係は、「私とそれ」という関係です。この場合、私だけが知る側に立っています。能動的に働きかけるのは私の側のみです。モノの側はただ受け身的に知られるばかりです。普通、自然科学における「知る」ということは、こういうことです。ある物質を知ろうとすれば、その物質を試験管にいれ て、熱を加えたり、ほかの物質と化合してみたりして、観察をするのです。この場合、物質が、実験をしている私を知るということはないわけです。言換えると、モノの側は、私に働きかけることはないのです。言い換えると、知る私は知られるものを判断する尺度です。そして、モノサシである私には、変化する用意がありませんし、変化しては困りま す。このようなものの見方を哲学的に固めたとされるのは、デカルトという近代哲学の祖とされます(1) 。

 ところが、知ろうとする対象が、霊的存在(人格)である場合には、「私とそれ」という関係はよくないのです。なぜでしょうか。なぜなら、霊が相手の場合、働きかけるのは私から相手に対するばかりでなく、相手から私に対してでもあるからです。そういう関係においてこそ、霊と霊との特有の関係があると言えます。そうではなく、ただ私が相手を知るという関係のみであるならば、たとえ私が人と向かい合っているとしても、それは、霊に向いているのではなく、モノに向かっているのと同じことです。私は、そういう時、相手をモノ化しているのです。

 それでは、本当に知ることはできません。「本当に」というのは、霊を霊として知ることはできないということです。言換えると、友として知ることはできないのです。例え ば、私がAさんを知ろうとするばあい、その体重、身長、顔色などなどを内科の医者のようにして知ることはできるでしょう。あるいは、解剖でもすれば、Aさんの心臓を見たりすることもできます。けれども、それはAさんを霊として知ったことにはなりません。ただAさんの物的側面を知っただけです。また、興信所に依頼してAさんの生れたところ、学歴、職歴などなどを調べあげたところで、Aさんを本当に知ることができるものではないのです。

 こういうわけで分かることは、人と向かい合えば自動的に、相手を霊として知ることができるわけでは決してないということです。たとえ人を対象にしても、対象を霊として知ることなく、その情報を得るにとどまることもしばしばあることなのです。では、私たちは霊をどういう条件において、霊として知ることができるのでしょうか。

 条件の一つは、まず、Aさんの側にあります。それは、Aさんが心を開いて、その心にあることを話してくれるということです。だれもその人の心に思うことは、外からの観察や実験によって知ることは出来ないからです。「人の心のことはその人のうちにある霊以の外には知らない」からです(1コリ2:11)。すべて、霊を知るには、まずその方が、心を開き示してくださるほかに、その心を知ることはできません。

 では、Aさんが自分の心を開き示してくれたら、自動的に私はAさんと友になることができるのでしょうか。そうではないでしょう。例えば、Aさんが私に心を開いて、手紙をくれました。そこには、彼がどういう人であるのか、また彼の私に対する友情が、赤裸々に記されています。そのとき、もし私がAさんの手紙を「フーン」と言って、ゴミ箱に捨てるとか、あるいは、かりに熱心に読んだとしても、自分とは関係のない遠い世界の出来事を新聞で読むような態度でいるなら、決して、あなたはAさんと友になることはできません。

 霊的交流の相手としてAさんを知るためのもう一つの条件は、知ろうとする側にあります。それは、こちらの側も心を開いて、Aさんに向かって語るということです。こういうわけで、私たちが霊を霊として知る場合には、こちらだけが一方的に相手を知るということは不可能であって、自分もまた相手に知られなければならないのです。言い換えると、自分が相手に働きかけるばかりでなく、相手が私に働きかけ、相手によって自分が変貌していくような、そういう知り方が霊を相手として知る場合の、私の態度でなければなりません。自分が相手を所有するだけでなく、相手に自分が所有されようとする態度です。

 「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」( ヨハネ 4:24) この御言葉について次のような注解があります。「礼拝は、感情の表現とその感情が喜ぶ対象の概念とを含む。感情の表現については『霊において』ということばで、概念については『まこと(真理)によって』と表わされている。ユダヤ教は文字によって礼拝はしていても『霊によって』礼拝をしていなかったし、サマリヤ人は真理によって礼拝していなかった。しかし、御子が受肉されたことによって、人間は神と直接の交わり、つまり、霊による礼拝が可能になった。同時に御子は神の究極的な啓示であるから、人は真理によって礼拝ができるようになった。」「人間の内なる霊は、神の霊に応答するものである。」(B.F.ウェストコット『ヨハネ福音書』)

 神は霊ですから、私たちが神を知るための第一の条件は、神がご自分についての真理を開き示してくださったということです。もし、神が開き示して下さらないならば、神についての真理を知ることはできません。しかし、事実、神はご自分を啓示してくださいました。ですから、私たちが神を知るために必要な態度は、自分の想像や願いを捨てて、まず神のことばに聞くことです。これが、まこと(真理)による礼拝です。

 私たちが神を知るための第二の条件は、私たちが神に知られることをよしとするという態度です。言い換えると、神が語られることを聞き、これに自分の霊を開いて応答することです。神の霊と私の霊が触れ合うのです。心の態度として言えば、自分を神に知っていただこうという態度と、神が私に働きかけられるのを、受け入れるという態度です。私たちが神を知ろうという熱心だけでなく、神が私を知り、私に対して御業をなさることを受け入れるのです。具体的には、自分の心の思いを神に向かって注ぎ出し、「私に神が望まれることをしてください、私はそれを喜びます」という態度を取ることです。これが霊による礼拝であり、祈りです。祈らない人は神を知ることはできません。

(2) 主権者として神を知ることと罪の影響

 但し、神を知る場合には、普通に友人を知る場合とは違っていることがあります。それは、一つに、神は私たちを支配しておられる主権者であるという事実です。ですから、私たちが神を知ろうとするとき、神を礼拝する態度でなければ、神を知ることはできませ ん。神を礼拝する目的で神を知ることが必要です。単なる知的欲求を満足させるために神を知ることは、無益であるばかりか、罪です。サタンも神が唯一であることを知っていて、なおかつ神に反逆しているのです(ヤコブ2:9)。カルヴァンは言います。

 ジュネーブ教会信仰問答

「問6 神についての心の正しい知識はなんですか。

 答  神をあがめる目的で神を知る時であります。」

 しかし、堕落後、生まれながらの人間は神をこのように正しい目的をもって知ることができなくなっています。それは、堕落によって、神の御霊が人間から離れているからです。神は初めに人を造られた時、神を知る者として人を造り、そのために神の御霊を人の内に入れられました( 創世記2:7)。けれども、神に背いた人間からは神に仕えることを喜ぶ神の御霊は去ってしまわれました(詩篇51:11 参照) 。それゆえ、生まれながらの人は神をなんらかの意味で神を知っていながら、「神を神としてあがめず、感謝もせず」もろもろの被造物を神の代用品として偶像としてしまうのです(ローマ1:21-23 参照) 。ある人は、鳥や獣を、ある人は金を、ある人は思想を、また、ある場合には「神学」をさえ神の代用品にする人さえあります。

 ですから、人が神を正しく、つまり、礼拝するという目的をもって知るためには、まず神との関係が回復され、神の御霊をいただかねばなりません。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。御霊を受けている人はすべてのことをわきまえます・・・」(1コリント2:14、15)。

 ですから、私たちが神を知るためにはまずイエス・キリストを信じて神の御霊をいただき、聖霊の宮としていただくことが先決です。そして、さらに罪から清められ、御霊に支配されればされるほど、私たちは神を深く知ることができるようになります。「心のきよい人は幸いです。その人は神を見るからです。」(マタイ5:8)とあるとおりです。そして、今は古代の銅鏡に映すようにぼんやりと見ているだけですが、次の世に移されるときには、「顔と顔とを合せるように」神を知ることになるのです(1コリント13:12)。

(3) 無限の神と有限な人間

 神は無限のお方です。有限な私たちが、どうして無限の神を知ることが出来るでしょうか(ローマ11:33,34) 。ある神学者は「我々が神を知ろうとすることは、かぶと虫が人間を知ろうとするようなものだ」と言いました。かぶと虫も人間も有限ですが、神は無限であり人間は有限であることを考えると、神と人間の隔たりはかぶと虫と人間の隔たりよりも大きいとも思われます。では、私たちはどうして神を知ることが出来るでしょう。

 古代の神学者たちはこのことを真剣に考えました。中世のスコラ神学者にはこの問題は見過ごされた観があります。しかし、ルターはこのことを真剣に考えました。近代のカントという哲学者以来、神を知ることは出来ないという考えが自由主義神学の根底にはあります。カントはその『純粋理性批判』において、学的認識の限界を明かにしようとしました。すなわち、人間は感性と悟性によって構成されたことのみを学的認識の対象とでき る。ところが神、霊魂、自由ということは、感性・悟性を介しての認識によって得ることはできるものではない。神も霊魂も自由も感性には知ることのできる範囲の外にあるからであるというのです。これは不可知論と言われます。ですが、カントが見落としていたことがありました。それは、まことの神は生ける神であって、その神が人間に分かる方法をもってご自分を啓示されるということです。

 聖書はどう言うでしょう。「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように確かに現われ・・・」(ホセア6:3)といいます。聖書は人が神を知ることができると言います。では、有限な私たちがどうして、無限な神を知ることができるでしょ う。第一に、神は私たちをご自分に似る者として神を知るためのユニークな存在として、創造してくださり(創世記1:27) 、私たちの内に「永遠への思い」を与えてくださいました(伝道者3:11) 。ですからチンパンジーはお祈りをしませんが、人間は祈るのです。第二に、神が有限な私たちにわかる方法でご自分を表わしてくださったから、私たちはその道にそって神を知ることができます。いわば神は御自身に関する無限のことを、有限な人間の言葉に翻訳してくださったのです。これが啓示です。ここにはすでに御子にある受肉の奥義の原型があるではありませんか。

 とはいえ、先の不可知論は私たちに大事なことを示しています。それは、私たちの神知識には限界があるということです。神は私たちに永遠への思いを与えて下さいましたか ら、私たちは神を求めますが、有限な私たちには神を知り尽くすことはできません。この事実をわきまえることこそ伝道者の言う知恵です(伝道者3:11) 。私たちが神を知り尽くしえないのは、罪の有無にかかわらず、人間の有限性と神の無限性という存在の次元の理由によります。次の世で、「顔と顔とを合せて見る」(1コリント13:12)と言われる時、私たちは確かに今とは比較にならぬほど、はっきりと神を知るようになるでしょう。しかし、たとえその時でも、私たちに神を知り尽くすことができるわけではありません。神を完全に知っているのは、全知の神御自身のほかにはありません。

(4) まず神が知ってくださったから

 私たちが神を知ることを求め、神に知られることを求める以前に、神が私たちを知ってくださったのです。

 詩篇139編には、神が「私」についてあらゆることを知っておられることがまず出てきます。「すわるのも立つのも」つまり、外側の見える行動も、「私の思い」つまり心の中を。「私の歩みと私の伏すのも」つまり一日24時間の一切を。私が話そうとすることばも(1-6) 。詩人は、このように神が私を知っておられるということに気付いたとき、逃げ出そうといたしました。天に、陰府に、海の果てに、闇の中にと詩人は逃げます。けれども、ついに、彼は決して神の目を逃れることができないことを悟ります(7-12)。

 ここから、「私」の態度は、徐々に変化してまいります。それには二つの段階があります。「私」は自分でも記憶していない母の胎内にあった時から、神は私をすでに知っていてくださったのだということに思いをやります(13-16) 。このことに思い至る時、神が私を知り給うということは、煩わしいことではなく、恵みの事実なのだと気付くのです。神が私を知ってくださったからこそ、私はここにある、その事実に詩人は目覚めたのです。つまり自己の存在の根拠として神を発見するのです。

 そして、詩人は神から逃げるのではなく、神の側に立つ者と変えられて行きます。そして、神の側に立つ者となり、それゆえに、神の敵に取り囲まれ、苦難を経験するにつれ、いよいよ彼は内側から変貌させられて参ります。神はその摂理のみ手によって、私たちに苦難を恵んで下さいます。それは、私たちをさらに神を切望する者と変貌させるためです(19-22) 。神は御言葉と御霊の語りかけと、摂理のみ手をもって私たちをご自分のもとへと導かれるのです。

 そして、23、24節。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。・・・」

 私たちが、神を知ることができるのは、実は、それに先立って神が私たちを知ってくださったからです。私たちが神に知っていただこうと思うようになるのは、神がまず私たちを知ってくださったからです。私たちが神を知るという営みは、このように神の先行的な恵みの事実に基づいているのです。

*祈り

 全知全能の神様。あなたの御目を意識する時、己の罪深さに恐れおののきます。 けれども、あなたは私のことを私が知っている以上にすべて御存じの上でなお私をあわれみ、私を救いへと招いて下さいました。感謝いたします。

 さらに、私を知って下さい。そして、さらにあなたのことを知らしめて下さい。そうすれば、私はあなたを賛美しましょう。聞く者は、あなたをたたえるでしょう。


(1)デカルト(1596-1650) の「我思うゆえに我あり」の示している原理はこういうものです。デカルトは学問の理想を幾何学としていました。幾何学は少数の疑いえない公理を出発点として、演繹によって諸真理を導き出すものです。そこで、彼は一切の学問的認識の出発点、公理は何であるかを見出すために、一切の観念・事物の真実性を疑いました。神をも疑いました。そして、一切のことを疑うにしても、唯一疑いえないものがある、それは疑っている、思っている我の存在であるいう結論に至ります。思っている我の存在、これが彼の哲学の公理「我思う。ゆえに、我あり。」です。そして、唯一疑いえない思う我から演繹して、他の観念と事物の証明をするのです(『方法序説』)。このように固定している「我」が対象を認識するというのが、近代科学の認識の基本的考え方です。二十世紀になって、近代化の歪みのなかで、この認識論への反省が生じました。人格までもモノとして取り扱うという考え方が、この認識論から出てきたからです。

 人格を人格が知るという場合には、物を知るという場合とは根本的に異なる事態が生じるということを論じたのはM.ブーバー『我と汝』です。

2.神学の目的と限界

「理性の服従とその運用。ここに真のキリスト教がある。」(パスカル)

(1) その目的

 神学というからには、通常私たちが「神を知る」というのとは違うなにか特殊な方法があるはずです。神学は英語ではセオロジーtheologyと申します。ギリシャ語のテオスtheos とロゴスlogos が合せられた言葉です。テオスは神、ロゴスは言葉とか理性とか論理とか学ということです。ですから、神学とは、神を知ることですが、特に、神をことばによって、理性的・論理的・学的に知るという営みなのです。

 「学的」とはどういうことでしょう。一般的な定義を見ましょう。「学」とは「一つの全体に系統づけられ、組織づけられた知識。単なる信仰・直観・体験などとは区別され る。」それは、系統的であること、論理的であること、客観的であることが条件です。つまり、誰でもこの手続きを踏めば、その学の対象についての知識を確認できるのである (岩波『哲学小辞典』「学」「科学」)。    ローマ人への手紙はその例です。ここでパウロは、神と神の御旨とを系統的に論述しています。宗教改革者たちがプロテスタント神学を形成していこうとしたとき、彼らの多くがローマ書の順序によったのはそのためです。

 では、なぜ私たちは神を学的に知る必要があるのでしょう。神学の目的はなんでしょう。第一に、霊によるだけでなく知性をもっても神を賛美するためです。1コリント 14:15で使徒は言います。「ではどうすれば良いのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。」私たちは、神が人間だけに特別に下さった知性という賜物を手段として、神を賛美するために、神学の営みをなすべきなのです。確かに星空や緑の山々やあるいは動植物も神を賛美しているということができます。「主をほめたたえよ。日よ。月よ。主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。主をほめたたえよ。天の天よ。天の上にある水よ。・・・地において主をほめたたえよ。海の巨獣よ。すべての淵よ。日よ。ひょうよ。雪よ。煙よ。みことばをおこなう嵐よ。山々よ。すべての丘よ。実のなる木よ。すべての杉よ。獣よ。すべての家畜よ。はうものよ。翼のある鳥よ。・・・」(詩篇148:3以下)

 けれども、それらは知性をもって神を賛美しているわけではありません。神は人間に知性をお与えになりましたから、その賜物をもって神を賛美するのです。

 第二に、バランスよくより明白に神を知り、また、知らせるためです。神学は部分的にバラバラの神知識を系統的に構成するものですから、私たちにバランスのよい全体的な神認識を提供します。バランスばかりを求めるならばダイナミックな神知識をだめにしてしまうのではないか、しばしば神を知るということは圧倒的な臨在に打たれることを伴うので、本当の生きた神知識にバランスなど考えていられるものか、という懸念があります。これは大変重要な問題提起です。私たちの実際に得る神知識というものは、遠くから眺めて観察するような種類のものではなく、戦場のただなかに置かれるような種類の体験ではないか、それをあたかも自分が全能者の立場にあるかのように、全貌を見渡すなどというのは、生ける神知識を死せる者にしてしまうのではないか。確かに、そういう危険性は大いにあると思うのです。そういう神知識は、生ける神へのおそれよりも、神知識を得たという自己満足しか与えないのではないか、そういう危険があるのは事実です。

 しかし、それにもかかわらず組織神学は有効であり、重要です。というのは、我々は組織化された神知識を持たないならば、神知識の全貌をもたず、「群盲象をなず」という有様になりがちだからです。あるいは、自分にとって心地よい神の一面だけをつまみ食いしているということになるからです。ここにいうバランスの重要性とは、自分の勝手な思い入れで造りあげた神像を弄ばないということです。「偶像礼拝の本質は、真の神にふさわしくない神に関する考えをもてあぞぶことだ。」とA.W.トウザーは言います。私たちの求めるバランスとはそういう自分勝手な神知識、偶像礼拝に陥らないための、バランスということです。神がご自分を啓示しておられるままに、神を知ることを求めるのです。異端というものの殆どは、このバランスを欠いた一部の聖書知識の偏重と、ある聖書知識の無視から生じていると言えるでしょう。

 第三に、神学の目的は、世に対してキリスト教信仰を弁証するということがあります。歴史的に見ると、キリスト教神学はユダヤ教とギリシャ的異教への弁証から始まったということができます。使徒パウロのガラテヤ書はユダヤ教への弁証の書と言えます。また、ヨハネの手紙第一はギリシャ的グノーシス主義への弁証の書でもあります。四章一節から三節を御覧ください。ここには、「人として来られたイエス」を否定するグノーシス主義の異端がサタンから起こっている偽預言者として挙げられていることが分かります。正しい教理はキリストの二性一人格ですが、グノーシス派はキリストの受肉を否定していたのです。また、古代教父たちは自ら生まれ育ったギリシャ的思想との対話、対決からキリスト教神学を形成していったのです。「使徒信条」もまた、キリストの受肉を否定するグ ノーシスの異端を、論敵として据えて告白された信条であると言われます。グノーシスはは御子の受肉、十字架の死を否定します。ですから、「使徒信条」は神論はたった一行で終わりですが、御子イエスの受肉、歴史上の十字架の出来事、よみがえりの項目については非常に詳しく告白されているのです。

 私たちが現代の日本にあって、神学をするというばあい、日本的な宗教的土壌への弁 証、現代文明への弁証ということが伴うべきことは当然です。本書でも、許されるかぎり弁証的なことも取り上げたいと思います。

(2) 神学の限界

 神学には限界があることをわきまえねばなりません。初めに引用したパスカルの言葉 は、理性万能主義あるいは論理万能主義に犯されがちな私たちに警告を与えています。

「理性の服従とその運用。ここに真のキリスト教がある。」

 「神を知る」ことは、「学的に」ということに優先します。「学的に」ということは、神をよりよく知るための一つの手段であって、目的ではないからです。神学的方法によらずとも、神を知る方法はあるのです。神学など学んだことがなくても、深い神知識を持っている信徒がいます。また、神学を専門にしていながら、生ける神を知らない学者もいるのです。したがって、もし「学的」ということと「神を知る」ということが、矛盾対立するような場合には、学的であることは断念しなければなりません。

 「神は霊である」ことを考慮すると、神を学的に知るということは、神を知るという営みに調和しにくいのではないかと思われるかもしれません。つまり、友人を知るというのに学問的・論理的に友人を知るということは、あまり言わないからです。なぜ言わないのでしょうか。それは、友というものは、単なる客観的な対象ではないからです。友を単に客観的な対象として見るならば、そこにはもはや友情というか人格的交流はありえないでしょう。確かに、ここに神学の危険性はあります。神は決して単なる客観的対象ではないからです。私たちが神を知る前に神が私たちを知っておられるのです。つまり、神は常に主体なのであって、私たちが神学的営みをする場合においてもそうです。ですから、神学をするとき私たちの理性は神の御霊に支配していただかねばなりません。

 神は主権者であり、あがむべきお方であることも、神学者に知識の傲慢についての警告を与えるものです。神を知ることは、人を謙遜にするはずです。ところが、時折、「知識は人をたかぶらせる」ということは、神学をする人のうちに起こってまいります。神はあまりにも偉大であるので、神を知っている自分自身も偉大なものであるという誤解と高ぶりを生じるからです。けれども、そういうとき私たちは、実は、神を知ったのではなく、単に神についての情報を手に入れてそれを誇りにしている神学者ならぬ神の情報屋にすぎないのです。生ける神を知る者は、あのイザヤやヨハネのように(イザヤ六章、黙示録一章)、その神知識によって、自我は殺されて変貌するはずですのに、逆に、神知識によって、自我が膨れ上っているとはなんという倒錯でしょうか。パスカルはこうした知識の誇りという罠について言います。

「イエス・キリストなしに神をもつ哲学者たちを論駁す。  哲学者たち。彼らは、神のみが愛せられ賛美されるに値する唯一のものであると信じている。しかも、彼らは自分たちが人々から愛せられ賛美されることを欲した。彼らは自己の堕落を認識していない。・・・・何ということか!彼らは、自分では神を知っていて、しかも人々が神を愛するようになることだけは好ましくないと考え、人々が哲学者を愛することで満足してくれるように願ったのだ!」(L142,B436)

 また、神が無限のお方であり、有限な人間の論理では捕らえ切れないお方であるということが、神学の論理性に限界を与えます。使徒パウロは、ローマ書において、系統立てて神の救いの計画の全体を論理的に記述していきます。ローマ書はそういう意味で神学書です。ところが、ローマ書は、人間的論理が神に対する不敬虔な帰結に及ぼうとすると、かならず<me genoito(決してそんなことはありません)>と叫びます。ロマ3:1−3

 神はユダヤ人を選び、割礼の契約を与え、神のいろいろなことばを委ねられました。神が下さったそうした選びに伴う特権は素晴らしいものです。ところが、そうした神の選びにもかかわらずユダヤ人のうちには不真実な、神を信じない者、脱落する者がいるというのは、どういうことでしょうか。この問いに対する人間的論理の帰結は、神の選びが不真実なものであり、神が不真実であるからだということになります。しかし、パウロは叫びます。

「では、いったいどうなるのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。」

 さらに、パウロは切り返して神はその不真実な者を裁くことによって、御自身が真実な方であることを証しておられるということで、四節に旧約聖書を引用します。ところが、そうすると再び肉の論理は絡み付きます、人間の不義を神は裁くことによって御自身の義を明かにするのであるとすれば、神は不正ではないか、と。

 「しかし、もし私たちの不義が神の義を明かにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。」

 要するに、神が義であられることは神学の公理であって、これを疑うようなならばもはや神学は成り立たないのです。ですから、もしも論理がこの公理を覆すようならば、論理はそこで停止すべきなのです。そしてこれは学的態度としてふさわしいものです(2) 。 (他にも6:2;9:14参照)。

 人間にとっての論理的整合性は、神への敬虔のためには、最終的に放棄しなければなりません。私たちは、神を礼拝する目的で神を知る時にのみ、正しい神知識を得ることができるのです(カルヴァン『ジュネーヴ教会信仰問答』6)。

 さらに、学的知識は「一定の論理的な手続きを踏めば、だれにでも確認できる客観的な知識」を提供することをその要件としています(岩波小辞典「科学」)。いわゆる神の存在証明は、このような前提に立っています。神の存在証明は、四種類あります。第一はアンセルムスの存在論的証明で、神はそれ以上の存在の考えられない最も完全なものであ り、もし神が思考の中にあるだけで、存在という属性を持たないならば、最も完全とは言えなくなるから、神は存在しなければならないとするものです。第二はアリストテレスの「自ら動かずして、他を動かす者」にならって、第一原因としての神の存在を認める宇宙論的証明。第三は、自然の秩序の合目的性からその設計者としての神の存在を認めようとする目的論的証明です。第四に、カントは以上の証明を否定した後に、人間の道徳的意識が神の存在を要請しているといいますが、これは論理的証明にはあたらないでしょう。

 これらの神の存在証明のネックは、神の存在を証明する手続きに用いる論理法則自体が、神の被造物であり神にその存在を支えられているという事実を看過していることです。論理的証明とは、論理法則の確実さを前提とし、根拠として成り立つ者ですが、論理法則の確実さは最も確実な神を根拠としているのです。よって、より不確実なものによって最も確実なものを証明しようとしているという不合理なことになります。

 また、聖書は「誰でも一定の論理的手続きによって真の神知識に至ることができる」ということは不可能であることを示しています。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それは彼らには愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」 (1コリント2:14)。

 聖霊によって照らされてはじめて、人は神を本当の意味で知ることができるのです。聖霊によって照らされた人と、照らされない人との間には、啓示認識能力において違いがあるというのが聖書の主張です。この世の哲学者は、理性は万人に共通であるといいます。近代哲学の祖デカルトは『方法序説』で「良識(ボンサンス)はこの世でもっとも公平に配分されているものである。」と言います。ところが、聖書は再生した理性と再生していない理性があるといいます。そして、理性が再生しなければ、神を知ることはできないというのです(3) 。ですから、神知識は「誰でも一定の論理的手続きを踏めば確認できる」という一般の学とは違うのです。

 ですから、私たちは神学的思惟において祈りがいかに重要なことかということをわきまえなければなりません。再生した理性を与えられているとはいえ、私たちは未だ地上に あって完全な者とされていない以上、肉との闘いがあり、理性もまた聖化の途上にあるからです。神を知るために、私たちは理性を聖霊によって支配していただかねばなりませ ん。「私たちは祈っている時、最も賢明になる」とは有名な神学者の言葉です。

結び

 神学にはこうした本質的限界と危険性とがあります。しかし、その限界を認めること は、恥ではなくむしろ神学の栄誉であります。そこには常に神秘が残ります。それは、当然のことなのです。私たちは神が私たちに知らしめたまう限りにおいて、神を知ることを望みます。しかし、ここまでと神のことばがとどめられたら、そこにとどまるのです。しかも、喜んで神を賛美しつつ。

 聖書の中で最も体系的な神学的内容をもつローマ人への手紙において、霊感された筆者である使徒パウロは、一章から十一章まで神の救いの計画を、他に類例を見ないほどに明快に語ってきます。そして、その結びにおいて、神の全知全能と人間のあさはかさを述べ、神に栄光を帰しています。

「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いをうけるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によってなり、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。」ローマ11:33−36


註)

(1)この問題提起は、一九世紀デンマークのキリスト教哲学者S.キルケゴールがしたものです。彼は当時の、全体的体系を重視したヘーゲル主義の哲学、そして、これを援用したルター派の神学に対するアンチテーゼを唱えた人物です。そこには、「体系(システム)」化の危険性が述べられています。体系とするとき、その網からこぼれ落ちる個々の神経験の現実性があるからです。S.キルケゴール『哲学的断片』参照。

(2)神学における「学」であることの限界付けは、一見すると論理の放棄であり、非合理主義への逃避だというふうに映るかもしれません。しかし、そうではないのです。そうではなく、これこそ最も適切な学的な態度なのです。

 今世紀オランダで活躍したヘルマン・ドーイウェルトというキリスト教哲学者がおりました。彼は、私たちの世界には十五の様態的側面があることを示しました。すなわち、(一)数的側面、(二)空間的側面、(三)延長的運動の側面、(四)物理的化学的側 面、(五)生物的側面、(六)感覚的側面、(七)分析論理的側面、(八)歴史的側面、(九)言語的側面、(十)社会的側面、(十一)経済的側面、(十二)美的側面、(十 三)法的側面、(十四)道徳的側面、(十五)信仰的側面、以上です(H.Dooyeweerd,A New Critique of Theoretical Thought『理論理性の新批判』) 。前の方の様態的側面が後の方のそれの基礎を成していますが、それぞれの側面には、固有の意味があって、互いに還元してはならないのです。

 現代人がやりがちなのが、還元主義の過ちです。すべてを物理的側面から説明して、結局すべてはモノなのだと考えることです。例えば、「母の愛などと言っても、それは生物の種の保存本能のあらわれにすぎない」というようなことです。これは「道徳的側面」を生物的側面に還元しているのです。さらに、生物的側面を物理化学的側面に還元すると、「生物の種の保存本能は物理的化学的運動から説明できる。生物といってもロボットと同じだ。」となります。したがって、「母の愛とは物理的化学的反応にすぎない。母の愛などロボットの運動である。」というようなことです。こうして道徳的側面は、生物的側面に、さらに、物理化学的側面に還元されるのです。しかも、現代人の倒錯した頭にはこういう還元主義の論法がある程度の説得力をもっているのです。

 英国の理論物理学者D.M.マッカイの言う例を要約して引用すれば、この種の還元主義はいわば、電気サインの看板に「スカッっとさわやか、コカ・コーラ」とあるのに、その電気工事屋が、「これは電気のランプが百二十三個点滅でしかない。そのサインにはなんの意味もない。」というのと同じようにナンセンスなことです(『科学的自然像と人間観』「でしかない屋などの問題点」の章、すぐ書房)。この誤りは私たちの世界には多様な側面があるのに、その単純な一面、格別、基礎的側面から説明することによって、一切を説明しきったかのように思い込む錯覚です。

 分析論理的側面もまた世界の一つの側面にすぎませんが、同様の錯覚が神学においても起こりうるのです。つまり、論理的側面に神学を還元してしまうということです。神学において、論理的筋道で説明しきれなくなった時、論理を停止することはちっとも不合理なことではありません。そもそも世界の事物一切は論理的に説明できるという側面をその一部としてもっているにすぎないのです。神学に限らず、倫理学、法律学、美学、経済学、社会学、言語学、歴史学みなそうです。学とはそれぞれの側面の前提とする固有の価値を前提として、論理的・系統的にこれを知ることを求めるものです。例えば、倫理学は「善く生きること」について追求する学です。「論理的に考えれば人間は悪く生きてもよいではないか」とは、決して問うてはならないのです。美学は、「美など論理的に説明し切れないから、論じることは無意味だ」と言ってはならないのです。

 神学は、神こそ最高善であり、実践的には神を賛美し、神を礼拝することを求める学です。よって神に栄光を帰さないような帰結は許さないのです。そのような事態においてはむしろ論理が限界点に達したことを認めて停止すべきなのです。「主を恐れることは知識の初めである」からです。

(3)春名純人「キリスト者と非キリスト者の学的思惟における『対立の原理』」(『福音主義神学』、日本福音主義神学会、第十一号、一九八〇年十一月)を参照。ここでは伝統的にキリスト者と非キリスト者の対立を「信仰と理性の対立」と理解してきたことの誤りを明かにし、その対立の実相は「『キリスト者の信仰と理性』と『非キリスト者の信仰と理性』との対立」であることを論じています。すなわち、再生した理性と信仰を持つ者たちと再生していない理性と信仰をもつ者がいるのです。

啓示

 啓示の問題は、神はどのように啓示をするのかと、その啓示がその啓示の受領者である人間においてどのように機能しているのかと、両面から論じる必要があります。

1.啓示とは何か

 啓示ということばは訓読みすれば「ひらきしめす」となるように、隠されていることを開き示すことです。神は主権者である無限の霊であり、我々には隠されたお方ですから、被造物である有限な霊である私たち人間は自分が望んだからと言って、この神を知ることができません。神を完全に知る方は、神ご自身のほかにはありません。「神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。」(1コリント2:10)。神様には私たちに御自身を示さねばならない義理などないのですが、しかし、神は自由な御心によって、我々に御自身を表わされることをよしとされました。このとき、有限な私たちが神を認識しうるように、有限な者にわかる方途をもって、ご自分を表わされたのです。これが啓示です。

 インマヌエル・カントは、『純粋理性批判』において学的認識の範囲を経験の範囲に限定し、神・霊魂・自由などは我々が感覚によって経験できないものとして学的認識の対象外としました。この考え方は、近代神学の不可知論の根底に横たわっています。しかし、カントは、生ける神を知らなかったのです。カントの神とは観念としての神にすぎませ ん。彼は、生ける神が栄光を捨ててへりくだり、有限な私たちにわかる方途をもってご自分を啓示されたということがわかりませんでした。神は御自身にふさわしい領域を超え て、我々の経験できる範囲に御自身を適合させて啓示をされたのです。ですから、私たちは啓示によって神を知ることができるのです。

 かつて、ブレーズ・パスカルは彼の回心の記録『メモリアル』に記しました。

「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。哲学者や、学者の神ではない。確かだ、確かだ、心のふれあい、喜び、平和、イエス・キリストの神。・・・神は福音書に教えられた道によってしか、見出すことができない。・・・」

 カントの神は、パスカルの言う哲学者・学者の神の死んだ神でした。たとえ存在しても、その領域の中に閉じこもったきりで、人にご自分を表わすために神としての領域を捨てて、自ら人としての言葉をもって語り給うなどということはしない観念としての神にすぎません。主イエスはかつてサドカイ派に言われたように、カントに向かって言うでしょう。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。」(マルコ12:24)

 生ける神は、へりくだられて人に分かる言葉と行為をもって啓示をされました。その啓示の中心は、神のことばであり、神自身である方が人としてわれらのもとに来られたことです。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」

「ことばは人となって、私たちの間に住まれた。」 

「いまだかつて神を見た者はいない。父の懐におられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1章)

2.啓示の類別

 啓示は、その形態の上で一般啓示(自然啓示)と特別啓示(超自然啓示)とに区別されます。両者は、その起源においては共に、超自然の神に由来しているのですから、共に超自然の啓示なのですが、その伝達方法において後者は特に、超自然的すなわち奇跡的な方法が用いられるので、特に超自然啓示と呼ばれるのです。前者は通常神が用いておられる自然の摂理を用いて啓示をされるので、自然啓示と呼ばれます。両者は並行して機能しています。

(1)一般啓示(自然啓示)

 一般啓示が自然啓示と呼ばれるばあい、ここにいう自然とは、外的自然としての神が摂理される人間の外界と、内的自然としての人間の理性・良心といった精神構造のことで す。

a.外的自然を通しての啓示  「美しいこの空を、愛らしいこの花を、浮かんでる白い雲、香りよき青草を、じっとながめるだけで、ただ眺めているだけで、ほら君もわかるでしょ。神様がわかるでしょ う。」というのは、神の外的自然を通しての啓示について歌った賛美です。詩篇19編1から3節はその代表的な例である。自然科学者が、精巧な昆虫のからだの仕組みを観察すればするほどに創造者の存在を思わざるをえなくなるというのは、彼が自然啓示を受け止めているからです。

 外的自然を通じての啓示ということにおいて、時間的要素を加えてなされる歴史を通しての啓示があります。神は摂理者として、人類の歴史、民族の歴史、個人の歴史への摂理をとおしても、御心を啓示されます。イスラエルの歴史、また、アブラハムやモーセやダビデの生涯の逆境と順境の生涯に、我々が神の御心を探り、あるいは、それを自分の人生に対する神の御心として適用できるのはそのためです。

b.内的自然を通しての啓示  内的自然としての理性を、中世のスコラ哲学は「自然の光」と呼びました。それは「恩寵の光」に対比しての呼称です。スコラ哲学は「人間は自然の光のみであるところまで神に近付くことができる」と考えました。つまり不信者であっても、自然を探究することによって神知識を得ることができるとしたのです。しかし、自然の光だけで人は神に近付くことができるかどうかということは、後に改めて論じなけれならないことです。それはともかく、内的自然を通しての啓示についての聖書の証言。

「律法を持たない異邦人が、生まれ付きのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責めあったり、また、弁明し合ったりしています。」(ローマ2:14、15)

 こうした証言に対して、現代の文化的相対主義者たちは、「『自然法』などというものは架空の産物にすぎないのであって、人類に共通の道徳法などはない。たとえば、我々は『人を殺してはならない』『姦淫してはならない』というのが、人類の良心に共通して記されている自然法であると考えがちであるが、ある種族においては、殺人も姦淫も善であるとされている」などと言うのです。しかし、これは現実を捕らえていません。実際に、よく観察するならば殺人も姦淫もあらゆる文化において原則的に悪とされています。ある特殊な状況下において、殺人が容認されるというだけのことである。たとえば、南米のある部族においては子どもを殺すことが正義となっているという表面的な報告がされると、やはり人類の良心に共通する自然法などというものは架空のことではないかと思われるでしょう。しかし、よく調べてみると、彼らはジャングルにおいて生きのびるために、二人までの子どもは抱えて走って逃げられるが、それ以上になるとそれが不可能になってしまうので、三人目の子は殺さねばならぬという状況が生じて、それが子殺しという社会の法になっているということがわかりました。つまり、自然法としての「殺してはならない」は彼らのうちにも存在しているのです。自然法の現実性については、C.S.ルイスが理論的かつ、実証的に明かにしているので参考にされると良い(C.S.Lewis,Mere Christianity 『キリスト教の精髄』邦訳あり。およびThe Abolition of Man)。

(2)特別啓示(超自然啓示)

 これは奇跡的方法をもって神が伝達し給う啓示です。例えば、アブラハムやモーセに啓示を受け取る人に対して声をもって伝達し、あるいはウリムとトンミムなどをもって、あるいはヨセフに対するように夢をもって伝達し、あるいは、アブラハムやロトやマリヤに対するように御使いを派遣します。旧約聖書によれば、アブラハムやマノアに現われた御使いのうちには、受肉以前の第二位格がいらっしゃったようでする。しかし、啓示の頂点は、なんといっても三位一体なる神の第二位格であるイエス・キリストの受肉です。

 これらの方法をもってなされた啓示は、旧新両約聖書に記録され保存されました。これは聖書の記者に対する、完全な霊感をもってなされたのです。ですから、私たちは、聖書を通して私たちにとって神が必要と認め給う特別啓示のすべてを知ることができるので す。

3.ことば啓示と事実啓示の並行性

 自然啓示は単独では十分に機能せず、特別啓示によって解釈が与えられてこそ正しい解釈が出来ます。これは堕落以前からそうでしたし、堕落後はなおさらのことです。

 堕落以前でも、アダムに対して神は単に外的自然と外的自然を通してではなく、ことばの啓示をもって、エデンの園の管理と禁断の木についての命令をお与えになりました。堕落後は、罪の汚染が自然啓示を曇らせてしまったので、特別啓示の果たす役割は一層大きくなっています。罪の汚染が内的自然である人間の精神に及んでいるので、人間は神の律法を明瞭に理解できなくなっているし、外的自然もまた本来の姿を失って神の栄光を十分に表わすには足りなくなっているのです。

 旧約聖書の列王記や歴代誌の啓示は、神が歴史のなかでイスラエルに与えた事実としての啓示と、その意味提示としてのことばの啓示とによって成っています。神は預言者を通して、イスラエルの悔い改めを迫り、もし悔い改めないならば異国の軍隊をもって彼らを裁かれると警告されました(ことば啓示)。そして、彼らがなおも悔い改めないときに は、彼らは裁きにあいました(事実啓示)。そして、歴史書の記者たちや預言者たちは、その出来事は神のイスラエルの罪に対する裁きであったことを告げています(ことば啓示)。

 キリストご自身も、十字架にかかられ復活される前に、その予告を言葉で少なくとも三度示されました。そして、神は十字架の出来事の意味を、霊感された新約聖書の記者たちを通して啓示されたのです。このように、啓示は「事実啓示」と「ことば啓示」の両方によって、十分に機能するのです。

 自由主義神学は聖書批判の立場からことば啓示を軽視して、事実啓示のみを強調する傾向がつよいのですが、もし、神が事実としての啓示しか与えてくださらないならば、私たちはきわめて不確実な神知識しか得ることはできないでしょう。事実とともにその意味を表わされるからこそ、我々はその事実の意味も理解できるというものです。

4.再生した理性と非再生の理性にとっての一般啓示の機能の違い

 一般啓示は、一見、再生者・非再生者の区別なく、つまり「一般に」提示されているものであるということから、自然啓示によって人はある程度まで神にちかづくことができるという見解があります。伝統的にはローマ・カトリックの自然神学の見方がこういうものです。それゆえ、トマスの神学の体系はその多くを非再生者である哲学者、格別、アリストテレスによっています。『神学大全』は問答形式で論述が進むのですが、問いが提出されて、それに答えるに当たって、その根拠としてアウグスティヌスたち古代教父とともにアリストテレスがしばしば引用されるのです。アリストテレスの形而上学の体系は、彼が自然啓示によって得たものであるから、キリスト教神学者はこれを自由に用いることができると考えるからです。この考え方は、第二バチカン公会議以後いよいよ拡大されて、異教のなかにも部分的啓示を積極的に認めるに至っています。

 「すでに古代から現代に至るまで、種々の民族のうちには、自然界の移り変わりと人生の諸事件の中に現存する神秘的な力について、一種の知覚が見られ、時には最高の神、あるいは父なる神についての認識さえも認められる。」(1)

 ローマ・カトリック的自然啓示観は、宗教改革において否定されたはずでした。「神学をするためにはアリストテレスを忘れなければならない。」というルターのことばは有名です。しかし、自然啓示についての聖書的な見方はどう言うものであるのかということ は、はっきりと提示されませんでした。もちろん、トマスの『神学大全』のように、ある神学の命題を召命するためにアリストテレスをあからさまに引用するというようなこと は、プロテスタント神学においてはなされることはありません。けれども、神の存在証明などという問題においては、キリスト者ではない哲学者たちの論証が引用される時代は続きました。『ウェストミンスター信仰告白』においても、自然啓示の不十分さが言われ、この不十分さを満たすために特別啓示があったと言明されるのみです

 「自然の光および創造と摂理のみわざは、人間を弁護できないものとするほどに、神の善と知恵と力とを表わすとはいえ、しかし、それらは、救いに必要な神とそのみ旨についての知識を与えるには十分でない。」(1:1)

 ところが、今世紀初頭、K.バルトが自然神学を徹底的に排撃しました。E.ブルン ナーとの自然神学をめぐる論争は有名です(『否』)。しかし、バルトの主張には時代的要請があって、反対の極端に走ったということもあったろうと思われます。当時ドイツでは、ヒトラー政権を支持する御用宗教団体「ドイツ・キリスト者」が、小羊のような角を生やしつつ竜のようにものを言っていました(黙示録13:11)。神は歴史を通じてアーリア民族による世界支配を御心として啓示しているという自然神学を持ち出したのです。バルトにはこれを徹底して排撃する必要があったのです。

 では、どこに真理があるのでしょうか。自然神学肯定の立場の人々がおりおり引用するローマ書1章は、自然啓示についてどのように言っているでしょうか。

「18というのは、不義をもって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対し て、神の怒りが天から啓示されているからです。19なぜなら、神について知りうること は、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。20神の目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこの方、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。21というのは、彼らは、神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。22彼らは自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、23不滅の神のみ栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た者と代えてしまいました。」ローマ1:18-23

 この箇所の要点をまとめましょう。神はたしかに自然を通して何らかの意味で非再生者にも啓示を与えています(18、19) 。しかし、その自然啓示を通して再生していない理性 は、救いについてのなんらかの積極的知識を受け取るわけではありません。かえって、自然啓示によって表わされていることは、「神の怒り」なのです(18)。神は自然を通じてその永遠の力と神性を啓示されていますが、非再生の理性はそれを知りながら、神に感謝も礼拝も捧げず、かえって、偶像礼拝に陥るのです。つまり、自然啓示は彼らを救いに至らせるのではなく、「神を知らなかったからあがめることができなかったのだ」などという弁解の余地をなくさせ、罪に定めるという機能を持つのです。

 以上は外的自然を通しての非再生の理性に対する啓示の機能についてですが、内的自然を通しての啓示もまた同様の機能を持つものです。

「彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことを裁かれる日に、行なわれるのです。」ローマ2:15,16

 すなわち、良心を通しての自然啓示によって、異邦人は自分の罪を認めるのですが、それによって救いに至るとは言われていません。この箇所は前の箇所同様、あきらかに、救いについての文脈ではなくさばきについての文脈のなかで語られています。

 筆者は非再生の理性に対する自然啓示の断罪的機能については、アウグスティヌスの 『告白』から学んだ点が多いのです。アウグスティヌスは、新プラトン主義哲学によって、神を一瞥するようになります。ところが、彼は神を知りながら悔い改め、神を礼拝しようとはしないで、むしろ、その神知識を誇るという傲慢の罪に陥っている自分に愕然とします。そして、プラトン派の哲学者たちに彼は同じ問題を見出しています。彼らは神を知りながら、神をあがめることをせず、偶像崇拝を容認しているということです。このことをアウグスティヌスはローマ書の上述の箇所によって解釈しています。つまり、自然啓示によって神認識は形式的には可能であるが、生全体をその神知識にふさわしく変貌させるにはいたらない。いな、自然的神認識はかえって、人のうちにある神への反逆の罪深い性質をあらわにさせるのです。神を知っていないで神をあがめないというのではなく、神を知っていながらあがむべき方として神を認めようとしないのが、非再生の理性の傲慢という罪深さです。(2)

 パスカルも哲学者たちについて同様の批判をしています(3) 。

 「哲学者たち。彼らは神のみが愛せられ賛美されるに値する唯一のものであると信じている。しかも彼らは自分たちが人々から愛せられ賛美されることを欲した。彼らは自己の堕落を認識していない。・・・彼らは、自分では神を知っていて、しかも人々が神を愛することだけは望ましくないと考え、人々が哲学者を愛することで満足してくれるように 願ったのだ!・・・」(パンセL142,B436)

 再生していない理性にとって自然啓示は確かに神についての知識を伝え、彼らはそれを一瞥するが、それが彼らを悔い改めと救い、創造主の礼拝へとは導きません。そのことによって、彼らの罪が一層明かにされ、弁解の余地なきものとされます。それは、丁度律法が、それ自体としては人々を救いには至らせず、律法が彼らを罪に定めるのと類似しています。

 しかし、再生した理性にとっては、自然啓示はことなる機能を果たします。すなわち、再生者はその光を頂いた霊によって、自然啓示に神の栄光を見、神のみこころを見出すことができるのです。詩篇148編や、主イエスの空の鳥、野のゆりのたとえを思い出しましょう。再生した理性は、星空にも、プランクトンの身体の構造にも神の栄光を見て、神をあがめるものです。再生していない理性は同じものを見ても、神のわざを一瞥することはあっても、悔い改め神を礼拝し感謝することはせずに、それを認識した己を誇るので す。また、人生の中に神が摂理によって起こされる様々な出来事にも、再生した理性は神の御心を探るのです。

 以上、まとめますと、一般啓示はたしかに再生者・非再生者の別なく、一般的に与えられていますが、その啓示の受領者によって果たす機能が異なるのです。非再生者にとってはそれは断罪的に機能し、再生者にとっては神をあがめしめるように機能するのです。

 ただし、ここに注意すべきことがあります。それはたとえイエス・キリストを信じ、再生したとはいっても私たちの理性は完全になったわけではなく、聖化の途上にあるという事実です。イエスを信じ、御霊の賜物を受けた私たちのうちにおいては、肉と霊との戦いがあります。ですから、再生したといっても私たち自身も、肉的になる時には、非再生者と同様の罪を犯すということです。先のパスカルの哲学者に対する非難のことばは、私たち神を知ることを求めている者たちの自戒のことばとしなければなりません。もし、ある瞬間、私たちが神を知ることによって、神があがめられることよりも、自分の神知識を誇るならば、あるいは神学を一種の知的遊戯としているならば、そのとき私たちは、かの哲学者たちと同じ過ちに陥っているのです。神を知る正しい目的は、ただ神をあがめることにあります。

5.啓示におけるキリストの中心性

 では、非再の理性がいかにして自然啓示を通して、神のみこころを十分に受容するようになるでしょう。キリストを信じ御霊を受けることによって、救われて再生することによるほかはありません。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。だれでもわたしを通してでなければ、父のみもとに来ることはありません。」キリストを通して神を知らなければ、その神知識はその人を救いへと至らせないのです。アウグスティヌスが真の神知識に至った鍵は、キリストの受肉の意味を悟ることによったの述べています。パスカルも先に引用しましたように、キリストを通じての神認識の絶対的必要性を強調します。哲学的な神の存在証明などによって、回心が得られると思ってはなりません。キリストの御名を宣べ伝えるべきです。

 その具体的な意味は、これから次第に明かにされていくでしょう。概括のみを申し述べれば、人となられた神キリストにおいて我々は神を知ると同時に人間を知ります。カル ヴァンが『基督教綱要』の序説に言うように、神を知ることと人を知ることとの知識は結び付いていなければなりません。

 正統主義でないとはいえ、K.バルトはこの点について明快に述べています。また、キリストを認めず、創造主なる神を知ろうとする者は、神を至高であるが抽象的・観念的にしか知ることができないという迷路に入り込んでいます。神は超越的ではあるが、我々とはどのような関係があるのかを見失うからです。また、キリストを抜きにして、聖霊体験において神を知ろうとする者は、別の迷路に迷い込むのです。神は我々と共にます方とされます、それが単なる主観的体験とどのように区別されるのかが分からないからです。また、私たちが旧約聖書を読むときに、そこにキリストにおける神の姿を見ることは可能であるばかりか、そうすべきです。また、我々が今日の体験として聖霊による慰めを経験するときに、我々はそこにキリストの姿を見ることができますし、またそうすべきです。キリストを離れて神を知ろうとするならば、我々の神知識は哲学的な観念論に陥るでしょうし、キリストを離れて聖霊を知ろうとするならば、私たちの聖霊観は魔術的な非人格的な力となるでしょう。私たちは、キリストにおいて御父を十分に知り、キリストにおいて聖霊の内住を経験することができるのです(4) 。


(1)『第二バチカン公会議公文書全集』中央出版社「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」2

(2)拙稿「アウグスティヌスにおける『光の体験』について−−『告白』第七巻を中心として−−」(『キリスト神学』第五号所収)参照。

(3)アウグスティヌスとパスカルの思想的類似性は、パスカルがアウグスティヌス主義者であったことによります。パスカルは、ポール・ロワイヤル修道院と深いかかわりを持つのですが、ここは当時のジャンセニスムの牙城で、ジャンセニスムは、ヤンセニウスというアウグスティヌス主義者の思想的流れを汲むものでした。

(4)バルト『教義学要綱』邦訳pp122,123 参照。新教出版社。

イエス・キリストの神

聖書に起源を持たない神観(内在神論・自然宗教)

 創造者なる神を受け入れない人間は、その代用品として被造物を神とするようになりました。「不滅の神のみ栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに代えてしまいました。・・・それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。」(ロマ1:23,25)被造物の内に神々を造り出す多神論と、被造物全体を神とする汎神論です。いずれも、神は被造物(自然)の内に存在するというので、哲学的には内在神論といいます。あるいは宗教的な表現では、自然宗教といいます。

 第一は、多神論。これは、世界の中に色々な神々があると考えるのです。多神論はその名の通り海の神、山の神、池の神、便所の神、かまどの神という具合に、世界の中の色々な要素の背後に色々の神々を考えることです。その神々は人格的であったり単なる呪わしい力として人格的ではなかったりします。人格というのは知性・感情・意志の統一的・持続的意識のある個体のことです。

 典型的な例は、『古事記』の神々、ギリシャやローマやエジプトの神話の神々、北欧神話の神々などなどです。インドのヒンズー教やモルモン教も多神論です。

 多神論における神とは、場合によって人格的でありえますが、同時に有限な神です。例えば、『古事記』に出てくるイザナギ、イザナミが居ますが、奥さんのイザナミは神であるのに死んでしまい黄泉の国に行ってしまったりします。アマテラスオオミカミはスサノウノミコトと兄弟喧嘩をして、弟にひどい目にあったので、すねて天の岩戸の中に隠れてしまったりします。またギリシャの神々は運命の下に支配され、あるいは、罪の生活に溺れ、夫婦喧嘩をするような神々です。ギリシャの神々において最も偉大とされるゼウスは、人間の女性に浮気をして、奥さんのヘラという女神に見付かりそうになると、その女を牛に変えてしまうといった我がままかってな神です。こういうわけで、多神教の神々はいわば、人間より三本ばかり毛の多い程度の神々です。

 このように、人格を持ち我々に身近ではありえるけれど(人格を持たないただの「力」という場合もある)、人間と同じように身勝手で、罪深く、弱いものそれが多神教の神々です。

 第二は汎神論。これは世界イコール神であるということです。汎神論の起源は歴史的には明かではありませんが、多神論をよくよく真面目に考えていくと、それでは不十分なことに気付くではありませんか。それは、神が有限であるからです。人生の海の嵐にもまれて困り果てているとき、神々に祈ったら、神々自身が運命の支配の下にあるというような有様では、なんとも頼りがいがないでしょう。それなら、神々をさえ支配している「運 命」というものこそ、神々以上の「神」ということにならないでしょうか。

 そういうわけで、素朴な多神論的宗教から抜け出て、哲学的に考える人々が自分の知恵で大抵行き着くところは、「自然」とか「宇宙の原理」「自然の生命の根源」「宇宙精神」これらが「神」であるという立場であり、一切は「神」の現われであるというのです。そしてこれと一体化することがすなわち、救いであるというのです。神を大海に例えれば、個々のものは波にすぎないのです。これを汎神論といいます。哲学思想や哲学的な宗教には、こういう汎神論が多いのです。ヘラクレイトス( 前535 頃-475頃) の自然学説とそれを引くストア派、プロティノス(204-269) を祖とするネオ・プラトニズム、新約聖書時代のグノーシス主義、近代ではオランダのスピノザ(1632-77) やヘーゲル(1770-1831) に代表されるドイツ観念論哲学は汎神論です。そして、その強い影響下にある自由主義神学も。パウル・ティリッヒの『組織神学』における啓示論の中のキリストに関する叙述は、グノーシス主義そのものです。現代の異端の統一教会の教え、また最近流行のニューエイジ・ムーブメントも典型的な汎神論です。

 なお、意外と思われるかもしれませんが、唯物論もまた汎神論の一種です。唯物論者もまた、宇宙に一定の法則を認めざるをえないからです。ただ汎神論は宇宙の法則を「神」と呼ぶことによって、その人格性をにおわせているのに対して、唯物論は宇宙法則である「神」の人格性をより率直に否定するという違いがあるのみです。

 仏教は実践にのみ関心があって、世界観にほとんど関心を持たない派もあります(1) 。ですが、ふつう世界観を言う立場ならば、それは汎神論に分類されるものです。仏陀(目覚めた人)はおシャカさんだけではなく、宇宙精神を体現した人は何度も色々な所に現われたとされます。そして、「これら多くの仏陀は永遠の唯一実在の顕現にほかならない。その実在がそれぞれの時と所とに応じて異なる名と姿とを備えて出現する。そしてその実在は真理そのものであり、宇宙精神というに等しい。このような唯一実在としての仏陀は法身とよばれ、それに対して個々の仏陀は現身仏とよばれる。・・・法身が宇宙そのものに等しいとすれば、万物は仏陀の法身の中に含まれる。宇宙は神そのものであると見る汎神論pantheism に対して、汎仏論panduddhism ともいえる。大乗仏教は大体においてこの説に基づいている。(2) 」と言われるとおりです。

 また、「神に酔う哲学者」と呼ばれたスピノザは『エチカ』で言います。彼は典型的な汎神論者です。彼の「神」は聖書に啓示された神ではありません。

「定理11 神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、は必然的に存在する。」

「定理14 神のほかにはいかなる実体も存しえずまた考えられない。」

「定理15 すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。・・・・神はあるあゆるものの内在的原因であって超越的原因ではない。(3) 」

 現代欧米に急速に浸透しつつあるニューエイジ・ムーブメントの最高の指導者の一人と言われるジョージ・トレベリアンは言います。

 「現象として現れたものの背後には、時間を超越した絶対的意識の領域がある。すべての多様性、無数とも言える事前の形態のすべてにも、そこには至高の一体性がある。それを神とよんでよいかもしれない。あるいはすべての呼称を越えたものとして考えてもよいだろう。それゆえに東洋において呼ばれるように『それ(That)』と呼んでよいかも知れない。・・・なぜなら現象界は究極的には霊から発しており、現象界での形は霊の固化したものとして感受されるからである。神の属性はすべてのものに浸透し、すべてのものを覆っている。従って神性はあらゆるところに存在する(4) 。」

 汎神論の主張は、「神」は世界(自然)と一体であり無限であるということです。それゆえ、この神は非人格的な原理のような物であるということになります。人格は知性・感情・意志をもつ個的な存在ですが、多様な現われをしている万物そのものである「神」がそうした人格であることはありえないからです。

 世界には善があり悪がある。見る物がおり見られる物がある。赤があり黒があり緑があり、黄色がある。光があり闇がある。男がおり、女がいる。人間がおり、その人間の中にはそれぞれ別々の人々である。この世は実に多様です。こうした多様性を生み出す一つのものは、人間の論理から言えば、善悪、男女、悲喜、赤黒黄色青を超越し、それらを同時にすべて含んでいるものということになります。そういうものが一個の人格であるとは人間の論理では考えられないのです。これらの一切を包み込んで、それらを現わす原理自体は、悲しみも喜びも怒りも超越している原理であると言わねばなりません。知る者と知られる者、彼我を超越していなければなりません。働き掛ける者と働き掛けられる者との区別を超越していなければなりません。なぜなら、汎神論の神は唯一であり、一切であるからです。したがって、汎神論における神は「神」とか「仏」とか言っても、それは人格ではなく非人格の宇宙原理あるいは精神ということです。

 汎神論における神と世界との関係は下の図の通り。一切は神に包含され、あるいは神の現われです。神々もまた「神」の現われと見られるので、汎神論は必ずしも多神論を否定しません。仏教がヒンズー教の神々を受け入れ、神社にも寛容なのは本質的にはそのせいでしょう。梵天、帝釈天・弁天、鬼子母神いずれも仏教守護をする神々です。あるいはポルフィリオス(232頃-304頃) いうネオ・プラトニストはもろもろの偶像礼拝を容認しています。自由主義神学が異教に対して寛容なのは、それが唯一神論ではなくなって、すで に、汎神論であるからです。

 こういうわけで、汎神論における神は、無限の非人格の単一の原理です。一方、多神論における神は、有限の人格または非人格です。そして、世界を超越する神を認めない宗教や世界観は、多神論か汎神論のどちらかしかありません。それは、当然のことで超越神がいない以上、自然のうちに神を認めるほかないわけで、その全体を神とするか、あるいは一部を神とするかしかありえないからです。

聖書に啓示される神−−超越・無限・人格−−

 では、聖書における神の自己啓示は神がどのようなお方であることを示しているでしょうか。唯一の人格でありながら、同時に世界を超越し、無限の神であるということです。

(1)自存性・超越性

 神は万物を創造されたお方です。万物が存在する前から、神は存在されるのです。また、万物が存在しなくなったとしても、神は存在されるのです。世界は「ありてなきもの」あるいは「なくてあるもの」ですが、神は「ありてある者」です。神に無いときはなく常にあるのです(出エ3:14、ヨハネ17:5、黙示20:11)。

 日本人の伝統的な宗教性というのは自然宗教といえましょう。それは人間の世界に興亡はあっても自然は永遠であるという考え方です。

 「行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず。よどみにうかぶうたかたはかつ消え、かつ結びて久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかとまたかくのごとし」と長明は言いますが、この場合、現われ消えるうたかた(あぶく)に例えられるのは「人とすみか」でありますが、これに対して永遠なものは「行く川の流れ」に象徴される自然でしょう。「夏草やつわものどもが夢の跡」と言いますが、平泉にたたずむ芭蕉は、かつて栄華を誇った人々がここに滅んでも、青草に象徴される自然は百年、千年、万年一日のように変らないというのです。自然宗教者は自然の内に永遠なるもの「ありてあるもの」を見たのです。「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」というのもそうです。さざれ石が大きな岩となっていくという進化の過程に、永遠のものを見て、そのように天皇の治世もまた永遠であることを祈っているのです。

 けれども、聖書は言います、この自然は「ありてあるもの」ではない、と。この自然もまた「ありてなきもの」であって、「ありてある」のはただ創造主なる神のみであると宣言するのです。万物はかつて神によって無から呼び出されたのです。そして、やがて万物が裁かれ更新される時、その白い裁きの座の出現を前に「地も天も逃げ去って、跡形もなく」なるのです(黙示録20:11)。

 こうした神観は、聖書の外の神観にはありません。汎神論は、神イコール世界ですから、世界の存在と神の存在とは同時です。多神論は世界が永遠で、神々は世界の中に生れてくるのです。神話を読むと、混沌の世界は初めからあって、そこから神々が誕生してくるというパターンであることがわかります。北欧神話や『古事記』を読んでみてください。神が世界とは他者であるということは、自存性から明かですが、この神と世界が他者であることを、神の超越性と言い、哲学的な表現では超越神論といます。

(2)人格性と無限性(5)

 聖書には、神が人格であられることがいずこにも現われています。けれどもそれらの記事は、神は有限なお方ではないかという印象を与える者です。たとえば創世記3:8で、その神がエデンの園を散歩しておられるという記事が出てきます。まるで、神は夕涼みにエデンの園に来られたという印象を持つでしょう。11:5,7では神はバベルの塔の様子を見るために天から降りてこられたとあります。ベテルでヤコブに現われたとあります28:1。またシナイの山で律法を授けたとあります(出エ19)。また神は契約の箱のケルビムの間に住んでいると言われます(1サム4:4)。あるいは、サムエル記には、神がサウルを王に選んだことを悔いたという表現が出てきます(1サム15:11)。全知であるお方が悔いるとは一体どういうことなのか、と私たちはとまどいます。こういうところを見ると、神は有限で、神は全知でもないという印象をうけるかもしれません。

 こうした記事から、宗教進化論者たちに次のような見解を抱かせました。つまり、ユダヤの宗教は初め多神論であり、ヤーウェの神はもともと石の神であった。後にカナンの地を征服したころから、カナンの地とイスラエルの神となり拝一神論となり、さらに後に絶対の唯一神論となった。と。

 けれども、こうした見解は聖書の啓示に一貫して反しています。なぜなら、聖書の啓示のユニークさは初めから、神の人格性と超越性・絶対性・無限性とを並行していることにあるからです。創世記のアダムとエバの創造の記事はとても単純な表現をもって記されていますが、その神は万物の創造主であることが前提されています(一章、二章四節)。バベルの塔の記事においても、神は本来のみ住いである天から降りて来られたとあるので あって、バベルという限定されたところに限界付けられて住んでいたのではありません。 サムエル記の神が悔いたというところはいかにも、神の人格を表わしていますが、すぐに神は悔いることがないと言われます。(1サムエル15:11,29)

 聖書において啓示されるところの神は、ある特定の場所にある特定の時間のなかに現われるように見え、ある場合には「悔いる」という表現まで用いられますが、同時に、その神は天にいます超越者でありまた全知全能の方であり、悔いることなどないと言われるのです。神は有限に見え、同時に無限に見えます。

 とても不思議なことです。どうしてでしょうか。しかし、本来私たちは神は無限であると啓示されている以上、有限を示す啓示として、それらの啓示を読み取ってはならないということです。では、なぜ神はあえて有限と私たちが印象を受けるような表現を用いて啓示されるのでしょう。私たちは、そういう啓示から何を読み取るべきなのでしょう。

 神が一見すると有限ではないかという印象を与える啓示をされる理由は次のことにあります。それは、我々人間の観念にとっては「人格」とは本質的に有限なものということなので、神が人格であることを表現されるには、存在においても能力においても有限なお方という印象を与えるような方法を取られるのです。先に、古代の神学者のことば「人が神を知ろうとすることは、かぶと虫が人を知ろうとするようなものだ」ということを引用しました。では、かぶと虫が人間を理解するためには、どうすれば良いのか。それは、私たちがかぶと虫にもわかることばで、かぶと虫語で私たちの思いを伝えるほかないわけで す。また、大人が幼子に対して分かりやすい比喩で語るように、無限の神は、啓示にあ たって、ご自分とご自分の御心を、有限な私たち人間のことばで語ってくださったので す。ですから、ご自分が人格であられることを私たちに伝達されるにあたっては、私たちの理解できる表現をとられたのです。アウグスティヌスは言います。

 「だから、この類の誤謬から人間の精神が純化され得るように、未熟な者たちと共に歩む聖書はいかなる種類の事物の言葉をも避けなかったのである。そして、これらの言葉から、私たちの知解力はいわば段階的に、神的にして崇高なものに向かって、あたかも育まれたもののように立ち上がるのである。なぜなら聖書は神について語るとき、物体的なものから採られたことばを用いるからである。たとえば、聖書は『あなたの翼の陰で私を守りたまえ』( 詩編16:8) と語る。また、聖書は、霊的な被造物から採られた多くの言葉を神に移し用いて、神が実際にそのようにあられるということではなく、そのように語られるのがふさわしいということを意味表示している。例えば、『私は嫉む神である』(出エジプト20:5) ,また『私は人間を創ったことを悔いる』( 創世記6:7)のように。・・・というのも、聖書はよく、被造物において見出されるものによって、いわば幼子にふさわしいたのしみをかたちづくり、それによって弱きものたちの情態を、あたかもその分限にした がって、あたかも一歩一歩より高いものを問い求め、より低いものを捨て去るようにと促すからである。・・・(6) 」

 神は実に、全知全能の無限者絶対者なのです。人間の頭の造り出す神は、被造物を神にしたてたので、人格だが有限、無限だが非人格という具合です。しかし、聖書の神は、創造者であり、人格でありかつ無限です。

(3)キリスト啓示

 こうした神の人格性と絶対性、いわば身近さと遠さをどんな啓示よりも、はっきりと私たちに示されたのが、御子キリストにある啓示ではありませんか。キリストのみが神を完全に知っておられます。御子神は私たちに、御自身がどのようなお方であるのかをはっきりと啓示されるために、人となられました。キリストのうちには、まさしく神の全能性と人格性とが一つになって現われています。私たちはキリストのことば、キリストの行動を見るときに、神を最もはっきりと知ることができるのです(ヨハネ1:18)。

 キリストは伝道生活の多忙さに疲れ果てて船の中でグッスリと休んでおられました。おつかれになったのです。ところが弟子たちに起こされて、やおら立ち上がるとキリストは風を叱りつけ、湖に命令されます。「黙れ、静まれ。」するとおおなぎになりました。そのことばの権威はまさしく天地万物の支配者のものです。(マルコ4:35−41)

 また、キリストはのどがかわきサマリヤの女に水を求めます。けれども、彼女にご自分が永遠のいのちの主であることを啓示されます(ヨハネ4)

 また、キリストは空腹を覚えられました。けれども、そのキリストがいちじくの木に呪いをかけられると、木は枯れました(マルコ12)。

 また、キリストは友であるラザロの死に涙を流されました。けれども、その後、ラザロを死者の中からその全能者の権威をもって呼び出されました(ヨハネ11)。

 そして、キリストは十字架の上で、惨めに死んでしまわれました。しかし、三日目に死に勝利されてよみがえられました。さらに私たち信じる者の内に聖霊において住んでくださるのです。その神の私たちとの親しさは殆ど、内在神論のシャーマニズムに似通うほどです。

 キリストを見るとき私たちはまさしく私たちと同じような「人」を見ます。疲労、悲しみの人、空腹を経験し、かわきと苦痛を経験される方。その微笑み、その優しさ、その怒り。キリストにおいて私たちは人格を見ます。けれども、キリストにおいて私たちは同時に、全知・全能の無限者を見ます。

 人間の考え出した神々は、一方で多神論のいう有限の人格でありました。また、汎神論の言う、無限の非人格でありました。けれども、聖書において啓示されている神は、無限の人格なのです。この受肉した神のことば、キリストにおける啓示のユニークさこそ聖書的な神観の特質です。神は超越者でいらっしゃいますが、その神はこの世界と格別人間に深い関心と愛を寄せておられます。ですから、上の図は次のように訂正されます。

 この点で、キリスト教における神観は、世界と神との関係を犠牲として神の超越性・唯一性のみを強調するイスラム教と区別されます。イスラム教は唯一神を信じる啓示宗教ですが、神の超越性と絶対性のみを強調します。神の定めは絶対であり、二次的原因を認めませんからその歴史観や人生観は運命論・宿命論です。一人のアラビアに出かけた人の手記に、こんな話を読んだことがあります。その人の家で雇っていた召使が、彼の大切な壷をガチャンと割ってしまったとき、言ったそうです、「アッラーの御心です。」召使は決して謝らなかったのだそうです。イスラム教徒がみなこういう逃げ口上に神を持ち出すわけではないので極端な例ですが、その世界観、神観をよく示すことです。神は万物を創造し、これを絶対の主権をもって治めていますが、それは人間の一切手の届かないまでに、超越的なのです。キリストの神性を認めないエホバの証人も、本質的にイスラムの神観に類似しています。

 また、キリスト教の神観は近代の合理主義者の理神論(デイズムDeism )とも区別されます。デウス(deus)とはラテン語で神の意味、デイズムとは、キリスト教の文化的伝統のあるヨーロッパで近代の哲学者たちが主張した神観です。イギリスのチャーベリーのハーバート(1583-1648) がその祖とされます。トーランド、ロック、ニュートン、ヴォルテールもそうです。デイズムでは、神は時計屋、宇宙はゼンマイ仕掛けの時計に例えられます。すなわち、神は宇宙を作りゼンマイをまいたのちは、これにノータッチでいらっしゃるので、宇宙はそれ自体の原理の中で動いている閉ざされた系です。神は宇宙の動きには関与されない。したがって、啓示や奇跡などはないというのです。デイズムは創造主を形式上認めつつ実質的には自然主義と同じです。もちろん救いもない。神と被造物はただ、創造の一時点で関係があっただけだというのです。デイズムは彼らの合理主義的世界観を満足させるために、聖書の啓示から不都合なものを取り除いた張り子の虎のような神観です。デイズムは、日本ではそれほど盛んではありませんが、ユニテリアン教会があります。

 しかし、キリストの神は、超越者絶対者である人格神です。天地万物を創造された後、これを摂理のみ手によって支配し、自らを被造物に啓示し、被造物との交わりを喜び、被造物を救うために自ら、被造物である人の姿を取って来られた。これが、イエス・キリストの神です。さらに、イエスは我等の内にお送りになった聖霊においてわれらの内に住んでくださるのです。これは驚くべき約束であり、現実であります。受肉や内住という奥義を見ると、キリスト教が超越神論であったか、むしろ内在神論ではないかと戸惑うほどです。そもそも、まことの神は私たち人間の理解を遥かに超えて素晴らしいお方であったのでした!

祈り  万物を超越していと高く永遠にして絶対者であられながら、いとも近く人生の同伴者となってくださった神。イエス・キリストの神様。あなたの御名を賛美いたします! 

 「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先に も、今も、また世々限りなくありますように。アーメン」ユダ24、25


(1)シャカ自身、世界が空間的にあるいは時間的に無限か有限か、霊魂と身体は同一かいなか、人間は死後なお存在するかいなかと言った、基本的な世界観・形而上学的な問題について、なんら決定的な答を与えていません。そういうことは、彼の関心外のことでした。彼の課題は「苦」を心の問題として徹底して解決することにありました。(大和昌平『縁起説の展開』p22,増谷文雄『阿含経』第五巻、筑摩書房1987年、pp31-55)。霊魂の救済、来世などは後代の教えです。

(2)渡辺照宏『仏教』pp51,52 、岩波新書

(3)『エチカ』岩波文庫版、畠中訳

(4)G・トレベリアン『アクエリアン・ヴィジョン』(米田秀訳、たま出版,1988)

(5)この項は多くをH.Bavinck,The Doctrine of God,Baker,pp15-17 によっている。

(6)アウグスティヌス『三位一体論』中沢宣夫訳、東大出版会pp4,5

三位一体論

 この項は欠かすわけにはいかないものの、率直に言って、筆者としても考察と理解の十分でないということを特に痛感している項目です。限界を感じつつも、基本的なことをここに記します。

1.三位一体の教義

(1)教義

 ウェストミンスター信仰告白第一章6節に次のようにある、「神御自身の栄光、人間の救いと信仰と生活とのために必要なすべての事柄に関する神のご計画全体は、聖書の中に明白に啓示されているか、正当で必然的な結論として聖書から引き出される。」

 エホバの証人などの人々は三位一体などは、聖書に啓示されていないと主張します。確かに「三位一体」ということば自体は、聖書の中にはありません。しかし、三位一体という神についての教理の意味していることが聖書に啓示されているのです。三位一体の教理は、上のウェストミンスター信仰告白のことばで言うならば、「正当で必然的な結論として聖書から引き出され」た教理です。聖書は神は唯一であると明白に啓示していますが同時に、聖書は御父は神であり、御子は神であり、御霊は神であると明白に啓示していま す。しかも、神は完全で分けることはできませんから、御父、御子、御霊がそれぞれ神であるということは、御父、御子、御霊が神の一部とか一面ということではありえません。御父、御子、御霊はそれぞれが完全な神なのです。しかも、神は唯一なのです。この聖書の啓示していることを一言でまとめたのが、三位一体ということなのです。

 神が唯一の方でありながら、同時に、父子聖霊がそれぞれにまったき神であるということは、人間の限られた理性には不可解です。このことを分かり易く説明するために、水のたとえをしたりする人がいます。

 例えば、「水は冷えると氷になり、解けると水になり、蒸発すると水蒸気になる。いずれも本質においては水であるが、様態において三つの違いがある。そのように神はお一人であるが、三つのあり方があるのである」というのです。確かにわかりやすくはありますが、これは「たとえ」の限界を出ません。これは様態的三位一体論ということになりま す。しかし、神が父・子・聖霊であるということは、単なる様態の違いではないからで す。三位はそれぞれ完全に神であるのです。

 神が三位一体であることは、神の啓示ですからそれをそのままに受け取るべきなのです。そもそも、我々被造物である人間が神を理解しようとすることは、カブトムシが人を理解しようとするようなことです。私たちが納得できる出来ないということは二義的なことです。そして、「まことの神は唯一でありながら、その内に三つの位格がある」ということを一言でまとめて表現するために、三位一体という用語を用いるのです。ラテン語trinitasの訳語です。

(2)神の唯一性

 この場合、聖書の中に明白に啓示されている真理は、一方では、神は唯一であるということです。

「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」(申命記6:5)

「わたしのほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしをおいてほかにはいない。」(イザヤ45:21)

 神は唯一であるという教理は、日本人には馴染みにくい者でしょう。キリスト教は排他的だ、と言ってしばしば非難される所以です。確かに、キリスト教えは排他的です。しかし、本当は排他的というのではなく、正当な主張をしているのです。

 この問題についての説明の仕方を申しましょう。ある牧師の説教からです。もしあなたが子供五人を連れて遊園地に行った時、末の子供太郎君が迷子になったとしましょう。すると園内放送が響きます。「迷子のお知らせをいたします。赤いズボンをはいて白い Tシャツの太郎君というお子さんが事務所に来ています。お父さんはお申しでください。」このとき、ほんとうの父親ならば「父親とこの世に呼ばれる人はたくさんいる。それなのに、『私こそ本当の父親です』などと申し出ることは排他的ではないか?」と遠慮するでしょうか。遠慮することが正しいでしょうか。そうではありません。本当の父親であれば、ほかにいかに多くの父親と呼ばれる人があったとしても、私こそ本当の父親です」と申し出るべきでしょう。

 この世には多くの神々と呼ばれるものがあります。けれども、まことの神がご自分こそ本当の唯一の神であると啓示されるのは正当なことなのです。

(3)神の三位性

 もう一方で聖書は、神には三つの位格があることを啓示します。聖書の啓示は、旧約時代から徐々にベールを外されて来ましたが、新約聖書にいたって最も明白にこの真理は明かにされます。しかし、旧約聖書でもすでに、神には複数の位格があることが暗示されています。

 旧約聖書がかかれたヘブライ語には「1」を意味することばが、二通りあります。ひとつは「エハド」であり、もうひとつは「ヤヒード」です。

 「ヤヒード」は、単純に「一つ」「ただ一つ」という意味です。たとえば創世記22:2「あなたのひとり子イサク」と用いられたり、詩篇35:17「私のただ一つのものを若い獅子から奪い返してください。」と一つしかない「命」の意味で用いられます(他に詩篇22:20、アモス8:10)。

 他方、「エハド」は、「一つのうちにおける多様性」を暗示する「1」を意味するときに用いられる言葉です。例えば、出エジプト26:6「・・・幕を互いにつなぎ合わせて一つの幕屋にする。」、同26:11「天幕をつなぎ合わせて一つとする。」、創世記2:24「ふたりは一体となるのである。」同34:16「・・・私たちはあなたがたとともに住み、私たちは一つの民となりましょう。」、エゼキエル37:17「その両方をつなぎ、一本の杖とし、あなたの手の中でこれを一つとせよ。」などはそうした用例です。

 では、冒頭のみことば「主はただひとりである」の場合にはどちらが用いられているでしょうか。実は、「エハド」が用いられているのです。「主はただひとりである。」という神の唯一性の宣言文には、そのうちに多様性が暗示される唯一性を示すエハドが用いられているのです。ここに、聖書を通して語られる唯一の神のうちには複数の人格があるという神秘が暗示されています。

 神のうちには複数の人格があるので、神は唯一のお方であられながら、時々、ご自分を指して「われわれ」とおっしゃいます。

「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに人を造ろう。・・・・』」(創世記1:26)

「私は、『だれが、われわれのために行くだろう。』と言っておられる主の声を聞いたので、言った。・・・」(イザヤ6:8)

 ここで神はご自分について、「われわれ」と言っておられます。唯一の神の内に交わりがあるのです。

 また主に遣わされた御使いが神とされているところがあります。創世記18:1から 21でアブラハムのところに現われた御使三人のうち一人は主御自身であるとされています。これは新約における啓示から推して、受肉以前の神の御子であると考えられています。なぜなら、御子は特に人への啓示をその務めとされるからです。

 また、神の御霊が人格であることが明白に啓示されたところがあります。「神である主は私を、その御霊とともに遣わされた。」(イザヤ48:16)「しかし、彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませたので・・・」(同63:10)

 このように啓示されていますが、旧約時代において強調されているのは、やはり神の唯一性のほうです。まことの神から遠ざかってしまった人間は、すぐに多神論に陥ってしまうので、まず神は唯一であるということを徹底的に教える必要があるからでしょう。新約聖書にいたって、神のうちに三つの位格があることが明白に啓示されます。御子の受肉と聖霊の注ぎが記述されているからです。イエスのバプテスマと関連して(ルカ3:21,22)。ここで、御子がバプテスマを受けたとき、天の父から声がして、御霊が注がれました。

 マタイ28:19でバプテスマの命令に関連して。ここには「父と子と聖霊の名によって彼らにバプテスマを授け」という言葉がありますが、ここでの名はギリシャ語本文では単数です。<baptizontes autous eis to onoma tou patros kai tou hyuiou kai tou hagiou pneumatos >あえて変な英語に直訳すればこの箇所は”baptizing them into the name of the Father and the Son and the Holy Spirit.." となります。普通に考えるとこれは文法的におかしいわけです。父と子と聖霊ですから当然「名」 は複数(onomata) のはずですが、それが単数なのです。それは、神が一人でありながら父・子・聖霊であることを示しています。

 ほかに2コリント13:13,1コリント12:4−6、1ペテロ1:2などを見てください。父子聖霊の三位が共に表わされています。

 聖書はこのように神が唯一であること、御父、御子、御霊がそれぞれ神であることを啓示しています。御子の神性についての証言は、ヨハネ1:1。エホバの証人はここ「ことばは神であった」というところは、神に定冠詞がないということを理由に、「神のような者」と理解します。しかし、ギリシャ語において定冠詞の有無は英語のそれとは意味が違います。例えば、明かに父なる神を表わす十八節の神は定冠詞がありません。また同じヨハネ福音書21章28節でトマスがイエスに向かって「私の主、私の神」と告白する時には、この神には定冠詞がついています。実際には、ヨハネ一章一節の「ことばは神であった」は冠詞を除いて倒置法とすることによる強調語法なのです。すなわち、「ことばはまさしく神であった」とでも訳すべきところです。

 御子が神であるという証言は、ほかに1ヨハネ5:20など。  聖霊は力という風に見られて、その人格を疑われがちです。詳しくは、聖霊についてのところで学びますが、使徒5:3,4などを参照してください。

2.父と子と聖霊

(1)神の内における三位の関係

 まず、被造物との関係ではなく、神自身の内における父と子と聖霊の関係を御言葉に学びましょう。

 御父は神性の根源として啓示されています。第二位格であるキリストは「ひとり子」 (ヨハネ1:18)として「みことば」(ヨハネ1:1)として「かたち」(コロサイ 1:15)として、啓示されています。子とは生む方から生れたものです。また、「みことば」は語る方によって発っせられたものです。また「かたち(像)」とは本体の写しです。生む方、発する方、本体こそ御父です。御子も御父も唯一の神でありますが、御父は神性の根源です。

 第二位格なる御子は、御父より永遠に生まれたものであり、御父のかたち(像)です (コロサイ1:18)。しかし、それは御子には存在しない時があったという意味ではありません。被造物である人間においては、父親が存在して子が存在しない時があるものですが、神においてはそういうことはありえません。御子は永遠の神です。コロサイ書において「御子は見えない神のかたちであり、造られたすべての者より先に生まれた方です。」と、「造られたすべての者」と「生まれた」が対比されているのは、御子は被造物ではなく、神性において御父と同一であることを意味しています。それは、丁度人が造った者は人形であって、人が生んだものは人であるというように。御子が御父から生まれたということが、被造物の場合のように子には存在しない時があったという語かいを招かぬために、御子は永遠より御父から生まれたと表現されます。

 それにしても、第二位格は「光」、「ことば」、「かたち」などと称せられますが、これは何を意味しているのでしょう。それは、子において御父が表わされる、啓示されるということを意味すると言えましょう。思いがあってそれが言葉として表現されます。光源があってここから見える光が発っせられます。見えない神が、御子において「かたち」とされます。まさしく、「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が神を説き明かされた」のです。

 御霊は、旧約聖書においてはルアハ「風」「息吹」の意です。しかし御霊はたんなる力ではなく、明かに神の位格であります。御霊はお語りになり(使徒8:29)、悲しまれる方です(エペソ4:30)。そのようなお方として、力を我々に付与されるのです。旧約では御霊は「神の霊」「聖霊」と呼ばれます(詩篇51:13)。新約聖書は、聖霊を「神(御父)の霊」とも御子の御霊、キリストの御霊とも呼ばれます(ローマ8:9など)。そこで御霊は御父より出る者ですが、御子よりも出る者です。御霊において御父と御子は結ばれています。しかし、御父は神性の根源です。それゆえ、テルトリアヌスは「聖霊が子を通して父よりの者である」と言います。

(2)被造物に対する御業における三位

 次に、被造物に対する御業における三位について学びましょう。すなわち、父なる神は「天地の造り主」とあるように、創造の御業についての前面に現われます。御子イエスについては、十字架の御業に焦点が当てられるように贖罪です。そして、聖霊についてはその聖化が代表的な御業です。それで、御父は造り主、御子は救い主、聖霊は慰め主という呼び方がポピュラーです。大ざっぱではありますが、こういうことも言えるのです。

 とはいっても、厳密には、三位の神はすべての御業において協働しておられます。例えば、創造の御業はどうでしょうか。創世記一章「初めに神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。闇が大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よあれ」とおおせられた。すると光ができた。」ここには主宰者なる神(御父)と神の霊そして、神のことばがあります。このことばが御子であることはヨハネ一章からわかります。「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。ことばははじめに神とともにおられた。すべてのものはこの方によって造られ た。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」

 また、贖罪の御業についても、御子イエスが一番めだつようですが、イエス受肉は父なる神の計画し御子を派遣し(ガラテヤ4:4)、聖霊が処女マリヤに働くことによってなされました(マタイ1:18)。また、イエスが伝道生涯から十字架へと贖罪のみわざをなさるにあたって、バプテスマを受けたとき、御父の声と、御霊の注ぎがありました(マタイ3:16,17)。御子イエスは、常に御霊によって御父に祈りつつその十字架への道を進まれました。キリストの復活は、父なる神が御霊によって御子をよみがえらせたのです(ローマ8:11)。

 聖化という御業においては、内住の聖霊が前面に出ていると言えます。けれども、その御霊はキリストの御霊であり、かつ父なる神の御霊です。が、これまた、聖化とはクリスチャンが神の子どもとして父なる神に似る聖なる者、完全な者とされることであり(マタイ5:48)、それはすなわち、父なる神がお定めになった通り御子イエスに似る者とされることです(ロマ8:29,2コリント3:18)。

 かように色々な御業から見るときに、私たちは父なる神は主宰者、御子はそのご計画の媒介者、そして、御霊はその御子が成した御業の適用者ということができるでしょう。贖罪を御父が計画され、御子が贖罪を完成・媒介され、御霊がその成し遂げられた救いを我々に適用してくださるのです。

3.三位一体の意義

 三位一体は啓示によって私たちは初めて知ることですが、まことの神が三位一体であるという事実を知り受け入れるときに、多くのことが神についてなるほどと理解されるようになるのです。

(1)絶対の愛の神(ヨハネ17:24)

 神が唯一の絶対者であるということ、神は自存者であることは、神は世界などなくても存在されるということです。

 神が愛であられるということは、神は交わりの神であるということを意味します。なぜなら、愛というものは他者との関係を要求するからです。ですから、唯一性のみを強調するイスラム教においては、神は血も涙もないものとなっています。唯一神教は神の超越性・絶対性を強調します。けれども、その人格性についてははっきり具体的なものをもちません。インドネシアに派遣された宣教師が言われたのですが、インドネシアはイスラム教が盛んであるが、同時に人々はもろもろの悪霊どもを恐れ、きょうあすの運命を知りたくて占いなどをしてもらうというのです。それはどういうことでしょう。神は唯一で偉大なお方であるらしい、けれども、余りにもはるかに遠いお方であって、我々の実際的な生活には関係ないということです。

 神はしかし、三位の神です。アウグスティヌスは、『三位一体論』において神の三位一体を説明して、「愛する者、愛される者、愛」の三位一体を説明しました。真実の愛は、必ず対象を他に求めるのです。自己愛は真実の愛ではありません。しかも、神は自存的な方であるということは、被造物を対象とせずとも己の内にしかも他者として、愛の対象を持つということです。ということは、神は被造物から超越した唯一の方でありながら、その内に他者を持たれるということです。(ヨハネ17:24)

 中世期にサン・ビクトールのリチャードは御子が御父から永遠に生れたことについて次のように言っています。

 「最高善、全く完全な善である神においては、すべての善性が充満し、完全なかたちで存在している。そこで、すべての善性が完全に存在しているところでは、真の最高の愛が欠けていることはありえない。なぜなら、愛以上に優れたものはないからである。しかるに、自己愛を持っている者は、厳密な意味では、愛(caritas)を持っているとは言えな い。したがって、『愛情が愛(caritas) になるためには、他者へ向かっていなければならない』。それで位格(persona)が二つ以上存在しなければ、愛は決して存在することができない。」

 さらに聖霊の発出について次のように言います。

 「もしだれかが自分の主要な喜びに他の者もあずかることを喜ばなければ、その人の愛はまだ完全ではない。したがって[ふたりの]愛に第三者が参与することを許さないならば、その人の愛はまだ完全ではない。反対に、参与することを許すのは偉大な完全性のしるしである。もしもそれを許すことが優れたことであれば、それを喜んで受け入れることは一層優れたことである、最もすぐれたことは、その参与者を望んで求めることである。最初に述べたことは偉大なことである。第二に述べたことは一層偉大なことである。第三に述べたことは最も偉大なことである。したがって最高のかたに最も偉大なことを帰そ う。最善のかたに最もよいことを帰そう。

 故に、前の考察で明かにしたあの相互に愛し合う者[すなわち、父と子]の完全性が、充満する完全性であるために、相互の愛に参与する者が必要である。このことは、以上と同じ論拠から明かである。事実、完全な善良さが要求することを望まなければ、神の充満する善良さはどこへ行ってしまうであろうか。また、たとえそれを望んでも実現することができなければ、充満する神の全能はどこへ行ってしまうであろうか(1) 。」

 リチャードがあたかも論理必然的に、まことの神は三位一体であらねばならないという話し方をしていることは問題があります。人間はその論理によって、三位一体を知ることはできないからです。が、彼は実際には三位一体を啓示された者として、これを「神は愛である」という御言葉をきっかけとして述べているのであって、これは傾聴に値することです。

(2)三位一体の神と教会(1ヨハネ1:3)

 キリスト教は、交わりの宗教であると言われます。それは言換えると、キリスト教は教会の宗教であるということです。同時に、キリスト教は付和雷同的な主体性のない人を改革し、主体性の確立した人格を形成するものであるとも言われます。なぜですか。その根本的理由は、我々が信じる神御自身が、唯一絶対の神であられ、かつ、交わりの神であられるということにあります。

 神は唯一絶対です。ですから、我々は神の御前にただ一人立たねばなりません。しか し、同時に一匹狼のクリスチャンなどというものは矛盾です。クリスチャンは、ただ一人神の前に立つ者であると同時に、兄弟姉妹とともに神の御前に立つのです。

 神の三位一体性と教会の交わりとの密接な関係を語っているは、1ヨハネ1:3です。

(3)試論:比較宗教的観点から

 世俗の比較宗教学には、我々の受け入れることの出来ない前提があります。第一にすべての宗教を単に一つの内在的な文化現象と見ることと、第二に、宗教の優劣を論じることをしないということです。私たちはキリスト教が唯一の真実な宗教であり、ほかの宗教は偽りであると聖書から知らされています。しかし、異教とキリスト教を比較することは無意味ではありません。私たちの聖書的な比較宗教的観点とはキリスト教のみが唯一絶対であることを前提とし、異教を相対化して比較をすることによって、キリスト教の本質を明かすることです。そのような営みは、旧約の預言者たちも行なっていることです。

 聖書は異教とはなんであるかについて、少なくとも次の二面を語っています。第一に、もろもろの異教は、創造者なる神に背を向けた人間たちが、まことの神の代用として被造物を拝んでいる倒錯の結果です(ロマ一章)。その意味では、もろもろの異教は人間のうちに残された神への渇望が倒錯した形であらわれたものであるということができましょう。

 第二に、サタンや悪霊が、偶像礼拝の背後に跳りょうしていることをも聖書は示しています(1コリント10:20、黙示録13:11,12)。サタンはまことの神の真似をしたくてならないやからです。もともとが神のようになろうとして、落されたのですから(イザヤ14:12−15)。ですから、サタンは自分を神に仕立てあげて、拝まれることを願ってやみません。荒野の試みの時、サタンはあつかましくも、御子にまで自分を拝みなさいと要求したではありませんか。しかし、その仕業は結局サル真似にすぎません。完全なる神のなさることを真似できるわけがないのです。したがって、もろもろの宗教形態は、まことの啓示宗教の不完全な真似事なのです。旧約聖書における幕屋についての学びをするならば、表面的な学びをしていると、それがなんと神社と構造的に似ていることかと思うでしょう。けれども、さらに学ぶ時に、両者には本質的な違いがあることを見出すでしょう。

 けれども、もろもろの宗教が何を不完全ながらも理想として目指そうとしたのか、あるいはサタンがどんな面を神から盗み取って偽宗教をねつ造したかを観察するならば、まことの神の完全さが一層明瞭になろうと言うものです。

 宗教の一つの課題は、神の唯一絶対性を指差すことです。およそはかない人間が神に頼るのは、神が絶対者であるからです。イスラム教がそれでしょう。イスラム教は旧約聖書の一部を聖典としているわけで、私たちはここに全能の父なる神との類似を見ます。

 しかし、超越的な絶対者を拝む宗教の欠点は、その抽象性です。つまり、神は余りにも遠くはるかな存在であって、どのような存在かわからないということです。彼らにとっ て、神はあまりにも偉大で見ることも近付くこともできない方なのです。そこで宗教の第二の課題は、見えない神が見えることです。具体的人格のうちに具現されているということです。例えば、仏教は汎神論ですが、歴史の中に出現したブッダのうちに宇宙精神が具現していると教えられることです。私たちはここに御子の受肉との類似を見るでしょう。 しかし、かつてそういう宇宙精神を具現化したような立派な人格がいたとしても、すでに過去の人となった彼を尊敬しているだけでは、この日その理想的人物のように生きることは難しいのです。宗教は過去の出来事をうんぬんし、理想的人格を指差すだけでなく、きょう生きる力、また明日進むべき道を与えねばなりません。「日本の宗教ほ本質は シャーマニズムやアニミズムであり低次元の宗教である」と断言するインテリ・クリス チャンが多いのですが、そう簡単には言うことはできないのではないかと思います。そういうクリスチャンにとっては、もしかするとキリスト教はなにか思想か学問のようになっているのではないか、聖霊の働きのリアリティを知らないのではないかと懸念します。そうして、こういう発言をしている限り、キリスト教は日本の民衆の中に土着して行くことは難しいのではないでしょうか。多くの人々が新興宗教のシャーマンたちに、お告げを求めたり霊的な力を求めるのはそういうことでしょう。

 まことの神に背を向けながらも、人の宗教的本能は神の絶対者であることを望み、ま た、神がどのようなお方であるかを具体的に知ることを希望し、さらに、きょう生きる力を神に渇望します。しかし、人が造りサタンが背後に跳りょうするこの世のいかなる宗教も、これら三つの求めを同時に満たすものではありません。ただ三位一体の神を啓示する聖書の福音のみが、神の絶対性と人格としての具体性とを啓示し、かつ生きる力を与えるものなのです。

「神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れととこしえの主権は神のものです。」1テモテ6:14,15

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。・・・いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」ヨハネ1:14,18

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたとともにおられるためにです。」ヨハネ14:16


(1)P.ネメシェギ『父と子と聖霊』南窓社pp204-206  本書はカトリックの神父に よって書かれたものであるが、日本語で入手できる三位一体論のモノグラフとして有益。

創造と摂理−−生きる意味−−

 ここでは創造と摂理を学びます。創造については、すでに神論を学ぶなかで異教との比較をして、内容的にはすでに学んだのでいたって簡単にすませ、摂理について比較的丁寧に学び、かつ、私たちの生きる目的、また、苦難の意味について御言葉に教えられたいと願っております。

1.創造

(1)無からの創造

 この秩序ある世界がいつどのようにして出来たのかということは、人類にとって普遍的な疑問でありました。古代人はそれをどう考えたかを神話によって表現しています。

 ヘシオドス『神統記』によると、世界の初めは、かたちもはっきりしないどろどろした固まりで、天も地も海もみなごちゃごちゃに混じりあっていました。これをカオスといいます。このカオスから最初に生れたのがガイアだった。なんで生れたかは分かりません。偶然というほかないでしょう。さて、ガイアは大地を象徴した女神で、広い胸を持っていた。そこでその胸があらゆる神々の住所になった。このガイアから愛の神エロス、暗黒の神エレポス、天の神ウラノス、海の神ポントスなどが生れた。

 まず混沌の世界があり、そこから神が生れてきてその神がさらに神々を産んで彼らが世界を秩序付けていくという筋書きは、古代オリエントの神話でも北欧神話でも古事記でも同じです。「初めに混沌ありき」です。

 こうした天地の始まりについての考え方は、哲学者によってもっと洗練されますが基本は同じです。プラトンという哲学者は神の創造についてテーマイオス篇という書物で記しています。それによると、造り主である神(デミウルゴス)は設計図(イデア)を見ながらそれに沿って、材料(ヒュレー)を加工したのです。ですから、これは創造とは言わずに形成論と呼ぶべきでしょう。これは、人間が家を建てたり、料理を作ったりするということから推論した思想ということができましょう。

 また、プロティノスという人が言ったのは流出という考えです。神からすべての存在は流出して、神から遠ざかるにつれて存在の段階は低くなるというのです。けれども、本質的に言ってここでは神と被造物とは連続しています。産出論ということができます。これは生命の誕生という自然の過程から類推されて出てきた思想と言えましょう。神話における世界の始まりは、この形成論か産出論に分類されるでしょう。形成論にしても、産出論にしても人間が自然を観察し、あるいは、人間の営みを観察することから類推して考え出したところの天地の始まりについての考え方です。

 現代人として気になるのは、やはり進化論でしょう。ここでは詳しく扱いませんが、一言だけ言えば、進化論は「始まり」についてはなにも語っていないということを知っておくことです。進化論はなにか秩序あるものが、さらに秩序あるものへと変化していく過程を説明しているのであって、始まりについては沈黙しています。また、かりに進化が事実であるとしても、その進化のメカニズム自体がどのようにして始まったかについても沈黙しています。神による特別創造を否定する人々における、ものの始まりについての見方は結局は、神話と同じく、偶然に混沌の中から生命が誕生したという見方をします。

 以上、形成論にせよ、産出論にせよ、進化論にせよ共通していることは、自然がすべてであるということです。神も人も犬もミミズもオケラも同じところから出たのです。そういうわけで、これらはいずれも汎神論としての構造をもっています。

 聖書における創造についての教えは、きわめてユニークです。永遠であるのは神御自身だけです。そして、神は自分とは別に(超越的に)に無から世界を創造されました。材料などないのです。いいえ、もっと正確に言うと、神は材料を無から創りそしてこれを形成されたのです。また、生み出すことと創造とははっきりと区別されます(コロサイ1:15)。神は万物を無からご自分の御心に沿って創造されました。

(2)創造と人生

 伝道者の書12章1節「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」この一点だけ学んでおきましょう。「空の空。すべては空。日の下でどんなに労苦しても、なんの益になろう。」と語り始める伝道者は、神を見失った人生の空しさをえんえん11章にわたって語ってきます。そして、12章に至って、人生を意味あるものとする唯一の原理を語ります。それがすなわち、あなたの創造者を覚えよということです。

 それは、創造した方がいてこそ、私たちの人生には目的と意味があるという単純です が、とても大事な事実です。偶然に発生したものには、目的はありません。偶然あつまったゴミに目的も意味もないのと同様です。この宇宙が偶然混沌から生じてきたとすれば、宇宙には意味はありませんし、私たちの存在は無意味です。ある意図があって作り出されたものには、その創造主の立てた目的があります。私たちは創造主を知る時にのみ、自分の生きる目的を知ることができます。「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」(コロサイ1:16)。万物は御子によって、御子のために造られました。それゆえ、この被造物全体と私たちの人生の目的は、キリストの栄光を現わすということに尽きます。

「問 人の主な目的はなんですか。

 答 人の主な目的は神の栄光をあらわし、神を永遠に喜ぶことである。」 (ウェストミンスター小教理問答書 問答1) 

2.摂理

(1)摂理の三つの側面

 摂理という言葉は日本語ではなにか、非人格的・無機的な感じがしますが、本来はラテン語でプロヴィデンチアという言葉で、語源的にはプロというのは「前に」、ヴィデ−レは「見る」という意味の語から合成されて、「予め見る」「配慮する」という意味です。神の被造物に対する配慮を、摂理というのです。私は「配剤」という訳語はピタリであるなあと思うのです。配剤とは「医者がその患者の状態に応じて、必要な薬を調合する」という意味から、一般に「ほどよく取り合せる」という意味への広がりを持っています。魂の医者である神様が、神を愛する患者のために、ある場合は病気を試練という薬、ある場合は事業の成功という薬、ある場合は失恋という薬という具合に、薬を取り合せて病んでいる魂を快方に導くということです。また、ある人は案配という訳語を用います が、これもなかなかの名訳であります。「ほどよく並べること」と国語辞典が言いますように、神が私たちの人生に起こり来る様々な事件をほどよく並べることによって、私たちを御自身の御心にかなう者に形成して下さるということです。ともかく、神の摂理には配慮、配剤、案配といったニュアンスがあることを理解してください。

 伝統的に摂理は次の3つの側面から説明され、便利でもあるのでこれにならいます。

 第一は保持としての摂理です。万物は無から創造されましたが、それを放置すればそのまままた無へと帰っていくでしょう(黙示録20:11)。また、保持がなされなければ秩序ある物は無秩序にかえって行くものです。しかし、神は被造物を保っていてくださいます。これを保持と言って、摂理の第一の働きです。ノアの洪水のあと、神様はノアに今後世界を水によって滅ぼすことはなさらないと約束されましたが、これは保持の約束と言えます。

 摂理の第二の側面というのは、被造物との協働ということです。これはどういう意味かというと、神様はこの世に配慮をされるにあたって、いつもいつも奇跡ばかりを起こされる訳ではなく、被造物をお用いになられるということです。例えば、神様は人を用いられるのです。モーセという人を用いて出エジプトをなさいました。さらに神は、神を信じていない人々をも神の民の訓練や救いのために用いられます。イスラエル民族の歴史を考えてみましょう。イスラエルは神に選ばれた民でありながら、偶像礼拝に陥りました。この時、神は異教の国であるアッシリアをイスラエルを懲らしめる「怒りの杖」として用いました(イザヤ10:5−7)。もちろんアッシリヤはそんな自覚を持っていたわけではなく、意識としては自分勝手にイスラエルを滅ぼしたのですが、それが神の摂理の下にあったのです。

 摂理の第三の側面というのは統治としての摂理ということです。歴史の中には色々な混乱やサタンの妨害などが生じてくるものです。けれども、神様はこれを統治しておられて、いかにサタンが跳りょうしようとも、終局的にご自分の御心を遂行してしまわれるのです。これはなんと素晴らしい知恵ではありませんか。例えば、サタンは義人ヨブを神に訴え神からの許可を頂いて、彼をさんざんに苦しめます。けれども、その結果ヨブは噂で聞いていた神をその目で見るという経験へと導かれます。

 統治としての摂理の頂点は十字架の出来事です。また、サタンは神の御子を当時のユダヤの宗教家を用いて殺害してしまいます。ところが、これこそ神の人類救済の要としての十字架であったのです。その事情は1コリント2:8にあります。「この知恵を、この世の支配者たちは、誰一人として悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」「この知恵」とは「十字架のことば」です。すなわち、神の御子が十字架に辱めを受けて死ぬことが、人類救済のいしづえとなったということです。もし、サタンと手下の悪い天使どもが御子の十字架の死が人類救済事業となると知っていたならば、彼らは御子を十字架につけるようなことはしなかったというのです。彼らは、神の御子を十字架につけてしまえば、神のわざはそれでとどめられると考えていたのです。ところが、それこそ人類救済のかなめでした。サタンは歯がみしたでしょう。実に神は、サタンの悪巧みをも逆手にとって、私たちの救いを成就したもうのです。ですから、神を恐れる私たちはいかなるときにも大胆に希望をもって生活できるのです。

(2)摂理と人生の苦難

 一人の若い牧師が先輩の牧師に質問をしました。「先生。私は信仰が未熟です。どのように祈ったら、信仰が成長するでしょうか。」先輩は答えました。「神様に『試練を下さい』と祈れば良い。試練こそ信仰を成長させる者だと御言葉にあるからだ。」  

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:2−4)

 主は「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈るようにと、弱い私たちに勧めておられますから、試練を求めるのは危険であると私は考えますが、それにもかかわらず、私たちの信仰の成長のために神が私たちの人生に試練を案配してくださるということは事実です。試練は、私たちの信仰の成長のために必要不可欠です(ローマ5:3−5,1ペテロ1:6,7)。それは、私たちの心があまりにかたくなで、神はこれを打ち砕く必要がおありだからです。打ち砕かれたたましいにこそ、御霊は思う存分に働き、御霊の実を結ばせ給うからです。

 ロマ8:28−30を開いてください。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画にしたがって召された人々のためには、神はすべてのことを働かせて、益としてくださることを私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」

 神の救いの計画としての摂理とクリスチャンの人生を関係付けている御言葉としてローマ書8章28節は非常に的確な言葉であり、また、励ましに満ちた言葉です。しかし、私たちはここに言う「益としてくださる」という意味がどういう意味であるかを正しく理解しなければなりません。それは病気が直るとか、お金が儲るとか、事業が成功するという種類の益を意味していません。これは、続く御言葉から明かなように、「御子と同じ姿」とされることであり、「義と認められ、栄光を与えられる」にほかなりません。つまり、御子イエスに似た、清く、忍耐に富み、愛に満ちた者とされる、つまり、御霊の実を結ぶということ、それが「益」なのであります。つまり、神は摂理をもって私たちを聖化されるということです。

 神様は私たちを御子と同じ姿とするために、すべてのことを働かせてくださるのです。そして聖書は格別、苦難こそは私たちを、聖化するために神が用いられるものであると言うのです。ですから、私たちが神の意図されるところを理解していれば、神の御心は私たちのうちにおいて、速やかに成就されるでしょう。ヘブル書12章4節から13節を順に見て参りましょう。

 5節。まず、注意点が二つあります。第一は「主の懲らしめを軽んじてはならない」ということです。それは、病気にせよ人間関係のトラブルにせよもろもろの困難が、神から来ている懲らしめであるのに、それがあたかも偶然わけもなく訪れた運命のように考えてしまうことです。一切は神の摂理です。実にあなたの髪の毛の数も数えられているので す。どうして、たまたま苦難があなたを襲うでしょうか。たとえ悪魔が働いていたとしても、神は究極的に彼を統治されるのです。パウロは自分の体の欠陥をサタンのとげと呼びましたが、同時にこれは神から頂いたものとして神を賛美しています。ぼんやりしていてはなりません。神の摂理に敏感にならねばなりません。

 もう一つの注意点は、「主に責められて弱り果ててはならない。」ということです。それは、神に見離されたと考えて、弱り果ててしまいやけくそになってはいけないということです。神は私たちを、滅ぼすために懲らしめるのではありません。主にあって立たせるために肉によって立っている者を倒し、主にあって生かすために、肉にあって生きている者を殺すのです。

 6−8節。神の愛をあくまでも信じ抜かねばなりません。クリスチャンには苦難が付き物です。それは当然のことです。神の子どもなのですから、神は父として訓練して下さるのです。広場で子供が何かたむろしていたずらをしています。そこに男の人がやって来ました。そして、そのなかの一人だけグイッと捕まえて泣いているのも構わず引きずり出して叱っています。それを見れば、ああ、あれはあの子のお父さんなんだなと誰でも思うでしょう。神はクリスチャンを我が子として特別に扱われるのです。聖書に、さばきは神の家から始まるというのも、そういうわけです。

 ですから、苦難にあう時、「なんでクリスチャンなのに・・・」とつぶやいてはなりません。クリスチャンだからこそです。神に見捨てられた人は、悪事をしても地上では成功するでしょう(詩篇73:3−12)。永遠の裁きまで放置されるのです(同18−20節)。けれども神の民は悪事をすれば、神に懲らしめを受けるのです。永遠に滅びないためです。悪事は神の栄誉をになった神の子にはふさわしくないからです。

 とはいえ、何か悪いことをした場合だけ苦難がやって来るのではないことをもわきまえねばなりません。悪いことをした罰として苦難を神がもたらすというのは、事実です。ヘブル書も「罪と闘って抵抗しない」生温い信者への神の懲らしめを語っています。旧約でも、イスラエルの罪に対する神の懲らしめが繰り返し語られます。けれども、それがすべてではありません。罪に対する罰ではない、苦難があることをも聖書は語っています。例えば、ヨブの場合がそれです。また、生ながらの盲人の場合がそうです。後者の場合、主イエスは「この人が生まれながら目が見えないのは、この人の罪のためでも、両親のせいでもない。神の御業が現われるためである」と明言されました。

 10節。しかし、いずれにしても、試練の目的は明かです。「私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。」とあります。また11節には「平安な義の実を結ばせる」とあります。すなわち、御子の姿にするためです。悪事をなした時にはその悪から引き離すことを先ず目的として、神は苦難を与えます。理由の分からない、つまり悪事の罰ではない苦難においては、さらに高度な目的です。つまり、どんな見返りがなくとも主を賛美する、いかなる状況でも主を賛美することを学ぶために、神はおん自ら義人と認めたヨブのような信者を、一時的にサタンの手に任せることもあるのです。

 11、12節。試練にあった時の態度。ここに率直に言われるように、試練が悲しいのは事実です。けれども、「悲しい悲しい」とわめいているのではなく、「訓練された人々に」とあるように訓練として受け入れて耐え忍ぶことです(7節)。苦難の中で運命の嵐に翻弄されているのではありません。神がその摂理のみ手の内に、あなたを訓練しておられるのです。そのことをまず、悟ることが大事です。そして、その試練のただ中でも神を賛美することが出来るならば、そのテストには合格したのです。私たちの人生の目的は、神を礼拝し神を賛美することであるからです。

ハイデルベルク信仰問答書 第27、28問。

「問 神の摂理とは、何であると思いますか。

 答 それは、神の全能なる、今働く力であります。その力によって、神は、天と地と、そのすべての被造物をも、み手をもってする如くに、保ちまた支配して下さり、木の葉も草も、雨も日照りも、実り豊かな年も実らぬ年も、食べることも、飲むことも、健康も病気も、富も貧しさも、すべてのものが、偶然からではなく父としてのみ手によって、われわれに来るのであります。」

「問 神の創造と摂理を知ると、どのような利益が、我々にあるのでしょうか。

 答 我々は、あらゆる不遇の中にも、忍耐深く、幸福の中には、感謝し、未来のことについては、われらのより頼むべき父に、よく信頼するようになり、もはや、いかなる被造物も、われわれを、神の愛から離れさせることはできないようになるのであります。それは、すべての被造物は、全くみ手の中にあるのですから、みこころによらないでは、揺るぐことも動くこともできないからであります。」

祈り  摂理の神様。あなたの御手が私を導いて下さることを感謝します。思いがけぬ出来事に直面するときも、そこにあなたの御手を見る霊の眼をお恵みください。そうしてくださるならば、私の魂はいかなるときにも揺るぐことなく、あなたをたたえてあるでしょう。摂理の神よ!

人間について−−文明の問題−−

1.神のかたち

 人間とはなんであるかという問いに対して、多くの人が多くの答を出してきました。アリストテレスは人間とは社会的動物であると言い、パスカルは人間は考える葦であると言い、進化論者は人間は生物進化の頂点にある生物であるというでしょう。

 聖書は人間とは何であるというでしょうか。創世記1章26、27節。

「そして神は『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよ う。』とおおせられた。神はこのように、人を御自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」

 聖書は人間とは「神のかたち」であると言います。「神の似姿」であると。その意味するところはなんでしょうか。

(1)交わる者

 まず、このところから言うと「われわれ」と自称する唯一の三位一体の神が、似姿として人間を創造し、「男と女とに彼らを創造された」とあることからして、人間は交わる存在として創造されたということができます。三位一体の神がそのうちに完全な愛の交わりを持ち給うように、人間もまた人格的な交流をする存在とされているのです。

 その交わりは、まず神との関係における交わりです。「神よ。あなたは私たちをあなたに向けて造られました。それゆえ、私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。」とは有名なアウグスティヌスのことばです。

 二つには、隣人との関係における交わりです。  主イエスが、律法を要約されて言われたことは、人間の存在の究極の目的を言われたのです。

「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くしてあなたの神である主を愛せよ。」

「あなたの隣人を自分と同じように愛せよ。」

 人の究極の目的は、第一に創造主なる神を愛すること、第二に、隣人を自分と同じように愛することです。他の一切の営みは、この目的のために奉仕すべきものであります。

(2)真の知識、義、聖

 新約聖書における人間の再創造のことばを見ると、人間が本来どのような神のかたちに創造されたかがわかります。

エペソ4:23,24「またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」

コロサイ3:10「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」

 こういうわけで、伝統的に神のかたちとは真の知識と義と聖という三つの側面が言われます。それは、抽象的に言えば知性と道徳性と宗教性ということです。人のことをホモ・サピエンスと言いますが、これは「知恵ある人」という意味のことばです。つまり、知性という面から人間とはなんであるかを捕らえた表現です。道徳性というのは責任を問われうる自由な存在であるということ。ネコが魚屋さんの魚を盗んでも道徳的責任は問われません。が、人間が同じことをすれば道徳的責任を問われます。ネコは空腹で魚を目にすれば、本能にしたがってそれをパクリとやってしまうものですが、人間はどんなに空腹であってもかりにそれが死を意味するにしても、パクリとはやらないという可能性を持っているのです。人間は自由であるということです。宗教性とは人間は祈る存在であるということ。

2.目的達成のための二つの任務と善悪の知識の木

 神は、人が神を愛し隣人を愛するという目的を達成するために、二つの使命をお与えになりました。

(1)宣教命令「生めよ。増えよ。地に満ちよ。」

 これは単に人間が増えるようにということではありません。ただ増えるということならば、ノアの時代には増えに増えていたのです。しかし、神はこれを滅ぼされました。ここで言う「増えよ」とうことは、神のかたちを担うまことの神を礼拝する者、隣人を愛する者をふやせということです。今日の堕落後の世界に住む我々について適用するならば、子弟に信仰を継承させよという命令であり、すべての国の人々を弟子とせよという宣教命令です。

 まことの神を愛し、隣人を愛する者を地に増え広がらせ、地を治めさせることによっ て、神は世界を神の栄光の舞台とされようとしたのです。

(2)文化命令「地を従えよ」

 次に、「地を従えよ」です。これは普通「文化命令」と呼ばれます。「地」とは創造主以外のもの被造物一般を意味します。

 その根本的な意味は、第一に自主的になることです。被造物の奴隷にならないこと、神の友となることにより王になることです。ニッサのグレゴリウスはこう言っています。

 「キリストによって人間が救われるということはどういうことなのか。それは人間が神とともに働き、そして最初の人間アダムの堕罪以前の状態すなわち恩寵に満たされ、何らの不足も不満も不安もない、そして神とともにあたかもその友となって暮していた状態、神の友となるという状態への回帰です。まさに神の友である以上、もはやこの世の何者をもその心の主とする必要もない。したがってだれの手下でもないということ、それゆえ、本当に自主的であるという状態です。」

 第二に、労働と文化形成です。労働が厭わしいものであって本来なければ良いものという考え方は、ギリシャ的な考え方です。ギリシャ語ポノス、フランス語トラバイユ、英語レイバーいずれも労働とともに、苦役という意味を持っています。そういう異教的な見方は、中世のローマ教会の聖俗二元論にも影響しました。カトリックでは、この世の仕事は俗なるものとして積極的な評価がされませんでした。そういった影響でしょうか、時々エデンのそのはゴロゴロ昼寝をしていてもなんでも食っていいという所であると誤解している人があります。この世での労働をも神の聖なる召しであるとして、労働をも神の支配の下に奪還しようとしたのは、聖書に立ち返ったプロテスタント宗教改革者です。

 実際、神はアダムに最初から労働命令を出しています(2:15)。仕事は堕落以後の呪ではありません。堕落の後、確かに労働には呪がはいってきて、苦悩をも含むようになりましたが、それは本来祝福をともなったものです。丁度、出産が堕落後苦悩を伴うものとされながらも、やはり、祝福としての意義を失わないのと同様です(創世記3:16)。

 文化形成とは、自然に働きかけるということです。自然に働きかけることによって、自然のままではないものを造りだすのです。それは、創造主なる神の似姿として造られた人間にふさわしい仕事ではありませんか。料理も、学問も、仕事もろもろもみな文化的営みです。自然界にはジャガイモはあっても肉ジャガはありません。料理はすぐれて文化的な営みです。私たちは、主婦であれ、職業人であれ、学者であれ、学生であれ、「私がこの務めについているのは神からの召しによるものである」という自覚を持つことが、とても大事なことです。

『台所の祈り』 主よ、私の小さな台所を祝福してください。 お料理をする時も、お皿を洗っている時も、 私の心をいつも喜びで満たし続けてください。 あなたの祝福を私の家族みなでいただくことができますように。 そして、あなたが再びおいでになるときの心ぞなえができますように。アーメン。」

(3)善悪の知識の木の意義

 神はアダムに、エデンの園のすべての木から取って食べてよいが、中央にある善悪の知識の木だけは取って食べるなとおっしゃいました。この木は、神こそ、この園のほんとうの王であるということを示していました。アダムは園における王でしたが、それは神が彼を王として任命されたからです。アダムは、一本の保留された木を見るたびに、自分の人生の主権者は神であるということを思い出すことができたのです。善悪の知識の木は、彼が自分の主権者である神を思い出すためのよすがであったわけです。

 それはちょうど私たちが七日間のうち、一日を神のものとして特別に取り分けることににています。あるいは、十分の一を神のものとして特別に取り分けることに似ています。そのように一部分を神のものとして聖別することによって、私たちは自分の人生に対する神の主権を確認します。また、自力で生きているのではなくて、神に生かされて生きていることを思い出すのです。

 園の中央のあの木が「善悪の知識の木」と呼ばれ、神のものとして聖別されたのは、私たちの人生における善悪を定める権威を持っていらっしゃるのは、神なのだということを意味しています。逆にこの木から取って食べることは、「神などはいらない。自分の人生の善悪は自分勝手に決める。私が私の神だ。」という反逆の態度表明を意味しました。

3.堕落した人間

(1)堕落した人間の根本性質(神ぬきの自律性への欲求)

 「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目は開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」という蛇によって入ってきた誘惑により、人は堕落しま す。堕落した人間の罪の基本的性質は、神ぬきで、神に反抗して「神のようになろうとする」ということです(創世記3:5,22)。神は確かに、救済の終局の目的を御子によって私たちを御自分に似る者とすることとしておられますが(マタイ8:48,ローマ8:29)、それ は、神に従順な者に対する恵みとしてなされる御業です。ところが、万物の創造者であ り、主権者である神のみが自律的なお方でありますが、被造物である人が自律的になろうとし、自力で神のようになろうとするのです。神こそが善と悪をお定めになる方であるのに、人でありながら何が善であり、悪であるかを自分で決めようとするのです。神の御顔を避け、神の支配をのがれ、自分の力で生きようとする、そういう自律への欲求が堕落した罪人の本質です。それが罪であると生まれながらの人は、認識することができませんから、ある年齢に達した実力派の歌手が「マイウェイ」において「すべては私の決めたままに」と歌いあげることが英雄的なこととして響くのです。

 堕落によって、「神のかたち」はどうなったでしょうか。それで人間から神のかたちがすべて消滅したわけではありません。創世記9:6には堕落した後の人間もまた「神のかたち」であることが語られています。人間は、堕落の後も知性、道徳性、宗教性を失っていません。しかし、真の知識は、神ぬきで自律せんとする偽りの知識となりました。神抜きの世界観を持ちたいという欲求が、神に背く堕落した知性にはあります。無神論、唯物論、無神論的進化論いずれも堕落した知性の産物です。狂った知性は暴走して核兵器を造り、地球を破壊しつつあるのです。

 人の道徳性は神抜きで正義・善をうんぬんしようとする道徳となります。まことの神のみをあがめる聖なる宗教はまことの神に背を向け偶像をあがめる偽りの宗教となったのです。つまり、人間は形式的には神のかたちであることを止めません。もし止めたら、人間でなくなってしまいます。人が堕落した時、神のかたちはそれが内実において倒錯したものとなったのです。

(2)都市文明はカインの刻印を帯びている

 文化は本来、堕落前からの神の命令によっているものです。しかし、堕落後の人類の歩みを見るときに、文明というもの特に都市文明というものが、カインの刻印を帯びているということに気付きます。文明は神を恐れ神に祈るセツ系の民のうちにではなく、カインの子孫に生み出されるのです(創世記4:16−24)。カインの子孫の中に、初めて家に住む者が現われ、牧畜を始める者が現われました。音楽を生み出したのもカインの子孫であり、鉱業・冶金業を始めたのもそうです。

 カインの刻印とはどういうことでありましょう。それは4章16節に見るように「カインは神の前から去って」ということです。神に背を向け、神なしで生きていこうとする人間の自律的態度から都市文明が生まれているということです。神の守りを信じられない人々は、異常なエネルギーをもって自然災害や猛獣という脅威や人間どうしの争いから己を守り、さらに攻撃するために、さまざまな文明の利器を生み出したのです。そして、これはやがて神に代わるもの、偶像としての文明となっていくのです。後のバベルの塔に象徴されるものです。

 しかし、文明によって本当に人間は自律し、自由になれるのでありましょうか。いい え。私たちは現代人が文明の奴隷になっているという事実を見るのではありませんか。金銭の奴隷、核兵器の奴隷、物質主義の奴隷になっているのです。偶像とは常にそういうものです。人間は、偶像によって自分をある恐怖から自由にしようとして、それにいのちをつぎ込むのです。最初、それはうまく行っているように思われます。しかし、気が付くと自分自身がその偶像の奴隷になって、偶像によって滅びるのです。偶像礼拝とは、まことの神ではないもの、つまり、被造物の奴隷となることであります。

「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼ら は、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに造られた者を拝み、これに仕えたからです。」(ローマ 1:24,25)

 人はお金さえあれば、幸せになれる。貧困から自由になれると考えて一生懸命にお金を蓄えますが、何時のまにかお金の奴隷になっているのです。金の奴隷となった人は、すべてをお金という尺度で計るようになり、友との交わりも家族の交わりも破壊され人間疎外が生じています。

 また、人は科学こそ人間を自然の脅威から救い出す者であると信じて、科学の進歩にすべてのエネルギーを注ぎ込みます。しかし、科学がいまや人類を滅亡の危機に陥れています。科学者たちは、科学知識の偶像礼拝に陥って、科学が本来、神への愛と隣人への愛を目的としている手段に過ぎぬことを見失っているのです。

 また、現代の日本では教育が偶像となっています。子供の教育には、あらゆるものを犠牲にしてつぎ込んでいるという有様は、どう見ても偶像礼拝です。子供は塾にかよって、遅い時間に帰宅するので一人で食事を取ります。これを個食というそうです。「うちの子は塾に行くので教会の礼拝にはもう来ません」というクリスチャンの親がいたりします。神を捨て、家族の愛を捨て、あらゆるものを教育という偶像の犠牲として捧げて、それによって幸せが頂けると信じ込んでいるのです。では、それによって人は幸福になるのか。ならないのです。教育、教育とカナキリ声を上げながら、教育の荒廃が生じているのが現実です。これはまさしく偶像礼拝者のなれの果てです。

 これらすべてはカインの刻印を帯びた偶像礼拝としての文明形成のなれの果てであります。創造主を離れるとき、第一に神を愛すること、第二に隣人を愛することを目的とされていることを見失い、文明それ自体が自己目的化し、人間自身を破壊していくのです。

 本来、文化的営みの一切は、神を愛すること、隣人を愛することという目的に奉仕するために位置付けられるべきものです。芸術至上主義、科学至上主義、会社至上主義、経済至上主義、家庭至上主義(マイホーム主義)、国家至上主義いずれも被造物の奴隷となる偶像礼拝であって、結局は人間を破壊するのです。

むすび

 真の自由は、被造物ではなく、創造主なる神をあがめるところにこそあるのです。そのとき、もろもろの被造物を、自分の足の下に従えて人は自由となることができるのです。これこそ、主イエスのことばの意味です。

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えてすべて与えられます。」

「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのち(プシュケー自然的生命) を愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのち(ゾーエー)に至るのです。」

人間と自然

創世記1:26、 2:15、 3:17、18

 環境保護が焦眉の課題とされている現代、聖書的な人間と自然との関係を学ぶことは重要なことです。ニューエイジはユダヤ−キリスト教は人間を自然と他者なるものと位置付け、自然を人間の支配の対象として位置付けたために、今日の環境破壊を来たらせたのであると主張し、環境問題を解決するためには、人間を神である自然の一部とみなす東洋的な汎神論が重要であるとしているのです。私たちとしてはこの問題について、聖書的な認識をもつことが必要です。

 創世記の初めの3章は人間と自然との関係について述べています。

1.本来の人と自然

「そして、神は『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよ う。』とおおせられた。」創世記1:26

「神である主は、人をエデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」創世記2:15

 ここには堕落以前の本来の状態における、神が命じた自然と人間の関係が記されています。人間は自然を支配するということ。その支配のありかたというのは、「耕し、守る」ということであるということです。

 一般に「支配する」ということばは、現代の民主主義といわれる時代のなかでは嫌われることばでしょう。「支配する」というと、自分の利益と欲望とのために我がまま勝手を働く暴君の仕業であるというのです。しかし、聖書においては権威を与えられたものが正しい統治をするということは、賞賛されるべきことです。正しい統治とはどういうことでしょうか。主イエスは、聖書的な統治について、次のようにおっしゃいました、「あなたがたも知っている通り、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間ではそうではありませ ん。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:42−45)

 「耕す」ということばはヘブル語でアバドと申しますが、これはしもべ(エベド)ということばと同じ語源のことばであることは興味深いことです。地を統治する人間は、地に仕えるようにこれを治めるように神様に求められているのです。

 現代、環境破壊問題についてキリスト教を否定して東洋的汎神論を持ち上げようとする運動が盛んです。彼らによれば人間は自然の一部であることをわきまえよというのです。原理的にいって、汎神論によると人間は自然に働きかけるべきではないということになります。しかし、これは理想主義というよりも夢想主義です。人間が人間であるかぎり文化的営みをするのです。自然に働きかけ、自然のうちにないものを造りだしながら人間は生きるように造られているのです。環境保護を訴える人たちが、プルトニウムの長距離の海上輸送を批判して監視船を出しますが、その船も自然界に存在しているわけではなく、人工的に造りだされた者です。

 人間は自然の一部にすぎない存在ではないのです。神によって自然の統治者として召され置かれた者なのです。問題は人間が自然を統治するということにあるのではなく、人間が自然をいかに統治するかということにあるのです。そして、聖書は基本的にはこれを暴君としてではなく、「耕し、守る」ように仕えるように自然を統治すべきであるというのです。

2.呪われた地で

 ですが、創世記3章を見るともう一つの厳しい堕落後の現実が出てきます。すなわち、人類の堕落後、地は呪われてしまっているという現実です。「食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地はあなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは一生、苦しんで食を得なければならない。土地はあなたに対して、いばらとあざみを生えさせ、あなたは野の草を食べなければならない。」(創世記3:17、18)田畑にはいったらすぐにわかることですが、人間のために有益な植物よりも、いわゆる雑草のほうずっと伸びる力が強いのです。雑草だけのことではなく、自然一般が堕落以前のように人間の支配の下に服従しているわけではありません。野獣が人間を襲い、病原菌が人間を苦しめ、ダニやゴキブリは有害です。堕落後、被造物は人間の統治に服従しなくなっているのです。

 先にカイン一族に見たように、人間は文明をもって歯向かってくる自然を押えつけるべく文明を発明しました。武器が発明され、また殺虫剤や除草剤が発明されたのです。堕落後の世界に住む人類としては、夢物語の世界ならばともかく、現実にはただ優しく「耕 し、守る」だけでは自然が治められなくなったのです。容易に服従しようとはしない、攻撃をしかけてくる自然を力をもって押えつける、そのような支配力が必要となったので す。そして、近代文明が登場するまでほとんどのばあい自然のほうが人間に対して優勢でした。ところが近代文明の登場によって形勢は逆転しました。今や人間は文明の力をもって、呪われた地を支配し、破壊し、そして、自分たちの住んでいる生活環境まで破壊してしまったのです。

 私たちが聖書から教えられることは、理想を目指しつつ現実的であるということです。私たちは科学文明を神とは思いません。しかし、自然が神であるとも思いません。神は創造主のみです。そのしもべとして、人間は自然を「耕し、守る」リーダーシップをもって統治し、歯向かってくる自然には適度に力をもって対処していく、聖書はそういう現実的な理想主義を教えているのです。

創世記3章

 罪について、もっとも適切に深く教えているのは創世記の堕落の記事です。そこで、ここではまず創世記の3章と4章をたどりつつ、罪について考察しましょう。

1.悪の起源を論じること

「あなたが私のそばに置かれたこの女が・・・」(創世記3:12)

「へびが私を惑わしたのです。」(創世記3:13)

 へびが女を誘惑し、女はその誘惑にまんまと乗せられて罪を犯してしまいます。そして、男は女に誘惑されて罪を犯します。へびとは黙示録の12章を見ると、この背後には悪魔の跳梁があったことがわかります。しかし、だからといって私たちは悪魔が罪の原因であると言ってはなりません。そのようなあやまちは最初にアダムが、ついで女が犯しました。「あなたが私のそばに置かれたこの女が・・・」「へびが・・・」と彼らは言ったのです。彼らは悪魔に責任転嫁をしたり、あるいは、神に責任転嫁をしたのです。

 悪魔は罪に誘惑します。しかし、罪を強制して犯させることはありません。人間は自己の責任をもって罪を犯すのです。ですから、私たちはまたも悪魔の罠に引っかけられて、「人間の堕落は悪魔のせいだ。じゃあ悪魔を造ったのは・・・」などと無益で不敬虔な神学論議を発展させるべきではありません。

2.「善悪の知識の木」の意味

「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその説き、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:16、17)

 悪魔の人間に対する策略のポイントは、一つに絞られていました。あの園の中央にある善悪の知識の木です。神は人を神の代理人として園を委ねられました。しかし、園の中央にある木だけは保留なさいました。それは、人がこの木を見るたびに、自分は今この園で王として振る舞っているが、その王としての任務をくださったのは神なのだということを思い出すためでした。この園の大王は神であり、自分は神にお仕えするしもべとしての王なのだという自覚をするためでした。自分の上に神の主権を確認するためのよすがが、善悪の知識の木でした。善悪の知識の木は、神の権威のシンボルでした。

 あの木が善悪の知識の木と呼ばれるのも、この観点から理解できます。あの木は、神が人間にとっての善悪をお定めになる権威をもっていらっしゃるということを示しているのです。神は人間に対して、「あなたにはわたしのほかに、ほかの神々があってはならない」「あなたの父母を敬え」「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「偽証してはならない」といった戒めをお定めになる権限を持っていらっしゃるのです。

 ですから、逆に、人がこの善悪の知識の木を侵すということは、人間に対する神の主権を拒否することを意味しました。神の権威を侮ることを意味しました。「私の人生の善と悪はおれが勝手に決める。私がしたいことが善であり、私がしたくないことが悪なのだ。神になど口出しされたくない。」という人生の態度を意味したのです。昔、ギリシャのソフィストが「人間は万物の尺度である」と言ったことは、まさに堕落したアダムの子らしいセリフです。近代文明も人間理性を万物の尺度とするという原理によって進んできました。その出発点にいたのはルネ・デカルトです。彼は確実な認識を求めて、まず一切を疑いました。神の存在をも疑いました。そしてたどり着いたのは、「疑っている私が存在するというこの事実だけは疑い得ない。」という結論つまり、「我思う、ゆえに我あり」に到達します。そして、これを唯一の公理として、神の存在を証明し、一切のことを証明することを彼の哲学としたのです。まさしく、善悪の知識の木を自分のものとした人間の哲学です。

 もっと身近なことを取り上げましょう。現代日本はまさに神の権威のシンボルである善悪の知識の木を侵してしまった人間の悲惨が露呈された時代ではないでしょうか。人々はマモン(カネ)を初めとするさまざまな神々に仕え、若者たちは父母を敬うことなど忘却し、中学生はナイフをもって同級生や教師を殺害し、主婦は不倫ブームに色めき立ち、女子高生は肉体を売って荒稼ぎをし、地位ある人々は賄賂漬けで法廷に引き出されても「記憶にございません」の一点張り・・・。しかも、罪が発覚しても「やりたいことをして何が悪いのか。私がしたいことが善であるのに。」と恥じることを知らないのです。

 人間はもともと神の被造物であり、神の権威の下にあってこそ、自分の存在の意味を知ることができ、神が人間に関して定められた善悪を知ることができたのです。人はたしかに神のかたちに創造され、だからこそ人間の心には永遠・絶対への憧れがあります。けれども人間自身は永遠でもなければ絶対でもないのでした。今でも神ぬきの科学によって人間は一切を知りつくし、自らを幸せにできると思っている人々がいますが、それはすでに破れた夢です。その夢を見させたのはだれか。「あなたは神のようになれるのです。」とささやいたあの古いヘビです。

3.律法と罪

 神の権威は具体的には、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。」と神のことばとして表現されました。そこで悪魔は神のことばに不信を抱かせ、神のことばを否定するというところに人間を引きずり込もうと考えました。

 ヨハネの手紙第一3章4節の「罪とは律法に逆らうことなのです。」という言葉はまことに簡単な罪の定義であり、ウェストミンスター小教理問答書の第13問答はここから「罪とは、神の律法に少しでもかなわないこと、または、これを犯すことである。」と罪の定義をしていますが、簡単に見えて本質的で適切な定義です。

 神に反逆するということは、より具体的にいえば、神の命令に背くことです。神の命令とは律法です。ことばは人格の代表です。あなたがある人を信用しているかどうかということは、その人がいうことを信用するかどうかによってわかるでしょう。あなたが、ある人に畏敬の念を抱いているかどうかは、より具体的にはあなたがその人のことばに服従するかどうかではかられます。言葉は人格の代表であるからです。また、律法がなくても罪はあるのですが、律法によって露わになるのです(ローマ5:13)。

4.傲慢

 「あなたは神のようになれる」と悪魔は女を誘惑しました。アウグスティヌスは「傲慢はすべての罪のはじまりであり、人間の傲慢の始まりは神からの離脱である」と言いました。人間の罪の始まりは人間が己の分を越えようとするところにあります。

 ギリシャ哲学の伝統では、人間の罪とは人間の不完全さと弱さのせいであるとされ、それゆえ人間の救いとは、人間が完全になり強くなること、つまり、神のようになることです。これはギリシャ哲学にかぎったことではなく、聖書以外の諸宗教に共通していることです。仏教の理想は成仏することですし、インドの古代哲学でも梵我一如が最高の理想です。

 ところが、聖書は、人間の罪とは自分が被造物であって弱い存在であるという、その分を越えて神のようになろうとしたところにあるというのです。神になろうとすることが理想であると考える異教と、神になろうとすることこそが罪の本質であると主張する聖書と、なんという大きな違いでしょうか。このことを指して、ある神学者は「キリスト教は宗教の廃棄である」と断じました。

 神のようになろうとするということは、神のように何者にも依存せず自律的に生きられると考えることです。また、神のように自分を世界の中心として生きようとすることです。また、神のように自分をあくまでも正しいとして生きようとすることです。そのように生きることは、事実、自律的で世界の中心で正義である神においてのみ正当なことですが、神に生かされている被造物にすぎない人間が、自らを自律的存在と思い、世界の中心と思い、自分をの罪を認めず正しいとするのはなんというおろかなことでしょうか。そして、実際、アダムと女の堕落直後の姿を見ると、まさにそのような愚かな傲慢さが彼らのうちに始まっていることに気づきます。そして、私たちが自分自身とこの世界の罪といわれるもののなかには、すべてこの罪の性質が潜んでいることに気づくでしょう。

5.権威の問題−−夫婦の秩序・社会の秩序の変化

 堕落以前、夫と妻はどういう関係にあったのでしょうか。いわゆる横一列の友達関係のようなものだったように誤解する「民主主義的な(?)」解釈をする人々がいますが、そうではありません。堕落以前、夫はかしらとして妻を愛をもってリードし、妻は信頼をもって夫に従うという、互いの分をわきまえた自発的協力関係にあったのです。

 この解釈が正しいことは、キリストを信じる敬虔な妻たちに、新約聖書でしばしば、「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。」(エペソ5:22)「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。」(コロサイ3:18)「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。」(1ペテロ3:1)と命じていることからもあきらかです。キリスト者は救われて、夫婦の状態についても堕落した状態から本来の状態へと回復させていただくのです。妻としての本来の状態は夫を信頼して服従するということなのです。そして、夫としての本来の状態とは、かしらとして、いのちを捨てるまでに妻を愛し導くことです。

 本来的に、神は夫と妻の間に秩序を立てて、それぞれに異なる務めを与えていらっしゃいます。夫には、神を畏れつつ自らはかしらとして妻を愛をもって仕えるしもべのハートをもって指導する務めが与えられており、妻にはこれに喜んで従うふさわしい助け手としての務めが与えられています。堕落前は、夫と妻はそれぞれの分をわきまえて愛による指導と信頼に満ちた従順という関係・秩序があったのです。聖書は、家庭における政治体制は君主制です。キリストが大王であり、夫は大王から王としての職務に任じられており、妻は王である夫の権威の下にあってよき助け手に任じられています。子どもたちは神が両親の権威の下に置かれています。それは専制君主制ではなく、聖書という憲法に則る立憲君主制です。

 神は堕落後の女に向かって「あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる。」とおっしゃいました。ここにいう「恋い慕う」ということばは、創世記第4章7節「罪は戸口で待ちぶせして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたはそれを治めるべきである。」における「恋い慕う」と同じです。罪が人を恋い慕うというのは、罪が人を誘惑して己の思うがままにコントロールしてしまおうと願っているという意味でしょう。ちょうど、悪女デリラがサムソンを恋い慕いつつ自分の言いなりにしてしまったように。同様に、堕落後の妻が夫を恋い慕うという意味は、妻が夫に神が与えられた権威をないがしろにして、自分が夫をコントロールしたいという欲望を抱くようになるという事態を意味しています。

 これに対して夫が妻を支配することになるというのは、不従順な妻に対して夫が暴君的な支配をするようになるということを意味しています。妻が傲慢になって夫の権威を侮り、夫は己の王としての立場を傲慢な心で守ろうとして暴君的になるのです。そして夫が暴君的になればなるほど、妻は夫に反抗的になるか、かりに服従しても奴隷的な服従をするにすぎなくなるのです。こうして堕落前の<愛による指導と信頼に満ちた従順>という自発的協力の関係は崩れて、<暴君的支配と奴隷的服従>という強制的秩序に立ち至ったのです。

 神が立てた権威と秩序をわきまえた自発的協力の関係は、堕落後強制的な秩序に変容しました。こうした変容は、夫婦関係のみならず、家庭や社会における秩序一般においても生じました。確かに強制的秩序は究極的な意味では望ましい姿ではありませんが、神は摂理のうちに強制的秩序をもって、社会が完全に崩壊してしまうことを防止していらっしゃるようです。たとえば、神は、人間社会にある程度の秩序を維持するために剣の権能(警察権)をこの世の権力者に与えておられるから、キリスト者はこの世の剣による秩序をも重んじるべきであると聖書は語っています(ローマ13:1−7)。

 権威を侮ることは、個々の戒めを犯すよりも、もっと重大な罪であると聖書は語っています。イスラエルの民が荒野でさまざまな罪を犯したとき、神は忍耐に忍耐を重ねてお取扱いくださいましたが、神の立てた権威であるモーセに触れようとした人々に対してはただちに裁きをくだされました。ミリヤムは悪性の皮膚病で撃たれ、コラたちは地にのみ込まれました(民数記12章、16章)。神はご自分がお立てになった権威を重んじられるのです。社会秩序を建物に例えると、個々の戒めは窓やドアやふすまであり、立てられた権威は土台であり柱です。個々の戒めが犯されても社会秩序の補修が効きますが、立てられた権威そのものが侵されるならば社会秩序全体が根もとから崩壊してしまいます。

 そこで神はご自分がお立てになった権威(代表権威)を重んじる人々を賞賛されます。ノアの息子セムとヤペテは、神がお立てになった権威である父の過ちにもかかわらず、父を敬ったことによって子々孫々にまで祝福を受けました(創世記9:18−27)。ダビデはサウル王が彼の命をつけねらったときにも、サウルが主に油注がれた王であることのゆえに、サウルの命を取ろうとしなかったことによって主の祝福にあずかりました(1サムエル24:6、26:11)。彼らは自分の上に立てられた神の代表としての権威の人となりや行動を見るのではなく、信仰の目をもってその代表権威を立てられた神を見ていたのです。代表権威が失敗するとき、私たちの信仰が試されます。

 現代は権威をあざけり侮ることを英雄視するような時代です。しかし、キリストの民は神が権威をお立てになっていることを信仰の目をもって見る者でありたいものです。

6.罪と恥

 ルース・ベネディクトが『菊と刀』において日本文化を分析して、西洋文化が罪の文化であるのに対して、日本文化は恥の文化であると言ったのは有名なことです。罪とは対神的なものであり(そして無神論化した世界では対良心的なもの)、恥とは対人的なものです。

 創世記の堕落記事によると、最初の二人の人間は「善悪の知識の木の実」を食べたとたんに「目がひらけ」裸であることを恥じるようになったとあります。恥の意識というものは、その根を対神的な罪に持っているのです。両者はベネディクトのいうようには、切り離してはならないし、分離できないものでありましょう。

7.性と対自的罪

 男女二人はいちじくの葉っぱで腰おおいを作ったとあります。それが腰おおいであり性器を隠したことからみて、これはあきらかに性的な欲情が罪の結果として、ほしいままな状態になったことにからんでいると思われます。神の戒めを破った結果、性欲が良心の統治に服さなくなってしまったことを示します。つまり、性欲の問題にあからさまになるのは、人間が自己自身とうまくやっていけなくなってしまったということです。良心に反することを自らやってしまうようになったのです。

 アウグスティヌスは罪の問題を性欲とのかかわりにおいて考察したのですが、その考察はあまり近年の神学者には評価されていないむきがあります。しかし、性は人格の中心にかかわりのある問題です。ローマ書1章でも、神に対する罪の第一として偶像礼拝をあげ、ついで、性的倒錯について進み、そしてもろもろの対人関係の罪を述べています。性欲は結婚関係のなかで正しく用いられるならば、これは正当なものであって、神の祝福の下にあるのですが、アダムの堕落以来、ほしいままにふるまう性質を持つようになりました。ですから、「だれでも情欲をもって女を見る者は、すでに姦淫を犯したのです。」という主イエスのことばの前に立つ時に、自分は潔白であるといえる男性はいないのです。

8.自然との関係

 これは前章で述べましたから、簡単にすませますが、堕落の結果として結果として自然は人間に服従しなくなりました。そして「いばらとあざみが生じ」て人は苦しんで食を得なければならなくなります。神との関係が破れた時、人との関係、自己との関係、そして自然との関係にも破れが生じたのです。

9.原罪論−−神学体系におけるアルキメデス点

 創世記4章に進みますと、カインとアベルの事件が記されています。エバは希望をもってカインを身ごもったのですが、その息子が弟殺しをしてしまいます。罪は遺伝するのです。原罪です。ダビデはバテシェバ事件の後に言っています、「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」(詩編51:5)

 罪がどのようにして遺伝するかはわかりません。しかし、現実に罪は遺伝するのです。「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして全人類に広がったのとどうように、ーーそれというのも全人類が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)

 罪の理解は、救済論とキリスト論を左右するアルキメデス点です。A.ホッジの『神学概論』の第四章に見るようにキリスト教神学の歴史において救済論の体系は、おおよそ次の三つに区別されます。ひとつは、ペラギウス主義ないしソッツィーニ主義です。ペラギウスはアダムの罪が後代の人にとって悪い模範としての意味以上のものではなく、罪は遺伝せずすべての人は生まれた時には、あの最初のアダムのような状態で生まれてくるのだというのです。人間は律法を行うことによって自らを救うことができるといいます。つまり、ペラギウス主義では人間は性善ゆえに自力救済主義ということになります。

 次に、半ペラギウス主義ないしアルミニウス主義は人間の堕落を認めますが、人間のうちに善なるものが残っているとします。よって、救済は半分恵みにより、半分自力によるとするのです。これはローマ教会の立場でありアルミニウス主義の立場です。

 そして、恩寵救済主義の立場は、人間は全的に堕落しているので、恵みのみによって人は救われるということです。古代教父アウグスティヌス、そしてルター、カルヴァンといった宗教改革者たちが聖書、格別ローマ書、ガラテヤ書に見いだしたのはこの「恩寵のみ」(sola gratia)の福音でした。

 ではキリスト論がどのように罪論と関係するかといえば、自力救済主義にとっては救い主は必要なくなるのですから、キリストは救い主ではなくせいぜい模範者にすぎないということになります。19世紀の自由主義神学においてイエスは単なる愛の教師にすぎません。今日の、幸福の科学、真光、世界救世教などのニューエイジ系の宗教はしばしば聖書を好き勝手に引用しながらも人間には罪などないという性善説に立ちますから、そのキリスト観は多くの模範的霊能者の一人にすぎないのです。よって贖罪論は、罪がなければ罪の償いも必要ないのですから、道徳的感化説程度のものに終わるのです。<性善説−道徳的感化説−キリスト模範論>ということは論理的必然をもって結びついています。

 他方、恩寵救済論では、キリストは罪からの救い主として我々の罪の償いとなってくださったのです。したがって、<人には原罪がある−キリストの死は代償的贖罪−キリストは救い主である>ということになります。もちろん聖書の立場はこちらです。半ペラギウス主義では両者の中間となります。

 今日、人間中心主義カウンセリングの影響を受けて、人間の尊厳や価値ばかり語って人間の罪について軽んじる傾向がキリスト教界にありますが、そういうことをしていると結局は、十字架のことばをあいまいにし、キリストが神が遣わされた唯一の罪からの救い主であることに覆いを掛けてしまうことになるのです。もし、人に罪がないならば、ああどうしてきよい神のひとり子が、あの恐ろしい十字架の上で義なる神の刑罰を受けなければならなかったのでしょうか。ゴルゴタの十字架は、私たち罪人に対する神のあわれみのみの現れではなく、義なる神の怒りの現れでもあるのです。

仲保者キリスト

1.御子の基本的職務:仲保者

 神はその永遠のご計画において、ひとり子イエスを、神と被造物、格別そのかしらとしての人との仲保者とされました。それは、まず創造においてです。

「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生れた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見える者、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたので す。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っているのです。」(コロサイ1:15−17)

 そして、アダムにあって堕落した被造物、人間と神との仲保者として、御子は贖いのみわざを成し遂げられました。御子は創造の初めから神と被造物の仲保者であられるからです。

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストはすべての人の贖いの代価として、御自身をお与えになりました。」(テモテ第一2:5)

 また、御子は最後の審判の日に、神によってこの世の裁き主として立てられます。

「なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくために日を決めておられるからです。」(使徒17:31)

 そして、御子にあって万物は更新されるのです。

「すると、み座についておられる方が言われた。『見よ。わたしは、すべてを新しくする。』」(黙示録21:6)

 以上のように、創造から終末の完成にいたるまで、御子は神と被造物の仲保者としての位置を占めています。御子のみが仲保者であって、マリアや聖人たちを仲保者として仰ぐことは過ちです。ですから、私たちは御子の御名によって祈るのです。

2.キリストの受肉(二性一人格)・・・・キリストとはだれか?

 御子は、三位一体である神の第二位格であり、万物が存在する前から存在される神で す。聖書の証言は上述のコロサイ書1章に明瞭ですし、御子イエスの祈りからも明かで す。

「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、持っていましたあの栄光で輝かせてください。」(ヨハネ17:5また24も参照)

 これをふつう「先在のキリスト」と呼びます。

 しかし、神の計画の時が満ちて、御子は神であられながら、人としての性質をお取りになりました。これを受肉と言います。というのは、聖書的な用語法では、「肉(サルクス)」は人を意味するからです。

「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。言葉は神であった。・・・ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14)

 ここで「人」とあるのは「肉」とも訳せます(新改訳脚注参照)。

 注意すべきことが二つあります。第一は、このとき御子は人になられましたが、神としての性質を放棄されたわけではないということです。永遠の神であられつつ、その上に人としての性質をまとわれたのです。御子は、完全に神であられ、かつ、完全に人となられたのです。しかも、御子のご生涯の言動を見れば一目瞭然のように、両者はお一人の人格のうちに完全に調和をたもっています。これを「二性一人格」と言います。「キリストは神ですか人ですか?」という問があれば、「まことの神にしてまことの人となられたお方、つまり、二性一人格なるお方です。」と答えます。

 マルコ4:35−41の嵐のガリラヤ湖上の小舟の記事を見ると、御子の両性がよくわかります。御子は続く伝道生活で、疲れ果てておられましたから、舟のともで枕して眠っておられました。まさしく主は人としての弱さを持っておられました。しかし、弟子たちに起こされると、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と命令されると、おおなぎになりました。創造主が「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。」と言われると、そのとおりになったのと同じです(創世記1:6,7)。まさに御子の神性の現われです。嵐をその一声で静めるようなお方が、疲れるというのはどういうことでしょう。

 また、主イエスは会堂管理者の娘が死んでしまったのをよみがえらせた後に、やさしく言われました。「おなかがすいているでしょう。何か食べさせてやりなさい。」死者をよみがえらせる絶対者が、少女の空腹を心づかっておられます。福音書を読む時、神性と人性がイエスという一つの人格のうちに、ごく自然に調和しているという不思議を感じずにはいられません。このようなお方ですから、主イエスは私たちが日々の祈りにおいて「われらの日用の糧を与えたまえ」という祈りをするようにと教えられたのです。

 もう一つ注意すべきことは、御子はまさに人としての性質を取られたということです。受肉といって、霊は神で肉体だけ人間であったということではありません。そうではなく、キリストはまことの神でありつつ、かつ、まことの人となられたのです。ですから、人としての弱さをもっておられますが、罪の性質はもっておられず、罪を犯し給わないということです。弱さがあることと罪があるということは別のことです。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)

3.第二のアダム(「わざの契約」の成就者)

 神はなにゆえ、このように人となられたのでしょうか。

 上に引用した御言葉につづいて、「ですから、私たちは、あわれみをうけ、また、恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みのみ座に近づこうではありませんか。」とあるように、神が私たちにいと近くなってくださり、私たちが神に近づくことができるようになるためです。

 契約という観点から見る時、キリストは第二のアダムと呼ばれます。これはローマ5章12節から18節にあるアダムとキリストの叙述に基づきます。ここで言われていることの重要なポイントは、神は、人類をその代表によって扱われるということです。第一の代表は人類の先祖アダムであり、第二の代表はイエス・キリストです。

 代表というのはどういうことかと言えば、例えばA国の大統領がI国に対して戦線布告をしたとします。そうすると、A国の国民は自分の好むと好まざるとにかかわらず、A国に対して戦線布告したことになりますし、I国からの敵意に甘んじなければなりません。アダムが代表であるということは、アダムに所属する人はアダムが代表者として神から受ける取り扱いをその身に受けなければならないということですし、キリストに所属する人は神がキリストに対してなさる取り扱いを受けねばならないということです。

 創世記2章によると、神は堕落の前、人類のかしらとしてのアダムと善悪の知識の木の実にある契約を結ばれました。この服従のテストに合格すれば、アダムとその子孫は永遠のいのちにあずかり、神の子どもとされるという契約でした。これを、「わざの契約」と言います。アダムが、このテストに合格するという「わざ」によって、彼と人類が神の祝福にあずかることができたはずの契約であったからです。

 聖書を読むと、人間の罪との関係における自由意志の状態は、四つのレベルがあると言えるのです。一つは堕落前の、罪を犯さないことができる状態。第二は、堕落後の罪を犯さないことができない状態、第三にキリストにあって恵みにあずかり再生し善を意志することができるようになったけれどなお残存する罪のゆえに、悪をも意志してしまう状態。第四は、罪を犯すことができない栄光の状態です(ウエストミンスタ- 信仰告白9:2-4)。

 ところが、実際には、罪を犯さないことのできたアダムはこのテストに失敗しました。しかも、そのことによってアダムの子孫である人類には、罪の性質が入ってきてしまったので、もはや誰一人として神の御前に永遠のいのちをいただくテストに合格することができる人間はいなくなってしまったのです。つまり、罪を犯さないことができなくなってしまったのです。「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。」(ローマ3:23)のです。しかも、アダム以来入ってきた罪ののろいによって、人類のおかれている環境はずっと困難になりました。けれども、この「わざの契約」は神が人類との間に立てられたものである以上、人がこれを全うしなければならないのです。罪の腐敗の入ったアダムの子孫は、決してこのテストに合格できません。かりに、善悪の知識の木があれば、アダム以後の生ながらの人間はみな必ず、これから取って食べてしまうのです。

 そこで、神は御子を世に遣わし、罪がない人とされました。御子は、第二の人類の契約のかしらアダムとして、「わざの契約」を遂行されたのです。最初のアダムは、エデンの園という素晴らしい環境のなかにありながらサタンの誘惑にあって、これに破れてしまいました。しかし、第二のアダムは、荒野という最悪の環境のなかでサタンの試みに会い、神への服従を全うされたのです(マタイ4:1−11)。また、家畜小屋に始まり十字架に至る御子イエスの生涯全体が、サタンの試みの連続でありましたが、十字架の死に至るまで「わざの契約」を全うされたのです。

 律法は「わざ」を要求するものです。そして、「わざ」を実行しない者を罰するものです。例えば、「殺してはならない」という律法は、「あなたの隣人を自分のように愛す る」ことを要求し、その反対に殺す者を死という刑をもって罰します。律法には、こういう意味で消極的な面(償いの要求)と、積極的な面(服従の要求)の要求があります。消極的な要求というのは、律法を破った人に刑罰を要求すること。積極的な面とは、律法を実行することです。

 御子は、神であり律法の制定者であられながら、律法の下にある者となり、律法を完全に遂行されたばかりか(積極的服従)、律法の背いた私たちの受けるべき罰をその身に負われて償って下さったのです。それは、御子イエスを信じる私たちが、御子にあってあたかも十字架にすでについた者と見なされ、また、律法を完全に服従した者とみなされるためです。そして、「わざの契約」のテストに合格して、永遠のいのちにあずかり、神の子どもとされるためです。まさしく、キリストは私たちの義と聖めと贖いとなられたのです(エペソ1:30)。ちなみに、私たちがただキリストを信じる信仰によってキリストの祝福にあずかることができるという契約を、「わざの契約」と対比して「めぐみの契約」と呼びます。

4.三職二状態・・・・・キリストは何をされたか?

 キリストとはギリシャ語で「油注がれた者」の意味で、ヘブル語でメシアと言います。旧約聖書において、油注がれた職務には三つありました。すなわち、祭司職、預言職、王職です。

「あなたは、アロンとその子らに油を注ぎ、彼らを聖別して祭司としてわたしに仕えさせなければならない。」(出エジプト30:30)・・・祭司職

「神である主の霊が、私の上にある。主は私に油を注ぎ、貧しい者に良い知らせを伝え・・・」(イザヤ61:1)・・・預言職

「サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼(ダビデ)に油を注いだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。」(サムエル第一16:13)・・・王職

 祭司の職務とは、聖なる宗教的務め、民のためにいけにえを捧げることと、民のために神に取り成すこと、および困窮者への配慮・癒しなどです。預言者の職務とは、神について真の知識を教えることです。王の職務とは、義をもって民を治め、さばき、民の敵と闘うことです。イエス様は、聖なる祭司、真の知識を伝える預言者、義なる王としてこれらの職務を行なわれましたし、今も教会を通して行なわれつつあります。このようにして、堕落した人間が失った真の知識と聖と義という神の似姿を回復してくださるのです(前回1−2参照)。

 イエス様は、この三職を低くへりくだられた状態と、高く上げられた栄光の二つの状態で果たされます。低い状態については、ピリピ人への手紙2:6−8、高い状態については2:9−11で教えられています。すなわち、低い状態とは、受肉から十字架・葬りまでの状態であり、高い状態とは、復活・昇天・着座の状態です。そこで、キリストの職務について簡潔に「三職二状態」と表現します。キリスト論というと、キリストがどんなお方かということは「二性一人格」、キリストの職務は何かというと「三職二状態」と表わされるのです。

(1)聖なる祭司職

 人類は真の神を捨てて、もろもろの汚れた偶像宗教に走り、それによって神に近づこうとするのですが、そんなものは真の神に近づくのには何の役にも立ちません。しかし、神はひとり子を聖なる祭司として、私たちをご自分に近づけてくださるのです。キリストの低い状態での祭司職は、私たちの罪のためのいけにえとしてご自分を神に捧げられたことです。「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル9:12)。また、地上で民のために祈られたことです(ヨハネ17章)。

 主イエスの高い状態での祭司の務めとは、私たちのために取りなし、私たち神に近づく者を完全に救うことです。「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めをもっておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるからです。」(同7:24,25)ヘブル書はキリストの祭司職について啓示する書です。

(2)真の知識を伝える預言職

 人間は真の神を知ろうとしないので、その知性は腐敗してしまいました。生まれながらの人はもはやその知性をもって真の神を知ることはできませんし、本来神に栄光を帰するために与えられた知性を誇り神を否定する傲慢に陥ってしまいました。そこで、神はキリストを真の知識を伝える預言者として遣わして下さいました。キリストの低い状態での預言職は、まず受肉されてその言葉と行ないと全人格によって、父なる神の御心について啓示されたことです。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1:18)。旧約時代から聖霊は記者たちに働いて旧約聖書を啓示されましたが、新約の時代、聖霊はさらに豊かに教会に注がれました。

 キリストは高く上げられて後は、聖霊を送って聖書を霊感してくださり、かつ、聖書を読む者の心を照らして聖書の真理を悟らせてくださいます。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父からでる真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」(ヨハネ15:26)「しかし、その方が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」(ヨハネ16:13)「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(2テモテ3:16)。

(3)義なる王職

 人間は神を離れてのち、その道徳性においても堕落し、表面的な善は求めても神の御前における義を見失いました。キリストの低い状態での王の職務はなんでしょうか。王の職務とは統治と裁きと国民を脅かす敵との闘いです。福音書を読むならばキリストの低い状態での王職のきわみは、やはり十字架にありました。十字架につけられる前、人々は主イエスにいばらの冠をかぶらせ、派手な衣を着させ、葦の棒を王しゃくとして持たせ、「ユダヤ人の王様万歳!」と言って、辱めました。主の罪状書きには「ユダヤ人の王」とありました(マタイ27:27−37)。主イエスは、義なる王として罪なき御自身を断罪されることによって私たちを救い、十字架にかけられていのちを捨ててサタンと闘い勝利を得、私たち信じる者を敵の手から救出されたのです。

 キリストの高い状態での王職は、宇宙的王権と教会的王権に分けられます。前者についてエペソ書は言います。

「(キリストを)すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでな く、次に来る世においてとなえられるすべての名の上に高く置かれました。」

 後者については、つづいて

「また、神はいっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。」(エペソ1:21−22)

 とあります。

 また、王であるキリストは教会に御言葉の務めを負う者をお立てになって、御言葉によって教会を統治されるのです。教会はキリストを王と仰ぐ王国です。パウロはダビデ契約の成就としてのキリストの昇天と着座について語った後に言います。「こうしてキリスト御自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げさせるためであり・・・」(エペソ4:11,12)。

 さらに、キリストは鉄の杖をもって世界の歴史を統治され、御言葉をもって教会を治め給います。そして、最後の審判の日には、キリストは義の王としてこの世に到来し、この世を裁き、み民を最終的に罪とサタンの縄目から解放してくださるのです。

 今日、キリストは教会に聖霊を与え、教会を通して、三つの職務を遂行なさるのです。教会は、正しく福音を述べ伝え、聖礼典を執行し、戒規を執行することによって、この職務を果たします。一人一人の信徒としては、日々に御言葉に学んで預言職を、日々に祈っては祭司職を、日毎罪を悔い改めることによって王職を果たすのです。

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、御自分の驚くべき光の中に招いて下さった方のすばらしいみわざをあなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(1ペテロ2:9)

5.受肉の意図−−一つの時代劇的試み−−

 「さて、あるところに一人の王様がいてある貧しい娘を愛していたとしよう。・・・」S.キルケゴールの『哲学的断片』にこういう一節があります(第二章 教師および救い主としての神 一つの詩的な試み)。キルケゴールは全能者である神が塵にも等しい人間を愛されて、その愛を成就するために受肉されたことの意味を考察するにあたって、神を王に人を貧しい娘にたとえているのです。私は、キリストの受肉の目的を理解するに当たっては、遠山の金さんを思い出せばよいかと思います。およそ詩的ではありませんが。

 遠山の金さんは、どうして日頃は町人の姿をして江戸を徘徊するのでしょうか。それには二つの目的があります。第一は、奉行では聞くことのできない庶民の声を聞き、庶民生活を見ることです。そして、苦しむものには救いを差し出すことです。第二の目的は奉行として出かけていけば見る事のできない、権力にこびへつらう偽善者の実相を見ることです。そして、最後に偽善者たちは桜吹雪の入れ墨を見ておののかねばなりません。

 神の御子は、まずお忍びでこの世を訪れました。これには二つの目的がありました。第一は、もっとも貧しい者、悲しんでいる者、義に飢え渇いている者を救うためでした。御子のご降誕の知らせをまず受けたのは、ベツレヘム郊外の貧しい羊飼いたちでした。主イエスは、取税人・遊女・罪人に近づき、悔い改めて救われる道を備えて下さいました。御子の受肉の第二の目的は、偽善者の偽りを明るみに出す事でした。御子はなぜベツレヘムの馬屋で生まれなければならなかったのでしょうか。帝王の妃である母の胎にでも宿っていれば、ベツレヘム中の宿屋は先客をすべて追い出してでも、スイートルームを御子の産屋として提供したでしょうに。御子は貧しい大工を夫とする女の胎に宿られました。

 あなたがあの日、ベツレヘムの宿屋の主人だったとしましょう。皇帝アウグストの命令のお陰で、宿屋はおおにぎわい。金儲けの千載一遇のチャンス。宿屋は満杯です。と、玄関の扉をノックする音。開けて見ると、そこにはそれほど身なりもよくない男と、その妻らしい産気づいた女。彼らを泊めようとするならばめんどうなことになることは目に見えています。・・・こうして、人間の罪は露にされました。「もっとも小さい者」(マタイ25:40)をあわれむことよりも金を愛し、権力にへつらう人間の罪のあさましさが暴かれたのです。

 クリスマスのできごとに象徴されることは、御子の地上での生涯全体に現れています が、あの十字架にこそ最もはっきりと現れています。権力を握る祭司や聖書学者たちは、よい者が出るはずのないナザレから出てきた田舎教師イエスを十字架の辱めにあわせて殺してしまいます。このことによって、見えるといっている彼らは見えないことがあかしされました。そして、主イエスはとなりで十字架で苦しむ強盗の友となられ「あなたはきょうわたしとともにパラダイスにいます。」と約束されました(ルカ23:40−43)。こうして見えない者が見るようになりました。

 そして、最後の審判の日、御子は今度はお忍びではなく、天地の主としての栄光を帯びてこられます。その日、偽善者は、桜吹雪ならぬ手の釘跡を見て恐怖におののかねばなりません。

 御子イエスは今日、「十字架のことば」というの宣教のことばの愚かさを通して、受肉の目的を遂行し続けておられます。「十字架のことばは滅びにいたる人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神のことばです。」(1コリント1:18)とある通りです。この世の知恵、この世の支配者たち、自分で自分を義とする者は十字架のことばを悟りません。それは、彼らにとって十字架のことばは愚かであるからです。神はこのように「十字架のことば」によって、人間の偽善と高慢を打たれるのです。また、同時に己の罪に悲しむ者を救いたまうのです。また、ここに、どうして神が直接天来の御声を聞かせず、土の器にすぎぬ伝道者を通して御言葉を取り次がせ、これを神の言葉として受け取らせなさるのかという問いに対する答があります。

「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵ある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」マタイ11:25

「予定」の告白の位置

 予定とは、神が永遠から救う人間を選んでおられたという教えですが、この教理は後にも学ぶように重要でありつつ注意深く扱う必要のあるものです。この教理を信仰告白のいずれの位置において告白するかということは、大切なことなので、若干ここで考えておきましょう。

 予定の教理についての告白を、聖定(すべて起こり来ることは神の計画であるということ)の告白のうちに含めて、その特殊の分野として扱うのは、アイルランド聖公会大綱(1615)が初めです。アイルランド聖公会大綱の予定の項目の内容は聖公会大綱に大変類似していますが、その配列において異なっています。すなわち、「聖公会大綱」では「予定と選びについて」は第17章に位置し、これは堕落論、義認論などの後ですが、アイルランド聖公会大綱は、予定の教理を聖定の教理と共に扱うということにより、「神、聖定(予定)、創造、堕落、キリスト・・・」という順序になるわけです。この順序はウエストミンスター信仰告白において踏襲され、この影響下にある第二ロンドン信仰告白にも踏襲されていきます。

 アイルランド大綱以前のものを見ると、「第二スイス信条」(1566)では、6章「神の聖なる意志」7章「創造」、8章「堕落」、9章「自由意志」、10章「神の予定と聖徒の選び」、そして、11章「キリスト」と展開しています。つまり、聖定(聖なる意志)と予定が分離しています。

 このように見ますと、アイルランド聖公会大綱が、予定の項目を創造論以前の聖定論に含めて扱うという方法は、画期的なことであったことであったのです。格別、ウエストミンスター信仰告白という改革派圏での影響力の多大な信仰告白文書に影響を与えたことは重大なことでした。我々はこれをいかに評価すべきでありましょうか。

 正しく厳密に評価するには、このアイルランド聖公会大綱を編んだ者の意図を、編者たちの著した文書によって調査し、神学的背景を調べることです。しかし、私にはそんな力はありませんので、ここでは、順序の意味をそれ自体に基づき考察するにとどまります。これは私たちがどんな心得をもってこの予定について学ぶべきか、また、教えるべきかについてたいせつなことを示唆するでしょう。

 アイルランド聖公会大綱、ウェストミンスター信仰規準の順序は、理想的な論理的順序です。神が一切の計画を立て、その特殊分野として人を選び、これを創造と摂理によって実行に移していかれるという順序です。神の主権を高調した順序、堕落前予定説の順序ということができます。確かにスッキリしていて頭に入りやすく覚えやすいのです。

 第二スイス信条はこの順序をとっていません。堕落論、自由意志論とキリスト論の間にはさまれた予定の位置は、堕落後予定の立場を暗示しています。あるいはそれが言いすぎであれば、歴史的順序という方が穏当かもしれません。この歴史的順序はドルト信条においても同様です。

 どちらが優れているのでしょうか。聖書は、どのような順序を求めていると言えるでありましょうか。エペソ人への手紙の第一章は、アイルランド聖公会大綱の順序を示唆するように思われます。そこにははっきりと万物創造以前のキリストにある選びが啓示されています。

 では、一方ローマ人への手紙第八章はどうでしょうか。すべての救済論をのべて来た 後、神の救いの計画を総覧している所で、予定のことを初めて啓示しているのは、歴史的順序でもなければ、理想的論理的順序でもありません。それは、むしろ教育的あるいは実存的順序です。十分に、堕落論、救済論の基礎課程を終えた人々に、最後の救いの確信の要であり、神賛美の絶頂に至るために予定論を述べているのです。

 私は、ここからどれか一つの順序だけが正しいという積もりはありませんが、それぞれの順序にそれぞれの意図があることを認識しておくことは、役に立つでしょう。すでに、贖罪を体得した人が、改めて聖書の真理全体を見渡すようにして学ぶには、神論の次に聖定と予定を学び、ついで創造・人間・キリスト・・・と学ぶのがよいでしょう。確かにウェストミンスター小教理問答書は、頭に入りやすいのです。一方、人が学びつつ成長して行くには、神・人間・キリスト・義認・聖化そして予定というロマ書的順序がふさわしいでしょう。この意図を徹底しているのはご承知のようにハイデルベルク信仰問答です。

 私は、だいぶ迷いましたが、救済論をひとまとめにして見通しをつけるという実際的目的のために、上のいずれでもないのですが、救済論の冒頭に予定を学ぶことにしました。

予定(選び)

エペソ1:3−14,ローマ8:28−30

 前回までに神について何回か、人間の創造の本来の状態と堕落について学び、そして、救い主キリストについて学びました。今日は救い主イエス・キリストが実現された贖いが私たちにどのように適用され受け取ることになるのか、今回から救いの受領について学びます。

 ローマ8:29は言います。「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」ここから、神の私たちの救いについての順序は、「あらかじめ定める(予定、選び)」「召し(召 命)」「義と認める(義認)」「栄光を与える」であることがわかります。今回は、予定について学びます。

 予定論というと、時々、カルヴァンという名と結びつけて悪意をこめて誤解され、その場合「血も涙もない決定論・運命論」という印象で受け取られている向きがあります。しかし、これは誤解です。予定論は、お読みいただいたように、その起源を明かに聖書の啓示に持ちます。「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたので す。」(エペソ1:4,5)

 教理の歴史の中でこれをはっきりと教理として確立したのは、アウグスティヌスで、彼は人間の堕落を信じず自力救済を唱えるペラギウス派との神学論争の中で、聖書の予定論を明かに展開しました。16世紀17世紀の宗教改革者たちは、聖書に立ち返りアウグスティヌスに学んで、みな予定を信じ教えました。ルターもカルヴァンもツヰングリもで す。ただカルヴァンは、その中で最も明瞭に展開したということです。

 アウグスティヌスの予定論は『信仰、希望、愛』(著作集第四巻所収)と『ペラギウス派論集』(著作集第十巻)にあり、ルターのそれは『奴隷的意志について』にあり、カルヴァンは『キリスト教綱要』第三巻21から24章にあります。

1.キリストのうちに

 エペソ書1:4、5「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのまま に、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」

 神が私たちを予定されるということは、キリストを離れてはありえません。なぜならば、神の御目はキリスト以外にはアダムの子孫のうちによきものを見出されないからです。カルヴァンは言います。「アダムの子孫全体を通じて、選びに価するものを何ひとつ見いだし給わなかったため、天の父は目をキリストに向けたもうた。それは、生命にあずからせるべく定めたもうたものらを、キリストのからだの肢体として選ぶためである。」(『綱要』3:22:1)かように私たちの選びに先行して、キリストの選びがあるのであります。聖書は言います。

「キリストは、世の始まる前から知られていました。」「主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。」(1ペテロ1:20/2:4)

 私たちはキリストの肢体としてその選びにあずかり、キリストに対する神の祝福と愛にもあずかるのです。「キリストは私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖と贖いとになられました。」とある通りです。私たちは罪があり、汚れに満ちているものですから、キリストに一体にされることがなければ、神の御前に救われうるものではありません。「神は、キリストにおいてでなければ、彼らを愛することができず、また、かれらがはじめにまずキリストにあずかるものとされるのでなければ、御国の嗣業によってかれらに栄光を得させることがおできにならない。」私たちは私たち自身のうちには自らの選びの確かさを見出すことはできません。ただ、キリストのうちに私たちの選びの確かさを見出します。こういうわけで、キリストは、われわれの選びを直視するための鏡です(『綱要』3:24:5、「第二スイス信条」10:9)。

2.ただ神の恵み

 同じアブラハムから生れたイシュマエルとイサクでしたが、イサクは選ばれ、イシュマエルは選ばれませんでした。同じイサクから生れたエサウとヤコブですが、ヤコブは選ばれエサウは選ばれませんでした。ある人が選ばれ、ある人が選ばれないことの理由はなんでしょうか。聖書はただ「神は、ただみこころのままに」(エペソ1:4)というのみです。それは、神の選びは、その人の功績や人柄うんぬんということを根拠としないで、ただ計り知れない神の御旨に基づいているということです。このことを明瞭にするために、パウロは「世界の基の置かれる前から」と言うのです。つまり、私たちが世に現われて何か善であれ悪であれなすことへの顧慮なしに、神はその御旨の計画にしたがって選ばれたということです。

 ローマ書において、パウロは、神の選びにおける主権性と人間の功績によらないことを旧約聖書におけるエサウとヤコブの例証によって断言しています。

 「その(リベカの)子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうち に、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、『兄は弟に仕える』と彼女に告げられたのです。『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。』と書いてある通りです。」

 人間は、愚かにも何か自分に選ばれるに価するものがあったから選ばれたのだと、その傲慢を本性とする罪のゆえに思い上がりがちなのです。また、逆に自分の罪の現実を見る時に、私のごとき無価値なものが選ばれているのかと悩むものです。しかし、優越感も劣等感も「価値」のとりこのしるしです。神のみこころによる選びは、「価値」から私たちを解放します。価値の世界ではなく、恵みの世界に入れられるのです。恵みの世界にあって、自由の子になるのです。

3.予定と教会

「時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的にしたがって、このようにあらかじめ定められていたのです。」エペソ1:10,11

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画にしたがって召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿に定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」ローマ8:28、29

 神様は、世界の始まる前において計画を立て、愛をもって私たちを御子のうちに選ばれました。それは、選ばれた者が御子と同じかたちとして、神の養子とされ、一つの神の民(エペソ1:14)すなわち神の家族(同3:15)、神のみ住い(同2:22)、教会となるためでした。私たちの選びという時、それは、一人一人別々に神の御前に選ばれているということではなく、キリストにあって一つの民のうちに選ばれているということです。なぜなら、教会のかしらはキリストであるからです。教会抜きの個人主義的なキリスト信仰というものは、聖書的ではなく、神のみこころにかなうものではありません。

4.予定の目的

 予定の教理は、しばしば伝道の妨げになるとか、信仰生活をなまくらにするとか、実践的な方面から警戒され、それは真理ではあるが民衆に伝えるべきではないと言われたこともあります。また、神の正義を危うくするとして予定の教理が警戒されることもありました。つまり、ある者を救いに選び、あるものを滅びに遺棄するとは神は暴君ではないか、というのです。これらは古代教会以来議論されたところで、アウグスティヌスは反論しています(『堅忍の賜物』14:34,20:51)。また、『第二スイス信条』は予定の秘義を告白しつつ、それがいかに誤解と危険を伴うかを鑑みて次のように言います。「すべてのものの中最も危険である予定に関する議論」と。(『第二スイス信条』は傾聴すべき多くのことを語っています。)また、『ウエストミンスター信仰告白』は言います。

 「予定というこの高度に神秘な教理は、御言葉に啓示された神の御旨に注意して聞き、それに服従を捧げる人々が、彼らの有効召命の確かさから自分の永遠の選びを確信するよう、特別な配慮と注意をもって扱われなければならない。そうすればこの教理は、神への賛美と崇敬と賞賛の、また謙遜と熱心と豊かな慰めの材料を、すべてまじめに福音に従う者たちに提供してくれるであろう。」(3:8)

 聖書は予定の教理をはっきりと啓示していますから、私たちがこの教理を認識することは必要であり有益です。さもなくば、神は啓示されはしなかったでしょう。ただし、注意すべきは聖書の語るところまで行くことと、聖書が止まるところで止まるという敬虔の原則です。予定の教理についての誤解と非難は、聖書が語るところより先にまで、人間の気侭な推論を広げてしまうところに端を発しています。これも神に禁じられた木からその実を取った人間の理性が、いかに神からの独立を求めるように堕落しているかということの現われでしょう。

 すべての教理は、単なる好奇心からではなく、神を恐れ愛する敬虔な態度をもってこれを受け止める必要があります。そうです。すべての神知識は、神を礼拝する目的をもって獲得されることこそ肝要なのです(『ジュネーブ教会信仰問答』問答6)。

(1)予定の教理について注意点

 予定の教理を評論家のように知的好奇心の対象としてはいけません。ルカ福音書の13章23、24節を開いてください。イエス様に「主よ。救われる者が少ないのですか。」と質問する人がいました。すると、主はこの問に直接は答えずに、彼に次のように言われました。「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。」と(ルカ13:23)。イエスはここで何を言われるのでしょうか。私たちは救われる人が多いとか少ないとかいうことを批評するような立場にある者ではないということです。自分自身が救われるかどうかという瀬戸際にあるものであって、評論家のようにのんきなことを論じている場合ではないということです。予定の事実は私たちの知的好奇心の対象ではなく、私たちの現実の救いに関わることです。論じる暇があれば、自らの救いを真剣に求めよということです。 「求めなさい。そうすれば、与えられます。」と約束があるのです。

 私は選ばれていない。だから求めても無駄だなどと絶望してはなりません。「求めなさい。そうすれば、与えられます。」という真実な主の約束があるからです。

 「私は選ばれているのだから、何をしようと大丈夫だ。」と選びにあぐらをかいてはなりません。主は言われます。「努力して、狭い門から入りなさい。」聖書はむしろ、敬虔な生活によって、自らが神に選ばれ、召されていることを確かにせよ、と命じています (2ペテロ1:5−10)。熱心な狭き門への努力自体が、選びが明かになって行くための過程なのです。

(2)予定の教理が啓示された目的

 聖書によると予定の教理が啓示された目的は、第一に神の恵みの栄光が賛美されるためです。エペソ1章5節では「ただみこころのままに」「愛をもって」と表現され、6節につづいて「それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、誉めたたえられるためです。」とあります。ここでも、予定の教理は、神の主権、格別その恵み、その愛において現わされた神の主権をあがめるという目的をもって啓示されています。ですから、まず私たちはこの予定の教理を受け入れる時、神の愛と恵みに現わされた主権を礼拝すべきです。言い換えると、私たちが選ばれたのは、決して私たちの功績によるものではなく、ただ神のみこころと恵みによるのだと知って、へりくだりつつ御名をあがめるべきです。

 もし「私は神に選ばれた」という選民意識が、霊的な特権階級意識のような傲慢なものとなるとすれば、かつてのユダヤ人たちと同じく、全く倒錯した過ちを犯しているので す。本来、予定の教理を正しく理解するならば、人はへりくだりこそすれ、高ぶることなどありえません。なぜなら、予定の教理が教えていることは、選民には選ばれた理由となる功績は皆無であるということだからです。無価値な者を神がただ恵みによって選ばれたということであるからです。全く無価値でむしろ有罪の者を神が選んでくださったという予定の教理を理解する人は、ただただ神の恵みを賛美するほかないではありませんか。

 予定の教理が啓示された第二の目的は、試練の中にあるキリスト者を慰め励まし、信仰を確立することです。

 また、ロマ9:31−33。特に33節では「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか!神が義と認めてくださったのです。」と言います。予定の教理は、信仰ゆえの苦難のなかにあり、弱さのなかに自分は立ちおおせるだろうか、と恐れおののいているキリスト者たちに確信を与えるのです。これは、ヨハネ6:36「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」と主イエスが言われたことにおいても同じです。

 そもそも私たちが不安に揺らぐ時というのは、自分に頼っている時です。私たちが、自分の正しさ自分の人柄の真面目さ、自分の熱心な奉仕に、自分の救いの根拠を置いているとき、私たちは揺らぐでしょう。当然のことです。私たちの義など、聖なる神の御目の前には汚れた雑巾にもしかないからです。しかし、感謝すべきかな。私たちの救いの根拠 は、私たち自身にはありません。私たちの救いの根拠は、全く恵みによってキリストのうちに選ばれているということのうちにあるのです。

 予定の教理が啓示された目的の第三は、確信をもって伝道をするためです。

 予定の教理を強調すると、伝道意欲がなくなると言われることがありますが、それは全く逆です。アダム以来人間は全く霊的に盲目になっているのです。もし、そこに神の選んだ民がいないとすれば、伝道とはその辺の公園の砂場で金鉱を掘り当てようとするようなものです。しかし、神がここに宝を埋めてありますよと保証していてくださるからこそ、伝道をすることに意味があるのです。かつて、コリント伝道の時、民のかたくなさと激しい迫害のなかで、さすがのパウロも、伝道をすることの困難と自分の弱さを思いました。しかし、主御自身がパウロに幻のうちに現われてこう言われました。「この町には、わたしの民がたくさんいるから。」こうして、パウロはさらに大胆に福音を語ることができたのです(使徒18:9,10)。

 伝道とは、キリストの羊を飼い主キリストの声をもって呼び出すことです。キリストの羊は、その飼い主の声を知っているので、呼び出せば出てくるのです。ですから、教会が伝道をしていく上で大事なことは、純正なキリストの福音を、それがキリストの羊であれば何を言っているかはっきりと理解できるように、この世に呼び掛けることです。これほど、伝道の励ましになることはありません(ヨハネ10:3−5、26、27)。この確信がないならば、福音をこの世の人々の耳に甘く水増しして、人集めに終始することに走る危険が大いにあります。

 最後に、予定の教理は神の正義を疑わせることになるのではないかという疑問について。すなわち、神が人をみこころのままに選ばれるというのでは、神は暴君ではないかという問です。いろいろな弁護を神のためにする者がいます。たとえば、神はその人が福音を聞けば信じることを予知して、予定されたのだなどというのです。けれども、それでは恵みが恵みでなくなってしまいます。信じるというその功績によって、その人は救われるということになるからです。また、神において予め知るということは、定めるということとどう違うというのでしょう。このような人間的な神弁護は、結局神の主権も恵みも侵害してしまいます。聖書は言います。

 「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは何ですか。形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。』と言えるでしょうか。」

 さらに、人間はすべて「滅ぼさるべき怒りの器」であるのに、神がそのうちの幾人かでもあわれんでくださるとしたら、それはむしろ感謝すべきことであって、神を非難するのは当たらないと言います(ローマ書9:19−23)。

 この予定の教理ほど、それを認識する私たちの霊と知・情・意が、神の御前にふさわしくへりくだっているかどうかを厳しくテストするものはほかにはありません。ただ、神の主権の前にへりくだって御名をたたえることこそ私たちにふさわしいのです。

 「ああ、神の知恵と知識との富は、何とそこ知れず深いことでしょう。そのさばきは何と知り尽くしがたく、その道は何と測りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが神から発し、神によってなり、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン 」

召し

1.召しのおごそかさ

 「神は予め定めた人々をさらに召し・・・」とあるように(ローマ8:30)、神の選びは歴史の中においては、召しによって明らかにされてきます。神がだれを選んでおられることかは、召しによって明らかにされるのです。ところで、この「召す」ということばはギリシャ語で「呼びだす」という意味のことばエカレインです。また、名詞の形はローマ11:29にあります。これはクレーシスといいます。そして教会はエクレーシア(召し出された者たちの群れ)と言います。召しとは要するに、呼ぶことですが、しかし、聖書の文脈に沿った理解としてはただ単に太郎さんが花子さんを呼ぶというのではなく、王が民を呼び出すということをイメージしていただかねばなりません。

 エステル記の中に、王の召しというものがいかにおごそかなものであるのかということが記されています。エステルはイスラエル民族の存亡をかけて、王に直訴しなければならないという状況に置かれました。けれども、王の召しがないままに、勝手に王の前にでてもし王の機嫌が悪ければ、殺されてしまうのです。「王の家臣も、王の諸州の民族もみな、男でも女でも、だれでも、召されないで内庭にはいり、王のところに行くものは死刑に処せられるという一つの法令があることを知っております。しかし、王がその者に金の酌を伸ばせば、その者は生きます。」(エステル4:11)この場合、王の金の笏は後から来た召しと解釈されます。要するに、王の召しがなければその民は王の前にでることはできません。

 時代劇に登場する代官はどういうわけかほとんど悪代官で、彼らは農民から不当の年貢を巻き上げて苦しめます。いくら農民たちが「おねげえでごぜえます。この米を持っていかれちまえば、おらたちは食っていけねえ。」と泣きついてもらちがあきません。そこ で、慈愛と正義感に満ちた庄屋様は、殿様に直訴を決行します。しかし、江戸時代の法では、仮に直訴の内容が通っても、直訴そのものは御法度でしたから、直訴した庄屋様は処刑されてしまいます。殿様の側からの召しがないままに、その前に出るということ自体が罪であったからです。

 そのように、神の御前に出るということは畏れ多いことですから、その召しにあずかったということはたいへん光栄なことなのです。王は王子の婚宴を開くに当たって、そこに人々を召します。ところが、人々は仕事だ結婚だなどと自分の都合を言って出席しませ ん。そこで、王は彼等を滅ぼしてしまうというたとえをイエスはお話になりました(マタイ22:1−14)。神の召しというのはそのような性格のものです。つまり、その召しを受けることはきわめて光栄なことであり、それを拒否することは死に値する大罪であるというほどにおごそかなものなのです。

 教会というのは、エクレーシアと言います。これはエカレイン「呼び出す」という動詞と同じ語根の言葉です。それは自分が集まりたいから集まった集いという意味ではありません。「召されたもの」という意味です。教会とはサタンの支配する世から神によって召し出されたものなのです。同盟教団の信仰告白は教会について次のように告白しています。「教会は、聖霊によって召し出されたキリストの体であって、キリストはそのかしらである。」私たちは教会人として、このような光栄な召しにあずかっていることをどのくらい自覚しているでしょうか。

2.神の召しの方法

 神は、具体的な歴史の中でどのようにして、御自分の羊をこの世から召し出されるのでしょうか。それは、外側と内側から相呼応してなされることがわかります。1ペテロ1:23−25を見ると「あなたがたに宣べ伝えられた福音のことば」によって「あなたがたは新しく生まれた」と言われています。説教された福音によって、人は新しく生まれるのです。主はこの召しの機関としての使命を教会に託されました。それが、教会の福音宣教の使命です。

 説教された御言葉は、神の言葉であると言うのは聖書の主張であり、神は説教という方法をもって御自分の羊を呼び出されるのです。「あなたがたは、私たちが神からの使信のことばを受けた時、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは信じているあなたがたのうちに働いているのです。」(1テサロニケ2:13)

 しかし、この外的な召しにすべての人が応じる訳でないのも事実です。エゼキエル書 37章には、枯れた骨に神の霊が吹き込まれてよみがえるという記事があります。「干からびた骨よ。主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこうおおせられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。」(4、5節)すなわち、神の霊が吹き込まれることが新しく生まれるための要件であるというのです。なぜならば、生まれながらに人間は霊的には死んでいるために、御言葉を聞いてもそれを悟ることができないからです。人は「聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。」という状態なのです。生まれながらの人間は、知性が腐っているために真理を悟り、受け入れることができないのです(1テモテ6:5)。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それは彼には愚かなことだからです。また、それを受け入れることができません。なぜなら、御霊によることは御霊によってよくわきまえるものだからです。」(1コリント2:14)すなわち、外から語られる召しの言葉は、内において心を照らす聖霊によって初めて理解できるのです。

 両者の関係をはっきりと示している実例は、紫布の商人ルデヤの回心の事件についての使徒の働きの記事です。安息日に、パウロが川岸に集まっている女たちに福音を語りました。すると「テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロが語ることに心を留めるようにされた。」(使徒16: 14)ここに神の召しの方法が典型的に示されています。すなわち、神が遣わした伝道者が福音を説教するという外的な召命がなされます。これはそこにいる女たち御名に語られたのです。そのうちルデヤに内的召命がなされましたので、彼女において福音が有効に働きました。

 ここから知るべきことは、福音の説教と聖霊の働きとが両方ともなってこそ、召命は有効になされるのであるということです。福音の説教だけでもなく、聖霊の働きだけでもありません。教会の歴史を学びますと、人間はこのいずれかの極端に走って過ちに陥ったことが分かります。客観的な聖書の御言葉を離れて、内的な聖霊のみを強調する人々は神秘主義のあやまちに陥りました。一方、聖書研究にのみ没頭して御言葉のみを強調するようになった方は、異端として排斥されることはありませんが、実質的に霊的ないのちのリアリティを失ってしまいました。私たちは、伝道にあたって時が良くても悪くてもしっかりと種まきをしなければなりませんが、同時に、聖霊のお働きを切望して祈ること、そし て、特に聖霊のお働きを妨げるような問題、態度を神の御前に処理することがいかに大切でしょうか。どんなに人が一生懸命しても神の祝福がなければ、その働きは実を結びません。生み出し、成長させて下さるのは神なのです。

 「しかし神は、彼の欲求を選ばれたる者たちにおいて達成し、あるいは彼らに心の回心をなさしめたもう時、彼らが神の霊の事柄を正しく理解し認識せんがために、ただに福音を外面的に彼らに説かしめるのみでなく、同じ再生の霊の能力によって人間の最内奥まで及びたもう。彼は閉ざされた心を開き、かたくなな心を和らげ、割礼されざるものたちに割礼を施し、従来は枯死していた意志に新たな性質を注入して生き返らせ、邪悪、不柔 順、頑迷の有様から、それを善良、柔順、すなおさに変え、善き木のごとく、それが善行の実を結ぶように活気づけたもう。」(ドルト信仰規準3:11)

宣義

 ある若い死刑囚がいました。彼は王様の一人息子を殺したかどで死刑が確定していたのです。いつ刑が執行されるのかと毎日ビクビクしながら、その癖、表面的には虚勢を張って獄中生活をしています。ところが、ある日、彼について王から赦免が発令されました。突然のことに驚きながら手続きをすませると、彼は刑務所の鉄扉の前に立ちます。「二度と戻ってくるなよ。」と看守が声をかけます。「へい。お世話になりやした。」

 「しかし、すねに傷ある俺にはシャバの風は冷てえだろうし、また舞もどっちまうんじゃねえかな。」そんな不安が心をよぎります。ギーッ。扉が開きました。「アッ」そこには彼がその息子を殺した王様とその家族が立っています。「すみませんで済むとは思いませんが、俺はこのとおり赦しをいただき・・・。」王は最後まで言わせず彼の肩をガバと抱き寄せて答えます、「いや、いいのだ。君は、これからわしの家族だ。この子たちも君と同じ境遇だったんだが、今は私の子たちだ。」そう言って、あろうことか王は彼の指に相続人の指輪をはめてくれました。

 さて、彼の王の家族の中での新しい生活が始まります。日々食事をともにし、父親の励ましのことばをもらい、家族と共に生活できることはなんと嬉しいことでしょう。けれども、彼のからだに住みついている古い性質とこの王家のきよい生活の戦いは熾烈です。ときには、新しい父親にこっぴどくしかられることもあります。けれども、彼はもう以前の彼ではありません。どんなにしかられても、あの指輪を見る度に彼には父親の愛が確信できるからです。父親を愛する彼は、だんだんと心持ちも言葉も父親に似てきました。

 クリスチャンがこの世にあって受ける神の祝福は、三つあります。それは、義とされること、子とされること、聖とされることです。義とされることというのは、審判者である神の御前に義であるものとして宣言されることです。子とされることとは、神様の養子としていただくこと。そして、聖とされることとは、すでに義とされ子とされた者が、聖霊の助けによって実質的に罪の性質を除かれ、神に似た者とされていくことです。

 本日は、義とされることについて。

1.贖いについての教えの歴史

(1)悪魔への賠償説

 聖書は私たちの救いを贖いと表現しますが、その理解については変遷がありました。贖うというのは奴隷を買い取ることを意味します。古代の教会で広く行われたもので、キリストの十字架の死は、悪魔の奴隷になっている人間を解放されるために、神が悪魔に対して支払った買い取りの代金であるという説明があります。これは、聖書に基づかない教えです。

 ただ、この説は、この世にあっては、人は悪魔の支配下にあるというエペソ2:1, 2の真理を思い出させてくれるという効用があります。現代のような合理主義の時代の中では、こうした救いの側面は見落とされがちではないでしょうか。しかし、悪魔の支配下からの解放は、義とされた結果のひとつではあっても、キリストの十字架の死の賠償がサタンに対して支払われたことによるものではありません。神にはサタンに賠償をしなければならない義理などないのです。悪魔の支配からの解放は、むしろ、十字架と復活ののち召天し着座され一切の権威を授かった主キリストによる悪魔に対する支配権の確立と関係しています(エペソ1:19−2:6)。キリストが神の民を悪魔から解放したのはほんとうですが、それは悪魔に賠償金を支払うことによったのではなく、悪魔の頭を踏み砕くことによったのです。

(2)神の満足説〜代償的贖罪説

 キリストの賠償は悪魔に対するものではなく、神に対するものであることをもっとも明白にしたのは宗教改革者ですが、その先駆者がいました。アンセルムス(1033−1109)です。人間は神の栄誉を満足させるために創造されました。ところが、人間は堕落しその結果、罪を犯して神に栄誉を帰することができなくなりました。そこで、神が人となられて神であり人である方キリストとして、神に栄誉を帰して神を満足させなければならなかったというのです。

 アンセルムスの功績は、第一に、上に述べた「悪魔への賠償説」の誤りをはっきりと正したことです。キリストの賠償は、神に対してなされるのであって、悪魔に対してなされるのではありません。アンセルムスの功績の第二は、次に見る道徳感化説の間違いをも明らかにしていることです。教理の歴史の順序としては、アンセルムスの後にアベラルドゥスが来るのですが。

 16世紀の宗教改革者たちルター、カルヴァンたちは聖書に基づいて、これをもっと鮮明にしました。アンセルムスでは、神の栄誉の満足という言い方でしたが、改革者が聖書に立ち返って見いだした事は、キリストの賠償は神の聖なる怒りのなだめのためであり、神の義なる律法の満足のためでした。これは代償的贖罪説と呼ばれるものです。詳細はあとで。

(3)道徳感化説

 アベラルドゥス(1079−1142)がアンセルムスに反対して唱えた説です。神は愛であるから、罪の代償など必要ではありません。人間が神のもとに帰るために必要なのは、人間が己の罪を悔いる事だけであるという前提に基づきます。人は、キリストに表された愛に感化されて、自分に愛がなかったことに気づき、悔いて神への愛に生きるようになります。そのように方向転換をして愛に生きているその行動が、その人の贖いとなるといいます。(本質的に、後のソッシニウス、シュライエルマッハーも同じ)

 これは己の善性を信じている肉に受ける教理です。神はおやさしいばかりのお方であり裁きなどはありませんと言われると肉は安心します。人間は本来善であるが目が閉じているにすぎません。だから人は神の愛に感動して目覚めて自己改革をすればよいというのを聞くと、肉はほめられたような気がして満足します。道徳感化説は、神の聖さ、神の義、神の怒りを明らかにし、人の罪をあからさまにするところの聖書的な代償的贖罪説のメッセージよりも肉に受けるのです。しかし、これはいわば、放蕩息子が二宮金次郎の伝記を読んで感動すれば親孝行になるというのと本質的には変わりません。神のきよさを軽んじ原罪を否定するヒューマニズムです。

 もっともこれにも真理の一面がないわけではありません。すでにキリストにあって再生した者、つまりクリスチャンの聖化の生涯においてはキリストの十字架に向かう生涯は模範となるということです(1ペテロ2:21,ルカ9:23)。しかし、それはすでに恵みによって再生したクリスチャンの模範であって、回心以前の人がクリスチャンになるための根拠ではありません。

2.神の義を示し、人を義とすること

「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、御自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されてきた罪を神の忍耐をもって見逃してこられたからです。それは、今の時に御自身の義を現わすためであり、こうして神御自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」(ローマ3:25、26)

 キリストのいけにえにおいて神の意図されることは、二つあります。ひとつは御自身に関することであり、もうひとつは人に関することです。人間がどうしたら救われるのかということにのみ関心がある人が多いものですが、パウロは神の義がいかにして明らかにされたのかということにも、非常に深い関心を寄せています。

 この世のありさまを見ていてひとつの謎は、人類が多くの罪を犯しているにもかかわらず(25節の罪は複数)、人類が神の裁きにあって即死をしないということです。神が正しい審判者であり、支配者であるならば、どうしてそのようなことがありえるでしょう か。神が義なる審判者であるならば、罪を犯す人類は即刻罰を下されて当然ではありませんか。そうでないということは、神が義なるお方ではない、不正を見逃してなんとも思っておられないということを示しているのではありませんか。そういう疑問があります。

 もう一つの問題は、人の救いの問題です。人には罪があり、神が義であるならば御前にどのようにして立ちえるでしょうか。神が完全な審判者であって人には罪があるならば、どのようにして人は神の御前に義とされることがありえようかという問題です。神が限りなく義であられるということが認識されていない人には、このことは問題とはなりませんが、いったん神が無限にきよく正しいお方であるということを聖霊によって知らされた者にとっては、これは最大の問題となります。イザヤ書6章におけるイザヤの経験を思い起こして頂きたいところです。

 神は、キリストを「なだめの供え物(ヒラステーリオンの訳語には議論あり。ニグレンは贖罪所と訳します。『ローマ書講解』参照)」として公に示されたことによって、上の二つの問題を一挙に解決されました。すなわち、一方で、神がそのひとり子をなだめの供え物として要求されるまでに神が義であるということは絶対的なものであったということが、明らかにされました。被造物の何者をもってしても神に対する罪の償いとして十分でないほどに、神は正しいお方なのです。そして、キリストという賠償のゆえに、キリストを信じる者を義と宣告するということです。

3.義認ということ

「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義の宣言者です。」(ローマ8:33私訳)

 義認は、人が自分を、あるいは人を義とみなすことではありません。人を義か不義かを審判するのは、人間の仕事ではありません。人間は被告席に立つものであって裁判官の席に立つ者ではありません。裁判官は神なのです。義認とは人の行為ではなく神の行為なのです。主イエスは他の人々を罪に定め、自分を義人と自認して祈るパリサイ人と、あわれみを乞う取税人が宮で祈っていたという話をされました(ルカ18:9−14)。パリサイ人の過ちは律法に一生懸命であったことではありません。彼の過ちの根本は、人間としての分際を越えていたということです。すなわち、人間でありながら神の行為をなそうとしたことです。

 それは他の人についてのみならず、自分自身に関しても同様です。もし良心が責めて も、その人が「こんな罪深い私をあわれんでください」とキリストにより頼んでいるならば、神がその人を義と認めて下さるのです。自分を裁く事も人としての分際を越えた思い上がりです。もしキリストにより頼んでいるならば、自分は地獄行きであると自分自身を裁いても、神はあなたを義とされます。人を義とし、あるいは不義とするのは人の行為ではなく、神の行為なのです。

 義認は神の行為です。しかし、義認は神が人を道徳的に正しい人に造りかえることではありません。ローマ教会では、義認にあたることばiustificatioは「成聖」と訳されています(『カトリック要理』pp103-105)。この訳語のなかにカトリックのこの教理についての不十分な理解が現れています。カトリックでも、キリストにある恩寵は語られますが、それは十分な意味ではありません。キリストの功績は最初の恩恵(prima gratia) として神を愛する方向に向く性向を与えることだというのです。そして、この性向を得てのち、律法の行為によって永遠のいのちを得るようになるとするのです。つまり、義認と聖化との区別が不明なのです。カトリックにおいてはiustificatioは神が人を義と認めることではなく、聖と成すこととして教えられています。

 もし、あなたが自分はキリストに結ばれ、そののちキリストにあって成した善いわざを根拠として天国行きか地獄行きか神に裁かれるのであるというならば、あなたには神の御国に入れるという確信があるでしょうか。この場合、確信ではなく自信といった方がよいかもしれません。神の完全な聖さを知るものは、そのような自信を持ち得ないでありましょう。実際、ローマ教会では自分の救いについての確信をもつことは傲慢の罪であるとされるし、また、それを補うために煉獄の教理があるのです。それはキリストを信じながら、十分に清められなかった大半の信者たちが行くところで、そこで償いを果たし汚れをきよめてのち天国に入れられるというところです。

「64 煉獄のきよめとは何を意味しますか。 煉獄のきよめは、天国の幸いを受ける前、心の汚れを完全にきよめ、残された償いを果たすことです。」(『カトリック要理』)

 ただし、煉獄の教えの根拠はもちろん聖書正典にはありません。

 義認の聖書的な用法は「義と宣告する」という法的な意味です。裁判官が、被告について、法的に義と宣言することなのです。

 旧約では申命記25:1「人と人との間で争いがあり、彼らが裁判に出頭し、正しいほうを正しいとし、悪いほうを悪いとする判決がくだされるとき・・・」とあるようにこれは法廷用語です。また、箴言17:15を見ると、それは法的な宣告であってその人のうちに道徳的変化をもたらすような行為を意味していないことがはっきりとわかります。「悪者を正しいと認め、正しいものを悪いとする、この二つを主は忌み嫌います。」また、イザヤ5:23「彼らはわいろのために、悪者を正しいと宣言し・・・」も同様です。悪者を正しいと宣告すると、その悪者の品性が道徳的に正しく変化するわけではありません。ただ、法律的な宣言として義と認めるということなのです。

 以上は、旧約聖書における義認に当たることばですが、新約でもdikaio・oは同じ意味を持っています。つまり、義と宣告することです。そこで「宣義」と言われる事もあります。ロマ3:20−28。ロマ3:20,28 4:5はその代表例。

 肝心な点は、「義認」ということは、その人の罪の状態が変化したから神がそれを理由として義としたということではないということです。神が審判者として、人を法的に義と宣告するのです。神は「不敬虔な者を義と認めて下さる」のです(ローマ4:4)。罪ある者が罪ある者のまま、義と宣告されるのです。

 では、限りなく正しい審判者である神が、どのようにして罪人を義と宣言することが可能になるのでしょうか。

4.義とされる根拠

 人間の理性は己の義を誇ろうとするものです。主イエスの時代のユダヤのパリサイ主義はその典型でありましょう。このように己の義を主張し、己の義を根拠として永遠の裁きに向かおうとすることは、神に背いた人間の本能です。「なぜなら、人は元来、自分自身の義に信頼するからです。」(アウグスブルグ信仰告白弁証第四条)それは、善悪の知識の木の事件以来、より頼むべき神を見失い、支配者である神を拒否し自律を求めてやまない人間の欲求から出ています。人は本来、神に頼り神に支えられてのみ生きられる者なのに、神なしで生きようとする、それが思い上がりなのです。旧約聖書を知らず律法が啓示されていない異邦人においても、神が異邦人の心に律法を記しておられますが(ローマ2:14,15)、異邦人もまた神に背く罪人の常として己の義により頼もうとするのです。あるいはキリストの十字架を拒否して哲学的探究によって神を知ろうとするのです。罪の根本は、この思い上がり、この誇りにあります。

 参考のためにシャカの説をここに記しておきましょう。

 「シャーキャムニの教団では、在家信者に対しては、布施(慈善)と戒律(道徳)の実行が進められ、その報償として、神々の世界(漢訳では天)に生まれること(往生)が約束されました。」(渡辺照宏『日本の仏教』p193)

 では、その戒律とは何でしょうか。

 「戒律の条項のうちで在家信者にも、出家修業者にも共通するのは次の5項である。 1、殺生をしない。2、盗みをしない(厳密に言うと、与えられないものを勝手に取らない)。3、淫らなことをしない。4、虚言をいわない。5、酒の類を飲まない。この内第三項について、出家者は絶対的であるが、在家信者については配偶者は除外されている。 ・・・出家すると、具足戒を受ける以前、すなわちシュラーマネーラ(沙弥)、シュラーマネーカー(沙弥尼)の身分においてさえ、次の5か条が加えられる。 6、午後に食事をしない。 7、歌舞、音楽、見世物を見たり聞いたりしない。8、花髷、薫香、塗香、装身具を用いない。9、贅沢な椅子や寝台を用いない。10、金銀(貨幣)を所持しない。

 以上の十条項はシュラーマネーラのための規定であるが、具足戒ではさらに細かく規定して二千以上の条項になる。」(渡辺『仏教』pp125,126)

 人間には汚れがあり、その汚れを解決しなければ永遠のいのちはおぼつかないということは、良心における一般啓示からも人間は分かっているようです。しかし、それをどのようにして解決するのかということについては、自力で解決するのであると考えるのが神からの自律を求める人間の本能のようです。

 しかし、無限に正しく無限にきよい審判者に直面した人間は、それが不可能であることを認めなければなりません。「神よあなたが私を裁かれるなら、どうしてあなたの御前に立ちおおせるでしょうか!」「ああ私はもうだめです!」と叫ばなければなりません。

 パウロは熱心なパリサイ人でした。そして、「律法による義についてならば非難されるところのない者です。」とまで言っています(ピリピ3:6)。しかし、律法をどれだけ行なっても、知識をどんなに誇っても神はその義を拒否されます。どうしてでしょうか。それは「誇り」の問題です。自力で己を神の御前に義とされうるものとできたと思った瞬間、その人は神の御前においてもっとも忌み嫌われる傲慢という罪に陥っているからです。哲学的探究によって神を知ったとしても、知ったと思った瞬間、神は彼をその傲慢ゆえに打ち返したまうのです(アウグスティヌス『告白』7:10−16)。神に背いた人間は、ディレンマの中にあります。律法を行なわないならば罪とされ、律法を行うならばそれを誇るという罪を犯してしまうというディレンマです。いずれにせよ、人は律法によっては義とされないのです。

 ただ、恵みによる救いだけがこのディレンマから罪人を救い出すのです。

「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれまし た。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。」(ローマ3:27)

「行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:9)

 では、私たちの恵みの救いの根拠はどこにあるのですか。神は何を根拠として罪ある私たちを義と宣告されるのでしょうか。キリストを根拠とされるのです。キリストは償いと服従をなされました。神はキリストを見て、義と宣言されたのです。キリストの服従は、完全であったからです。そして、この「一人の人」の義が私たちに信仰によって転嫁されたのです(ローマ5:18−21)。神は私たちを私たち自身の行いや品性を根拠とはせず、キリストの義を根拠として裁き、私たちを義と宣告されたのです。

5.救いを受ける信仰

 信仰は、義と認められる根拠ではなく、キリストの義を受け取る手段です。信仰それ自体が義なのではありません。信仰とは、乞食が哀れんで下さいとさしだすからっぽの手です。神は乞食である私たちの手に、キリストという宝をくださり、キリストのゆえに私たち罪人を義と宣言されたのです。

 しかし、聖書はどんな信仰でも救われるとは言ってはいません。あの乞食のからっぽの手とはどんな信仰を意味するのでしょうか。聖書には、種々の信仰が記されています。一応の分類を示します。まだ子どもの乞食の前に度を越して親切な金持ちが立ちました。金持ちは当面の必要を与えるだけではなく、彼を家に引き取り子どもとして訓育し、将来は相続財産まであげようと考えています。これをひとつ話の枠としましょう。

 単なる真理についての認識としての信仰では人は義とされません。それは、ちょうど 「この人は気前のいい金持ちであり、手を差し出せば良い物を握らせてくれる。」と知っていながら、手を差し出さない乞食です。

 また、神には奇跡を行うことができると信じ、奇跡的ないやしを経験したとしても、救いを受けるかどうかは別問題です。これには救いを受け取る信仰がともなうこともあれば伴わない事もあります。イエスの奇跡による癒しをいただきながら、イエスから離れていった9人のらい病人を思い出しましょう。こじきに例えれば、お金持ちが彼の一切合切面倒見ようとしているのに、百円玉をもらっただけで満足してしまうようなものです。

 「一時的信仰」と呼ばれるのは、感情的な動揺や喜びがありますが、根のない「信仰」です。主のたとえに言う岩地やいばらの地に落ちた種はこのことです。神の栄光よりも人的快楽を追求する傾向が強く、迫害と試練には耐えられません。このような信仰は救いを受け取る信仰ではありません。あの親切なお金持ちの話にホイホイ乗ってついて行きますが、ただ食い物が欲しいだけでついて行ったけれども、その家の子として訓練されることの光栄を感じることができないで、すぐに家を飛び出してまた乞食に舞い戻るという類です。

 救いを受け取る信仰とは聖霊によって起こされた真の信仰です。これには次のような側面があります。

 知識的側面:「救いは聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのことばによるのだ」とあるように、福音の知識(ローマ10:17)。これは外的な召命によって与えられます。「聞いたことのない方をどうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。」(ローマ10:14)

 感情的側面:一般論としてではなく個人的な福音への関心・反応があります。つまり、一般論としてキリストが人類の贖いのために死なれたということではなく、私のためにキリストが十字架にかかられたという認識と感動が伴うのです。

 意志的側面:キリストへの信頼と服従です。

救いに至る信仰

「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益となりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」ヘブル4:2

 聖書を読んでいて不思議なことは、一方では門は広くて誰でも容易に救われるようでもあり、もう一方では、門は狭くて誰も救われないようでもあるということです。易しく見える箇所としては、ルカ福音書23章の十字架のイエスの横の犯罪人とか、自殺しかかったピリピの看守だとかです(使徒16:31)。一方、救われることが難しく見えるのは、たとえからだを殺されても、「わたしを人の前で認める者は、みなわたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたし(イエス)を知らないというような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前でそんな者は知らないと言います」(マタイ10:32、33)というというところとか、「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そしてそこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13:14)

 どちらが本当なのでしょうか。もちろんどちらも本当です。

 イエスについて多くの知識を持っている神学者も、イエスにすがらないならば救われませんが、聖書も読めない幼子もイエスにすがるなら救われます。迫害されてイエスにすがりつく者は救われますが、迫害のなかでイエスから離れる者は滅びます。平穏無事の生活のなかでもイエスにすがりつくなら救われますが、平穏無事な生活のなかで自己満足してイエスにすがりつかないなら滅びます。どのような状況や環境にあるか、どんな人物であるかどうかということは関係なく、救いはイエスというお方にすがるかどうかにかかっています。イエスの福音を宣べ伝え多くの人を救いに導いても、最後に、迫害のあまりの厳しさにイエスを拒んでしまった伝道者は救われません。が、彼を迫害した獄吏も自分の罪に目覚めてイエスを信じるなら救われます。

 鍵はイエスにすがりついているかいなかというその一点です。なぜなら、救いは神の恵みであり、神の恵みのすべてはイエスのうちにあるからです。「恵み」とはそれを受けるに値しない者が受ける神からの不当な祝福です。

 ここで課題とするのは、神がキリストにあって私たちのために用意された祝福を受け取る信仰とはどういう信仰であるかということです。

 「信じる」ということは、広辞苑によれば第一に「まことと思う、正しいとして疑わない。」とあります。これはキリスト教信仰の一つの面を表していることは事実です。しかし、これだけでは不十分です。この種の信仰、つまり、事実を事実として認めるというだけの信仰ならば、悪魔でもしているからです。彼らは震えおののきながら、神は唯一であることを信じ、イエスが神の御子であることを信じています(ヤコブ2:19,マタイ8:29)。義を受け取るために、イエスが神の御子であることを認識し是認することは必要です。しかし、十分ではありません。

 広辞苑の「信ず」には第二番目に「信仰する、帰依する」とあり、さらに、「帰依」という項を引くならば、「・・・すぐれた者に服従し、すがること。・・・」とあります。これが、義を受ける信仰です。

 荒海のなかで溺れかけているカナヅチの何人かがいます。そこに、救助者が近づいてきて「さあ、私にすがれ!」と叫びつつ近づきます。それでも溺れてしまう人には、いくつかのタイプがあります。第一は、救助者を見ても、「この人は本当に私を助けられるとは思えない」と考え、従ってすがりつこうとしない人です。同様に、イエスを神の御子、救い主と認めない人は義とされません。

 溺れてしまう人の第二のタイプは、「この人は私を助けることのできる人だ」と分かりますが、実際にすがりつこうとはしない人です。「私にもプライドがある、自分のことは自分でなんとかします。」とか、あるいは「私には別の救助者がきっと来てくれる」とか「ほかの人はすがりつかないのに、私だけすがりついたら何を言われるだろう。」とか思っているのです。しかし、彼らもまた溺れてしまいます。同様に、福音を聞き、イエスは救い主、神の御子であるという事実を事実として認めても、何かと理由をつけて実際にイエス様にすがりつこうとしないなら、その人は義とされません。

 では、どういう人が荒海から助かるのでしょうか。救助者にすがりつき、すなおに服従する人です。罪の荒海から救われ、義とされる人はどんな人でしょうか。イエスにすがりつき、服従する人です。

 救われるために多くの知識は要りません。最小限必要な信仰とは、神の御子イエス様にすがりつき、服従することです。今まさに首に剣を突き立てようとするピリピの看取に、パウロたちは叫びました。「主イエスを信じなさい!」。これだけです。他になにもわからなくても、イエス様にすがりつき服従するならば救われます。

 贖罪についての理解の歴史の変遷を学んでお分かりのように、アンセルムスや宗教改革者によって再発見されるまで、私たちが親しんでいるキリストの十字架の「代償的贖罪」という聖書的教理は、ほとんど理解されていませんでした。民衆はふつう「キリスト様は悪魔の人質になっていたおらのために、身代わり人質になって下さったんだ。ああ、ありがてえこった。キリストさま。」と思っていたのです。では、彼らは正しい教理理解をしていないから救われないのでしょうか。そんなことはありません。イエス様に信頼し、すがりつき、服従する人は誰でも救われるのです。なぜなら、救うのはその人の信仰ではなく、イエス様だからです。

 溺れかかっている人がいて、救助者が来たとき、救助者がおぼれかかっている人に向かって「私がいかなる方法であなたを救うか理解していますか?手をさし出すでしょうか。それともロープでしょうか。それとも棒を差し出すでしょうか。それとも飛び込んで後ろから抱きかかえるのでしょうか。」と質問したとします。溺れかけている人は答えます「ブクブク・・ロ、ロープです。」すると救助者が言います「ブー!正解は棒を差し出すことでした。残念でした。ではサヨウナラ。」・・・なんてばかなことをいうでしょうか。「さあ、この手につかまれ!」と言うだけです。そしてすがりつくなら、救われます。

 福音とは何ですか。「主イエスを信じなさい。そうすれば、救われます。」これです。そして、イエスにすがり服従する人ならば、イエス様の十字架の贖いを受け入れ感謝するでしょう。復活に感嘆するでしょう。創造主を賛美するでしょう。御霊の励ましを喜ぶでしょう。    聖書知識、教理的知識が不要だと言って要るのではありません。けれども、聖書知識、教理的知識だけで救われるわけではないと言って要るのです。肝心なことは、イエスの御名にすがりつき、服従することです。ですから、魂を獲得せんとするならば、いろいろな教理的説明などは、この目標に向けてなされなければなりません。

「問 信仰とは何ですか。

 答 信仰とは、信頼です。イエス・キリストを自分の救い主として、心から信頼することです。」(同盟教団教会学校教理問答26)

聖化1 子としての聖化

   キリストを信じる者が、この世で受ける祝福は何かというと非常に多彩で深く豊かなものがありますが、そのうちで主要な祝福はなにかというと、三つです。すなわち、義とされること、子とされること、聖とされることです。この三つは、父と子と聖霊なる三位一体なる神の秩序にかなうものです。すなわち私たちは審判者である父に義と宣告され、長子となられた御子イエスにあって「アバ、父」と呼ぶ神の子とされ、聖霊のお働きによって聖なる者と変えられていくということです。三位一体の神は、義認においても、子とすることによいても、聖化においても常にともに働き給うのですが、特にそれぞれの特徴的な御業からいうと御父は義認と、御子は子とすることと、聖霊は聖化と深く関係がおありです。しかし、三つはただ論理的な美しさのために並べたものではなく、この三つの祝福は互いに区別されつつ互いに支えあう関係に置かれていて、いずれをも落とすわけには行かないものなのです。

1.神の計画全体の中で−同義語の整理−

 クリスチャンがこの世で神から受ける恩恵は、義とされること、子とされること、聖とされることです。神は、キリストを信じる私たちを、義と宣告してくださいました。神は義とした私たちを、子として神の家族(教会エペソ3:15)のうちに迎えて下さいました。神が私たちを選び、召し、義とし、子として迎えて下さったのには最終的目的がおありです。その最終的目的とは、私たちを「御子のかたちと同じ姿」にすることです。御子は見えない神のかたちですから(コロサイ1:15)、「御子のかたちと同じ姿」にするとは、すなわち、父なる神に似た者とすることです。子どもが父親を愛していれば、「ぼくもお父さんのようになりたい」と希望するものですが、そのようにキリスト者も子とされたものとして、父なる神に似ることを希望する者となるのです。聖書の他の表現でいえば、それは「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という御霊の実を結ぶことにほかなりません。御霊の実(カルポス)は単数形で、御霊の実のなかにちょうどみかんのように、愛、喜び、平安、寛容・・・といったふさがみな入っているのです。

 創造との関係から表現しますと、創世記第一章にあるように、本来、人は神の似姿に創造された者でしたが、堕落によってそれを損なってしまったのです。が、神は、キリストにあって私たちを新たに御自身の似姿にかたどって創造してくださるのです。これが神が私たちを召された目的です。

 聖化というと狭義には「一般的用途から神のために聖別すること」という意味になりましょうが、ここでは義とし子とした者をさらに御自身の似姿に新創造される神の御業、換言するとキリスト者の成長という幅広い意味で聖化という用語を用います。

「神はあらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿に定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」(ローマ9:29,30)

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じ形に姿を変えられて行きます。これは、まさに、御霊なる主の働きによるのです。」(2コリント3:18)

「だからあなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5:48)

「またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造りだされた、新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ4:23,24)

2.義認と聖化の矛盾?

「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪のなかに留まるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。」ローマ6:1,2a 

「それではどうなるのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そうということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」 ローマ6:15

 この御言葉に示されるように、信仰義認が宣教され始めたときから、恵みの福音と善き業との問題は指摘されていました。もちろん義とされたキリスト者は聖化の道に歩むものであるというのが聖書の主張ですが、義認と聖化の関係の困難な点は次の二つに絞られましょう。第一は、聖化を変に強調すると、律法主義や自己義認に陥ってしまうということです。信仰義認から逆行してしまうのです。信仰義認というのは罪ある者が罪あるままであるにもかかわらず、神がその人を義と認めて下さるということです。ところが、聖化はその人が実質的に清められることです。すると、罪人のままでも義と認められるという信仰義認が事実上意味を失うことになるということです。もし聖化が罪のなくなることを意味しているとすると、義認と聖化は衝突することになります。

 もうひとつの問題は、聖化はその本人の変化を意味することですから、当然体験と関係するのです。けれども、それが極端になると個人主義的、体験主義的、主観的なものに陥ってしまうということです。そして教会をさばき、教会という共同体から離れるものとなるということです。教会の歴史の中で、きよめを強調する人々が独善と教会批判に走り、さらに分裂を繰り返したということは残念ながら事実であります。たとえば、ドナティストのことがあります。

 義認は法的客観的であり、聖化は実質的主観的です。そして、両者ともに一人神の前に立つ自分という意識、個人主義的な面があります。そういう所に、根本的な問題があると思います。

3.子とされること

 両者を結びつけることとして、私たちがあらためて聖書から学ばねばならないことは、「子とされる」という恵みであります。子とされるとは、信仰によって義とされた者が、イエス・キリストにあって神の子としていただくことです。残念なことに、この真理は教理の歴史のなかでは必ずしも重視されてきませんでした。伝統的には義認論の一部として扱われる場合も多く(ベルコフ)、主題的に扱われない場合さえあります(C.ホッジ)。ですが、ウェストミンスター信仰規準(告白、大小教理問答)が義認、聖化とならんで、子とされることをキリスト者がこの世で受ける恵みとして告白していることは、優れた特色です。

 実際、「子とされること」は新約的な恵みの中核にあるものです。ひとつ、聖霊のことを挙げれば、旧約では「神の霊」とか「聖霊」という呼称はありますが、「子とする御霊」というのは新約の特色です。また、神を「父」と呼ぶ例は旧約にもなくはないのですが、非常にこれをはっきりと啓示され、祈りにおいてそのように祈るようにと教えられたのは、御子イエスが初めてです。パウロもまた私たちは「子としてくださる御霊によって、『アバ、父』と呼ぶ。」と言います。

 ガラテヤ3:23−4:7

 これには、法的な側面と実質的な側面との両面があることを聖書は証言しています。法的な側面というのは、養子縁組みをして神の家族に入れられるということです。これは客観的なことです。つまり、本人が子と感じるとか感じないとかいう主観的なこととは別次元に、事実、神の子なのです。その限りでは義認と似通っています。

 しかし、子とされるということは、同時に、実質的な変化を意味します。「子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます。私たちが神の子供であることは、御霊御自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」(ローマ8:16)とあるように、義とされた人は同時に実質的な変化を経験しました。聖書(特にヨハネ文書)は、キリスト者は神から生まれたといいます。「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。」(1ヨハネ3:9)子とされるということは、こういうわけで、養子とされるということでありながら、同時に、神からの聖霊による出生をも意味しています。

 また、子とされるということは神にある兄弟姉妹、神の家族に迎えられるということを意味します。家族というのは、単なる会社組織や軍隊のような団体とは違います。会社では社員にはみな「かけがえ」があります。社員や兵士は機械の部品みたいなものです。誰かが退職してポストがあけば、別の人をそこに入れれば済むことです。軍曹が一人戦死すれば、伍長をそこに据え直すだけです。そうしてだれも怪しみません。けれども、家族においては一人一人がかけがえのない存在です。お兄ちゃんが家出したから、同じ年格好の人を据えましたなんてことをしたら、だれも怪しまないというわけにはまいりません。全体的でありながら、個々が大事にされるというのが家族という集団の特色です。それはキリストのみからだとしての教会における部分と全体の関係と同じです(1コリント12:25,26)。

 以上まとめると、子とされるという恵みには、次のような特徴があります。法的客観的かつ実質的主観的であること。共同体的(教会的)であること。これらのことが、義認と聖化の矛盾と考えられたことを解決するのです。

4.子としての聖化

 ある人のお陰で、法的に義と宣言され監獄から釈放になった人が、それ以後、そのお世話になった人の奴隷として主人のもとに仕えるようになるとします。彼は、罪人である自分を義としてくださった主人の恵みを感謝して生活するでしょう。しかし、彼が奴隷であるかぎり、彼の行動にはどうしても恐怖があります。「再び恐怖に陥れるような奴隷の霊」を持っている状態です(ローマ8:15)。子と奴隷の違いとはなんでしょう。それは、どんなによい奴隷であっても、その働きによってのみ評価されるということです。ですから、「俺の働きが悪ければ、御主人はいずれ俺を追いだしてしまうかもしれない。」奴隷は、そのように恐怖を持ち続けねばなりません。ですから、彼の善き業はともするとご主人の機嫌をうかがう律法主義的なものになりがちです。これは聖化を変に強調した場合、律法主義が自己義認に陥るという問題をたとえたものです。

 聖書は確かにキリスト者を神の奴隷として描写することがしばしばあります。私たちは神の所有であり、神は絶対的な主権を私たちに対して持っておられるからです。しかし、もしキリスト者が神の奴隷としてしか神の御前における自己を意識できないとすれば、彼は新約の恵みを十分に味わっているとは言えません。もし奴隷としての自己意識しかないとすれば、彼の心からは行いによって裁かれるという恐怖が去ることがないでしょう。しかし、新約聖書は、キリスト者を神の奴隷としてばかりではなく、神の子どもであるというのです。放蕩息子が帰ってきた時、彼は「もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にして下さい。」と言おうとしますが、父親は最後まで言わせず、彼に相続人たる息子の印である指輪をはめさせます(ルカ15:19と22比較)。

 奴隷と比べて、子とはどういうものでしょうか。父はその子に仕事を与えます。子は将来の相続人ですから、奴隷に任せるよりも、もっと大きな責任を子には与えるはずです。なぜなら奴隷の場合はずっとその仕事をしていればよいのですが、子の場合は将来は相続人としての大きな栄誉と同時に責任もあるからです。実際、新約における神の求めは旧約聖書よりも高いものです。たとえば、エペソ4:25−32を見てみましょう。十戒は偽証を禁じましたが、新約は単に偽証を禁じるのみならず真実を語れと命じます。旧約は盗むなと言いましたが、新約は盗みを禁じるのみならず困っている人に施しをするために働きなさいと命じます。旧約の律法が1ミリオン要求するならば、新約の喜ばしい福音は2ミリオンを要求します。それはしかし、縛るためではなく、いのちを解放するためです。けれども、神の子は恐怖におののく必要はありません。なぜなら、失敗しても父は子を根本的にはその働きによって評価し、家から追い出すかどうかを決めたりしないからであります。父は、子を見る時、その働きももちろん評価しますが、もっと深いところでその存在を喜んでおられるからです。父親は子どもを一人前にするために時には、厳しく訓練することもありましょう。しもべの受ける訓練よりもむしろ厳しいかもしれません。けれども、子は父の愛を知っていますからより大胆に神の御心を行うことができます。

5.聖化は教会的なこと

「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためで す。」(ローマ8:29)

 子とされたということは、御子を長子とする神の家族に入れられたということです。神の家族の一員として、その後の具体的な聖化の歩みというものはあるのです。父なる神が義とした者を子としてイエスを長子とする共同体に招かれたのは、義とされた者が神の家族の中にあって成長して行くことを御心としておられるからです。

 本来、人間は創造の初めから教会的存在として造られました。それは神を愛し、互いを愛するという目的をもった存在として創造されたという意味です。人間に与えられた戒めは、全身全霊をもって神を愛せよということだけではなく、あなたの隣人を自分と同じように愛せよということなのです。ですから、私たちの聖化は、この神の家族という教会という共同体のなかでこそ具体化されていくものなのであります。神を愛し、主にある兄弟姉妹を愛するというところに、私たちの聖化の実が実るべきであります。それから広がっていくのです。教会を自ら離れた人の信仰は独善に陥ります。

 聖化は確かに、一人一人の内になされる聖霊の御業ですが、同時に、ただ単に個人のことではなく教会的なことなのです。聖化というのは、単にクリスチャン個人のきよめではなく、教会としてのきよめと言わねばなりません。「私は、あの罪を犯さなくなった。この罪を犯さなくなった。きよめられた。」というのも聖化の重要な面ではありますが、それでは不十分なのです。主を愛し、主にある兄弟姉妹を愛するという時、そこに聖化の実があると言って良いのです。キリストは教会を清められたと聖書は言っています(エペソ6:25−27)。

祈り

 アバ、父よ。こんなにも親しくあなたを呼びまつることができるとは、なんという恵みでしょうか。罪の中にうごめくうじ虫に過ぎぬ私を、義と宣告してくださったばかりか、今や、子として兄弟姉妹のうちに加えて下さいました。今、この身をあなたにお委ねします。どうぞ、御国の相続人としてふさわしく、訓練してください。

聖化2 2ミリオンのいのち

1.聖化の主体−聖霊−

 時々、義とされるのは信仰のみ恵みだが、聖化は人間の力というふうに捕らえられることがあります。聖化においては、確かに自覚的な過程をたどります。パウロは自分を打ちたたくようにして主に従わせているというほどです。が、しかし、それでもやはり、私たちを聖化してくださるのは、神です。人間は御言葉の種をまき、また水をやりますが、成長させてくださるのは神なのです。神の働き・神のいのちなくしては、私たちは決して聖化されることはできません。再生した人を、神の似姿に形成するのが聖化の御業ですが、それは神御自身によるほかできないことです。

 聖化という御業もまた三位一体の神によることですが、もっとも前面に出てくるのは聖霊です。聖霊はキリスト者の内に住まわれ清めて下さるのです。その方法は、御言葉、祈り、聖餐を中心とする教会の交わり、そして、外的啓示としての試練です。

2.聖化の内容(ロマ書6〜8章)

 ここでは、ローマ書6章から8章をたどりながら、聖化について学びましょう。パウロは5章までに信仰義認、あるいはキリストの義の転嫁について述べてきます。そして6章に入ると、恵みによって義とされた私たちの聖化について語り始めます。

(1)キリストにつくバプテスマにある自己認識(6章)

 6章には「それともあなたがたは知らないのですか。」(3節)「・・・私たちは知っています。」(6節)「・・・と信じます。」(8節)「・・・知っています。」(9節)「・・・と、思いなさい。」(11節)という表現が出てきます。いずれも、バプテスマによってキリストと一体にされた私たちは、罪に対してはすでに死んだものであり、神に対してはキリストにあって生きたものだという自己認識の重要性を幾重にも強調しているものです。

 私たちは自分のアイデンティティーを正しく持つ必要があるということです。人間世界の中に生まれて人間として育てられると、人は人間らしくなります。けれども、20年ほど前のインドでの事例のように、赤ん坊の時、狼に連れ去られて狼として育てられると、その子たちは狼のように四つ足で歩き、狼のように吠えるようになりました。このことは何を意味しているのでしょう。人は自分がどんな者であるかと思うような者になるということです。たしかに、百パーセントそうであるとは言えないのは事実です。彼等は狼の中で育っても、牙が生えてきたわけではなく、完全に狼になりきったわけではありません。けれども、人間の形成においてその自己認識が非常に大きな部分を占めているのは事実です。

 「神の似姿」は知と義と聖と言われますが、そこにおける知性の役割はとても大きいものです。私たちがキリストにあっていただいた自分のありかたを正しく認識していれば、そのような者となるでしょう。御言葉が私たちに、正しい神知識と、自己知識と世界についての知識を与えてくれます。聖霊は、私たちの心を照らして御言葉を理解させて下さいます。

 聖化において持つべき自己認識は、ローマ書6章に繰り返し強調されています。御自分でお読み下さい。

「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(4節)

「あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」(11節)

「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは、罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となってのです。」(17、18節)

 かつては罪という主人の奴隷であったから、罪という主人があなたに命令をすればそれに従わねばならなかったけれど、今や、あなたの主人は義なるキリストであるということです。罪という主人に、なにも義理立てすることはいらないのであるというのです。義なる主人に自分のからだを捧げなさいというのです。私は、すでに罪に対して死んだこと、キリストにある義の奴隷とされたこと、この自己認識が重要です。

(2)律法によるならば(7章)

 では、罪に死に、キリストにあって義の奴隷として神に対して生きている私たちは、どのようにしてその義の道に歩むことができるでしょうか。7章に入ると、律法の問題が出てきます。パウロは1節から6節で、キリスト者は罪から解放されただけでなく律法からも解放されてしまっており、律法によらず御霊によって神に仕えて生きるのだというのです(6節)。罪の主人から義という主人のもとに買い取られたから今度は義の主人のくれた義の奴隷のマニュアルとして「〜してはならない」という律法を順守することによって、聖化の道をたどれるかというとそうではないと言うのです。そうではなく、御霊によって仕えることによって聖化の道をたどるのであるというのです。

 しかし、7節から25節では、もし律法によって正しい道を歩もうとするならば、どのような結果に至るかがパウロの痛切な経験を通して記されています。十戒の第十番目の戒め「むさぼってはならない」という禁止命令をパウロが真剣に受け止めて、これを実行しようとすると、いな、実行しようとすればするほど、律法は彼のからだの中にあるむさぼりの罪を引き起こしたというのです。「しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ罪は死んだ者です。」「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち、隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人の者を、欲しがってはならない。」この戒めを繰り返し繰り返し心の中で反復しながら、生活をして御覧になればあなたも、この戒めがかえってむさぼりの罪を引き起こすことに気づくでしょう。むさぼりというのは、自分に正当な権利のないものを欲しがるという思いのことです。

 といっても、この戒めが罪なのではありません。私たちのからだのなかに罪があるからこそ、この戒めによって触発されるわけです。この戒めによって、隠れていた自分の内にある罪の現実に目覚めるのです。

(3)いのちの御霊の法則によって(8章)

 パウロはこの律法による罪の自覚によって、二つの認識に追いやられます。第一は、もうひとたびあのキリストにある義認の恵みを再確認することです。

「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を罪のために、罪深い肉とおなじような形でお遣わしにな り、肉において罪を処罰されたのです。」(8章3節)

 このように信仰義認は、聖化の途上で己の罪の現実に目覚めた聖徒を支えるものなのです。律法は、こうしてもう一度キリスト者をキリストの恵みの原点に連れ戻すのです。

 パウロが律法によって己の罪を自覚させられて追いやられたもうひとつの所は、法則の認識です。自分が罪を犯してしまうことは、たまたまのことではなく、法則であるという認識です。ローマ書7章21節から8章7節までに出てくる「律法」「法則」「原理」と訳されていることばは、みなノモスということばです。日本語では、「法律」は道徳的な次元のルールのことであり、「律法」は特に旧約聖書における神の戒めであり、「法則」や「原理」はおもに自然界のルールということですが、本来ひとつの言葉なのです。それは、創造主である神が道徳的次元であれ、物理的次元であれ、お定めになったルールであるからです。ですから、ここを理解しやすくするためには、「律法」も「原理」も一応「法則」と読み替えると良いと思います。ここの翻訳は新共同訳が新改訳よりもずっとすぐれていると思います。新共同訳では、旧約聖書の律法(ここでは特に「むさぼってはならない」)を指す22節と25節とのみ「神の律法」と翻訳して、あとはみな「法則」と翻訳しています。すると、かなりすっきりしています。

 ここに出てくるノモスを整理すると、次のようになります。

a.善をしたいと願っている私に悪が宿っているという法則(7:21)

 これは、パウロが発見した己の現実という意味です。

b.神の律法(法則)(7:22)

c.からだの中の異なる法則=罪の法則(7:23)=罪と死の法則(8:2)・・・神の律法に反逆したいと願う

d.心の法則(7:23)・・・神の法則(律法)に従いたいと願っている

e.いのちの御霊の法則(8:2)

 心の法則は神の律法に従いたいと願うものです。それは神が心に律法の命じる行いを記しておられるからです(ローマ2:15)。けれども、からだの中には罪と死の法則があり、これは神の律法に反逆するものであり、かつ、心の法則よりも強力なため、からだは罪の法則にしたがってしまうのです。心の法則によっては罪の法則に対する勝ち目はありません。罪と死の法則から解放されるためには、罪と死の法則よりも強力な法則をもってしなければなりません。罪と死の法則よりも強力な法則とは、いのちの御霊の法則です。これを図解すると下の通りです。

心の法則 < 罪と死の法則 < いのちの御霊の法則

(律法に賛成)(律法に反逆)(律法から解放され律法を十二分に満たす)

 ですから、私たちは「むさぼってはならない」という律法に固執することによってではなく、いのちの御霊の法則にあって、勝利の生活をすることができるのです。いのちの御霊は「再び恐怖に陥れる奴隷の霊ではなく、子としてくださる御霊」です。すなわち、律法を行うことによってご主人様のご機嫌を取ろうと努めなければならないような、奴隷の恐怖から解放され、子として父親に喜び仕える霊です。奴隷ならば最低限これだけはしておかねばご主人様に叱られるという動機から働くのですが、子は将来の相続人としての光栄を覚え父親の期待と愛にお答えしようとして働くのです。

(4)いのちの御霊の法則に従う

 このことについて、主イエスの「あなたに1ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに2ミリオン行きなさい。」(マタイ5:41)ということばから学びましょう。当時、ユダヤはローマ帝国の属州とされており、ローマ人は任意に被支配者であるユダヤ人を1ミリオン使役することができました。ひどい話です。堪え難い屈辱です。けれども、主は2ミリオン行けと言われるのです。この世でもっともひどい人も1ミリオン行けというのが限界です。しかし、主イエスは2ミリオン行きなさいと命じます。主イエスはローマの法律よりもひどい律法で私たちを縛ろうというのでしょうか。いいえ。逆です。1ミリオン行く人は、肉の力でいやいや苦痛の中で行くでしょう。しかし、2ミリオン行く人は、喜んで行くのです。彼はもはや律法に縛られているのではなく、敵をも愛する愛に よって自発的に行くからです。2ミリオン行きなさいという命令は、私たちを縛るのではなく、むしろ内に与えて下さった御霊のいのちを引き出すものなのです。これは、律法と新約的な命令との違いに適用されるものです(1) 。

 律法は「偽証してはならない」と言いましたが、新約の命令は「偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。」と言います。律法は「盗むな」と言いますが、新約の命令は「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」です。律法は「主の御名をみだりに唱えてはならない。」と言いますが、新約の命令は「悪いことばをいっさい口から出してはなりません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つ言葉を話し、聞く人に恵みを与えなさい。」です。神の聖霊を悲しませてはいけません(エペソ4:25−30)。パウロは注意深く新約の命令を律法とは決して呼びません。いわゆる「律法の第三用法」(規範的用法)という呼び方は聖書的ではないと思います。

 いのちの御霊を受けたということは、たとえて言うと今まで50キロでトロトロとしか走ることのできなかったポンコツ自動車が、エンジンを取り替えられて200キロで ビューンと走れるようになったようなことです。しかし、実際に200キロの力があってもその自動車が50キロでしか、走ろうとしないならば、自分ば変貌したことに気づかないでしょう。この世には悲しみながら不平を言いながら1ミリオン行くクリスチャンと、喜んで2ミリオン行くクリスチャンがいます。キリストを信じる私たちには、愛をもって2ミリオン行くいのちが与えられています。

 ここに聖化における信仰の重要性があります。私は、義の奴隷となったと信じると同時に、私のうちにはいのちの御霊がおられ、2ミリオンを行くいのちがある事実を信じる信仰が必要です。信じて服従するのです。ただし注意してください。何でも律法の2倍すれば良いなどと形式的にとらえてはなりません。聖霊の内なる促しに信仰をもって自由に従うことです。

3.聖化の手段

 御霊が聖化の主体であり、私たちはその協力者ですが、御霊はもろもろの手段を自在に用いて私たちを聖化していかれます。聖化の手段は、御言葉、祈り、聖礼典を中心とする教会の交わり、そして、摂理における特に試練です。いずれも重要であり、それぞれが単独で用いられるわけではなく、組み合わせられて聖化の手段として用いられます。例えば、試練の中で人は神に祈り、聖書の言葉によってその摂理に現わされた神の御心を正しく理解しようと求めます。御言葉は私たちに罪を自覚させ、悔い改めに導き、あるいは慰めを与えます。あるいは、聖礼典においてキリストのいのちにあずかって、教会の兄弟姉妹のとりなしの祈りと励ましによってづけを受けます。聖化は、このように総合的・多面的に恵みの手段を用いての聖霊のお働きです。

 聖霊は御言葉をもって私たちを聖化されます。説教された御言葉にせよ、自分で読む御言葉にせよそうです。聖霊が心を照らして下さるので、キリスト者は、聖書において語られる神御自身の権威のゆえに、それを真実であると信じ、その箇所が含む内容に基づい て、さまざまに行動します。つまり、命令には服従し、威嚇にはおののき、この世の生活と来世の生活とのための約束は信頼して受け入れるのです(2) 。

 摂理のうちでも試練は特に、聖化のために神様がお用いになる恵みの方法として、聖書に啓示されていることです。(本書「創造と摂理」2−(2)「摂理と人生の苦難」の項参照)。このような観点から、聖書におけるアブラハム、ノア、ヤコブ、ヨセフ、モー セ、ダビデ、ヨブ、エリヤ、エレミヤたちの生涯をたどり、あるいはイスラエルの民の歴史を読み直すことはとても有益です。

 彼らの生涯に訪れる一つ一つの苦難は、神の摂理の御手から出たことです。神はその苦難を通して、彼らをどのように打ち砕き新たに形成していかれたでしょうか。基本的にはその人がほかの何者でもなく、ただ神に信頼しきる信仰へと導くということと言えるでしょう。このような御言葉の理解を通して、キリスト者は自分自身の人生に現わされる神の摂理を解釈するのです。また苦難を通して、神は私たちによりせつに祈り求める心を与えまた、聖餐に主のいのちを求めさせるのです。

4.聖化と三つの時制−−聖化途上の意識の持ち方−−

 ローマ書5章1節から11節で、キリスト者の生涯が三つの時制の中で整理されてまとめられて記されています。

 1節でまずそれが総括されます。過去のこととしては、信仰によって義と認められ、その結果として、現在、神との平和を持っているという恵みの中にあること。そして、将来に対しては神の栄光を望んで大いに喜んでいることです。

 3節から5節。では、キリスト者の喜びというのは現在にはなく、将来のことにのみかかっているのでしょうか。将来に希望があるから、今の苦しみは我慢しようというのかというとそうではありません。ここに驚くべき喜びの宣言が出てきます。それは、「艱難さえも喜んでい」るということです。その理由は、艱難が忍耐を生み、忍耐が練られた品性を生み、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。つまり、艱難を通じてキリスト者は御霊の実を結び、キリストに似るものと変貌させられていくからです。ここには、神が義と認められたものを聖化するために、艱難をお用いになること。聖化の手段として艱難が有効に働くためには、キリスト者の忍耐が必要であることが述べられていま す。それゆえ「艱難→忍耐→練達→希望」です。「艱難→逃避→堕落→失望」となってはいけません。

 5節から11節では、将来の希望の確かさが確証されます。将来の希望とは、「キリストによって神の怒りから救われ」、「キリストのいのちによって救いにあずかる」ことです(9、10節)。すなわち、最後の審判において神の有罪判決から救われ、キリストの永遠のいのちにあずかり永遠の祝福に入ることです。この将来の希望の確かさの根拠は、キリストの死において現された私たちに対する神の愛にあります。神は、弱く、不敬虔で、罪人であった私たちをさえ愛しキリストの血をもって義と認めて下さった。であれば、すでにキリストにあって義と認めた者を神が最後の審判において怒りから救い、永遠のいのちに入れて下さることはなおさらのことです。つまり、神は箸にも棒にもかからない私たち罪人を愛されたのだから、その神が、ひとたび義と認めた者を最後の審判において救わないということはありえないということです。

 ピリピ書3章にも三つの時制の中で、キリスト者の聖化が語られます。特に、ここでは「完全」の誤解問題が扱われます。

 未来のこととして目指しているのは、「死者の中からの復活」(3:11)すなわち、「神の栄冠を得る」ことであり(3:13)、「キリストが私たちの卑しいからだを、御自身の栄光のからだと同じ姿に変えて下さる」ことです(3:21)。

 現在の自己について言われていることは、「すでに得たのでもなく、完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求している」(3:12)、「私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものにむかって進み」(3:13)、「目標を目指して一心に走っている」(3:14)、「私たちはすでに達しているところを規準とし て、進むべきです。」(3:16)ということです。

 そして、この現在を支えているのは、「そしてそれを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえて下さったのです。」(3:12)という過去の事実なのです。

 これら三つの時のうち聖化と直接関係するのは、もちろん現在のことですが、聖化がキリストが自分を捕らえて下さった過去と、完成(復活)の未来との間にあることをわきまえることはいかに重要でしょうか。過去は、キリストがすでに私を捕らえて下さったということを知って、現在の信仰生活の聖化の基盤をわきまえるためです。未来は、聖化の目指す完全さというのはキリストの来臨によってのみ実現すると知るためです。

 現在の態度としての誤りは、第一になんらかの神秘経験をもって「私はすでに得た。」「私は完全だ。」などと思うことです。ピリピ書の書かれた背景としてはヘレニズムの密儀宗教とユダヤ律法主義の影響から、「自分はすでに完全だ」というような誤謬に陥った人々がいてピリピ教会の信者を惑わしていたということがありました(3) 。日本でも密教の世界では即身成仏などと現世での「完全」を教えます。この誤りは、キリストがその再臨と時に用意してくださる完全を知らないことに原因を持っています。私たちは、未来に用意された完全を目指すべきですが、得たと錯覚してはなりません。

 現在の態度の誤りの第二は、過去を振り返って「ああ私はこのくらい清められた」と自己満足に耽ったりすることです。

 現在の態度の誤りの第三は、聖化の実が実っていない自分を見て、私は救われていないと絶望に陥ることです。キリストが私を捕らえて下さったという事実に立ち返らねばなりません。

 以上ローマ書とピリピ書の三時制からまとめると、聖化の途上にある者として大事なことは、

 第一に、過去において、キリストに捕らえられ、信仰によって義と認められ、今、神との平和の中に入れられているという基盤に立つことです。

 第二に、将来、復活の日に現される神の栄光と救いといのちの完全に希望をおくことです。

 第三に、常にすでに達した所を規準としてひたすら前進することです。また、現在与えられている苦難は、神が私たちを聖化するためにお与えになっている恵みの手段であるゆえに忍耐し、喜ぶことです。


(1)ウォッチマン・ニー『私ではなくキリスト』(生ける水の川、1979 )pp93-121参照

(2)『ウェストミンスター信仰告白』14:2参照

(3)佐竹明『ピリピ人への手紙』( 新教出版社1969,1983)p220,

聖霊

1.聖霊とはどなたか

 聖霊は、三位一体の神における第三位格でいらっしゃいます。聖霊は御父や御子と同じく、栄光を同じくする神格でいらっしゃるという認識が格別重要です。なぜならば、聖霊についてそれを単なる力、エネルギーのような非人格的なモノとして誤解するむきがあるからです。

 確かに、聖霊についての聖書的表現において、油(ルカ4:18)、水(ヨハネ7:38,39)、火(使徒1:3)、風(ヨハネ3:8、使徒2:2)などにたとえられることがあります。それは、聖霊が多様なご性質・お働きをもっていらっしゃるからです。けれども、これらの多様な性質をもっていらっしゃるということが、すなわち、聖霊が人格ではないということにはなりません。例えば、私たちは激しい性格の人を火のような性格の人物とか、枠にはまらない自由な人を風のような人という具合に表現します。火が人格であることはできませんし、風が人格であることはできませんが、人格が火のようであると、人格が風のようであるといわれることは普通のことです。同様に、聖霊が油、水、火、風などにたとえられるのは、そういう豊かで多様なご性質とお働きがあるからです。

 聖霊がご人格でいらっしゃるということは、次のような聖書の証言からわかります。人格ということばで意味されるのは、知性、感情、意志を備えた統一された意識のある方ということです。聖霊は一人格として明示されています(ヨハネ14:16,17,26,16:7−15など)。聖霊は知性のあるお方です(ヨハネ14:26,15:26,ローマ8:16)。聖霊は感情のあるお方です(エペソ4:30)。意志のあるお方です(使徒16:7,1コリント12:11)。

 人格に対して、モノを扱うような扱いをすることほど侮辱的なことはありません。ましてや人格であられ神の御霊に対して、そういうことをするならば、なんと失礼なことでしょう。御霊をどれほど悲しませるでしょう。私たちは、聖霊をご人格として愛し、尊敬しましょう。

2.聖霊のお働き

 父なる神は主宰者、御子は神と被造物の仲保者とすれば、聖霊は父が主宰し御子が仲保してなされたことを完遂すること、また、適用することを務めとすると言えます。すでに学んだ神の御業のすべてに聖霊はかかわっておられますので、その総括ということになります。

(1)創造と保持あるいは、一般恩寵における聖霊の働き

 聖霊は、創造の御業、また、創造を保持する御業において適用的なお働きをになっておられます。聖霊は、初めにいまだ形を成していない地の上で、あたかもひな鳥の上を舞いかける鳥の母親のように、創造を命じる神のことばが発せられるのを待っておられ、神のことばが発せられるや、その御言葉をなし遂げられたのです。

初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」創世記1:1,2

 一度、創造された被造物も神の保持の働きなくしては、崩壊へと向かうのです。聖霊 は、ノアとの平和の契約に基づいて地を保持されます。被造物は聖霊によって、保持されているのです。

「あなたが御霊を送られると、彼らは造られます。また、あなたは地の面を新しくされます。」詩編104:30

 全被造物のうちに含まれる以上、当然、人の肉体的生命も聖霊の一般恩寵的働きによります。神はノアの洪水の前に「わたしの霊は永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は120年にしよう。」(創世記6:3)とおっしゃったように。

(2)救済における聖霊の働き

a.旧約時代における聖霊の働き  旧約時代は、聖霊は神が特定の職務に召した人に、その職務遂行のためにくだされました。たとえば、幕屋建設に携わる者たち(出エ28:3/31:3)、民を治める職務にある者たち、モーセや長老(民11:17,25/27:18)、あるいは士師たち(士師3:10/6:34/11:29・・・)。預言者たち、祭司たちも聖霊によってその職務を遂行しました。概して、神の召した職務遂行のための賜物を与えるのが旧約時代における聖霊のお働きといえます。

b.御子の生涯における聖霊の働き  聖霊は御子のご生涯においても、働いておられました。聖霊は御子イエスを処女マリヤの胎に宿らせました(マタイ1:18)。また、聖霊は、イエスがバプテスマを受けられた時、天から下って、イエスにメシヤ(油注がれた者)としての任職の油となられました(マタイ3:16)。そして、聖霊は、十字架にかかって死なれた主イエスを死者の中からよみがえらせました。

「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が・・・」ローマ8:11

c.教会での聖霊の働き  御子は復活されると、ペンテコステに聖霊を、助け主として教会に派遣しました。(使徒1:8)。それは救済と職務遂行の両面を持ちます。新約の教会の時代を聖霊の時代などと呼ぶ人がいるように、新約の教会において聖霊のお働きは著しいものです。

 第一に、聖書の霊感。私たちの新生と聖化のための恵みの手段である神の御言葉を私たちに与えて下さったのは、聖霊です。聖霊は、まず、その記者たちを導いて、聖書を著されました。これが霊感(inspiratio)という働きです(2テモテ3:16)。そして、私たちが神様のみむねを聖書から正しく理解することをお助けになるのも聖霊です。これは霊感とは区別して照明あるいは啓明(illuminatio) と呼ばれます。

「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来る時、その御霊がわたしについてあかしします。」ヨハネ15:26

 第二に、伝道すなわち神の民の召集です。召しは外的には福音の説教によってなされますが、内的には聖霊による照明によってなされるのです。福音の説教者は聖霊に満たされてこそ奉仕ができますし、福音を聞く者も聖霊に心開かれてこそこれを受け入れることができます。ピリピでパウロが福音を語ると、聖霊がそこにいたルデヤの心を開かれたので、彼女は御言葉を受け入れました(使徒16:14)。教会とはエクレーシア(召されたもの)と言われるように御言葉とともに働き給う聖霊によって召された者たちの集いです。

 これは、聖霊は私たちを再生させ、子とし神の家族に入れてくださったこととも表現できます。神は、キリストを復活させた聖霊をもって、私たちを霊的死から復活させました。すなわち、再生の御業です。こうして「この方が来ると、罪について義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」(ヨハネ16:8)とあるように、聖霊は私たちを霊的な盲目から救い、己の罪を認めさせ、さらに救い主イエスを信じるように導きます(1コリント11:3)。

 これは、同時に、神の子として生まれることでもあります。御霊は、私たちを子として神の家族である教会のうちに入れてくださいます。御子の御霊によって、私たちは神の子として生まれ、父なる神への愛、主にある兄弟姉妹への愛が与えられます。

 「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊御自身が私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」ローマ8:14−16

「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。」1ヨハネ3:14

「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」1ヨハネ4:20

 第三に、個々の信者と教会における聖霊の内住です。聖霊の内住というと、個々の信者における内住のみが語られ、個人の敬虔が偏重される傾向があります。そうすると個人主義的な信仰に陥りがちです。しかし、聖書は個々の信者における内住ばかりでなく、教会における聖霊の内住をも教えます。

「あなたがたの体は、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、・・・」1コリント6:19(ローマ8:9も参照)

「このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」エペソ2:22

 聖霊の内住という恵みは、旧約の救いの歴史から見ると、破格のものです。旧約の時代には、神の住まいはモーセからダビデまでは幕屋であり、ソロモン以後は神殿でした。そして、至聖所に入ることができるのはただ大祭司のみ、しかも、その大祭司さえも年に一度、贖罪の日だけでした。それが、主の十字架の贖いのゆえに神殿の幕は裂けて、私たちは大胆に御座に近づくことが許されたのみか、私たち自身が神の住まいとされたのです。

 第四に「この聖霊は私たちの御国を受け継ぐための保証」です(エペソ1:14)。ここで「保証」と訳されるのは手付け金、あるいは、担保を意味する言葉アラボンです。私たちは本来神の御前に債務のある者ですのに、神は自ら債務者となられて、私たちは債権者となり、神はその手付けとして聖霊をお与えくださいました。やがて、神は総額つまり御国をお与えになることを私たちに疑いようもなく、示すためです。

 第五に、この教会における内住によって、聖霊は、教会を一致させてくださいます。信徒一人一人のうちに住まわれる聖霊は、お一人の聖霊であるからです。個々の信徒ばかりでなく礼拝共同体としての教会が聖霊によって神の宮となったからです。「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。からだは一つ、御霊は一つです。」エペソ4:3、4a

 第六に、聖霊は、私たちの祈りを導き、私たちが祈れないときも、とりなしてくださいます。

「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊御自身が言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」ローマ8:26

 第七に、聖化、つまり、御霊の実を結ぶことです。御霊の実とは、聖霊がキリスト者にお与えになる品性です。聖霊は、御自身の宮を「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という御霊の実をもって飾って下さり、キリストに似た者としてくださいます。聖化は孤独なキリスト者の修業ではありません。この御霊の実ということにしても、聖書の文脈は、個人としての品性の完成が語られているのではなく、神の民の交わりを語る文脈であることは注目すべきです。パウロは、この御言葉の前で、「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法の全体は『あなたの隣人を自分のように愛せよ。』という一語をもってまっとうされるのです。」(5:13,14)と言い、そのために「御霊によって歩みなさい。」として、そして、「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容・・・」という御言葉が出てくるのです。そして、その後に「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは柔和な心でその人を正してあげなさい。」(6:1)と言います。つまり、徹頭徹尾、具体的な教会的交わりの中で御霊の実を結ぶということが語られているのです。具体的な兄弟姉妹の交わりから遊離した聖化など、聖書のあずかり知らないことです。なぜなら、聖化の目指すところは、神への愛と兄弟姉妹への愛の完成であるからです。

 第八に、教会がキリストのからだとして機能するために、聖霊は、信徒一人一人に御霊の賜物を与えて、奉仕をさせてくださいます。御霊の賜物とは、奉仕のための能力です。それは、個人の満足ではなく、教会としての益となるためです。

「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。」(1コリント12:7)

(3)救済の完成(終末)における聖霊のみわざ

 そして、聖霊は救済の完成である全被造物の新しい創造、あるいは更新においても、お働きなさいます。その新しい創造の御業は、「またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造りだされた、新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ4:25)とあるように、キリストを信じる者たちの内なる人においてすでに始まっています。霊魂に始まった新創造の御業は、やがての日、聖徒のからだの復活と、万物の更新において完成するのです。

 被造物の更新について、聖霊が関与なさるということについての明白な聖書の証拠句はありませんが、初めの創造と保持における聖霊のお働きから考えて、新しい創造においても聖霊のお働きがあることは当然推定されます(詩編104:30参照)。

「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるので す。」ローマ8:11

「また私は、新しい天と地とを見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もな い。・・・すると、御座に着いておられる方が言われた。『見よ。わたしは、すべてを新しくする。』」黙示録21:1,5a

キリストのからだ

「教会は、聖霊によって召し出されたキリストの体であって、キリストはそのかしらである。贖われた者はみなその肢体である。地上の教会は、再び来たりたもう主を待ち望みつつ、聖書の真理に立ち、礼拝を守り、聖礼典を執行し、戒規を重んじ、すべての造られたものに福音を宣べ伝える。」(日本同盟基督教団信仰告白第六項)エペソ3:15および4:11−16

1.見えない教会、見える教会−−−ローマ主義と無教会主義を参照しつつ

(1)聖書の立場

 同盟教団の信仰告白文の前半はいわゆる「見えない教会」のことを、後半は「見える教会」のことを言っています。「見えない教会」という表現は誤解を招きがちなのですが、その意味するところは世の始まりから世の終わりに至るまでに主によって召し出される信徒の総体ということです。使徒信条において「我は公同の教会すなわち聖徒の交わりを信ず」とあるように、教会とは聖徒の交わりのことなのです。エペソ1:21、23、3:10

 クリスチャンは透明人間ではありませんから、「聖徒の交わり」は実際には見えるものですが、これを「見えない教会」という意味は、この世にある教会においてはそこには本物でない名ばかりのクリスチャンというものが含まれているからです。神様の御目にはいずれが本当のクリスチャンであり、いずれがそうではないかは明らかですが、人間の目には絶対的な意味では見えない。そこでこの信徒の総体としての聖徒の交わりを「見えない教会」と呼ぶのです。格別、いわゆるキリスト教国においては「葬式仏教徒」のような、「冠婚葬祭キリスト教徒」が残念ながら結構多いのです。つまり幼児洗礼は受けていますが、以来教会に出席したこともないし、イエス様が自分の救い主であると信じていないというような人々です。この点について主イエスは「毒麦のたとえ」でお話になりました。マタイ13:24−30、36−43

 他方、信仰告白文の後半に出てくる「地上の教会」というのは、「見える教会」のことです。コリント教会、エペソ教会、ガラテヤ教会、銚子教会などという教会など具体的な教会です。聖書はこうした地域にある聖徒の交わりをも教会と呼んでいます。「見える教会」というのは「見えない教会」の聖徒の交わりと同じ人々を基本的にはさしているのですが、「見える教会」のなかには、先に言ったような意味で本当はイエス様を信じていない名前だけのクリスチャンが含まれうるわけです。

 聖書の用語法としては、「教会」ということばは上述のような「見える教会(地方教会)」と「見えない教会(公同の教会)」との両方の使い方がされています。聖書的立場に立つ私たちとしては、教会にはこの両面があることを知っておくべきでしょう。

(2)ローマ教会

 ところで、この「見えない教会」と「見える教会」をめぐって、二つの極端な立場があります。それはローマ教会と無教会という立場です。ローマ教会は第二バチカン公会議以来、立場が柔らかくなったものの、伝統的・原則的には「見えない教会」というものを認めません。「見える教会」としてのローマ教会がすなわち「公同の教会(カトリック教会)」であるというのです。たとえその人が実質的にキリスト者として生きていなくても、幼児洗礼を受けローマ教会という地上の組織に形式的に属するならば、彼は教会に属する者であるとします。逆に、ローマ教会の外にあるプロテスタント教会のメンバーがどんなにキリストを信じ、洗礼も受け、敬虔な生活をしているとしても真実の教会に属してはいないという立場を伝統的にはとってきたのです。形式主義・儀式主義の極みです。ただ第二バチカン公会議の後、彼らはプロテスタントを「離れた兄弟」と呼ぶようになって、クリスチャンであることは認めるようになりました(『第二バチカン公会議公文書資料集』エキュメニズムに関する教令1:1)。

 とはいえ、ローマ教会の基本的な教会観は変わっていません。ローマ教会の教会観を一言でいえば、キリストと信者の仲保者としての教会ということです。

 ローマ教会では、信者とキリストとの間に<司祭−司教−大司教−枢機卿−ローマ教皇>という地上の教会のヒエラルキーがあり、さらに天上の教会として<諸聖人−諸天使−聖母マリヤ>というヒエラルキーがあって、やっとこさキリストのつながるということになります。信者とキリストとの間に巨大な仲保者としての教会があるということになります。

 ローマ教会は残念ながら、キリストの人性を強調する異端に対して論争するうちに、キリストの神性を強調するあまり、キリストが人として受肉され、父なる神と人間との間の唯一の仲保者となってくださったという恵みがわからなくなっているとも解釈されます(参照、岡田稔『キリストの教会』pp15,16)。しかし、聖書は言います。

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(1テモテ2:5)

(3)無教会主義

 もう一方の極端は無教会主義の人々です。彼らは「見えない教会」は認めますが、「見える教会」を認めようとはしません。それはつまり、制度や組織としての教会を否定するということです。牧師・司祭がいたりする教会を否定するのです。聖職者が行う洗礼や聖餐式といった聖礼典までも否定してしまいます。彼らもまた集会を持ったりはしているのですが、それが一つの組織や制度となることを嫌うのです。

 無教会の主張としては「不十分に終わった宗教改革を徹底させようとする」ということです。「『信仰のみの信仰』の徹底、つまり律法の業による義の追求をいっさい排除し、ただひたすらキリストの恵みにより頼む『信仰のみの信仰』に徹すること、またこの救いの問題について、教会や聖職者の介入をゆるさず、各人が直接キリストを仰ぎ、キリストに結びつくことによって、信仰の独立を与えられるということがその主張の中核」です(高橋三郎『なぜ無教会か』p113)。

 無教会主義は、形式主義と教会組織がキリストとの仲保者になる危険性を恐れるあまりに、残念ながら聖書解釈のバランスを欠いてしまっています。宗教改革とは形式原理としては「聖書のみ」、実質原理としては「信仰のみ」「恩寵のみ」を原理とする運動でしたが、その主義主張のために「聖書のみ」の原理からはずれてしまったのです。聖書において神がお与えくださった恵みの手段である聖礼典もイエスがお立てになった教職までもなげうってしまったからです。こちらは非形式主義・非儀式主義の極みです。

 その結果、どういうことが起こるか。無教会主義の集会では「先生」と呼ばれる人物が集会の指導者となります。ここには制度がないものですから、集会は結局「先生」の独裁になってしまいがちなのです。いわば「先生」が小さな教皇のような状況になってしまうわけです。

 『甘えの構造』で有名な心理学者土居健郎氏が自らの信仰遍歴を述べているなかに、かつて氏が矢内原忠雄の個人集会に出ていたと記しています。土居氏はかつてメソヂスト教会に属していましたが、時局下にあって国策に対して迎合的であったことに失望して矢内原忠雄の集会に転じたのです。当時、矢内原は日本の大陸政策を批判して論壇から注目を浴びていました。ところが矢内原は入会面接で、「教会で得た信仰は問題にしない、白紙で来い、この会に連なっている間は先生に対する批判を許さない、先生と一緒に死ぬという程の誠実を求める、以上のべたことが納得できるなら入会してよい」という主旨のことを言ったそうです。そして、二年間集会に参加しているうちに「前にメソヂスト教会を飛び出したのは、牧師の説教が聖書的でない、また時代にあまりに迎合的だという点にあったのだが、今度は無教会だけあってたしかに聖書的だが、しかしあまりに先生中心主義で、これでは神やキリストがどこかにいってしまうような気がした。」という気持ちを抱くようになり、ついにこの集会を出てしまいました。(『信仰と甘え』pp179−180)

 我々はどこに立つべきでしょうか。聖書です。マルコ14:22−25に見るように、主イエスが聖餐式をお定めになりました。またエペソ4:10に見るように、聖書はキリストが教会に教職をお与えになったと述べています。聖書は、世の始まりから世の終わりにいたるまでの聖徒の総体としての「見えない教会」とともに、教師や牧師、執事や長老を有しを持ち、聖礼典を執行する秩序ある組織体としての「見える教会」についての教えています。私たちは、形式主義の危険を認識しつつ、主がお与えくださった恵みの手段としての形式や儀式を正しく用いるプロテスタント教会でありたいと願う者です。

2.教会の起源・・・「聖霊によって召し出された」

 エペソ1:4、5、10、11

 このエペソ書の第一章によれば、私たちを神の民すなわち教会としてお救いになるのは、神が天地万物の基をお定めに成る前からの計画なのです。教会をギリシャ語でエクレーシアと言います。その意味は「召し出されたもの」ということです。神は界の基の置かれる前からキリストのうちに選ばれた者を、時満ちて召し出されたのです。この召しは、内側と外側とからなされます。すなわち、外からは福音が宣教されるとき、内側に聖霊が働かれることによって召しは有効になるのです。

 教会が聖霊によって召し出されたということは、教会は神に起源をもっているということにほかなりません。教会は人間が考え出した団体ではありません。イエス様を信じた人々が自分たちの便宜のために工夫して造った集まりではないのです。もしそうであるならば、キリストを信じた人が教会のメンバーになるかならないかは任意のことでしょう。しかし、教会は聖霊が召し集められたところの聖徒の集いなのです。神が、人を救うにあたって、一つの礼拝共同体・一つの民としてお救いになることを計画していらっしゃるのです。

3.「キリストのからだ」

「教会は・・・キリストのからだであって、キリストはそのかしらである。贖われた者はみなその肢体である。」

 教会に関するイメージは聖書にたくさんあります。その旧約新約を貫いて一番代表的なものは、「神の民」という表現です(エペソ1:14、1ペテロ2:10)。その意味は神に属する国民ということです。また「神殿」(1コリ3:16)「霊の家」(1ペテ2:5)か「家族」(エペソ3:15)とか「キリストの花嫁」(エペソ5)などとも言われます。新約聖書にはたいへん豊かな教会のイメージがあります。

 私たちが教会についてどんなイメージを持っているかということはたいへん重要なことです。そのイメージにしたがって私たちは生きるものとなるからです。

 同盟教団の告白で言われる「キリストのからだ」というイメージは、1コリント書12章、エペソ書に見られるものです。キリストのからだというイメージをもって表現されている教会についての内容は次のようなことです。同盟の告白において教会を「キリストのからだ」と特筆したことはたいへんすぐれた点であると思われます。

(1)キリストとの生命的一体性

 ヨハネ福音書で「キリストのからだ」といわれるとき、それは単に例えではなくて、復活のキリストのからだと実体的な結びつきが特に示唆されています(ヨハネ2:20、21)。そして、その生けるキリストのからだとの結びつきは聖餐式において経験されるものです(ヨハネ6:53−58)。

 キリストが教会のかしらであり、われわれはその肢体であるということは、教会とキリストとの生命的な一体性を意味しています。サウロがダマスコ途上において復活のキリストの臨在に直面したとき、キリストは「サウロ、サウロ、どうしてわたしを迫害するのか。」とおっしゃった。教会が迫害されるとき、キリストが迫害されているのである(使徒9章)。キリストと教会の生命的一体性ということは我々自身がキリストになってしまうといった成り上がり的汎神論的なことではないのですが、汎神論を思わせるほどの神秘です。それは、キリストが謙遜によって、我々のようになってくださったという受肉の事実に基づいているのです。

(2)有機的な多様性と一致(1コリ12:4−27)

 「贖われた者はみなその肢体である」とあるように、聖徒一人一人はみなそれぞれに主の作品ポイエーマです。多様であって当然です。一人一人が違っていてよい日本の石垣の石がみな違い、それゆえに世界一堅固であるといわれるように、賜物も異なっています。

 けれども、同時に私たちをお召しになった聖霊はただおひとりです。そして、私たちは一つのからだとなるように一つの御霊によってバプテスマを受け、すべての者が一つの御霊を飲む者とされたのである。多くの肢体からなっているからだは一つなのである。(13、14)

 他の賜物の人をうらやむ必要はない。また自分と同じ賜物でない人をさげすんでもいけない。しかし、一人一人が自分勝手なことをすることも間違いである。全体は部分のために祈り考え傷み喜ぶ。部分は全体のために自分をささげることを喜びとするようなあり方が理想。

(3)生命的な成長(エペソ4:13−16)

 「キリストのからだ」というイメージのすぐれているところの一つは、その生命的なありかたである。無教会主義が毛嫌いするところの「組織」という表現には、生命的なものが欠けています。ペテロの手紙第一では教会を石造り神殿というイメージで描きながら、「生ける石」からなる神殿と語っています。それは堅固な組織としての教会が、同時にいきいきとした御霊の息吹を宿しているということを苦労して描いていると言えましょう。

 パウロが教会を「キリストのからだ」と描く時、それは見事に組織でありしかも生命的で柔軟なものを描くことに成功していると言える。さらに、「キリストのからだ」は石造りの神殿のイメージでは描きにくい「成長」ということを語ることができています。

 教会は時間と空間を越えて広がるキリストのからだである。アダムのとき以来旧約の時代までは、教会はユダヤの民族の教会としてあったが、キリストにあって世界にひろげられた福音によって、教会は民族国語を超え地理的境界線を超えて世界中にひろがってきたし、主の再臨まで成長して行くべきものである。

 教会の成長は数的・霊的両面であろう。聖書は両方語っています。数の面での成長についてはたとえば、使徒の働き2:41、5:14、6:17など。霊的な成長についてはエペソ書4:15などです。教会が成長していくべきものであるという認識はたいせつなこと。それは一地域教会が千人、万人を目指すか、それとも数十人の群れを数多く造ることを目指すかということ別として、ともかく福音がすべての国民国語に伝えられ聖霊によって召しがなされていくならば、神の民が呼び出されて増えてくるのは普通である。教会はキリストのからだであるから、成長することに「勢力拡大主義ではないか」というような妙な疑念はいだく必要はありません。まことの福音をなしがしろにして単なる人集めをしているというならば、それは異端として問題ですが、まことの福音を伝えつつ数としての成長しているのは健全な姿です。

(5)組織体

 教会がキリストのからだであるといわれるとき、それは一つの秩序ある組織であることをも意味しています。エペソ4:16「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長してい、愛のうちに建てられるのです。」

 家族と軍隊(会社)という対比によって、組織のない家庭のようなところには生命があり、組織ある軍隊のようなところには生命がないというような考えがなされがちです。しかし、実際にはよい家庭にはちゃんと夫婦の秩序も親子の秩序もあり、祖父母との関係にも秩序があるものです。また生命あるからだほど見事な組織はありません。細胞のひとつひとつから、すべてが間違いなく秩序づけられてこそ健康体が成り立っています。この秩序がこわれると病気になるか生命が失われます。組織があって命があります。教会内に生命の躍動があるためにも、組織を整えることはたいせつなことです。

結び 教会は聖霊によって召し出されたキリストのからだです。

教会の任務

「教会は、聖霊によって召し出されたキリストのからだであって、キリストはそのかしらである。贖われたものはみなその肢体である。

 地上の教会は、再び来たりたもう主を待ち望みつつ、聖書の真理に立ち、礼拝を守り、聖礼典を執行し、戒規を重んじ、すべての造られたものに福音を宣べ伝える。」(日本同盟基督教団信仰告白第六項)

1.聖書の真理に立ち(1テモテ3:15)

 信仰告白文の後半に地上の教会(見える教会)のありかた、任務が告白されています。その岩盤となっているのは「聖書の真理に立ち」という一言です。聖書の真理に立ち礼拝を守り、聖書の真理に立ち聖礼典を執行し、聖書の真理に立ち戒規を重んじ、聖書の真理に立ちすべての造られたものに福音を宣べ伝えるのです。ここには教会の土台となる聖書信仰がもう一度、教会の実践における観点から表明されているわけです。

 時代は変化します。人々の価値観も変動します。昨日の罪が今日の常識になってしまうことさえあります。またパスカルが言ったようにピレネー山脈の向こうとこちらで正義がちがうのです。ですから、聖書に土台を置いていない神学は時代によって、右にふれ左にふれてきました。しかし、私たちは揺るぐことのない盤石の上に教会を据えなければならないのです。主イエスは終わりの時代のこの世の混乱について話された後に、こうおっしゃいました。

「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マタイ24:35)

 それでこそ「教会は真理の柱、また土台」(1テモテ3:15)であり得るのです。聖書という岩盤を失った教会は、砂上の楼閣にすぎません。大水が出たならばひとたまりもありません。そのことは歴史が証明しました。聖書の真理に立たずに礼拝を行い聖礼典を行えば、それはいずれ偶像崇拝的なものや魔術に堕落して神に受け入れられなくなってしまいます。聖書の真理に立たずに戒規を行うならばそれは暴君による恣意的な粛清になってしまいます。聖書の真理に立たずに福音を宣べ伝えようとすれば、それは異なる福音を宣べ伝える異端活動に転落してしまいます。

 私たちは教会形成において、なにより聖書の真理という揺るがない岩盤に立たねばならないのです。

2.キリストのからだの三職

 さて、私たちはなにか仕事をしたいと頭で考えると、それを具体的に行うには目や口や耳や手足つまりからだを用いて実行するわけです。教会がキリストのからだであるというのは、キリストは地上に御心をなそうとされるとき、わたしたち神の民である教会を用いてくださるということを意味しています。もちろんキリストは教会を用いられずとも、別の方法をもってなすことはおできになる全能のお方ですが、あえて私たちを用いてくださるのです。私たちにとっては光栄なことです。

 ではキリストのお仕事は何か、そしてキリストが私たちに託された仕事はなにかということです。キリストの三職ということを『神を愛するための神学講座』のキリスト論で学びました。旧約時代、三つの職務につく者に油注ぎがなされました。それは預言者・祭司・王という三つの職務です。油注がれたものとはすなわちヘブル語でメシヤ、ギリシャ語でキリストです。預言者としてキリストは父なる神の御旨を私たちに教えてくださいます(ヨハネ1:18)。祭司としてキリストは私たちのために父なる神にご自分を贖いとしてささげ、かつ復活なさった今はとりなしていてくださいます(ヘブル7:26、27)。また王としてキリストは父なる神の右の座について、この世と教会をと治めておられます(マタイ28:18)。キリストの王権には、世界的王権と教会的王権のふたつがあります(エペソ1:22、23)。

 教会はキリストのからだでありますから、三つの職務がたくされています。

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(1ペテロ2:9)

 このみことばにおいて、クリスチャンの身分を表すことばは「選ばれた種族、聖なる国民、神の所有とされた民」ですが、クリスチャンの務めを表すことばは「王である祭司」「・・・みわざを宣べ伝える」ということです。つまり、王、祭司、預言者という三つの職務が記されています。

 教会とクリスチャンは、みな王・祭司・預言者としての職務が与えられているのです。これは実は創造において人が義・聖・真の知識において神のかたちに造られたということと関係しています。王は義をもって統治し、祭司は聖をもって神に仕え、預言者は真の知識を神から受けてこれを宣べ伝える者です。しかし、本来、道徳性・宗教性・知性において神のかたちに造られた人間は、神に背くことによってこの神のかたちを傷つけてしまいました。義を失って不道徳になり、聖を失って偶像宗教に陥り、真の知識を失って神を無視した知性になったのです。しかし、キリストにあって神のかたち、つまり、義・聖・真の知識に新しく創造されることになったのです(エペソ3:23、24、コロサイ3:10)。もちろんクリスチャンも教会も聖化の途上にある不完全なものであり、その完成は御国の到来を待たねばなりませんが、原理的に義と聖と真の知識は回復され三職が与えられたのです。教会はキリストのからだとしてキリストの御霊のお働きによって、預言者・王・祭司としての務めを果たすことが求められているわけです。

 同盟教団の信仰告白においては「福音を宣べ伝える」とは預言職、「礼拝を守り、聖礼典を執行し」ということで祭司職、「戒規を重んじ」で王職ということが語られています。一応、スタンダードな教会のしるし論というべきです。しかし、この告白にはそれ以上のすばらしさが秘められています。

2.真の教会のしるしと大宣教命令

(1)真の教会のしるし(マークス)

 かつて宗教改革において、真の教会のしるしということが問題となりました。それはローマ教会から結果的にプロテスタント教会という別の群れができてしまった時に、それは分派の罪を犯したのではないことを確認しなければならなかったからです。ローマ教会が真の教会でなくなったから、真の教会の復興のためにプロテスタント教会がうまれなければならなかったということを立証しなければならなかったのです。何が本当の教会なのかということが課題となったのです。改革者たちがそこで見いだした教会として最少限備えていなければならないしるしとは二つでした。すなわち、「福音が純粋に教えられ聖礼典が福音に従って正しく執行されている」ということです(アウグスブルク信仰告白7、第一スイス信条21)。そして、正しい説教と聖礼典が行われるために、正しい戒規の執行がなされなければならないということになります(スコットランド信条18、ベルギー信条29)。そこで福音の説教、聖礼典、戒規ということが三つのしるしと呼ばれる場合もあるのですが、肝心なことは二つで福音の説教と聖礼典であり、これらが正しくなされるための手段として戒規があるのです。戒規とは、信徒が礼拝格別聖礼典において祝福を得られるためになされるのです。もし罪を赦されないままで聖餐にあずかるならば、その人はそれによって主のからだと血に対して罪を犯し、かえって呪いを受けることになってしまいますから(1コリント11:27−32)。

 このように宗教改革において、この二つないし三つのしるしを備えていないならば、教会は真の教会ではないということになりました。当時ローマ教会では福音の説教はなされていませんでした。聖書は開かれず、会衆にはまるでちんぷんかんぷんのラテン語で礼拝は進められていたのです。さらに聖書が翻訳されることも、一般信徒に読まれることも禁じられていたのです。儀式といえばやたらと人為的に増やされていたのです。今日ではだいぶ減っていますが、それでも七つのサクラメントということがなされています。人々は魔術的なものとしてミサのパンに与かっていました。こういうわけで、プロテスタントとしては真の教会のしるしを当時のローマ教会は備えていないのだから、我々が新たに別の群れを造ったのは真の教会を復興のためであり、分派の罪にはあたらないと表明したというわけです。

(2)さらに使徒時代の原点に帰って−−すべての造られたものに福音を

 改革者の功績の一つは、こうして教会の中心を明示したことでしょう。我々も教会が何を見失ってはいけないかということを、教会のしるし論から知るべきです。宗教改革の伝統を重視する教会は、これら二点ないし三点に集中して教会形成をしようとしてきました。しかし、よく考えてみれば福音の説教、聖礼典というのは、それが偽りの教会ではなく真の教会であるためのいわば必要最少限のしるしにすぎないのではないでしょうか。これらをなしていれば、たしかに偽教会ではないでしょうが、それで十分だとはいえないのです。たとえば学校に一応かよっていれば、それは本物の学生ということになりましょうが、机につけば寝ているだけだとすれば模範的な学生とはいえないのと同じです。宗教改革の神学と、そのまとめとしての17世紀の正統主義神学の限界はこのあたりにあるのではないでしょうか。

 17世紀末になるとドイツではルター派正統主義が宗教的生命に枯渇したことに対する反動として敬虔主義運動が起こりました。シュペーナーはその指導者です。敬虔主義運動は新しい教派を造りはしませんでした。彼らは、真に改心した信徒(今でいうボーン・アゲイナー)の集会を教会内に形成し、交わりと祈りをしたのです。そうして教義よりも敬虔な実践が重んじたのです。また、敬虔主義の指導者の一人フランケによってルター派として最初の海外伝道も始められます。同盟教団はこの敬虔主義運動に霊的なルーツを持っています。

 海外宣教については、当時プロテスタント正統主義の教会はずっとローマ教会に遅れをとっていました。ローマ教会はヨーロッパでの失地回復の分を取り戻そうとして世界宣教へと乗り出していき、そのなかで日本にもバテレンたちが訪れたのですが、プロテスタント教会は世界宣教には活躍しませんでした。プロテスタント教会が本格的に世界宣教に乗り出すのは、18世紀の末から19世紀になってからのことです。夜は靴修理、昼は学校に学んで説教に励んでいた信徒伝道者ウィリアム・ケアリが未伝道伝道を始めようと提唱したときに、教会の指導者たちはこれをあざ笑いました。「教養も神学も知らない靴職人がなにをいうか」というわけです。しかしケアリの提唱に立ち上がった人々は世界宣教をスタートし、ケアリは最初のインド宣教師となります。信徒伝道運動が近代の世界宣教のもとなのです。

 わが同盟キリスト教団もスカンジナビア・アライアンス・ミッションの若き信徒献身者によって始められた教団であることを忘れられません。同盟教団の信仰告白文において、19世紀の世界宣教運動の流れをひく同盟教団らしく、もっともすぐれていると思われるのはこの最後の部分です。

「地上の教会は、再び来たりたもう主を待ち望みつつ・・・すべての造られたものに福音を宣べ伝える。」再臨待望と世界宣教の使命感です。

 キリストがこの時代の教会にたくされた最大の任務はこの大宣教命令です。これはマタイ28:18−20、(マルコ16:15)、ルカ24:46−47、使徒1:7、8に記録されています。復活されたキリストが地上を去って父なる神の右にのぼられる直前に語られた最重要の命令が、この大宣教命令なのです。

 真の教会のしるしというばあいには、消極的にほんものの教会は最少限何をそなえていないと教会とはいえないかということが問われたのですが、我々が目指すのは最少限の教会ではなく、十分に主の負託に答えたいということではないでしょうか。真の教会であることは前提として、さらに主のご期待にこたえたいというのが同盟教団としての信仰告白なのです。

 福音を宣べ伝えるということならば、純粋な福音の説教という教会のしるしの一つに含まれているではないかと言われるかもしれません。一見そう思えますが、実は違います。聖書では、宣教(伝道)と教えとは区別されているのです。ディダケーとは教えであって、イエス様をすでに受け入れた教会内の人々に対して主の弟子として歩む道を教えることです。他方ケーリュグマとは、まだ主の福音を知らない人々すなわち教会外の人々に宣べ伝えることなのです(1コリ2:4、ロマ16:25、マタイ11:1、マルコ1:38など)。ですから、福音は口に関連して語られるのではなく、足に関連して語られるのです。

「良いこのとの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱなことでしょう。」(ローマ10:15)

「足には平和の福音の備えをはきなさい。」(エペソ6:15)

 ですから、教会堂の説教壇で信者を相手に福音を語っているだけで、伝道をしたことには実はならないのです。未信者に福音の宣べ伝えてこそケーリュグマをしたと言えるのです。

 原点に立ち返って、そもそも初代キリスト教会の姿はどうだったでしょうか。使徒2:38−42を開いてください。彼らは伝道をし、バプテスマを授け、使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き(聖餐式)、祈りをしていました。つまり、伝道(ケーリュグマ)、教え(ディダケー)の実践、聖礼典、交わり、祈りです。16世紀の宗教改革は真の教会の最少限としてのディダケーと聖礼典の回復をしたのですが、敬虔主義運動は、そこに欠けていた伝道・みことばの実践・交わり・祈りを回復したのです。

 私たちとしては、宗教改革者たちに正しい礼拝という教会の必要最小限を学び、かつ、敬虔主義運動に伝道・みことばの実践・交わり・祈りを学んで、必要十分なしるしをもって主にお仕えする教会を建てあげていきたいものです。

(3)主の再臨と世界宣教

 同盟教団の信仰告白では主の再臨への意識と教会の一切の活動が関係づけられています。格別、福音宣教と再臨意識が結び付けられているのです。これは聖書的なことです。マタイ24:14に「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」とあるように、福音があらゆる民族に宣べ伝えられたなら、主の再臨の備えができたことになるのです。スカンジナビア・アライアンス・ミッションの創始者フレデリック・フランソンは自分の目が黒いうちに主の再臨があると信じて世界宣教に励んだ伝道者でした。

 このように福音が全世界の民族にあかしされるということは、主の再臨ときわめて密接に結びついたことなのです。私たちは正義の支配する新しい天と地を待ち望む者としても福音を宣教しなければならないのです。福音が全世界にあかしされて、主は再び来られるのです。

主のみこころが成るために−−教会政治−−

みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」

1.キリストのからだにふさわしく

(1)キリストのからだ

 同盟教団の信仰告白によれば、教会はキリストのからだと呼ばれています。これはコリント書第一12章、エペソ書に見られる表現です。

 その意味は、かしらなるキリストとからだなる教会の生命的つながり、会員の賜物の多様性と一致、からだとして成長する生命力、からだとして秩序ある組織といったことです。「神の民」「神の家」「神の家族」「キリストの花嫁」など聖書中に見える数ある教会のイメージのなかでも、「キリストのからだ」はもっともすぐれたイメージでしょう。

 しかし、そうは言っても教会は人間の集団ではないかと思う人があるでしょう。確かに聖徒の交わりとはいえ人間の集団です。

(2)キリストのからだの任務

 初代教会は、伝道、教えとその実践、礼典、交わり、祈りをしていました。宗教改革者は必要最少限の教会のしるしとしてみことばの説教と礼典(それを可能にするための戒規)を回復し、敬虔主義運動は伝道とみことばの実践、交わり、祈りを回復しました。我々は宗教改革の流れのみならず、敬虔主義運動の流れを汲む者として、これらをたいせつにしたい。必要十分なしるしをもって主のご栄光をあらわしたいものです。

 教えと聖礼典を「礼拝」とまとめるならば、教会の任務とは礼拝と伝道です。同盟教団の信仰告白文に「すべての造られたものに福音を宣べ伝える」とあることはすばらしいことです。みことばの実践と祈りと交わりによる教会形成もまた、この任務にむけてなされるべきだということです。

(3)牧会の目指すこと

 礼拝と伝道が教会の中心任務です。この中心点を見失ってはいけない。この中心任務にむけて祈りと交わり(共同体形成)はあり、牧会という務めがあります。牧師がまた役員が牧会と称して結婚のお世話をする、その他よもやまのことがらのお世話をする。それは悪いことではもちろんない。ただ何を目指しているかが肝心です。牧会とはなにか。それは、ぎりぎりに煮つめて言えば、みことばがその一人一人の生活のうちに実を結び、教会としての群れのうちに成就していくためになされる務めです。結局、牧会とは生活全領域が礼拝化・伝道化されることを目指しているといえます。初代教会が「使徒たちの教えを堅く守った」とあります。また主イエスは大宣教命令で「わたしがあなたがたに命じたことを守るように教えなさい」とおっしゃいました(マタイ28末尾)。

 牧会とは、単なるお世話ではなく、みことばが実践されるための働きなのです。

3.教会の役員の務めの目的

 牧師を含め教会役員会の務めとは教会がキリストのからだにふさわしく生きるべく、教会にお仕えすることです。それはとりもなおさず、よりよき礼拝とよりよき伝道がなされるために、祈りと交わりの共同体の形成のために奉仕をすることです。牧師への配慮、教会員の配慮・訓練、教会財政、会堂建設などもすべて、よりよき礼拝とよりよき伝道とのためにです。

4.教会役員の務め

 教会の任務は預言者・祭司・王の三つです。長老主義教会では、宣教長老つまり牧師が預言職と王職を担当し、治会長老が王職を担当し、執事が祭司職を担当するという図式化がなされています。要は、どのような組織形態であれ、<未信者に伝道する・みことばを堅く守る・聖礼典を執行する・交わりをする・共に祈る>という教会としての豊かな五つのしるしを最もよく現しうるように、改良して行けばよいのです。礼拝と伝道を中心任務としつつ。

 ここには一応、三職論で務めを整理した例をあげておきます。これだけの役割分担をしなければならないといっているのではなく、役員会としてはこのような仕事があるということを示しているだけのことです。教会の規模によって組織も衣替えすればよいのですが、何のための組織なのかということを忘れないことが大事です。担当役員を決める方法と、プロジェクトごとに全員で取り組むといった方法と、両者の中間にあたる方法などいろいろです。またセル・グループ方式というものが最近注目されていますが、筆者もたいへん関心あるところですが、ここではふれません。(拙稿「セルグループによる教会形成」)

<預言職>      伝道:未信者に福音を伝える。      教育:守るように教える。

<祭司職> 礼拝の訓練・・・第一に神に喜ばれ、第二に人々も喜ぶ礼拝に整頓する。

1.牧師のために祈り、牧師が説教と教えの務めが十分果たせるように 物心両面から配慮する。

2.役員がまず教会員の礼拝の模範となり、かつ指導することです。 遅刻しない、忠実に、喜んで、熱心に。

交わり:弱い立場の人々への配慮としての交わりの側面。

<王職>・・・秩序の維持としての交わりの側面。  立法:教会規則の整備

 司法:鍵のつとめ・・・これも説教と聖礼典のためです

1.教会員の入会退会を決める(マタイ16:17−19)

2.戒規(マタイ18:15−20,1コリ5:1−13、同11:27 −32)

行政:財務、総務など。

5.教会役員の資格

 教会役員はどのように選ばれるべきでしょうか。選挙でしょうか。任命でしょうか。聖書ではある制約を設けた上での選挙をしているようですが、ここではそれにはふれず、教会役員の資格について学んでおきましょう。初代キリスト教会で最初の信徒役員が選出された記事が使徒の働き6章1−6節に記されています。ここで使徒たちは「御霊と知恵とに満たされた評判のよい人」(3節)を選ぶようにと言いました。これはたいへんに知恵に満ちたことばです。

 「御霊と知恵とに満たされた評判のよい人」という資格は三つの面から整理できます。第一に、御霊に満ちているとは、クリスチャンとしての品性について語っているものです。クリスチャンとしての品性とは御霊の実と呼ばれるもので、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22、23)です。役員を選ぶときにはまず、この御霊の実に満たされた人はだれかしらと祈りつつ考えることです。テモテの手紙では、こうした品性を「非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり・・・酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で争わず、金銭に無欲で・・・謹厳で、二枚舌を使わず、・・・不正な利をむさぼらず」などと述べられています。

 第二に、知恵に満ちているというのは、能力に関することです。聖書的な用語でいうならば御霊の賜物(1コリント12:4)と呼ばれているものです。まずこの知恵というのが御霊に満ちているということの次に記されていることに注意すべきです。教会役員だから行政能力があるような、会社の社長さんを選ぼうとか、会計役員が必要だから銀行員を選ぼうということが、御霊に満ちているという条件に優先するとよくないのです。そうすると教会は世的に運営されることになってしまいます。

 さりとて御霊に満たされていればだれでも教会役員としてふさわしいかというとそうでもありません。教会役員をするために必要な能力が考慮されなければなりません。たとえば中学生でも「愛、喜び、平安・・・」という御霊の実に満ちているという人はありえるでしょうが、教会を治める立場に立たねばならない教会役員にはふさわしいとはいえません。この人を治める能力についてテモテの手紙では自分の家庭をよく治めているかどうかによって見極められると語っています(1テモテ3:4、5)。 ほかに役員としての賜物として「教える能力がある」ことが上げられます(1テモテ3:2)。

 第三に、評判がよいということです。教会内だけではなく教会外の人々にも評判のよい人でなければなりませんとテモテの手紙では言われています(1テモテ3:7)。教会内で評判がよくなければ、会員の支持を受けられませんし支持を受けられなければだれをも指導できないでしょう。また教会役員は対外的には看板的な存在ですから、外に対しても評判がよくなければ教会自体の評判が悪くなってしまいます。

 他にもテトス1:5−9を御覧ください。「監督」と呼ばれるのは「長老」と同じことです。

6.教会役員の立場

 教会における教師、また長老・執事といった教会役員はどのような立場にあるのでしょうか。聖書によれば「こうしてキリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師としてお立てになったのです。」(エペソ4:11)とあるように、キリストが教会に教職をお立てになったのです。また、エペソの長老たちに向かってのことばにこのようにあります。「「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」(使徒20:28)つまり、主が長老を教会の監督としてお立てになったのです。

 したがって、かりに選挙という方法で教会役員が決められるにしても、教会役員は選んでくれた人たちの利益代表ではありません。牧師を含め教会の役員は神の御心がその群れになっていくことを願い祈り求め、群れを導くことを使命としているのです。

 ことをわかりやすくするために、あえて極端な例を申し上げることを許してください。

 もし教会の大多数が、みんなで伊勢神宮に参拝しに行きましょうといったとしても、教会役員会はこれに反対しなければならないのです。シナイ山のふもとでイスラエル教会のメンバーたちが偶像を造ってくれとアロンに頼んだ時、アロン役員は金の子牛の像を造るという罪を犯してしまいましたが、あのような過ちを犯してはならないのです。教会役員は、教会員が主を愛し主に従うように導くことを使命としているのであって、教会員の目先の利益代表ではないのです。

 ですから、かりに選挙という方法で教会役員が決定されるにしても、選挙する教会員は「あの人は私の意見を聞いてくれそうだから」とか「私はあの人が好きだから」という基準で役員を選んではなりません。「あの人は御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人だから」という基準で投票をすべきなのです。

7.教会役員と信徒の相互の姿勢

 教会役員はキリストによって立てられたのです。ここに悪魔の誘惑があります。自分はキリストが立てた者であるということから、傲慢になることです。しかし、キリストに立てられたからこそ、いばるのでなく謙遜をもって主と、教会にお仕えすることがたいせつです。神を畏れぬ異邦人の支配者のようにではなく、キリストがわたしたちのために天の栄光をなげうたれたばかりか、十字架において命を差し出されるまでに謙遜になってくださったように、群れに仕える姿勢で、群れを導くのです。

 「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:42−45)しもべとしてのリーダーシップ、サーバント・リーダーシップです。

 他方、教会信徒は役員会を自分たちの利益代表としてではなく、主がお立てになった権威として認識し、彼らを尊敬し服従を基本的な姿勢として持つことがたいせつです。教会役員が無謬の権威であるというのではありません。無謬の権威はただ聖書のみです。しかし、基本的な姿勢として主がお立てになった権威として、これを重んじることがたいせつなのです。

「あなたたがの指導者たちのいうことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。」(ヘブル13:17)

「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」(1ペテロ5:5)

「兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。」(1テサロニケ5:12、13)

9.教会政治のありかた

(1)組織の三つの機能

 教会にかぎらずおよそ組織というものには三つの機能があるといわれます。すなわち、仕事機能と維持機能と参加意識です。教会も組織である以上、この三つがあります。

 第一に、仕事機能とはその組織が目的としている仕事を成し遂げる機能です。教会でいうならば、やや語感がよくないですが、仕事機能は礼拝と伝道だということができましょう。

 第二に、維持機能。これは組織が組織として分裂をしないで保たれていくという機能のことです。教会が一致を保って歩んでいくということです。

 第三に、参加意識。これはその組織に属するメンバーが、その組織に所属することに喜びややる気を感じるということです。これは見えないものですけれども、組織にとってとても大事な要素です。  

(3)教会政治の三様式とその長短

 教会政治は、教会の歴史のなかでは三つの様式がとられてきました。監督政治、会衆政治、そして長老政治です。一般的な政治制度と関係づけて説明すれば、監督政治は君主制に、会衆政治は民主制に、長老政治は共和制(寡頭制)に対応しています。

 監督政治をとってきたのはローマ教会、聖公会などです。教職者には階級があってローマ教会ではその頂点に教皇が立っています。監督政治では教職が教会の政治的権限を握っていて、一般信徒には教会における政治的権限はありません。第二バチカン公会議以後、ローマ教会は伝統的立場からずっと軟化して、信徒が皆共通の司祭職・預言職を担っていることを認めるにいたっていますが、王職は教皇・司教・司祭・助祭にのみあるという立場を堅持しています(『公教要理』9:41、42)。

 監督政治とは一般に言う組織でいえば、君主制にあたります。君主制では、主権を握るのは君主ですから、君主の善し悪しがすべてということになります。君主が良ければ、決断即実行に結びつき仕事はバリバリ進みますし、メンバーはみな君主に信頼してやる気十分で群れも一致して行けます。君主制が最も適した組織というのは、短期決戦の仕事機能中心のたとえば野球の監督などはその典型で、目の前に起こってくる事態を監督が即座に判断して適切に対応していかねば、チームを勝利に導くことはできません。

 他方、君主制の欠点は、君主が悪いと決断が間違って仕事が進まず、メンバーはやる気をなくし、組織はガラガラと崩れてしまいます。監督は即交代ということになります。

 会衆政治を取ってきたのは組合派教会・バプテスト教会などです。これは直接民主制にあたるものです。ここでは主権は民全員がもっているわけですから、民の質の善し悪しがすべてを決めるということになります。民主制の最大の長所は、構成メンバーの全員が組織運営に参加意識を持ちやすいということです。そして、みながやる気があるので、能力ある人々が自分の能力を最大限に発揮して一致してやることができるならば、君主制にも勝る仕事機能を発揮することができます。

 民主制がよく機能するための条件は、民の質が高いということですが、民主制の弱点は民の質が低いと組織は烏合の衆になってしまいます。いわゆる衆愚政治に陥るわけです。また、民主制が機能するためのもう一つの条件は、一見矛盾したことをいうようですが、強力なリーダーシップです。メンバーが有能で個性的な人々であればあるほど、それをまとめあげていく強力なリーダーシップが存在しなければ分裂してしまうのです。アメリカ合衆国は自由と民主主義の国といわれますが、そこにこそ強力な権限をもった大統領が必要であるようにです。

 ある会衆政治の教会では、それが衆愚政治に陥ることを防ぐために二種類の教会員制度になっています。すなわち洗礼を受けた教会員と、洗礼を受け教会政治に参与することを許される教会員との二種類です。

 次に、長老制です。これは一般の組織でいうと共和制(寡頭制)にあたります。少数のリーダーに権限を集めて、彼らの協力によって群れを指導するということです。リーダーたちは平等の権限を持ちます。長老教会では教職平等あるいは長老平等の原理です。牧師も信徒長老も平等の一票を持っているのです。共和制の長所は組織の維持機能にすぐれているということです。一つの組織のなかで会衆全員の質の高さを求めるのは困難ですが、少数のリーダーの質の高さを求めるのは比較的たやすいことが一つの理由です。そして、少数のリーダーが互いに牽制しあうので、君主制のように独裁的になって極端に走って失敗する可能性が少ないということです。

 共和制の短所は、仕事機能です。たとえすぐれた判断力をもつリーダーが一人いても、彼と同じ権限をもった凡庸なリーダーたちが他に数名いれば、会議ばかりやっていて仕事がなかなかはかどらないということになりがちです。失敗はしないけれども大きな成功もしないというわけです。共和制の組織が仕事機能を発揮するためにはリーダーたちが仕事意識・使命感が強いことがたいせつです。また、共和制のもう一つの弱点は参加意識です。構成メンバーたちがつい熱心な役員さんたちにお任せしておけばよいと思いがちなのです。

 以上のように、三つの政治形態にはそれぞれの得意分野と不得意分野があります。政治形態にはそれぞれ長短があるので、目的に応じて使い分けることが賢明でしょう。教理的事がらなどは神学的訓練がされ成熟した少数のリーダーたちが慎重に協議する必要がありますから共和制的な方法が賢明です。また、メンバー全員が一致すべき教会の基本的な具体的計画などについては会衆政治のように教会総会で確認がなされるのがふさわしいでしょう。けれども、三か月後にさし迫ったプログラムを遂行するというような場合には、リーダーに権限を集めて行わないとなにもできなくなるでしょう。そして通常の業務については長老政治的に役員会が把握してことを決するという具合でしょうか。

 ともかくいずれにせよ、みんながやる気を出して(参加意識)、どんな状況でも一致して(維持機能)、福音宣教の使命に向かって邁進する(仕事機能)。これができれば教会は最高なのです。

 同盟教団は合議制という立場です。おそらく上述のうち会衆制と長老制をあわせたような政治形態といえましょう。この合議制の特徴の一つは、長老政治のように正式の教会会議は教師だけでも信徒・信徒役員だけでも成立しないということです。理事会も教職理事とともに信徒理事がいますし、教団総会も教師議員と信徒議員がいなければなりません。教会総会も、教会役員会も同様です。信徒議員は教職と同じだけの投票権を与かっているのですから、神様の御前に責任重大であります。また、教職の平等というのも長老制的です。

 しかし、長老政治のように地域の長老が集団でいくつかの教会を統治するのではなく、各個教会の自律が大幅に認められているという点では、会衆政治的です。

(4)からだと着物

 最後に、組織化について注意点をつけ加えておきます。神の民はからだであり、組織は着物です。からだのために着物があるのであって、その逆ではありません。ダビデがゴリヤテ退治のとき重いよろいを着ないで、動きやすい日常の服で戦いに臨んだように、教会も組織表ばかり立派にならないことがたいせつ。群れの規模と状況に応じて組織は衣替えをしていくことです。

 また、役割分担をして組織化をするということは、垣根を設けるということでもあります。垣根をもうけるとその向こうが見えなくなります。部分しかみえなくなります。車のメカニックには二通りあって、ひとつは車の製造工場で働くメカニックであり、もう一つは整備工場で働くメカニックです。仕事のたいへんさは後者だそうですが、仕事のおもしろさもまた後者にあるそうです。車の製造では、車のごく一部分しか見えませんが、整備ならば車全体を見ることができるからです。組織化をするときに注意しないといけないのは、役割分担しながらもなるべくみなが全体を見えるように工夫をして風通しをよくするということです。

結び 「みこころの天になるごとく」

 最後に、最も重要なことを申し上げます。どんな教会政治の形態をとるにせよ、「みこころがなりますように」という祈りが肝心だということです。もし、この祈りを忘れるならば、監督政治は暴君政治となり、会衆政治は衆愚政治となり、長老政治は会議は踊るされど伝道は何も進まないものとなるでしょう。「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈りつつ、教会のやる気と一致と前進をはかりたいものです。

栄光がただ神にのみあるように!

神を知ること、神を愛すること 横浜上野町教会修養会2

1992.10.10

「私は祈っています。あなたがたの愛が、真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真に優れたものを見分けることができるようになりますように。また、あなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神のみ栄えと誉れが現わされますように。」ピリピ1:9−11

序 「神を愛するための神学講座」の由来

 なぜこのような題名をつけたのかという動機をお話することから始めたいと思います。「神を愛するための神学」と申しますからには、私の念頭には「神を愛さない神学」がある、あるいはありうるという懸念があるということです。それは、素朴なかたちで私の体験から始まり深まって来た問題意識でした。

 私がイエス・キリストというお方を印象深く知った初めての敬虔は、高校三年の夏休 み、ある機会があって映画『塩狩峠』を見たときです。雪の中で一人の伝道者がルカの福音書23章の十字架の主の祈りを引用しました。「父よ。彼らをゆるしたまへ。そのなす所をしらざればなり。」衝撃でした。自分を軽蔑し、いのちを絶とうとするその人たちのためにゆるしを高イエスというお方の姿が心に刻まれました。その秋、身辺に痛ましい事件があり、「私はなぜ生きなければならないのだろうか、生きる目的はいったいなんなのであろうか。」と捜し求めざるをえなくなっていたのです。浪人して受験勉強をしていても、何のために生きていくのかという問いは私を押えつけるようになりました。

 そんななかで一人の牧師に会いました。熱心なカルビニストでした。この牧師はこのように言われました。「私が生きているのは神の栄光のためであり、私が神を信じるのもまた、神の栄光のためです。」

 そして、浪人時代の終わりの三か月、教会に行き始めて私は『ウエストミンスター小教理問答』に出会いました。

「第一問 人の生きる主な目的はなんであるか。

 答 人の主な目的は神の栄光を現わし、神を永遠に喜ぶことである。」

 私は驚き、狂喜しました。これが私の生きる道であると確信しました。これが私が捜しているものであると。

 その後、しばらくして大学入学となりました。私の心は高揚していました。私には周囲の学生たちがバカに見えました。「無目的な人生をおくりやがって、ぼくは神の栄光のために生きているのに。」いわばそういう感情でありました。同盟土浦めぐみ教会にまいりましても、私の心はその教会の礼拝の様子、祈りのありさまなどなど一つ一つ違和感が あってさばいていました。当時のことを思い出すと赤面するばかりでありますが、事実そうなのでした。さて転機が訪れました。その夏、神戸に帰省してあの教会の修養会に参りました。その修養会は実に愛に満ちたものでした。で、私は神様のお取り扱いを受け、自分の内に高慢があり、多くの兄弟姉妹をさばいてきたこと、その罪を知りました。そして、頭に入っていたキリストの十字架は人類の罪のためであったという教理が、私にとっての現実として心にはいって来たのでした。

 「人の主な目的はなんであるか。人の主な目的は神の栄光を現わし、神を永遠に喜ぶことである。」まったくすばらしい、宣言であり、告白です。けれども、その前に、あるいはそれと同時に知らなければならなかったことは、私は、その人としての目的にはまるでかなわない罪人であること、そして、その罪人である私のために主イエスは十字架の上で「父よ、彼らをゆるしてください。彼等は何をしているのか、自分でわからないのです。」と祈って下さったという事実でありました。

 このような素朴な経験を通して、私は「神を知る」ことと「神を愛する」ということとの間にどうしてへだたりが生じるのであろうか、そのへだたりに橋を渡すものはなんなのかということを問題意識として持つようになりました。また、昨日学びましたことばでいえば、教理的な神知識は、どうしてしばしば、霊的生命を欠くのか、霊的生命を豊かに育みつつ教理的に神を知ることはどうしたらできるのかということです。ですから、私がもし神学というものをするならば、それは「神を愛するための神学」でなければならないと祈るようになったのです。冒頭のピリピ書のことばは、愛が真の知識(エピグノーシス)によって豊かになるといいますが、まさにそれを願うのです。

 私は、この問題をパスカルの『パンセ』とアウグスティヌスの『告白』を学ぶなかで、解決の道を示されてきましたので、ところどころ引用をしながら、お話を進めたいと思います。

 アウグスティヌス(354-430AD)  キリスト教教父。西洋の教師と呼ばれ、カトリックにもプロテスタントにもまた、一般思想世界にも影響絶大。敬虔な母モニカをもちながら、彼は若い日にはマニ教に走り、修辞学教師として出世を望むが、悪と罪という問題意識からネオプラトニズムに進み、そして、アンブロシウスの影響下にキリスト教徒となった。『告白』はその自伝的な内容と、神学的・哲学的考察を含む。以後北アフリカのヒッポの司教として活躍し。ネオプラトニズムの改造により、基督教神学を構築。

 ブレーズ・パスカル(1623-62)  数学者・物理学者・宗教哲学者。ジャンセニスムという復興アウグスティヌス主義の ポール・ロワイヤル修道院の導きで、決定的な回心。『パンセ』はかれの構想した「キリスト教弁証論」の草稿。

1.神を知ることと神を愛することとの分離は神学につきまとう罠である

 神を知ることと神を愛することとの分離という現象は、一人私だけの特殊な問題でありましょうか。もし、そうであるとしたらこんなことを主題として据えて論じる必要はないでしょう。私にとっては重大な問題であっても、多くの人にとっては問題ないでしょう。けれども、どうもそうではないようです。

 聖書の専門家であり当時だれよりも多く正確に神知識をたくわえていたパリサイ人たちが、実は神を愛してはいなかったのでした。彼らが「見える」と言わなかったら、彼らの罪は軽かったのです。彼らが神を知らなかったなら、彼らが神を愛さなかったという罪は軽かったのです。しかし、彼らは神を知っていながら神を愛しませんでした。それゆえ、彼らの罪は重いのです(ヨハネ9:39−41)。

 また、ギリシャ的な合理主義の影響を受けた祭司階級のサドカイ人たちも、同様に「あなたがたは神の知からも神のことばも知らない。」とイエス様は断じられました。

 また、使徒パウロはギリシャ文化のもとにあり知性を誇るコリント人たちに向かって言います。「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を立てます。」1コリント8:1

 また、パスカルは言います。

 「ああ、神を知ることと、神を愛することとの間には、なんと大きなへだたりがあることだろうか。」(L377,B280)

 神を知ることと神を愛することの分離という問題は、神学にとって本質的な(つまりきっても切れない、あるいは、つねにつきまとう)罠だということではないでしょうか。「神学校にやると燃えていた伝道意欲がなくなるから、献身者を神学校になど送るな。」などと、時々乱暴な神学無用論、神学校無用論が論じられるには、一理あるのです。

 私の知るかぎりでは、この「神を知ること神を愛することとの分離」という事態について、自己の経験を、聖書によって解釈することを通して、自覚的にかつもっとも切実に告白し、正確に記述しているのは、アウグスティヌス『告白』です。

 彼がキリストにある救いに至るまでの半生の根本的課題は悪と罪の問題でありました。彼にとって悪と罪の問題は世界観の問題であり、かつ、実存的な(つまり生きるか死ぬかの)問題でした。彼は若い日にマニ教に入っていたのですが、それはマニ教が善悪二元論をもって悪の問題について合理的解釈を与えるかのように思っていたからです。ところが、彼はマニ教の教師フォルナルツスに会って実際に質問をしてみると、なんら解決がないことを知るに至り、新たな道としてネオプラトニズムを求めるようになりました。ネオプラトニズムというのプロティノスという哲学者を代表者とする汎神論の宗教的哲学でありまして、一者(το εν)から万物が流出して一切あるというものでした。そして、人間の救済はこの一者との合一にあるとするのです。合一のために神秘的な瞑想により、内面に深まっていく方法によって、肉体から魂へ、魂から霊へと高まっていき、ついに内なる神と一体化するというのが、ネオプラトニズムの救済の道です。そして、これが浄化の道であるとされていました。今、流行のニューエイジの瞑想と同じです。

 この立場の場合、悪とは何であるかというと、善の欠如相であるということでありました。悪はあるものではなく、善がないことが悪という状態であるという説明です。存在の中心である一者から遠ざかっているほど、存在は欠如しているわけですから悪であり、一者に近づくほどに善へと向かい、一者と一体になれば、善は完成するわけです。

 ネオ・プラトニズムによってアウグスティヌスは知識の面においては神を知ったというのですが、味わうことができません。神を知るのですが、神を愛するにいたりません。アウグスティヌスは、自分が神を知るにいたったにもかかわらず、神を愛そうとはしないという状態にあることに驚愕します。

 「これまで私は、自分が世をさげすんであなたに仕えないのは、まだ真理を確実に認識していないからだと考え、いつもそれをいいわけにしてきましたが、もうそのいいわけはきかなくなりました。なぜなら、真理はもう確実に認識されてしまったのですから。しかも私は、まだ地にしばられて、あなたの兵士として仕えることを拒んでいたのです。」 (『告白』8:5:11)

2.神愛と神知の分離という事態に聖書の光を当てる

(1)御言葉

 神知識と神を愛することとが隔たっているという人間の現象について、聖書は何というでしょうか。それは、神の怒りの啓示であり、アダム以来の人間の罪の姿なのです。

「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対し て、神の怒りが天から啓示されているからです。なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは自分は知者であるといいながら、愚かな者となり、不滅の神のみ栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」ローマ1:21−23

 この箇所の言明していることがらのポイントは以下の二点です。

1.神は被造物を通して神について知りうることを明らかにしていらっしゃり、人間はこの啓示によって、神を知ることができます。だから、人間は神を知らないという弁解の余地はないのです。

 自然啓示は内的自然と外的自然による啓示です。外的自然とは月星太陽、花などなどもろもろのいわゆる自然を通してその創造主である神の知恵を知らされるということです。内的自然とは、ローマ書2章15節に見るように、人の内の良心(善悪の識別規準)に刻まれた神の律法です。これらによって、人は神を知ることができます。

2.しかし、自然啓示によっては、人は神を知りながらも神を神としてあがめず、感謝もしない。つまり、神を知りながら、神を愛さない。

 己は神を知っていると誇りながら、神を愛さない人間は、神の代わりに神ならぬものを神としてあがめるという知性の暗さと倒錯に陥っているのである。これは、己の知性を誇る人間に対する神のさばきであり、神の怒りの啓示である。

 主イエスが次のように言われたことも同じことを意味しています。

「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵ある者には隠して、幼子たちに現わして下さいました。』」マタイ11:25

 パスカルは、こうした事態についていいます。

「イエス・キリストなしに神をもつ哲学者たちを論駁す。哲学者たち。彼らは、神のみが愛せられ賛美されるに値する唯一のものであると信じている。しかも、彼らは自分たちが人々から愛せられ賛美されることを欲した。彼らは自己の堕落を認識していない。・・・・なんということか!彼らは、自分では神を知っていて、しかも人々が神を愛するようになることだけは好ましくないと考え、人々が哲学者を愛することで満足してくれるように願ったのだ!」(L142,B436)

 どうして「賢い者や知恵ある者」、あるいは「哲学者たち」の神認識は、知性と愛とが分離してしまうのでしょうか。こうした事態には二つの原因があります。

(2)第一は、自然啓示による神認識の方法は直接的・抽象的であること。

 「キリスト教神学者たちが、造り主なる神の神学を抽象的・直接的に考案しようとした場合には、たとえ彼らがこの高き神を、どのような畏敬をもって考え・また語ろうとしても、いつも迷路に踏み行なったのである。」(K.バルト『教義学要綱』p122)

 被造物を介しての啓示によって創造主なる神を抽象的・直接的に考察しようとしたところに、賢い者、知恵ある者、哲学者たちの神認識の問題点があるのです。こうした主旨のことはすでにカルヴァンが『基督教綱要』第一編で詳しく論じています。ただ、ひとまとめにした表現としてはバルトのものが便利なので引用したのです。抽象的・直接的に神を知ろうとはどういうことでしょう。

 直接的に神を知るというと、一見すると神に直面して知るかのような印象を受ける表現ですが、そうではないのです。ここに言う意味は、神の特別啓示である聖書によらず、自然的理性によってなす神認識ということです。これは、スコラ哲学がしようとしたことでした。「この書物の目的は、カトリックの信仰が表明している真理を鮮明にすることであるが、自分は自然の理性に、自然の光に依拠して議論を進めたい。なぜなら異教徒は聖書の権威を受け入れないからである。・・・ところが自然的理性では信仰に関する究極的な部分を論証することはできないが、ある部分は論証できるだろう。たとえば自然的理性は神の存在や魂の不死性を論証することはできるが、三位一体や受肉、最後の審判のごとき教義は証明できない。」(トマス『異教徒論駁大全』)内なる自然つまり理性によって営む神学なので、自然神学と申します。こうした時、みな迷路に迷い込んだのです。

 それは、具体的・現実的な神でなく、抽象的・観念としての神にすぎなかったからです。具体的・現実的に神を知るならば、人はホレブのモーセや、神殿のイザヤや、イエスを舟にお乗せした漁師ペテロのように、偉大な神の御前におののきつつ、この神をあがめないではいられません。ところが、そうならないのは、彼らが知る「神」が現実の神ではなく、抽象的な観念としての神にすぎないからです。現実には存在しない、ただ頭の中の概念操作によって作られた概念は、人は生き方を変えません。

 たとえば、一人の若い女性が結婚相手の理想の夫についていろいろと夢を思い巡らしているとしましょう。この女性は、自分の好みの顔だち・性格・身長・年齢・収入などなどについていろいろ思い巡らします。そういうことを思い巡らしても、その女性自身の生き方には別に影響は起こってきません。その勝手に思い描いた男性のために自分の愛を捧げるということもありません。責任ある決断を迫られるということもありません。それは観念としての新郎にすぎないからです。

 同様に、堕落した人間にとって自然啓示による神認識は、こういう抽象的神認識になってしまうのです。それゆえ、「神」を知ってもその神をあがめることも感謝することも悔い改めることもなく、かえって、そんなすばらしい神を考え出した自分を誇るのです。

(3)第二の原因は知者の神認識は高慢を助長するということ。

 では、どうして人間は神を知りながら、神を愛さないのか。その人間は、己の知を誇っている。傲慢にふくれ上がっているからです。傲慢という原罪。これが、神を神として知りながら、神を愛しない根本的な原因です。

 アダムは始めに神の似姿として創造されました。ところが、彼は神の戒めの下にあることをよしとせず、自らの判断を神の戒めに優先するものとなりました。彼は善悪の知識の木から取って食べました。この木がどうして「善悪の知識の木」と呼ばれるかについては、釈義的にいろいろな見解があるようでありますが、私が理解するところでは、アダムが神の戒めの外にあって自ら何が善であり、何が悪であるかを決定することができるという立場を取るようになったということ、つまり、神ぬきに自らの道を選び取ろうとした理性の自律という思い上がりの罪です。これが「神のようになろう」という罪です。(参照『講座』「堕落した人間」(1))

 神を観念的に知ると、人はどうして傲慢になるのでしょう。それは、偉大な神を考え出した自分はなんと偉大であるかと思い悔い改めません。したがって、神を知りながら神を愛さないことのゆえに、断罪されるのです。自然啓示の機能は、律法同様罪を明らかにする断罪的機能です。

神を知ることと神を愛することの統合

−−−ヨハネ1:14−−−

 神を知ることと神を愛することとが、一つとせられるために必要なことは、第一に直接的・抽象的にでなく間接的・具体的に神を知るということであり、第二に知性の傲慢の罪がいやされることです。

(1)聖書における啓示の特質

 直接的でなく間接的にという意味は、神様が私たちに理解できる方法でもって啓示してくださったその啓示を媒介として、神を知るということです。神様がかけて下さった橋を使ってのみ、私たちは神のみもとに行くことができます。神様は聖書という人間にわかることばで、啓示を保存されました。

 私は、組織神学を学びながら、一方でいつもひとつの疑問を持ち続けていました。組織神学的な聖書の学び方をすると、つまり、神論、人間論、キリスト論、救済論・・・という順序によって聖書の真理を学ぶと、順序立ててバランスよく神知識が蓄えられてとても便利です。それにもかかわらず、聖書自体はどうしてそういう書かれ方がされていないのだろうか、という疑問でした。聖書は、歴史的文書や詩集や手紙などの集成として成立しています。聖書には、具体的な歴史的人物や民族たちの歩みがかかれ、そこに神がどのように働かれたか、語られたかということがかかれています。もっとも体系的であるローマ人への手紙であっても、やはり一人の使徒から特定の教会の人々に対する手紙という歴史的文脈にはめこまれたスタイルです。どうしてだろうか、と考えました。

 聖書における啓示の特徴は、教えだけではなく、常に具体的な歴史的文脈があるということです。格別、私たちは何げなしに福音書を呼んでいるわけですが、福音書というジャンルは、福音書が書かれた一世紀という時代には、ほかには例を見ないものであるということが様式批評をした聖書学者によって指摘されています。すなわち、「第一世紀の視点からすれば、福音書は文学的な発明(新しさ)である。」そうです(M.Kline,The Structure of Biblical Authority,p173) 。どういう点が新しいのかというと、福音書は二つのことなる種類の資料からできているということです。つまり、教えの語りと歴史的叙述という二つです。イエス様の言葉とわざとが記されているということです。クラインは、この起源はギリシャ・ローマなどの文学様式にはみえないけれども、出エジプト記における様式を起源としているのであると述べるのです。

 とにかく、福音書の様式にもっとも端的に現れたこの教えの語りに歴史的叙述が一体になった、表現様式というのは、聖書における啓示の特徴であると言えましょう。私たち は、そこに言葉の啓示と御業の啓示が一体になって、進んでいるのを見るのです。

 組織神学的な学びにおいては、この具体的歴史性が除かれて、抽象化されるわけです。たとえばペテロという人がいて、イエスの問いかけに対して「あなたは生ける神の御子キリストです。」と信仰の告白をもって答えたというできごとは、「キリスト論」においてはイエスのひとり子性、キリストという職務論となって、そこからペテロという具体的人物のこと、ピリポ・カイザリアでこの告白があったことは抜け落ちるわけです。

 聖書の啓示は、ことばが常に具体的歴史的文脈の中にいわば受肉しているのです。ここに神を知ることと神を愛することを分離させない聖書啓示の秘密があるのではないでしょうか。ですから、私たちは教理的に神認識をしようとするとき、それをもう一度聖書の歴史的文脈や私たちの置かれている具体的生活の中に、適用するという教理の学びかたが必要であると言えます。

(2)受肉したキリストにおいて−−−ヨハネ1:14、18

 ことばが、完全な意味で具体的歴史・事実・生のうちに宿られたのは、イエス・キリストにおいてでした。ことばが具体的歴史のなかにはめ込まれているという聖書の啓示のありかたは、キリストにおける受肉のいわば型なのではないでしょうか。キリストは啓示の焦点です。ことば(教え)のみならず、ことばと御業をセットにして、歴史的具体性の中にみこころを現わすという啓示のあり方そのものが、キリストの受肉を示すものなのでした。アウグスティヌスは神を知りながら神を愛さず高ぶる己を癒したのは、キリストの受肉の真理であったと告白しています。

 「そこであなたは、まずはじめに、たかぶる者をしりぞけたまうが、へりくだる者にたいしては大きな恵みを与えられるということ、御言葉が肉となり人々のあいだに宿り給うて謙遜の道が明示されたのは、じつに大きなあなたのあわれみによることであったということを示そうと思し召され、恐るべき傲慢にふくれ上がっていたある人を通じて、ギリシャ語からラテン語訳されたプラトン派の書物を、私のために配慮してくださいました。」(『告白』7:9:13)

 「もしも私たちの救い主キリストにおいてあなたの道をさがさなかったならば、通暁するどころか破滅していったことでしょう。じっさい私は、罰を身いっぱいにうけながら、知者と思われたいという欲望をいだきはじめ、そのような我が身を泣くことなく、かえって一層おのが知にふくれ上がってゆきました。・・・・・僣越と告白との間に何という大きな相違があるか、ゆくべき方向を知りながらゆくべき方法を知らない人々と、至福の国にみちびいて、それをながめるだけでなくついにそこに住まわせるに至る道との間に何という大きな相違があるかを、はっきりと識別するためにあったのです。」(同7:20:26)

 パスカルもまた次のように記しています。

「『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』  哲学者や、学者の神ではない。  確かだ、確かだ、心のふれあい、喜び、平和、イエス・キリストの神。  『わたしの神、またあなたがたの神』。  『あなたの神は、わたしの神です』。  この世も、何もかも忘れてしまう、神のほかには。  神は福音書に教えられた道によってしか、見いだすことができない。」(パスカル、メモリアル1654年11月23日)

 受肉された神の御子キリストにおいて神を知るときに、私たちは神をただしく知ることができます。ただしく知るとは何かより多くの、あるいは新しい知識を得るという意味ではありません。そうではなく正しい知り方で、ふさわしい態度で神を知ることができるということです。

 神知識を正しく得たならば、そこには悔い改めと謙遜と感謝がうまれこそすれ、傲慢は生じるはずがないのです。そこには、認識と実践の分離がありません。傲慢がなく謙遜があります。知識と実践の分離がありません。一体です。

 ところが、単なる観念としての「神」を知るということは、その「神」についての概念を操作したり、体系的に組み立てたりするだけですむのです。神は不変である神は全能である神は遍在であるなどなどという観念です。しかし、その神の御前に、自分の生き方について選択を迫られるということはありません。現実に具体的に神を知るならば、私たちはその神の御前でどう生きるかということが問われます。神の御前に現実に置かれているある自分を認め、この神の御前にいかに生きるかということを、神を知ると同時に決断を迫られるのです。

 さきに将来の理想の夫を観念としてもっている女性は、生き方は変わらないといいました。けれども、ひとたび具体的に現実に彼女に一人の男性が「私は君のことをずっと愛してきました。結婚してください。」と言って来たなら、そうは行きません。彼女はもはや観念の世界に遊ぶことはできないのです。現実に、どのように生きるかを責任を問われるという事態になります。決断を迫られるのです。

 神がキリストにおいて一人の具体的なお方として、特定の時間に、特定の場所に、歴史の中においでになったということは、私たちに観念ではなく現実の神が、いわば、あなたに求婚しているという事態なのです。あなたは、この生きています現実の神の御前での決断を求められているということです。この具体的な歴史的現実の中に、御子が来られたということを私たちは『使徒信条』の中で告白するのです。「処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け・・・」

 みなさんは聖書を読む時、どんな書物を読むという意識で読まれますか。聖書は、だれか有名な作家が書いた小説や、あるいは、哲学者が書いた書物ではなく、あたかも、町の広報や新聞を読むような心積もりで読まれるほうが本質的に正しいといえないでしょう か。みなさんは、小説家の書いた『日本沈没』などという本を読んで、かりに、そこに横浜に1992年10月31日大地震がありますとあっても、それで引っ越ししようとは考えないでしょう。けれども、もし朝日・毎日・読売新聞に「今月末に横浜に大地震があることが、判明いたしました。避難してください。」とあり、町の広報にもそのように報道されたら、引っ越すでしょう。なぜでしょう。文学書は空想を、新聞は事実を伝えるものだからです。

「ことばは人となって私たちのあいだにすまわれた。・・・・いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が神を解き明かされたのである。」ヨハネ1:14、18

 ヨハネは神が人となられた−−これは歴史の事実を報道しているのです。

(3)十字架と復活のことばの愚かさによって−−−高慢なる知性を打ち砕く−−

「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵ある者には隠して、幼子たちに現わして下さいました。」マタイ11:25

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊に属することは御霊によってわきまえるものだからです。」1コリント2:14

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。・・・・なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」1コリント1:18

 これらの御言葉は、本質的に同じことを言っているのです。善悪の知識の木の実を食して以来、人間は「神のようになろう」とし自律を追い求めてきました。そして、強力な牙も爪も速い脚も持たない人間は、その理性をなによりの武器として生きるほかありません。この理性によって、もろもろの文明を作り上げてきました。この理性こそ人間の誇りです。人間は理性において神のようになろうとしたのです。この理性のうちに人間の傲慢は集約されます。それゆえ人は内的にせよ外的にせよ自然を通して、神を知ることができると、今度はその知識を誇るのです。

 神を知り、かつ、神を愛するためには、この高慢なる理性が打ち砕かれなければなりません。神は、そこで受肉と十字架と復活のみわざという、生まれながらの人間理性にとっては愚かなこと、不可解なことをもって、啓示をお与えになったのです。天地万物の創造主が、実際に歴史の中に人となってこられた。しかも、よりによって不潔な馬小屋に。神は栄光に満ちていらっしゃるはずなのに、このお方が十字架という恥辱の中で死なれた。死んだ者がからだと魂と霊をもってよみがえるなどおとぎ話の世界でしか通用しないようなばかばかしいことが、現実になされました。

 生まれながらの人間の理性は、この啓示を前にうろたえなければなりません。そんなこと常識ではありえない。そんなことは、納得できない。そんなことを認めたら、私の今までの価値観や世界観はどうなるのか。しかも、キリストが十字架にかかって死んだのは、私の罪のためだという。私の誇りはどうなるのか。私は、自分なりに正しい者として生きてきたつもりである。その私の人生を否定するのか。

 その通りです。否定するのです。人間の誇りを打ち砕くのです。

 理性において、倫理性において、誇りを打ち砕くのです。

 私は、あの十字架の上で「父よ、彼らをゆるしてください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」という祈りをされたキリストを心の目に見せられて、キリストを知り、神を知りました。イエス・キリストにおいて神を知るとき、私たちはこうして、いやおうなしに現実的・具体的に神に出会い、そして、理性の傲慢を打ち砕かれて神に出会うのです。

 私たちが真に神に出会うのは、時の中に受肉された永遠の御子の十字架においてです。