恵み

Sun, 28 May 2006 18:45:28 JST (4019d)

「罪がわからないと神の恵みが分からないので、まず罪を語らなければならない。」そのように仰る方が多いように思う。

 しかし本当にそうだろうか?それとは正反対のメッセージを聖書は語っている。そう私は思う。

 つまり、神の恵みがわからないと罪が分からない。そして罪がわからなければ本当に悔い改めることが出来ない。故にまず聖書は、神の恵みを語っているのではないだろうか?

 創世記を見ると、まず神の恵みによる創造が語られ、その後で罪が語られている。

 パウロの書簡でも、まず神の恵み、神の祝福、神の愛が語られ、そして次に罪が語られていく。

 悔改めに先行する神の恵み、赦し、愛を聖書は語っているのではないだろうか?そして神の恵み、神の愛を体験することが、私たちを真の悔改めへと導くのではないだろうか?

 罪の強調から始める福音提示には、律法主義的な臭いがする。そう私は思う。

 あなたの意見を聞かせて頂けたらと思う。

by 野町真理

のまちゃん(Shinri Nomachi)のBlog November 13, 2004

この記事へのコメント

「あなた方は、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」エペソ2:8 確かに、神様の恵み、赦し、愛がわからなければ、自分の的外れな生活に終止符が打てないかもしれませんね。恵みを受けるに値しない私をも救ってくださった神様に感謝です。 Posted by みぞっぺ at November 13, 2004 23:38

いつも楽しく拝見させてもらっています。興味深い話題です。聖書は創造の恵みの記述から始まっているという論拠はなるほどと思います。

ただ、私が思うに、野町牧師の言われる「恵み」と、「罪がわからないと神の恵みが分からない」と主張する人たちの言う「恵み」の定義がずれているので、一見したところ正反対の意見になるのではないかと思います。

聖書の記述は、創造、人の罪、キリストの十字架という順です。確かに、神の創造の恵みは罪についての記述に先立ちますが、一方、キリストの十字架で表された神の恵みは罪の記述の後に来ます。罪がわからないと神の恵みが分からない」と主張する人の言う意味が「罪がわからなければキリストの十字架の恵みはわからない」ということであれば、確かにそのとおりだと思います。

福音を伝える順序に関して、問題は「罪」を先に教えるか、「恵み」を先に教えるかということよりも、「聖書の記述の順序に従って教えるかどうか」ということにあると思います。野町牧師が「創世記を見ると、まず神の恵みによる創造が語られ、その後で罪が語られている」とご指摘されているとおりです。

ちょっと宣伝ぽくなりますが、今私が翻訳にかかわっているバイブルスタディーのテーマは、「聖書の記述の順序どおりに福音を伝える」というものです。聖書は一冊の完結した書物だから、そのストーリーは最初から順に読まないとわからない、という理念に立って書かれています。まだ完成していないのですが、サンプルもありますので(順次更新する予定)URLも紹介しておきます。

http://www.ffjapan.org/

よければのぞいてみてください。 Posted by 佐野剛史 at November 15, 2004 20:50

のまちゃんこと野町です。

みぞっぺさん、佐野さん、大変興味深いレスポンスを感謝します。 「恵み」を改めて味わう良い機会となります。 「聖書の記述の順序どおりに福音を伝える」ということを掘り下げておられるバイブルスタディがあるんですね。 いろいろと学ばせて頂きたいと思います。 よろしくお願いします^・^。

Posted by のまちゃん at November 16, 2004 09:09

 使徒17章における、アテネ人に対するパウロの福音提示の順序をみるならば、創造主から注がれる恩恵がまず語られ、次いで、罪とさばきについて、そして、救い主キリストによる恩恵に言及するという順序です。言及前に、さっさとアテネの人たちが去ってしまって途中でちょん切れたきらいがありますが。  佐野さんがいうように、「恵み」ということばの定義を区別すれば、まず信者・未信者共通に通じる一般恩恵からスタートして、そして、罪、そして特別恩恵へと進むというわけでしょう。霊的死者に対して、まず神の一般恩恵が語られると、彼は自分が神に対して恩知らずな罪人だったことを一般的意味で知る。次に、キリストにある特別恩恵が語られると、さらに神の恵みに対する忘恩を悟り、罪の自覚が深まっていく。まあ、こんなプロセスということでしょうか。

Posted by 水草修治 at December 07, 2004 22:04

 しかし、恩寵のみの福音の深い認識となると、やはりルターがいうように罪の認識が前提となるでしょう。『九十五か条の提題目』にこうあります。 「免罪符は最も有害だ。なぜならそれは自己満足の念を起こさせ、そのため救いを危うくするからである。・・・それだから人々はまさに救われようとする瞬間に、自分が滅ぼされるのを感じる。神は人を義としようとしておられる時に、その人をのろいたもうのである。神は生かしたいとお思いになる人を、まず殺さなければならないのだ。神の恩恵は、怒りのかたちで伝えられるから、それが手元にあるとき、最も遠く見える。人はまず自分に健康がないことを叫ばなければならぬ。人は恐怖に焼き尽くされねばならぬ。・・・この悩みの中で、救いが始まるのだ。人は全く滅びると信じるときに、光明がさしてくる。平和は信仰を通してキリストのみことばのうちにやってくる。云々・・・」

 パウロのローマ書の福音提示のアプローチは断罪から入っています。しかも、徹底的な断罪。律法が中途半端に語られるのみで(つまり功績主義的・道徳主義的に語られるのみで)、パウロやルターがそうしたように、自己義認の罪人の息の根を止めるまでに徹底的に律法が語られないから、人は福音を悟らないのではないでしょうか。

 最近の傾向の問題性は、「現代人は傷ついているから、罪など語らず、神の愛のみを語るべきです」というような、悔い改めもキリストの十字架も抜きの汎神論的な抱擁主義に堕しつつあることのようにも思います。この手の無限抱擁的福音は、ノイローゼ患者をつくるでしょう。「罪がわからないと恵みはわからない」とする主張とも思えます。罪がわからせるというのは、良心をちくちく責める程度に、姑の嫁いびりのように、わからせるのではなく、肉の誇りの息の根を止めるまで、地獄を見せるまで、わからせること。 Posted by 水草修治 at December 08, 2004 08:53

何度か書き直すうち、文が変になっていました。第三段落三行目を以下のように訂正。 a.「『罪が分からないと恵みはわからない』とする主張」の前に、「この種の異なる福音に対するアンチテーゼが」を補う。 b.「罪がわからせる」→「罪をわからせる」

失礼しました。 Posted by 水草修治 at December 08, 2004 09:22

水草先生、続けて書き込みして下さってありがとうございます。 ここで問題にされている内容は、説教や個人伝道、さらには教会形成に直接関わってくることですので、真摯に受け止めさせて頂きます。 Posted by 野町 at December 08, 2004 12:03

「福音はcontextualizeしてはいけない。contextualizeしてよいのは、福音伝達の方法である。」神学生時代、口をすっぱくして教えられたことです。今日の福音宣教の根本的問題は、この過ちであると思います。現代の心傷ついた人々に受容されるようにということを考えるあまり、彼らに対して福音そのものをコンテクスチュアライズしてしまって、福音を見失ってしまっている。

 福音伝達の方法については、使徒パウロは「ユダヤ人にはユダヤ人のように」「律法を持たない人々に対しては律法を持たない者のように」自らなるように努めたと言っています(1コリント9:19以下)。福音伝達のあり方は文脈化すべきです。

 しかし、伝えたメッセージすなわち福音の内容については、パウロは「ユダヤ人にもギリシャ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです」(使徒20:21)と述べています。福音そのものは文脈化してはならない。

 福音はこの世にコンテクスチュアライズできない。なぜか。それは、「この世」はアダム以来、福音とは正反対の方向性を持っているからです。この世の方向性とは、パリサイ主義者のように厳格主義に見えようと、あるいは、近代のロマンティックな自由主義神学のように理想主義的に見えようと、あるいは、現代の流行の心理学的な癒し系に見えようと、ニューエイジ的な瞑想法であろうと、本質は自力救済主義なのです。「あなたは神のようになれる」という誘惑に乗せられたアダムの堕落以来、人はみな自力救済主義者となってしまったのです。この世は人の行為による救いを語ります。パリサイ主義は人が律法を行うことに救いの根拠を置き、自由主義者は人が山上の説教を行なうことに救いの根拠を置き、心理学的癒し系は人が積極思考とか発想の転換をすることに救いがあると語り、ニューエイジは瞑想にありと語ります。これらの様態はちがいますが、救いの根拠はみな人間の行ないである点では同じです。

 しかし、福音は神の行為です。神が罪人を選び、神が罪人のために御子による贖いのわざを成し遂げ、神が罪人をみことばと聖霊をもって召し、神が人を義と認め、神が人を 聖化し給うのです。人はただ己の罪・無力を認め、神の恵みの行為に自分をお任せするのみです。福音は不可変です。

 福音がなんであるかを曇りなく見極めたら、福音伝達の方法は大胆にコンテクスチユアライズすればよい。これは可変的なものです。 Posted by mizukusa at December 08, 2004 14:52

 野町牧師、「真摯に受け止めさせていただきます」ではよくないです。確かに、教団では立場上、私は貴兄にとって先輩にあたりますが、この場では、対等の神学徒として論じ合うことが望ましいと思います。私の文章は断定調のせいでもありましょうが。とにかく、同意できること、疑問を感じること、反論、いろんなことが出て来てこそ、こういうものに書き込む意義があるように思います。それがなければ、書き込みはしません。 Posted by Mizukusa at December 08, 2004 22:14

水草先生へ

野町です。

今日は東京の教団事務所で情報支援部の部会があり、先ほど帰ってきました。こだまは浜松まででストップし、浜松から豊橋までは各駅でしたので…。

で、歩きながら、そして電車の中で、先生のコメントをずっと真剣に考え、御言葉に思いを巡らせておりました。

パウロの書簡にもいろいろありますが、例えばエペソ書では、やはりまず初めに(2章で罪が圧倒的に語られる前に)、神の圧倒的な祝福が語られてあります。

3節以下を少し引用しますと、『…神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。…』と語られています。やはりまず神の祝福、神の恵みが語られ、この調べを基調音として罪が語られています。

でもやはりローマ書が引っかかりましたので、お茶の水CLCでは改めて内村鑑三のローマ書の研究(教文館)も買って読み始めました。その中に、以下のようなことが語られていました。

『…パウロは実にこの善き音信のために選ばれたのである。神の怒りの器としてではない。神の刑罰を世に伝うる使者としてではない。…歓喜をもって始まり歓喜をもって終わるはこの書である。その中に罪の指摘がないではないが、これ光明に到達せんがための前提たる暗黒であって、決して暗黒をもって終わるところの暗黒ではない。恩寵はこの書の基調である。…p38』

そして、ローマ書そのものに耳を傾けますと、1章18節以下で罪について厳しく語られる前に、神に愛されている人々、召された聖徒たちに対する愛と祈りが溢れている挨拶文に続いて、義人は信仰によって生きる。義は信仰に始まり、信仰に進ませる。という神の圧倒的な恵みが語られています。

主の十字架の上で祈られた祈り『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』も、悔い改めに先行する神の圧倒的な恵みを指し示しているのではないでしょうか?

いつの時代でも、神の言葉そのもの、恵みそのものであられる主イエス・キリストによらなければ、人は自分がまぎれもない罪人、邪悪な主体、傲慢と虚偽と怠惰に満ち溢れて神に反逆する罪人、殺神者であることを認識し、神にあわれみを乞うことは不可能だと私は考えます。 Posted by 野町真理 at December 10, 2004 00:35

あと、放蕩息子のたとえについて、再考していました。

しばらく前の説教原稿を見て頂けると、私が恵みによって罪を語っているということがわかって頂けるのではないかと思います。

http://shinrinomachi.at.infoseek.co.jp/message3.html

Posted by 野町 at December 10, 2004 00:45

 私が言いたいのは、福音提示の順序をそれほど型にはめて考える必要はないということです。福音の本質、要点をしっかりとおさえて、臨機応変にコンテクスチユアライズすればよいと思います。福音を語り聞かせるべき相手が置かれた状況というものがあるでしょうし、性分もあるでしょうし、時代も文化もあるでしょう。個人伝道ならば、その時のちょっとした話題から入りますから、実際のところ順序はいろいろです。それに応じて、福音を語るということになる。  ただ福音の内容は、変えてはいけない。  イエス様は出会った人々に対して、臨機応変に宣教をなさった。  論理的順序からいえば、神―罪―キリスト―救い(信仰)となるでしょうが、「福音提示の順序」ということになると、あるいは福音を受け取る側の「納得の順序」からいえば、かならずしもこの順序とはかぎらないでしょう。また、最初の「神」というところで、神様をどういうお方として紹介するかもいろいろありえるでしょう。    四つの法則のように『神の愛』から始め、その神の愛に背を向けた人間ということから罪に言及する。  あるいは神がルターを取り扱われた摂理の順序では正義の神から始め、神の聖なる怒りの対象としての人間の罪について語るか。  あるいはパスカルのように「神なき人間の悲惨」をまず悟らせて、次に『神とともなる人間の至福」を語るか。  神概念が不明な日本人には、神は創造主であるというところからはじめるほうが有効だと思ったりもします。そして、創造主に背を向けた被造物としての罪に言及する。  どれでもよいと思います。個人のたましいに対する扱いということでいえば、ニコデモに対するイエス様の伝道の順序、富める青年に対するそれ、サマリヤの女に対するそれ、ザアカイに対するそれ、ツロ・フェニキアの女・・・と順序はいろいろでしょう。そして、富める青年のばあいなど、あえて結論までいたらず、中途で本人に考えさせるところでとどめられることもある。ザアカイのように赦された愛された恵みのなかで悔い改めが起ってくることもあれば、ツロ・フェニキヤの女のように突き放された中で見事に信仰を働かせることもあるし、自己満足していた富める青年みたいに突き放されて悩みのなかに放り出されることもある。(きっと後日、己に罪を認め恵み知ったでしょう)。でも、どういう場合でも、神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰という要点は外されない。これが大事でしょう。  ところで、 放蕩息子に関する感動的な詩文的小説が、次のところに掲載されています。www.pinky.ne.jp/~butapenn/tan_cross.html Posted by mizukusa at December 10, 2004 09:53

水草先生、続けてコメントを下さって感謝します。

福音提示における、変えてはならないところと大胆に変えるべきところ。 非常に大切な点を教えて頂いて感謝します。

ニーバーの祈りを祈りつつ、クリスマスに向けての一つ一つの集会における御言葉の奉仕をさせて頂きます。 Posted by 野町 at December 10, 2004 23:33

すいません。水草先生が、このBlogをお教えくださったので、飛び入りします。人間の罪からか神の恵みからか、と言うある意味大胆な問題提起は興味深いと思います。ただ、結局のところ、神観、神論に行き着くように思います。放蕩息子のお兄さんは、どうして弟を歓迎出来なかったか。非常に常識的反応をお兄さんはしました。それは父親とずっと一緒にいた自分の置かれている境遇の素晴らしさに気づいていなかったからでしょう。そして、イエス様は、まさにパリサイ人、律法学者たちが実は神を知らないことを教えるために語ったたとえばなしだと理解しています。つまり、神の義と神の愛とをどのように理解し、どのように伝えるかが重大かと思われます。 すいません。少々、相当外れたことを書いたかもしれません。 Posted by 伊藤明生 at December 14, 2004 12:37

 田舎に来て大きな発見は、都会の人々はすぐに弟息子のことがよくわかるのに、田舎の人々は弟息子はだめなやつだと思ってしまうということでした。

 なぜか。田舎の人たちはみな家と墓を守るために都会に出る夢を捨てた長男と、その嫁さんたちであるからです。次男や三男が、たまに家族大挙して帰省すると、それこそイナゴの襲来のごとく食べたいものを食べ、「田舎はいいね。自然が豊かで、のんびりしてて。」とか言いたいことを言う。その上、じいちゃん、ばあちゃんは、日ごろ身を粉にして働いている嫁さんには「ありがとう」の一言もないくせに、たまに帰ってくる次男、三男の嫁にはニコニコ顔で、こずかいなどやっている。不満げな長男夫婦には、「おまえたちには家も畑もやれたけれど、次男、三男には何もやれなかった。かわいそうだ。」という。・・・とまあ、この「放蕩息子のたとえ」の長男の気持ちがそのままです。だから田舎の人は、なかなか放蕩息子に共感できません。

 これは「ありときりぎりす」の話ですね。「ありときりぎりす」の主題は、「勤勉と傲慢」ということだと、以前、なにかで読んだことがあります。勤勉な人は傲慢・情け知らず(アストルゴス)という罪に陥りやすい。ローマ書も、1章でまずきりぎりす型の罪人、2章であり型の罪人が出てきますね。

Posted by 水草修治 at December 14, 2004 18:04

野町です。モデムが故障してしばらくインターネットが使えませんでしたが、今日やっと復旧しました。

伊藤先生、水草先生、大変興味深いコメントをありがとうございます。

神学校の卒論で書いたルカ15章についての内容をもう一度思い出しました。以下卒論からの引用です。

http://shinrinomachi.at.infoseek.co.jp/ch5.html#lk15:20

ルカ15章のたとえが語られた背景

 15:1―3節の文脈に、イエスがこのたとえを話されたきっかけが書かれている。またそこには、誰に対してイエスがこのたとえを語られたのかということも明記されている。

15:1 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。 15:2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」 15:3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえ(単数形=一つのたとえ)を話された。

 取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして近寄って来たその時、それを見ていたパリサイ人、律法学者たちがイエスに「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」とつぶやいた。そうつぶやいたパリサイ人、律法学者たちに向かって、イエスは以下の3つのたとえ(羊のたとえ、銀貨のたとえ、息子のたとえ)を話されたのである。彼らはちょうどたとえの最後の部分に登場して父親を非難する兄息子のようである。彼らはイエスと共に喜べないでイエスを非難したのである。

たとえの内容

 一見するとルカ15章には、羊のたとえ、銀貨のたとえ、息子のたとえという3つのたとえが書かれているように見える。しかしこれら3つのたとえは関連した1つのたとえであると解釈することができる。たとえという単語(テン パラボレン)が単数形で書かれていること、3つのたとえがいずれも、パリサイ人や律法学者たちに対して語られていること、そして3つのたとえが以下のような共通点を持っていることが、このことを裏付ける根拠である。

3つのたとえ(羊のたとえ、銀貨のたとえ、息子のたとえ)は、以下のような共通点を持っている。

 1、3つの失われたもの(羊、銀貨、息子)

 2、3つの回復されたもの(いのち、価値、関係)

 3、3つの歓喜:失われたものが見つかることによってわき起こる非常な喜び    (天に、神の御使いたちに、父に)!

   神の前に失われたものが見つかること(回復されること)を非常に喜ばれる神!

 4、悔い改めて、イエスと共に喜ぶことへの3度の招き: 「恵みを知って、わたしといっしょに喜んで下さい!」

 しかし、3つのたとえはまったく同じことを語っているわけではなくそれぞれ以下の事柄に焦点をあてて記されていると思われる。羊のたとえではいのちの回復という側面、銀貨(ドラクマ)のたとえでは存在価値・使命(目的)の回復という側面、そして息子のたとえでは関係の回復(子どもとして下さること)という側面がそれぞれ強調されていると思われる[23]。今回は、スプランクニゾマイが用いられている放蕩息子の父のたとえに焦点をあてて考察する。

 おそらく救いという概念において、最も豊かな表現は、信仰によって「神の子どもとされる」ということではないかと考える。なぜなら神の子どもとされる時、そこには三位一体の神との関係の回復があり、神を「天のお父さん!」と呼ぶことの出来る身分とされ、神の持っている豊かなものをすべて共有することが出来、神に似た者とされていくからである。

 森彬が指摘しているように、このたとえには以下の二つの集中構造があると考えられる[24]。放蕩息子のたとえの中心は、明らかにスプランクニゾマイによって表現された父親の法外な愛である。

<集中構造1―放蕩息子の父のたとえ> ルカ15:11−32 A「あなたのものを私に」(弟が父に)

 B弟の家出

  C放尽

   D飢えに苦しむ弟

    E豚飼への零落と人々の冷遇

     F父へのざんげ(決意として)

      G父の所へ出かける子

       H息子を見つけて、深くあわれむ父(核)(←スプランクニゾマイ

      G‘走り寄る父

     F‘父へのざんげ

    E‘子としての復権と父の厚遇

   D‘「食べて楽しもう」(父が弟息子に)

  C‘蕩尽(兄が言及)

 B‘弟の帰還(兄が言及)

A‘「私のものはお前のものだ」(父が兄息子に)

<集中構造2―放蕩息子の兄> ルカ15:24−32

A生き返り、見つかった弟

 B開かれる祝宴

  C帰還した弟(これまで父と別居)

   Dほふらせた肥えた子牛

    E孝行息子(兄)

     F兄の不服の申し立て(核)

    E‘放蕩息子(弟)

   D‘ほふらせた肥えた子牛

  C‘兄(いつも父と同居)

 B‘開かれる祝宴

A‘生き返り、見つかった弟

スプランクニゾマイについて(誰の何に対して用いられているか?) 15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。 ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、 かわいそうに思い(スプランクニゾマイ)、走り寄って彼を抱き、口づけした。

 ここでスプランクニゾマイは、父が遠くに帰ってきた放蕩息子を見つけた時の思い、つまり失われた息子を見出した時の父親の歓喜を表わしていると考えられる。放蕩息子の父親に対して用いられたスプランクニゾマイは、前後の文脈に共通して見られる喜びという調べから、失われていた息子を見つけた時の心底からの歓喜を表現するという意味で、痛みではなく喜びのニュアンスを持つと理解したほうがよいと思われる。「走りよって彼を抱き口づけした」という父親のその後の行動からも、喜びのニュアンスを感じることができる。フィリップ・ヤンシーは、中東で立派な人物は決して走らず威厳を持って歩くということに言及し、このイエスの話の父親が、長い間いなくなっていた息子を迎えるために「走った」ことは、聴衆にとって息を飲むほどの衝撃であったことを指摘している [25]。

 ここに自由な赦しの愛により、再び子どもとして受け入れられる恵み・関係の回復を見ることが出来る。そして、先行する大きな父の愛・恵みを知る(体験する)ことが、息子を心からの悔い改め、罪の自覚と真摯な告白へと導いたと考えられる。放蕩息子の信仰による悔い改め(方向転換)が父の恵みを体験する鍵になっていることも見逃すことが出来ない事実である。

 以下にJ・シュニーヴァントによる、このテキストにおけるスプランクニゾマイについてのコメントを引用する。

『さて、かくして、息子は帰っていった。異国でかれを帰省にかりたてたもの、それは父の家の思い出であった。かれは父を心に思ったゆえに、あるがままの姿で、そのもとへとあえて帰っていったのである。かれがほんとうに帰ってゆく、まさにその時、かれに先立っていたのは父の愛である。父はただ息子を遠くから認めただけで、心をいためた。人はこのことばが物語りの一番初めにこなくてはならないと考えるかもしれない、「息子が父親からはなれてゆくとき、父は心をいためる」と。けれど、そこにはなくて、ここに、息子が帰ってきたところに初めて、このことばが語られている。ここでもやはり旧約のことばが思いおこされるのである。「わたしの心は彼をしたっている。わたしは必ず彼をあわれむ」(エレミヤ31:20:口語訳)、「わたしはしばしあなたを捨てたけれども、大いなるあわれみをもってあなたを集める」(イザヤ54:7:口語訳)と。ルターが「哀れに思った」(es jammert eihn)と訳した、憐れみについてのこのことばは、ヘブル語でもギリシャ語でも心の内奥が動かされることを意味している。まさに、神から迷いでたものの救いなき姿こそ、神の心を動かすのである。イエスのみことばにおいておなじことば(スプランクニゾマイ)が「ゆるさない僕のたとえ」(マタイ18:27)にもあらわれてくる。そこにもまた、負債をおった者にたいする王の憐みがしるされている。さらに福音書には、多くの個所で、イエスご自身の憐みを描くことばが用いられている。イエスは、民衆の困窮をごらんになり、彼らを飼う者なく、見すてられ散らされた羊の群れにたとえられ(マタイ9:36)、民のまた個々人の外的・内的な苦悩を抱擁されるのである(マルコ6:34、マタイ20:34、ルカ7:13)。それはイエスの憐みのなかに反映している神の憐である ―そして、迷える者の苦悩のところを尊大ぶって通りすぎる敬虔な者たちには、まさにこの憐みがかけているのである。』[26]

 ここでJ・シュニーヴァントが指摘しているように、スプランクニゾマイという言葉は、息子が父のもとを去っていく時ではなく、あわれな姿で家に帰って来るのを見たときの父の心の動きとして語られている。これは、父のもとを去っていく時の父の心の内が、なすがままにさせる(引き渡す)という意味での怒りであったことを示唆しているように考えられる(ローマ1章参照)。「おやじ早く死んでくれ!」というような態度[27]で父親から相続財産を受け取り、家を出て行こうとする息子に、父親は「おまえの好きなように、勝手にしなさい!」という怒りの態度を持って引きとめることをしなかったと思われる。神は高ぶる者に対しては敵対し、へりくだる者には恵みとあわれみを注がれる方であることが、この文脈から理解できる。

Posted by 野町真理 at December 14, 2004 23:05

実は、今学園のチャペルでイソップ物語シリーズをしておりまして・・・つい先日「アリとキリギリス」と題して放蕩息子をしたばかりでした! すいません。野町先生の立派な論文からの抜粋のあとに・・・ Posted by 伊藤明生 at December 15, 2004 18:00

私もイソップ物語を改めて読んでみようと思います。 Posted by のまちゃんこと野町 at December 15, 2004 22:43

福音提示の仕方;臨機応変であると思う。福音がまずあってという自分自身の内側のものがしっかりしてれば。私の問題にするのは、手順や、文脈化や、でなく、説教者自身の信仰そのもの、福音理解、悟り、俗に言うと本物の語り手になっているかです。むろん、憐れみ深い神様は不十分な器を用いても語って下さるが、いつも甘えてはいられない。ただそういいつつ、本質論を優先してる自分に甘えていく傾向があり、釈義や手順や、文脈化をしっかりふまえた説教を聞くと、それはとてもいいと思うものです。 Posted by 下川友也 at December 16, 2004 07:45

「あなたの息子のためには・・・」と言い募る兄息子に対して、父親は「だが、おまえの弟は、死んでいたのが生き返ってきたのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」(Lk15:32)と言うのですが、それが当然でなくなっているところが、蟻的人間の心の闇なのでしょう。

 もうだいぶ前のことですが、うちの子が小さいとき、「ありときりぎりす」の話をしてやったあと、どんなふうに思った?と質問をしてみると、「ありさん、きりぎりすさんにご飯をあげればよかったのに。かわいそうだ。」と答えました。これが神様の当然の答えなのでしょう。

 でも、わたし達が小さい頃から教わってきた、イソップの尻尾には、むしろ兄的な「教訓」がついていたように思います。イソップがどちらを意図したのかは、知りませんが。やっぱり、アダム堕落以来、人間は自力救済主義、律法主義者になってしまっているのでしょうね。

 信州の米を集めて山谷・新宿の生活困窮野宿者のために炊き出しをしている兄弟がいて、「通信小海」でもほんのちょっぴりお手伝いしています。ですが、やっぱり、「働かざる者食うべからずだ」という意見も常にあります。とはいえ、今年1月から11月までで7万食以上給食するための必要は満たされましたから、感謝なことです。 Posted by 水草修治 at December 16, 2004 08:17

 どうして、あの真面目な兄はこのような冷酷な心になってしまったのだろうか。  32節「(お前の)弟が帰ったのだから喜ぶのは当然ではないか!?」と父親は言う。けれども、兄には、その当然の愛、自然的な愛がなくなってしまっている。父は兄に対してなにも高尚な愛を求めているのではない。「汝の敵を愛せよ」と言っているのではない。自分の弟、幼い頃から生活を共にしてきた弟、幼い日に一緒に遊んだ弟、お前の血のつながった弟、その弟がやっと帰ってきたのだから、喜ぶのは当然だ、自然のことだというのである。しかし彼は「情知らず」になっている。「情知らず」とは自然的情愛の欠如のことである。

 ローマ1:31で「情知らず」ということばについて、高橋三郎さんは注目すべきことを述べておられる。「『自然の情愛にかけている』(アストルゴス)の背後にはストルゲーという、たとえば親子の間に見られるような、生まれつきの愛情を表現することばがあり、これが欠如している人、つまり人間らしさを失っていることが、ここで指摘されているのである。律法的宗教人にこういう類型の人がよく見かけられる。」(ロマ書講義)

 どうやら兄の行き方そのものの原理が、彼を自然的な情愛さえも欠落した人格としてしまったのである。それは律法主義的な宗教である。兄は言った、「私は戒めを破ったことは一度もありません。」まさに彼は律法的宗教人であった。 Posted by mizukusa at December 16, 2004 08:50

イソップの『アリとキリギリス』にはいくつかヴァージョンがあります。基本的に日本版の「アリとキリギリス」では、最後にアリがキリギリスにご飯をあげるものだと思いましたが。さらに興味深いことに、イソップの『アリとキリギリス』は元来『アリとセミ』で、山口陽一先生が見せてくださいましたが、キリシタン版ではまだ「アリとセミ」のままでありました。セミがキリギリスになったのは、ドイツ版からのようであります。 ところで、俗称放蕩息子のたとえばなしでありますが、真面目で良い子のお兄さんも、結局は心の底では放蕩息子と同じであり、しかも心奥底の自らの真の姿を知らないところに、放蕩息子よりも「救いがたい」ことが暴露されているように思えてなりません。 罪か恵みか、律法か福音かと言うよりも、真の神を知るとき、人は自らの罪深さを知らされるし、罪深い自らを愛して止まない神の恵みをさらに知るようになると思います。  Posted by 伊藤明生 at December 16, 2004 10:58

戦後から1997年4月までに出版された「ありときりぎりす」のうち、ありがきりぎりすに食べ物を分けてやらなかったが65冊、分けてやったが31冊、どちらかわからないが11冊だそうです。ネットでみたら、そんなことが分かりました。ありと蝉のことも書いていました。 Posted by 水草 at December 16, 2004 15:39

下川先生、水草先生、伊藤先生、コメントありがとうございます。

説教者として大切なことを教えて頂いて感謝です。

ありときりぎりすにもいろいろあるんですね。

きりぎりすのような弟を大喜びで迎える父の姿を見たありのような兄は、 「えーっ!そんなのあり?」^・^って感じだったわけですよね。

ところで、今日洗礼準備会の中で、「収入を得るために必要な条件」について一緒に学びました。

私が考えるに、収入を得るために必要な条件が4つあります。

それは、一に健康(いのち)、二に職場(仕事)、三に能力、四にやる気、です。

四つのうち、どれが欠けても収入を得ることが出来ません。そして四つとも神からの賜物です。

これらの恵みを理解しないと、自分の力でお金を稼ぐことが出来、自分が家族を養っていると勘違いし、神に感謝をすることもなく、自分を誇る生き方をしてしまうでしょう。

そして、神のものを神にお返しすることをせず、神のものを盗む(十分の一献金をしない。自分自身を神にささげて神のために生きる礼拝生活をしない)という罪人の歩みをすることになります。

ありのようなお兄さんは、まさにこれらの恵みを恵みとして理解できなかった故に、自己義認の道をひた走り、あわれみや優しさを失っていったものと考えられます。

でも、恵みをあたりまえのように考え、なかなか恵みを恵みとして理解することの出来ない自分の鈍さを覚えます。

主よ。あなたの溢れる恵みを恵みとして捉えることが出来る者にして下さい。 Posted by 野町真理 at December 16, 2004 22:42

 いや、パリサイ的宗教の問題の深刻さは、神に感謝もし、熱心に十分の一もささげていることによって、いよいよ自己義認の蟻さんになってしまうという点にあるのではないですか。「神よ・・・感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」とパリサイ人は祈りました。イエスさまは、彼は義と認められないとおっしゃいました。義とされたのは、己の罪を悔いている取税人でした(ルカ18:9-14)。  ただ感謝していれば良い、十分の一をささげていれば良いというものでもない。神様は私たちが自分でも気づいていない、その心の深みをごらんになる。 Posted by mizukusa at December 18, 2004 10:56

水草先生のご案内メールにより乱入いたします。恵みか罪か、について違う角度から。

1つ。「罪(恵み)がわかれば、必然的に恵み(罪)が分かる」といえるかどうか。 バニヤンは「罪意識にさいなまされた(罪がわかった)が、恵みがわからなかった」的なことを言っていたようですが、どうでしょうか。とりうる可能性としては P=罪がわかる, P'=罪がわからない, Q=恵みがわかる, Q'=恵みがわからない.として、 P→Q 罪がわかるので、恵みがわかる。(よくあるクリスチャン1) P→Q' 罪がわかるので、恵みがわからない。(罪はわかっても恵みがわからない) P'→Q 罪がわからないので、恵みがわかる。(罪がわからないのに恵みがわかる) P'→Q' 罪がわからないので、恵みがわからない。(野町先生の命題1) Q→P 恵みがわかるので、罪がわかる。(よくあるクリスチャン2) Q→P' 恵みがわかるので、罪がわからない。 Q'→P 恵みがわからないので、罪がわかる。 Q'→P' 恵みがわからないので、罪がわからない。(野町先生の命題2) これらの図式が正しいかどうか検討の余地ありですが、人間の認識は多様だと考えます。「罪(恵み)がわかっても、必ずしも、恵み(罪)がわかるわけではない」状態はありますよね。

2つ。ルカ15:17から。弟は「我に返って」→「恵みがわかった」→「罪がわかった」という記述になっています。これを規範的にみるか叙述的にみるかは課題としても、ともかく「恵みが先か、罪が先か」という問いに対して「我に返る方が先」という解もあり得るのではないでしょうか。一方兄は「我に返っていない」状態が続いています。

c)  Posted by itaru ohsugi at December 18, 2004 16:09

(完成前に送信してしまいました。すみません) 3つ。これらから、罪認識や恵み認識の前段階があるのではないでしょうか。そしてそれは本人に何らかの気づきを与えること。でそれが福音の提示になるのではないでしょうか。 X→気づき→(恵み認識、罪認識)→応答。 Posted by 大杉至 at December 18, 2004 16:18

野町です。

そうですね。パリサイ人が祈った祈りの内容を見ますと、ちゃんと神に感謝し、十分の一をささげていますと祈っていますね。

それでもイエス様はパリサイ人を義とはお認めになれなかったのですよね。

自己義認の根は、人の手によっては決して取り除くことが出来ない悪性の腫瘍のように、心にはびこってしまうものですね。

でも、人の心の中をすべて知っておられる主が、そのようなどうしようもない心の中に入って下さり、私たちを内側から新しい人に造り変えて下さるために、クリスマスに来て下さったことを覚えて感謝します。

主よ。この罪人をあわれんで下さい。 Posted by 野町 at December 18, 2004 16:26

 大杉先生。L.ベルコフのordo salutisによると、「御霊の説教における外的召命は、・・・新生命の発生における聖霊活動に先行するか、または結合する。かくて神は創造的行為によって、たましいの内的性向を変更しつつ新生命を発生したもう。これが、ことばの厳密な意味における再生である。そこにおいては人間をして、自己のたましいの救いに神の招きを聞かせしめうるところの霊的聴覚が植え付けられる。霊的聴覚を受けたゆえに、神の招きは今は心に有効的に招来され、したがって人間は聴き服従するのである。この有効召命は、ついにたましいの中に生じている新しい性向の、初発の聖なる働きを確証する。新生命は自現し始めて、新しい誕生を起こす。」(改革派神学通論p264)  これにのっとってあえて説明すれば、「我に返った」というは聖霊活動による新生命の発生のことなんでしょうね。あの息子の場合、外的には神の摂理のなかで与えられた苦難と、内的には聖霊活動によって、新生命が発生し、彼はついに我に返ったという説明になりますか。  実際、多くの人の救いの証を聞くと、多くの場合、ある(摂理による)出来事をきっかけに(ひそかな聖霊活動があって)我に返り、それまで馬耳東風だったみことばが自分に対する神からのメッセージとして聞こえてきて救われたというのではないでしょうか。私自身もそうでした。

Posted by mizukusa at December 18, 2004 18:16

大杉先生も乱入して下さって感謝です。

我に返って、向きを変え、家路への道を歩み始めること。

それはまさに聖霊なる神の先行する恵みですよね。でも、この時点では、まだ神の懐の大きさといいましょうか、父の恵みの深さを知ることができていません。でも、確実に父の恵みへと導かれています。

そして、まだ家までは遠かった時、予想外のことが起こりました。それほどに愛を注いで下さる父を知らされた時、おそらくハンマーで殴られたかのような、衝撃的な神の恵み体験があったものと私は考えています。

Posted by 野町真理 at December 19, 2004 23:10

マタイ福音書5章20節はたいへん興味深い箇所ではないでしょうか。 微妙な釈義上の課題だとは思いますが、ギリシャ語の表現からすると、イエス様は、パリサイ人、律法学者にも某かの義があることを認めていると解釈できると思います。取税人とパリサイ人の祈りとは少々異なる評価をかいま見る気がしますが、如何でしょうか。いずれにしても、パリサイ人とは、人間的にはたいへん善良な人々であることは間違いないと思います! Posted by 伊藤明生 at December 21, 2004 11:54

 パリサイ人に何がしかの義があるというのは、そのとおりだと思います。誰だったかが書いていましたが、イエス様が本気で相手にしなければならなかったのは、いかにも偽善者然とした戯画化されるような程度の低いパリサイ人ではなく、実に人間としてはきわめて良質・良心的なパリサイ人なのでしょう。たとえばニコデモやサウロのような。  しかし、いかに人として立派であっても、生き方の根本原理が違っており、その違いは実に致命的で危険だった。だからこそ、主イエスはマタイ伝23章で徹底的に彼らを非難しましたし、パウロもガラテヤ書において相当ひどいことばまで用いてユダヤ主義者を排撃しました。たしかに「サドカイ派のパン種とかヘロデのパン種にも警戒せよ」とは言われましたが、彼らは主の道とは大きく外れていたので、かえってそちらに道をそれる危険性が少なかったのでしょうが、パリサイ派は一見類似して立派でしたから、危険性も高かったのでしょう。  類似というのは、パリサイ派は世界観としては超自然主義的で、復活や御使いを認めていたし、道徳観においてはローマ風の世俗主義に陥らず保守的であったというようなこと。けれども、両者の決定的な違いは、賜物としての義によって生きるのか、それとも自己義によるのかということ、御霊によって生きるのか、それとも肉によって生きるのかということだと私は理解してきました。  Posted by mizukusa at December 21, 2004 17:27

伊藤先生へ。何とも微妙な箇所をあげられました。

ルカ文書において、「パリサイ人」はまれに肯定的に描かれています(L14:31、A5:34-39、A23:9)。マタイ伝においても、必ずしもすべての「パリサイ人」が批判材料とはされていないのではないでしょうか。つまり「パリサイ人」が登場したからといって即、断罪の対象として理解することは誤解を生じると思います。 一方、(どちらかといえば肯定的に理解されてやすい)バプテスマのヨハネに対しても、批判的に描かれている箇所があります(Mt9:14, 11:3-6, 11:11)。だからといってバプテスマのヨハネを批判的に受け止める方はあまりおられないと推測しますが、いかがでしょうか。

このような点を考慮すれば、水草先生の「良心的パリサイ人の危険性」は、その意図は理解しますが、聖書解釈において的を射ているかどうか、クエスチョン・マークです。

マタイ伝において5:20と類似したような表現は23:2-3にあります。「律法学者やパリサイ人たちはモーセの座に座す。それゆえ彼らがあなたがたに言うことすべてを行ない、守れ。だが彼らのわざに従って行うな。なぜなら彼らは言うが行わないから。」 今日の教会にとって、これが該当する可能性が高いのは「牧師また教師」ではないでしょうか(自戒の意味を込めて)。 Posted by 大杉至 at December 21, 2004 18:37

ついでに気になっていること。 マルコ2:18-22の皮袋問答では、三つのグループが出てきます。すなわち、パリサイ人、ヨハネの弟子たち、そしてイエスの弟子たち。ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちは、一見すると、断食をするという点で類似していましたが、内実としてはヨハネはモーセの律法と旧約預言者の流れを引く悔い改めの正統な宗教であり、パリサイ人は自己義に満足する正統から外れた律法宗教といえるでしょう。主イエスの弟子たちは花婿の付き添い人としての義とされた喜びの信仰で、これはモーセ・預言者の正統を引きつつ、これを超えた信仰です。  主がヨハネは女から生まれた者のうちで最も偉大な者であるとおっしゃいましたが、この「女から生まれた者」とは旧約的宗教を意味していると普通理解されるでしょう。旧約の信者が女から生まれた者であるなら、新約の信者は神から生まれた者ということでしょうか。  ガラテヤ書の3章から4章にかけての養育係りとしての律法、それは4章3節で「この世の幼稚な教え」と受けているようにも見えます。注解者は、これを区別するようでもありますが。・・・このあたり、整理しておきたいところ。  ごちゃごちゃメモでごめんなさい。ごはんなので、また。 Posted by mizukusa at December 21, 2004 18:45

 大杉先生があげるルカ文書の件の個所はいずれも、パリサイ人について「肯定的」と確定できるほどの個所ではありませんし、バプテスマのヨハネに対して「批判的」と確定できるほどの個所でもないと思います。

 緻密な読みをして独自の読みをしたい解釈者は、「パリサイ人」だからとレッテルを貼って類型的な読みをすることに批判的でしょうが、福音書自体がレッテルを貼って類型的な読みをすることを要求しているのではないですか。主イエスが「パリサイ人のパン種、サドカイ人のパン種」と類型化しています。それは、どんなパリサイ人であれ――チンピラであれボスであれ――彼らがある共通の原理に立っているからです。ですから、まずは大づかみに「パリサイ人とはなにか」を捕らえて色づけた上で、個々のパリサイ人の微妙な色合いのちがいを出すというのが、聖書解釈の正道だと思います。これを逆にすると、的を大きく外します。それは個人が趣味としてやっている分には、大きな害はないでしょうが、説教者が行なうと実害が大きいといわざるを得ない。

 具体的にいえば、大づかみにはどうみても主イエスはパリサイ人に対して非常に手厳しい。「まむしのすえ」と怒鳴りつけるほどに手厳しい。これをしっかり理解した上で、立派そうなニコデモだのガマリエルだのいるじゃないか、では、なにが問題なのか?「立派そうに」見えてもなお根本的に問題なのはなにか?こういうふうに捕らえてこそ、その問題性の深みの理解ができるでしょう。そうでないと、単に「結構立派じゃん」、「ある程度肯定的に書かれている」という上っ面をなめるに止まるでしょう。

 ヨハネについては、旧約聖書の総まとめの預言者でありメシヤを見た旧約唯一の預言者としての偉大さと、旧約の預言者としての限界と両方を押さえることが大事だと思います。新約との連続と非連続。

 森を見て木を見ざるよりも、木を見て森を見ざることをこそ恐るべし。特に説教者であれば。  またまた断定的に書いてしまいましたが、なお反論があればどうぞ。   Posted by Miz at December 21, 2004 22:28

訂正 誤L14:31 正L13:31。失礼しました。

こちらに新たに掲示板を立てました。 ツリー式ではありませんが、誰でも項目ごとに投稿できます。また各項目に対しても返信ができます。 もしよろしければこちらでどうぞ。 http://cgi36.plala.or.jp/inabible/sdg/theology.cgi

Posted by 大杉至 at December 21, 2004 23:31

キター!!!!!!

野町です。

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから!」

この言葉は、マタイ福音書によると、バプテスマのヨハネが語り、そして主イエスが語っておられるメッセージの要約です。

悔い改めなさいということは、まさに自分を基準とすること、つまり自分を神とする自己義な生き方を止めて、神を基準とすること、つまり神を神とする信義な生き方を始めなさいということですよね。

そうしなければ、本当に神の国が来たなら(主が再臨なさったなら)、自己義はスーパーフリーズ(The Day After Tomorrow)して、究極的には永遠の滅びに至るからです。

罪とか自己義認、あるいはパリサイ人の生き方を突き詰めますと、やはり創世記3章に至ります。

そこでは、善悪の知識の木の実を食べるということが、罪であることが語られています。

善悪の知識の木というのは善悪の基準であると私は考えています。

つまり、

●善悪の知識の木の実を食べない=神を基準として生きる。⇒神を信じ、神を信頼して生きる⇒信仰義認と神礼拝、そして永遠のいのちに至る。

●善悪の知識の木の実を食べる=神を基準とすることを止めて、自分を基準(神)として生きる。⇒自己中心に長さが変わる基準によって生きる⇒同じことをしていても自分は悪くないが、他者がするととても悪いことになる。⇒自己中な歩みの中で、自己義認と自己崇拝、そして永遠の滅びに至る。

Posted by 野町 at December 22, 2004 10:04

私が、バプテスマのヨハネを議論に加えたのは、やぶ蛇でした。お詫びして撤回します。

>まずは大づかみに「パリサイ人とはなにか」を捕らえて色づけた上で、個々のパリサイ人の微妙な色合いのちがいを出すというのが、聖書解釈の正道だと思います。 という水草先生の意見に対して、賛成部分と反対部分があります。

1.福音書が「パリサイ人」を類型化している、という水草先生の意見には同感です。 2.ただし類型化されているとはいえ、その範囲には読者によって相当な温度差があると思います。 3.「類型化されたもの」を固定化して聖書を読むことの危うさもあるのではないでしょうか。確証バイアスに陥ると思います。つまり、そう見えるものは、やっぱりそう見える、ということで。

 読者が「パリサイ人」に対してある特定の読みをすることを著者がある程度意図しているというのは妥当でしょう。けれども、やはりその箇所ごとの役割を決定するのは、文脈となり談話であって、ひとつの単語やキャラクターだけではないと思います。マタイ5:20で「律法学者やパリサイ人の義」とイエスさまが言っているのは、「律法学者やパリサイ人」という言葉にある種の批判が込められている(かもしれない)としても、だからといってここで徹底的に「パリサイ人」の息の根を止めてからでないと5:20を語れない、というほどのことでもないと思います。マタイ5:20の箇所の解釈については、今は逃げます。すみません。  横道にそれますが、使徒5:34のガマリエルの役割は(もちろんそれが史実であることは言うまでもありません)、いわば敵対勢力の勝手な言動でさえも、神は宣教のみわざとして用いられることもある(使徒18:12-17のアカヤ地方総督ガリオ、使徒19:35のエペソ町書記役、使徒21:31-36や 23:19-25のローマ軍千人隊長など)ということを言いたいが為でしょうし、二義的には使徒22:3でパウロの弁明を補強するための伏線もあると思います。  それゆえ説教として言えることは ○「神は全世界の主であり、宣教の主である。教会が宣教するときに、敵対勢力の身勝手な言動さえも、神御自身の目的のために用いられるお方である」であって、 ×「パリサイ人だからといって、一概に悪く言うのは止めよう」(私はこんなことは言っておりません)とか、 ×「ガマリエルの言動こそパリサイ人の鏡であるが、彼はまさしくパリサイ人であるがゆえに、その本質は自己義認であるから、このガマリエルの発言に潜んでいる常識人ぶった偽善者の罪深さを見つけなければならない」でもないと思います。  一方ルカ18:10-14のパリサイ人の自己義認に対しては、徹底的に批判すべきでしょう。もっともそれはパリサイ人を批判するためではなく、教会の偽善者(その中に大杉至が隠れている。こういう書き方が既に偽善ですが)に対する批判であることは9節と14節からわかります。

 果たして「パリサイ人」は自己義認者の典型として描かれているのでしょうか。多数決で決めるなら、そうかもしれません。けれども本当に、そのように類型化することが正しいのか、私にはクエスチョン・マークです。自己義認者として描かれている箇所では、自己義認者としての役割がある。けれどもはっきりとそう描かれていない箇所のパリサイ人にまで、自己義認者としてレッテルを貼る必要はないと思います。誤解されては困るのですが、別にパリサイ人を弁護する意図はありませんし、人間の善性を擁護するつもりでも、全くありません。類型化によって、(解釈ではなく)読み込みがなされるのではないか、その点を危ぶんでいるのであります。

>森を見て木を見ざるよりも、木を見て森を見ざることをこそ恐るべし。  同感です。ただし「森」を見ても、では果たして如実に森を見ているのかどうかは疑問です。私達が見ているのはあくまでも、自分の認識における(バイアスのかかった)「森」でありましょう。ですから個々の木々を見ることによって、「森」の見方も多少は変わることもあり得ると思います。とんちんかんな事を言っているかもしれませんが。とんちんかんになったついでに。「油」という単語を見ると機械的に「聖霊」と読み替える方々が時々おられますが、私はそのような読み方に対してクエスチョン・マークを付けざるを得ません。横道にそれました・・・

・図式化すると、 【パリサイ人】…著者の意図にある類型化された「パリサイ人」。 『パリサイ人』…我々が想定する類型化された「パリサイ人」。 <パリサイ人>…個々の箇所に登場する「パリサイ人」。

著者→【パリサイ人】→<パリサイ人a><パリサイ人b><パリサイ人c>…→『パリサイ人』→読者

【パリサイ人】と『パリサイ人』には、ズレや隔たりがある。 当初は素読や参考書などから『パリサイ人』を形成している。 箇所ごとの<パリサイ人>を精査することによって、『パリサイ人』を修正することができる。 そうすることで【パリサイ人】に『パリサイ人』が近づくかもしれない(あるいはかえって遠のくかもしれない)。 従って『パリサイ人』から【パリサイ人】を読むことはやむを得ないとしても、常に脆弱さがあるということをわきまえておくことが大切。

以上、私の趣旨としては、 1.「類型化されたもの」の類型化の妥当性に疑義。 2.「類型化されたもの」からの解釈と、その文脈の全体における共通項からの解釈と、そしてその箇所そのものの解釈とによって、複合的、摂動的になされる。

>単に「結構立派じゃん」 そういう趣旨のことを申している意図はありません。

>パウロもガラテヤ書において相当ひどいことばまで用いてユダヤ主義者を排撃しました ガラテヤ書で批判しているユダヤ主義者を、「パリサイ人」の議論に加えることは適切ではないと思いますが、いかがでしょうか。

こちらも断片的な議論をしております。批判をどうぞ。 Posted by 大杉至 at December 22, 2004 16:07

誤「文脈となり談話」→正「文脈とか談話」。失礼しました。 Posted by itaru ohsugi at December 22, 2004 16:29

大杉先生 先生のお答え、まったくと言ってよいほど同感です。格別、異なる意見は持ちません。ガマリエルの件もそう読むべきと思いますし。旅に出かける時はとりあえず大きい範囲を捕らえた地図で位置を確認し、次に細かいところまで捕らえた地図を使う。そして実際に出かけて見ると、地図には書いてなかった新情報があれば、それを書き加え、また、地図の情報が間違っているところは修正して行く、こうしてより正確な地図が出来ていくという、そんな作業を釈義において私たちはするんだと思っています。

 今、ややこしいなと思っているのは、ちょっと触れましたがガラテヤ書の「ユダヤ主義者」をどういう者として見るかということです。そこにエルサレム派とアンテオケ派の対立を見るような立場ではないにしても、パウロの批判が新約が(正しい意味での)旧約を乗り越えているということを主張している場面と、あやまった自己義認という意味での律法主義を批判している場面とがごちゃごちゃでたいへん難しいなあと感じています。

 それにしても、こういう話が離れていて出来るというのはおもしろいですね。まあ、これも日常的に貴兄と交流があることが前提なのでしょうね。それにしても、大杉先生はきちんきちんと読み、かつ考えていますね。  この場を提供してくださった野町先生に感謝。ただ、議論がすきかってな方向に私の場合行ってしまって、それを面白がっていますから、ちょっと交通整理が必要ですね。 Posted by mizukusa at December 23, 2004 08:17

こちらこそ。水草先生に挑んでも安心という信頼関係があって議論できることだと思います。信頼関係に乏しい相手や言葉の通じない相手には、よそ行きの言葉づかいにならざるを得ませんです。 交通整理が必要ですね。もしよろしかったら掲示板にどうぞ。 Posted by itaru ohsugi at December 23, 2004 11:46

 伊藤先生が取り上げたマタイ 5:20「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」でいう、「律法学者やパリサイ人の義」というものの内容は、文脈から素直に読めば、この節以降に続く文言において、天の御国の生き方と対比させられて語られるものでしょ。

『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』  『姦淫してはならない。』 『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ。』 『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』  『目には目で、歯には歯で。』  『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』 「人に見せるために人前で善行(施し、祈り、断食)をする」。

 これらは間違ってはいないけれど、その程度の義では天の御国未満だと主イエスはおっしゃる。この程度の義は、まことの神を知らぬ異邦人でも行なっていることだから。それが「某かの義」と解釈される。この種の義は、まさにルカ伝に見える取税人を軽蔑しながら、自分の敬虔さを賛美しつつ感謝したパリサイ人の祈りの姿そのものではないか。上述でいえば、7つ目。だから、格別、貴兄がいうような「異なる評価」はないと思う。 Posted by mizukusa at December 24, 2004 09:45

いやあ、マタイ5章20節っでこんなに盛り上がるとは予期しませんでした。 理想を言えば、木も森も大切だと思います。これがまさに「解釈学上の循環」とも呼ぶべきものでしょう。勿論、理想と現実は異なるは承知しておりますが! 「異なる評価」があるとは当方も思っていません。ただ、放蕩息子であると思っていた自らがいつのまにかお兄さんにすり替わってしまう危険を、足下の危うさを私なんぞは 感じてしまいます。取税人とパリサイ人の祈りで、イエスは救われ得ない者として胸を叩き、御前に項垂れている取税人が義とされると判断されます。マタイ5章では、御国に入るには不十分だけれども、律法学者とパリサイ人たちにも某かの義があることをイエスも認めています。救えないと項垂れていた筈の「放蕩息子」が、いつまにか自分には律法学者やパリサイ人にはない義がある、イエスが非難し、断罪しているパリサイ人、律法学者よりも自分が優っているのではないか、と錯覚に陥りそうで、実に怖い気がしてなりません。神の目、イエスの目には大きな相違が、人間のレベルでは、いとも簡単に超えうる差であることが怖くて仕方がない気がします。放蕩息子とお兄さん、取税人とパリサイ人。私たちが、仮にもパリサイ人や律法学者たちを見下すならば、律法学者とパリサイ人たちがまるで極悪人であるかのように、錯覚するとき、自らはさらに御前に救えない者としてしまう。罪人である自らが、恵みも罪も、いえ神ご自身を知ることの難しさを痛感します。神の恵みと神の義を知ることと、体現すること、教育することが困難であることを日々思い知らされております。神学議論を独白に堕してしまい申し訳ございません。 Posted by 伊藤明生 at December 24, 2004 16:31

今度は、やぶ蛇にならないように気を付けて論じます。ルカ18:9-14について。そして伊藤先生の議論に賛同するつもりで。  クラドックによれば、「この譬が、それを初めて聞く者にショックを与えたであろうことは疑いのない」。私もそう思います。イエスさまはしばしばそんな風に語っています。金持ちが神の国に入れない発言に驚愕する弟子達。十字架予告発言に驚愕する弟子達。こんなことの繰り返しとも言える。これらを読んでいても、何も驚かない我々も相当鈍感ですが。  もし説教者が、パリサイ人を悪人として語り、取税人を英雄として語ってしまえば、その説教はおそらく大失敗でしょう。むしろパリサイ人を徹底的に持ち上げておいて、「にもかかわらず義と認められなかった」、一方取税人を徹底的にこき下ろして「にもかかわらず義と認められた」とするのがテキストに沿った説教となるのでは。  とはいうものの既に多くの会衆が、ステレオタイプのパリサイ人と取税人として認知されている以上、いまさら持ち上げたりこき下ろしたりしても、新鮮なショックは期待できないと推測します。会衆が知っている「立派なクリスチャン」(例えば三浦綾子さんとか、マザーテレサさんとか)をパリサイ人に仕立て上げようと試みましたが、いろいろな意味で難しさを感じて結局やらずじまいでした。 「神よ、私がこのパリサイ人のようではないことを感謝します」(anonymous)という祈りに堕落しないように気を付けたい。 Posted by ohsugi at December 24, 2004 22:56

大杉先生の掲示板は問題ごと整理してあります。伊藤先生や、野町先生もどうぞ。私もガラテヤ書など教えて欲しいことがあります。 Posted by 水草 at December 24, 2004 23:02

 ルカ伝の文脈にこだわらず、教理として、義認と人間の主観的意識について考えていることをメモします。  第一に、なにより肝心なことは、義と認めるのも、断罪するのも、神なのだという点であると理解します。裁き主は神。被告である我々が、自分は無罪ですと胸を張って断言しようと、自分は有罪ですとうなだれようと、それは判決とは基本的には関係ない。  第二。私たちが義とされる根拠は、キリストの義をおいて他にはない。ことがらを明瞭にするために、あえて大胆すぎるほどに言いますが、キリストにすがる者はたとえ「傲慢」でも義と認められ、キリストにすがらない者はたとえ「謙遜」でもあろうと義と認められない。

 ここがはっきりしないと、なんかお天気によって、自分は義とされていると思ったりたり、義とされていないと思ったりということになるんじゃないか。いつもびくびくしているような、自分の心の隅をつつきまわし、人の言動に過敏な病的な、悪い意味で敬虔主義的な信者を作るのではないか。  Posted by 水草 at December 25, 2004 11:40

傲慢な者が義と認められ、謙遜な者が義と認められなかった。 その通りだと思います。 Posted by 大杉 at December 25, 2004 12:39

また、キリストにすがる者は「謙遜」でも義と認められ、キリストにすがらない 者は「傲慢」でも義と認められない。 これもOKですか。 Posted by mizukusa at December 25, 2004 15:06

キリストにすがる者は「謙遜」でも義と認められ、 キリストにすがらない者は「傲慢」でも義と認められない。 その通りだと思います。 Posted by 大杉 at December 26, 2004 06:04

C'est vrai. 善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや。 Posted by mizukusa at December 26, 2004 19:13

 はっきりしておきたいことは、キリストの義が私たちの赦しの根拠であって、私たちの道徳性・感情などは二義的なことだということです。たとえ心が責めて不安で仕方なくてもキリストのうちにある者は永遠のいのちを持っている。たとえ平安な気持ちで希望に満ちている人でも、キリストのうちにない者は滅びている。こういう当たり前のことが、現代の心理学的・主観的な時代傾向のなかであいまいになってはいないだろうか。

 バンヤンの『罪人のかしらに恩寵あふる』を読むと、彼がすでにキリストを信じながら長い間、救いの確信を得、平安な心理状態にいたるまで、どれほど苦悩したのかということが恐ろしいほど克明に描かれている。ほんとうに恐ろしいほど。  ウェストミンスター信仰告白も次のように言っている。

WCF 18.1 Although hypocrites and other unregenerate men may vainly deceive themselves with false hopes and carnal presumptions of being in the favour of God, and estate of salvation;(1) which hope of theirs shall perish;(2) ・・・・

(1)Job 8:13,14; Micah 3:11; Deut. 29:19; John 8:41. (2)Matt. 7:22,23.

WCF 18.3 This infallible assurance doth not so belong to the essence of faith, but that a true believer may wait long, and conflict with many difficulties, before he be partaker of it:(1) yet, being enabled by the Spirit to know the things which are freely given him of God, he may, without extraordinary revelation, in the right use of ordinary means, attain thereunto.(2) And therefore it is the duty of everyone to give all diligence to make his calling and election sure;(3) that thereby his heart may be enlarged in peace and joy in the Holy Ghost, in love and thankfulness to God, and in strength and cheerfulness in the duties of obedience,(4) the proper fruits of this assurance: so far is it from inclining men to looseness.(5)

(1)1 John 5:13; Isa. 1:10; Mark 9:24; Ps. 88; Ps. 77:1-12. (2)1 Cor. 2:12; 1 John 4:13; Heb. 7:11,12; Eph. 3:17,18,19. (3)2 Pet. 1:10. (4)Rom. 5:1,2,5; Rom. 14:17; Rom. 15:13; Eph. 1:3,4; Ps. 4:6,7; Ps. 119:32. (5)1 John 2:1,2; Rom. 6:1; Tit. 2:11,12,14; 2 Cor. 7:1; Rom. 8:1,12; 1 John 3:2,3; Ps. 130:4; 1 John 1:6,7.

Posted by mizukusa at December 26, 2004 22:13

Posted by mizukusa at December 24, 2004 09:45の自分の発言を修正します。  パリサイ人、律法学者の義を、「この程度の義」と書きましたが、そうでなく 「こういう質の義」と直します。天からの賜物としての義と、地上的な義は 量的でなく質的にちがうと新約聖書は言っている。そうではないでしょうか。 質がどのようにちがうのか? Posted by 水草 at December 27, 2004 12:35

ただ、不思議とマタイ5章20節のギリシャ語の表現は量的差異を意図しているように見えます。でも、先生の言わんとすることはわかります。 Posted by 伊藤明生 at December 28, 2004 15:42

 量的な差異にすぎなければ、パリサイ人・律法学者ももっとがんばれば、天の御国の義に到達するということになる。  しかし、一見、量的差異に映る1ミリオン行くの世界と2ミリオン行く世界とは、実は、質的にちがう。1ミリオン行く者は歯を食いしばって行くが、2ミリオン行く者はこころ晴れやかに行く。自力と恩寵の、ヨハネ的な言い方をすれば肉と御霊の違いであろう。「一見量的差異に映る」ので、マタイ5:20において、主イエスはそう表現されたのでしょう。 Posted by 水草 at December 28, 2004 22:31

マタイ5章20節の前後は、当然ながら主イエス様が語られた内容だということを改めて覚えます。

もし恵みとまことに満ちておられた主イエス様が、このように仰らなかったならば、律法学者やパリサイ人は、彼らが達成出来るレベルの義、つまり人の義において、自己義認、自己満足の歩みを続けることになったでしょう。律法学者やパリサイ人は、神のことばを巧みに変えて、自分の力で行えるレベルの義という基準を作って、それに満足していたのですから。

けれども、主イエス様が神の義を語られた故に、そして神の義を主イエス様が生き様によって示して下さった故に、主イエスを信じない者は一人残らず義と認められず、すべての人が罪人であることが明らかにされました。 Posted by 野町 at December 30, 2004 22:39

あと、

しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」…ヤコブ4:6

同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。…1ペテ5:5

という御言葉も覚えています。たとえ信仰を持っている者であったとしても「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」という御言葉は確かではないでしょうか? Posted by 野町 at December 30, 2004 22:50

もし、「量的な差異」を、「パリサイ人・律法学者ももっとがんばれば、天の御国の義に到達するということになる。」と言うことであれば、質的差異と言わざるを得ないでしょう。確かに、イエスの要求する義とパリサイ人、律法学者たちの義とでは本質的相違があることは間違いないと思います。 Posted by 伊藤明生 at January 05, 2005 12:53

もう一言、「パリサイ人、律法学者たちの義」とは、私の理解では、人間が自力で達しうる義を表現していると思っています。 Posted by 伊藤明生 at January 06, 2005 16:12

「パリサイ人、律法学者たちの義」とは、人間が自力で達しうる義を表現していると、私もそう思います。

 が、山上の説教で求められていることを、全部実行しなければ天の御国に入れないとすれば、私は到底入れません。

 山上の説教が何を意図して語られたのか。そして、どのように読まれ、応答されるべきなのかということは大事な問いだと思います。

Posted by mizukusa at January 06, 2005 21:22

 もう少し正確に書くと、山上の説教で求められていることを、私はすでにイエスを信じた(いわゆる救われた)人間でありながら、謙遜ぶっていうのではなく、ほんとうのところ実行することができません。  いまだ御霊を受けていない人が、自力でこれを実行できないのだということは当然として、御霊を受けているはずの人間がこれを実行できないというのは、どういうことか。なんと情けないことか。  しかし、山上の説教は、その書かれ方からして、単にこれを守ることができないことを悟らせて、キリストの恵みにすがらせるための、いわゆるpedaggogicalな用法を意図しているようには思えない。結びとしてはみことばを聞いて実行する者としない者のことがたとえで語られていますから。   Posted by 水草 at January 06, 2005 21:29

pedaggogical→pedagogical Posted by mizukusa at January 07, 2005 14:26  そもそも聖書というものはどういうものとして読まれるべきなのかという問に行き着くように思います。聖書神学というものが近代に出て来て、ヨハネ神学だのマタイ神学だのルカ神学だのパウロ神学だのといってばらばらに解体したことは、従来の教義学的な枠によって見失われていた、聖書の豊かな多様性を見出させる点では大いに意味があったと思いますけれども、他方でそれぞれの書を純粋に独立した書物として読むならば、ほんとうに神様が意図したような読み方が出来るのかという疑問を私は抱きます。マタイ福音書というものが、ローマ書やガラテヤ書といった救済に関する教理的な枠をまったく前提しないで読まれた場合、山上の説教とか25章の「最も小さい兄弟にしたことはわたしにしたのだ」という個所とかいろいろ考えると、そこからは恵みによる救いというのが、ふつうに読み取られえるのだろうかということを思ったりします。  実際には、新約聖書は新約聖書として正典として読まれて、そのなかでマタイ伝があることが肝要であると思います。またヤコブ書もそうです。ヤコブ書がヤコブ書だけで独立して釈義された場合、そこから福音は読み取れるのか?

Posted by 水草修治 at January 10, 2005 00:35

興味深いのは、マタイ福音書のイエスの教えはある意味、非常にユダヤ教的だと思います。少なくとも、表面的な表現に限定すると。ただ、つきつめて行くと、意外と(?)「基督教」的、恵み恵みのみで溢れていると思います。山上の説教は確かに人間が実行不可能なことを実行するように教えているかのように読める。でも、その程度の読み方でいいのか、と言うのが私の疑問であります。例えば、右の目がつまずかせる(罪を犯させる)なら、右の目をえぐり出せ、右の手がつまずかせる(罪を犯させる)なら、切り捨てろ。私たちの心の奥底の隠れたところのどろどろした罪と向き合うように仕向けている。単なる文字通りに実行する程度では、山上の説教の教えを「実行」したとは言い切れないものを感じます。そういう視点から山上の説教の結末部分を読むと、単なる文字通りの実践以上の実践・実行が要求されていると思えてならない。そういう意味では、ある種の「姿勢」が教えられているようにも十分解釈可能だと思われます。これは、山上の説教のイエスの教えを水増しすることなのでしょうか。

Posted by 伊藤明生 at January 11, 2005 17:48

水草先生のご推察通りに、聖書学はある意味、不用の長物になってしまっています。でも、逆に言うと、何でも言えるという意味では面白いかもしれません。先生は、正典批評(canonical criticism)は評価されますか。いずれにしても、神学抜きで聖書を読んでも余り意味がないと私は思います。 Posted by 伊藤明生 at January 11, 2005 17:50

野町です。

マタイ福音書の5章から7章にかけて記されている山上の説教についてですが、まず4章25節から5章2節に注目したいと思います。

4:25 こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。 5:1 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。 5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。

ここには、山上の説教がどのような状況で、誰に対して語られているのかということを知るために必要なことが記されています。

主イエス様は、一般の群集が多くいる中で語られたわけですが、何よりも彼ら、つまりキリストの弟子たちに対して語られたメッセージであることがわかります。

ですから、山上の説教は、イエス様に従い始めた者たち、その中で神の国を現実に味わっている者たちに対して、キリストの弟子が歩むべきライフスタイル(それはすべての人間が、本来人間としてこう生きるべきだという生き方でもあります)が教えられていると私は理解しています。

河野勇一先生が書かれた『神の国のライフスタイル−クリスチャン生活と山上の説教』(いのちのことば社)は、上記の立場に立った講解説教が収められている良書です。

Posted by 野町真理 at January 11, 2005 21:26

 野町先生の言うとおりでしょうし、一般にそういわれるところでわたしも異論はありません。であれば、神の国の現実を味わっている人であれば、山上の説教が求めている生方をそのまま実行できるのかというと、貴兄は出来るのかもしれませんが、わたしは出来ていないという現実があります。そこをわたしは問題にしているのです。  伊藤先生が「私たちの心の奥底の隠れたところのどろどろした罪と向き合うように仕向けている。単なる文字通りに実行する程度では、山上の説教の教えを「実行」したとは言い切れないものを感じます。そういう視点から山上の説教の結末部分を読むと、単なる文字通りの実践以上の実践・実行が要求されていると思えてならない。そういう意味では、ある種の「姿勢」が教えられているようにも十分解釈可能だと思われます。」という読みをすべきなのだろうと思います。主イエスがあの富める青年を突き放されたような、そういうこともあろうと。組織神学的に整理されたような書かれ方ではない、もっとダイナミックな、己のうちに葛藤を覚えさせ、神に叫ばないではいられないようにさせるような、そういう読み方・聞かれかたがされるように啓示されているように思います。  教えている筋を論理的に整理すれば、ローマ書のようにはっきり命題的真理と呼ばれる福音となるのでしょうが、福音書はそういうのとは異なる表現がされているのでしょうと思います。

 正典批評については大木日出夫氏が例のプロレゴメナで書いている程度を知るとおりで、詳細は知りませんけれども、わたしの基本的な聖書観はM.G.KlineのThe Structure of Biblical Authorityに則っていますからリベラルな人々もようやくたまねぎの皮むきの空しさに耐えられず、そういうことを言い始めたかという感じです。渡辺公平節でいえば、人間の認識は、区別性に偏ったり(聖書学中毒)、関係性に偏ったりする(教義学中毒)のだけれど、ほんとうは区別性と関係性の両方が重要なわけです。  クラインの本でその昔学んだことは、そもそも聖書というものは、六十六巻総体として、神が神の民(教会)に与えた信仰共同体形成のための契約文書なのだということです。ちょうど大王が、支配下に置いた民に対して、契約書を一方的に与えて、その契約書に則ってその民が歩むように命じたように。神は聖書に則って、教会形成をせよと命じておられる。  ですから、聖書は本来、全体と部分(各書)の強い連関において読まれるべきものであると思っています。だから、あんまりヨハネ神学、ルカ神学などと気取って言うことは、はっきりいえばナンセンス。多様性、豊かさは認めますが、別々のものではない。  また、聖書そのものが教会に与えられたものであって、個人に与えられたものではないことを考えれば、あまり敬虔主義的・実存主義的・ディボーショナルな読みは的を外すこともあろうと思います。使徒の働きや各教会への書簡は当然、教会的視点で読まれるべきですし、福音書だって本来教会形成的な視点で読まなければ、神様が教会に聖書を与えた意図を外すでしょう。ま、こんなことを考えて、そういう風に読んでいます。 Posted by 水草 at January 11, 2005 23:23

 伊藤先生.  そういうわけで、山上の説教がある種の「姿勢」あるいはスピリットを教えているというのが、おそらく正解なのだろうとわたしも思います。 Posted by 水草 at January 12, 2005 07:58

マルコ伝の荒削りで直接目撃者証言という印象が強い率直さに比べると、マタイ伝は反省的ですね。たとえばイエスの墓に出現した青年を、マタイは御使いだと言っているなど。記述の順序も整理されている。

また、マタイ伝は抹香臭い。教会的教職的観点というか、そういう観点から反省されて整理されている観があります。それは教職に都合がよく書かれているというより、教職をきびしく戒めているという意義のほうが強いとは思いますが。メシヤの系図から始まるというようにユダヤ的ではありますが、それとともに教会的というほうがいいようにわたしは思っています。 Posted by mizukusa at January 12, 2005 10:07

野町です。

山上の説教を改めて味わうことが出来、感謝です。

私は天の御国を味わっているはずなのに、なお欠けだらけで不完全な土の器、心の貧しい者でしかありません。でもそのマイナス、心の空洞をもって、日々、主の祈りを祈り、信仰によって神の義に生きること、恵みによってキリストのように生きることを目指している者です。

山上の説教に改めて耳を傾けますと、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。…あなた方は地の塩です。…あなたがたは、世界の光です。…」とまず神の恵みが語られ、その後で神の義と人の義が対比されて語られていきます。

そして山上の説教の中心で、わたしたちの父なる神は、わたしたちがお願いする前から、私たちに必要なものを知っておられる。だからこう祈りなさいと、あの素晴らしい「主の祈り」、「キリストの弟子の祈り」が記されています。

締めくくりでは、「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられる私の父のみこころを行う者がはいるのです。」という厳しい警告がなされ、それを視覚化して心に刻み付けるために、岩の上に家を建てる賢い人と、砂の上に家を建てる愚かな人のたとえが語られています。

http://shinrinomachi.at.infoseek.co.jp/messageindex.html#prayer Posted by 野町 at January 12, 2005 10:45

聖書をどう読むか、ということで聖書の他の書との関連で読むかどうか、と水草先生がおたずねになりましたが、マタイ福音書の場合、例えば、9章あたりまで読めば、罪人、取税人といっしょに食事をし、医者を必要とするのは丈夫な人ではなく、病人で、わたしは正しい人ではなく、罪人を招くために来た、とのイエスの言葉に明確な福音の提示があると思います。別の角度から、水草先生の問いを言い直すと、イエスに従った取税人レビ(マタイ)に山上の説教はどこまで実践可能な教えか、となるかと思います。如何。 Posted by 伊藤明生 at January 13, 2005 13:22

 なるほど。まあ、山上の説教の構成自体も、「心の貧しい者は幸いです。」という祝福から始まるわけですから、確かに恩寵先行で語られていることは無論承知しているのですし、そのように説教もしてきたのです。しかし、主イエスの求められる水準というのは、そのパリサイ人・律法学者の義にまさる義をはるかに超えた高みところにあると、ため息をつくほどです。

 主を信じながらも罪に罪を重ねている私が、たまさかに神の目にかなう山上の説教的な実践をした瞬間があるとすれば、それは神が恵みによってたまわった御霊によってなさせてくださったことと感謝し、神に栄光をお返しするというのが、模範解答なのでしょうね。 Posted by 水草修治 at January 13, 2005 17:34

http://blog.livedoor.jp/shinrinomachi/archives/9273585.html#comments