ローザンヌ誓約

Thu, 07 May 2009 19:14:05 JST (2998d)

はじめに

先日、東海聖書神学塾名誉塾長である羽鳥純二師の最終講義が、金山クリスチャンセンターで持たれた。羽鳥純二師は、お兄さんの羽鳥明師と共に、日本代表として、ローザンヌ誓約に署名をした人物の一人である。羽鳥師が「生きている間の遺言」として語って下さった内容は、以下のようなものであった。

ローザンヌ誓約は、ビリー・グラハム師によって招集された第一回世界伝道会議において誓われた約束である。世界150カ国以上の国から、それぞれの国の教会を代表するクリスチャンが共に集い、誓われた約束である。それまでそのようなことは、なされたことがなかった。

そこで誓われた内容、それはちょうど車の両輪のように、みことばの宣教と共に、社会的問題にクリスチャンとして真剣に組み合っていくことが、教会の働きにはどうしても必要なのだということである。それは、数々の伝道集会において、神の御言葉を語って来たビリー・グラハム師の、深い反省に基づいている。

〈序文〉

 百五十か国以上から、ローザンヌ「世界伝道会議」に参加した、われわれイエス・キリストの教会の会員は、大いなる救いのゆえに神を賛美すると同時に、主がご自身との間に、そしてわれわれ会員相互の間に与えてくださった交わりを喜ぶものである。われわれは、神がわれわれの時代の中でなしておられるみわざのゆえに深い感動を覚える一方、自らの失敗のゆえに悔恨の念にかられ、今なお伝道が未完成の状態にあることから挑戦を感じる。われわれは、この福音こそ全世界に与えられた神のよきおとずれであることを信じ、主の恵みによって、この福音を人類全体に宣べ伝え、あらゆる国の人々を弟子とせよとのキリストのご命令に従う決意をなすものである。それゆえに、ここにわれわれの信仰と決意とを確認し、われわれの誓約を公にする次第である。

〈第一項 神のみ旨〉

 「われわれは、みこころによりご計画のままに万物を治めておられる、唯一の永遠の神、世界の創造者にいます主、父・子・聖霊なる神への信仰を表明する。神は、御国を広げ、キリストのからだを建てあげ、御名の栄光のために、この世界の中からご自身のために一つの民を召し出し、その民をご自身のしもべとして、また証人として、この世界に遣わしてこられた。われわれは、この世界と妥協するか、さもなくばこの世界から退くことによって、しばしば自らの召命を否定し、宣教において失敗してきたことを、恥じつつ告白する。だが、この福音は、土の器によって担われつつあるとはいえ、依然尊い宝であることを喜びとする。われわれは、この宝を聖霊の力によって知らしめる務めのために、ここに献身を新たにするものである。

(イザヤ四〇・二八、マタイ二八・一九、Iコリント五・一一、エペソ一・一一、使徒一五・一四、ヨハネ一七・六、一八、エペソ四・一二、Iコリント五・一〇、ローマ一二・二、IIコリント四・七)

〈第二項 聖書の権威と力〉

 われわれは、旧・新両約聖書全体が、神の霊感による、真実で、権威ある唯一の書かれた神のことばであり、それが主張するすべてにおいて誤りがなく、信仰と実践の唯一の無謬の規範であることを表明する。また、神のことばはご自身の救いの御旨を成就する上において、力あるものであることを表明する。聖書の使信は人類全体に向けて語られているものである。キリストと聖書による神の啓示は変ることがない。それをとおして聖霊は今なお語っておられる。聖霊は、ご自身の真理をそれぞれ自分の目をもって新鮮に理解させるために、あらゆる文化の中にある神の民たちの心を照明し、神の多様多彩な知恵を全教会に明らかにするのである。

 IIテモテ三・一六、IIペテロ一・二一、ヨハネ一〇・三五、イザヤ五五・一一、Iコリント一・二一、ローマ一・一六、マタイ五・一七、一八、ユダ三、エペソ一・一七、一八、三・一〇、一八

〈第三項 キリストの独自性と世界性〉

「われわれは、伝道の方法にはいろいろあることを認めても、唯一の救い主と、唯一の福音のみが存在することを表明する。われわれは、すべての人が、自然における神の一般啓示によって何らかの神知識を有していることを認めるが、それが救いへ導くものであることを否定する。なぜなら、人間は、不義によって真理をはばんでいるからである。われわれはまた、あらゆる類の混合主義や、キリストはすべての宗教やイデオロギーをとおして差別なく平等に語っているというようなことを暗示するような対話を、キリストと福音とに対する冒涜とみなして拒否する。

 イエス・キリストは、唯一の神=人であられ、罪人のための唯一の贖いの代償としてご自身を与えられた方として、神と人との間の唯一の仲保者である。われわれがよって救われる名は、ほかに存在しない。すべての人は罪のゆえに滅びつつあるが、神はすべての人を愛しておられ、一人の滅びるのも望まれず、かえってすべての人が悔い改めに至ることを望んでおられる。とはいえ、キリストを拒否するものは、救いの喜びを放棄し、自らを神との永遠の断絶へと定めている。イエスを「世の救い主」として告知することは、すべての人がそのままで究極的には救われるということを主張することでも、いわんや、すべての宗教がキリストによる救いを提供しているということを主張することでもない。むしろ、罪人の世界に向かって神の愛を告知し、悔い改めと信仰による全人格的な明渡しによって神に応答するように、すべての人を招くことである。イエス・キリストは、他のすべての名よりも高くあげられた。われわれは、すべてのひざが彼にかがみ、すべての舌が彼を主と告白する日の来らんことを切望する。

 ガラテヤ一・六−九、ローマ二・一八−三二、Iテモテ二・五、六、使徒四・一二、ヨハネ三・一六−一九、IIペテロ三・九、IIテサロニケ一・七−九、ヨハネ四・四二、マタイ一一・二八、エペソ一・二○、二一、ピリピ二・九−一一

〈第四項 伝道の本質〉

 伝道とは、イエス・キリストが聖書にしたがってわれわれの罪のために死に、かつ死よりよみがえり、現在、主権を持ちたもう主として、悔い改めて信じるすべての者に、罪の赦しと御霊による解放の恵みを提供しておられるという、よきおとずれを広めることである。われわれキリスト者がこの世界の中に共在し、相手を理解するために同情的に耳を傾ける類の対話を持つことは、伝道にとって不可欠なことである。しかしながら、伝道それ自体は、あくまでも、人々が一人一人個人的にキリストのもとに来て、神との和解を受けるように説得する目的をもって、歴史的、聖書的キリストを救い主また主として告知することである。この福音の招きを伝える際に、弟子として求められる犠牲からしりごみすることは許されない。イエスは、今もなお、自己を否定し、おのが十字架を負い、主の新しい共同体の一員になりきって、ご自身に従うものたちを召し集めておられる。伝道は、キリストヘの従順、ご自身の教会への加入、この世界内での責任ある奉仕などの結果を含むものである。

 Iコリント一五・三、四、使徒二・三二−三九、ヨハネ二○・二一、Iコリント一・二三、Iコリント四・五、五・一一、二〇、ルカ一四・二五−三三、マルコ八・三四、使徒二・四○、四七、マルコ一○・四三−四五

〈第五項 キリスト者の社会的責任〉

 われわれは、神がすべての人の創造者であるとともに、審判者でもあられることを表明する。それゆえに、われわれは、人間社会全体における正義と和解のための、また、あらゆる種類の抑圧からの人間解放のための、主のみ旨に責任をもって関与すべきである。人間は神のかたちに似せて造られているので、一人一人は、人種、宗教、皮膚の色、文化、階級、性別、年齢にかかわりなく、それぞれ本有的尊厳性を有すものである。したがって、人は互いに利己的に利用し合うのでなく、尊敬し合い、仕え合うべきである。われわれは、これらの点をなおざりにしたり、時には伝道と社会的責任とを互いに相容れないものとみなしてきたことに対し、ざんげの意を表明する。たしかに人間同士の和解即神との和解ではない。社会的行動即伝道ではない。政治的解放即救いではない。しかしながら、われわれは、伝道と社会的政治的参与の両方が、ともにキリスト者の務めであることを表明する。なぜなら、それらはともに、われわれの神観、人間観、隣人愛の教理、イエス・キリストヘの従順から発する当然のことだからである。救いの使信は、同時に、あらゆる形の疎外、抑圧、差別を断罪する裁きの使信でもある。われわれは、悪と不公正の存在するところでは、いずこにおいても、勇断をもってそれらを告発しなければならない。人がキリストを受け入れる時、その人は再生して神の国に入れられるのであり、この不義の世界の真ただ中で、ただ単に神の正義の何たるかをはっきりと語るだけでなく、それを現実に押し広めていかなければならない。われわれが主張する救いは、われわれの個人的責任と社会的責任の全領域において、われわれ自身を変革していくものである。行いのない信仰は死んだものである。

 使徒一七・二六、三一、創世一八・二五、イザヤ一・一七、詩篇四五・七、創世一・二六、二七、ヤコブ三・九、レビ一九・一八、ルカ六・二七、三五、ヤコブ二・一四−二六、ヨハネ三・三、五、マタイ五・二○、六・三三、IIコリント三・一八、ヤコブ二・二〇

〈第六項 教会と伝道〉

 われわれは、父なる神がキリストを遣わされたように、キリストは贖われたご自身の民をこの世界に遣わされることを表明する。また、その派遣は、主の場合と同じように、大きな犠牲を余儀なくするところの、この世界への浸透を要求するものであることを表明する。われわれは、教会のゲットー化から抜け出て、未信者の社会の中に充満して行く必要がある。犠牲的奉仕を伴う教会の宣教活動の中で、伝道こそ第一のものである。世界伝道は、全教会が、全世界に、福音の全体をもたらすことを要求する。教会は、神の宇宙大の目的の中心点であり、福音伝播のために神が定められた手段である。だが、十宇架を宣べ伝える教会は、それ自身が十宇架のしるしを帯びているものでなければならない。教会は、福音を裏切ったり、神への生き生きとした信仰、人々に対する純粋な愛、事業の振興と資金の調達を含むあらゆる面での誠実さを欠くならぱ、自らが伝道に対するつまずきの石となってしまうことを銘記しなければならない。

 教会は制度であるよりも、むしろ神の民の共同体であり、いかなる特定の文化、社会的もしくは政治的組織、人間のイデオロギーなどと同一視さるべきではない。」

 ヨハネ一七・一八、二○・二一、マタイ二八・一九、二○、使徒一・八、二○・二七、エペソ一・九、一○、三・九−一一、ガラテヤ六・一四、一七、Iコリント六・三、四、IIテモテ二・一九−二一、ピリピ一・二七

〈第七項 伝道における協力〉

 われわれは、真理に根ざした教会の可視的一致が、神の御旨であることを表明する。また、伝道そのものが、われわれの一致を強く求めている。なぜかといえば、われわれの間の不一致が和解の福音を台無しにしてしまうように、われわれの一致は逆にわれわれのあかしを強化するからである。だが、われわれは、組織・機構上の一致は多くの形態をとりうるものであり、それは必ずしも伝道を推進するものとは限らないということも知っている。とはいえ、同じ聖書的信仰に立つわれわれは、交わりと、働きと、あかしとにおいて、一致を密にすべきである。時として、利己的な個人主義や、むだな重複によって、われわれのあかしが損なわれてきたことを告白する。われわれは、真理、礼拝、聖潔、宣教におけるより深い一致を求めていくことを約束する。そして、われわれは、教会の宣教活動の前進のために、相互の志気を鼓舞するために、また資力と経験とを互いに分ち合うために、地域的な協力と機能上の協力を、より一層発展させていくことを推奨するものである。

 ヨハネ一七・二一、二三、エペソ四・三、四、ヨハネ一三・三五、ピリピ一・二七、ヨハネ一七・二−二三

〈第八項 諸教会の伝道協力〉

 われわれは、新しい宣教の時代の幕開きを喜ぶ。西欧の宣教団体の支配的な役割は、急速に消滅しつつある。神は、今や後進諸教会の中から、世界伝道のための新しいすぐれた資力を起しつつあり、それによって、伝道の責任がキリストのからだなる教会全体のものであることを示しておられる。それゆえに、全教会は、自らの地域に福音を届け、あわせて世界のほかの地域に宣教師を派遣するために何をなすべきかを、神に尋ねるとともに、自問しなければならない。われわれの宣教上の責任と役割とは、引き統き再検討さるべきである。このようにして、諸教会間の相互協力の姿勢が育成され、キリストの教会の世界性がより一層明白に示されるようになる。われわれはまた、聖書翻訳、神学教育、マス・メディア、キリスト教文書、伝道、海外宣教、教会の刷新や、そのほかの特殊分野で労しているすべての団体のゆえに、神に感謝する。その一つ一つの団体も、教会の宣教の一環として、たえずその効果性を自己吟味していかなけれぱならない。

 ローマ一・八、ピリピ一・五、四・一五、使徒一三・一−三、Iテサロニケ一・六−八

〈第九項 伝道的責務の緊急性〉

 世界人口の三分の二以上にも相当する二十七億あまりの人々は、いまだに福音に接していない。これほど多数の人々が放置されたままであることを、われわれは深く恥じる。この事実は、われわれ自身と全教会とに対する不動の譴責である。しかしながら、今日、世界の多くの地域において、いまだかつてなかったほどにイエス・キリストを受け入れる傾向が見られる。われわれは、今こそ、諸教会と超教派の諸機関が、伝道されていない人々の救いのために熱心に祈り、世界伝道のために新たな努力を開始すべき時である、と確信する。場合によっては、すでに伝道がなされてきた国にある教会の自立成長を促し、合せて、今なお伝道されていない地域に資力を振り向けるために、今まで伝道がなされてきた国々における外国人宣教師と資金の削減が必要となるかもしれない。宣教師の派遣は、あくまでも謙虚に仕えるという精神に立ちつつ、六つの大陸の全域から全域ヘ、今まで以上に自由になされるべきである。目標は、あらゆる可能な手段をもって、もっとも早い時期に、すべての人がよきおとずれを聞き、理解し、受け入れるようになることである。われわれは、犠牲を払うことなしに、この目標の達成を望むことはできない。われわれはみな、多くの人々が貧苦の中にあることに衝撃を受けており、その原因となっているさまざまな不正不義に対し心の痛みを覚えている。われわれのうち、恵まれた境遇の中に生活している者は、救援活動と伝道の両面においてより積極的に貢献してゆくために、簡素な生活様式を取り入れてゆくことを、われわれのつとめとして受け入れる。

 ヨハネ九・四、マタイ九・三五−三八、ローマ九・一−三、Iコリント九・一九−二三、マルコ一六・一五、イザヤ五八・六、七、ヤコブ一・二七、二・一−九、マタイ二五・三一−四六、使徒二・四四、四五、四・三四、三五

〈第十項 伝道と文化〉

 世界伝道に必要な諸方策の開発は、想像力に富む開拓的な諸方法を要求する。それによって神のもとにあって、キリストに深く根ざしつつ、自己をとりまく文化とも密接なかかわり合いを持った教会が起されるようになる。ところで、文化は、つねに聖書によって精査され、かつ判定されなければならない。人間は神の被造者であるゆえに、彼が織り成す文化のあるものは、美と徳性とを豊かに示している。とともに、人間は罪に堕落しているゆえに、その文化のすべては罪によって汚染されており、その中のあるものは悪魔的でさえある。福音は、文化相互間に優劣の順位があるとは見ていない。しかし、福音は、すべての文化を福音独自の真理と正義の規準に従って評価し、すべての文化の中で道徳的に絶対的なものを主張する。宣教団体は、今までしばしば福音と一緒に異国の文化までも輸出してきた。そのために教会は、時として聖書よりも特定の文化の拘束のもとに置かれてきた。キリストの伝道者たちは、他の人々に仕える者となるために、人格的な信任をほかにして、その他のすべての点において自己を無にすることを謙虚に追い求めていかなけれぱならない。そして教会は、ただキリストの栄光のために、文化を変革し、それを実り多いものにするように、ひたすら努めていかなければならない。」

 マルコ七・八、一三、創世四・二一、二二、Iコリント九・一九−二三、ピリピ二・五−七、IIコリント四・五

〈第十一項 教会とリーダーシップ〉

 われわれは、今まで、教会成長を考えるあまり、時として教会の深みという面を軽視したり、伝道をキリスト教教育から切り離してきたきらいがあったことを告白する。また、一部の宣教団体は、土着の指導者たちが正当な責任ある位置につけるように、彼らを奨励し、育成することにおいて遅れていたことを認める。われわれは、あくまでも自主自給の原理に立つ。それゆえ、すべての教会が、支配ではなく奉仕によって特色づけられたキリスト教的リーダーシップを発揮できるような、土着の指導者を持つようになることを切望する。われわれは、神学教育の改善、とりわけ教会の指導者たちのための教育の改善は急を要する問題であることを認める。すべての国、すべての文化の中に、教理、弟子道、伝道、教育、奉仕の面における、牧師とレイマンのための有効な養成プログラムの確立が計られなければならない。そのような養成プログラムは、既成の型にはまった借物に頼るのではなく、聖書的な基準に立ちつつそれぞれの地城の主導性と創造性とによって開発さるべきである。

 コロサイ一・二七、二八、使徒一四・二三、テトス一・五、九、マルコ一〇・四二−四五、エペソ四・一一、一二

〈第十二項 霊的闘争〉

 われわれは、教会を倒し、教会の世界伝道のわざを失敗に終らせようと絶えずもくろんでいる悪魔の力と支配とに対する、たゆまざる霊的闘争のただ中に置かれていると信じる。また、われわれ自身を神の武具をもってよろい、真理と祈りの二つの霊的武器をもって戦い続けてゆく必要のあることを知っている。われわれの敵の活動は、教会の外にある偽りの諸思想の中ばかりではなく、聖書を曲げ、人間を神の位置に置こうとする、教会内部に存在する偽りの福音の中にも探知できる。われわれは、聖書が提示している福音を守るために、絶えず目を覚まして監視しなければならないとともに、識別力をも身につける必要を感じる。われわれは、思想と行動の両面における世俗化の危険、すなわち、世俗主義への屈伏という危険から決して免疫となってはいないことを認める。たとえば、教会成長に関する数的・霊的面面からのきめ細かな研究は正当であり価値あるものであるにもかかわらず、時として、われわれは、それをなおざりにしてきた。他方、福音への応答を得たいという一念にかられて、時として、メッセージそのものを妥協させたり、押しつけがましい方策をろうして聞き手をあおったりすることもしてきた。また、過度に統計に心を奪われたり、それを用いる場合に不誠実でさえあったことをここに反省する。

 これらのことはすべて、この世的なものと何ら変わりがない。教会はこの世に存在しなければならないが、この世は教会の中に存在してはならないのである。

 エペソ六・一二、Iコリント四・三、四、エペソ六・一一、一三−一八、IIコリント一○・三−五、Iヨハネ二・一八−二六、四・一−三、ガラテヤ一・六−九、IIコリント二・一七、四・二、ヨハネ一七・一五

〈第十三項 自由と迫害〉

 神がすべての政府に託された務めは、教会が干渉を受けることなく神に従い、仕え、福音を宣べ伝えることができるように、平和と正義と自由のための諸条件を確保することである。ゆえに、われわれは、国家の為政者たちのために祈るとともに、彼らが神のみ旨にかなった、そして、国連の「世界人権宣言」(一九四八年)に打ち出されているような思想と良心の自由、宗教的諸活動の自由を保障するように呼びかける。さらに、不当に投獄されているすべての人々のために、また、特に主イエスのあかしのために苦しめられているわれわれの兄弟姉妹のために、深い心の痛みを覚える。われわれはここに、彼らが自由にされるために、祈りかつ労することを約束する。とともに、われわれは、彼らの苦境を見て決しておじけづくものではない。われわれは、代価がどんなに大きくとも神の助けによって、断固として不正不義に立ち向かい、福音に忠実に生き続けるものである。われわれは、迫害は必ず起ると警告されたイエスのことばを忘れない。 

 Iテモテ一・一ー四、使徒四・一九、五・二九、コロサイ三・二四、ヘブル一三・一−三、ルカ四・一八、ガラテヤ五・一一、六・一二、マタイ五・一○−一二、ヨハネ一五・一八−二一

〈第十四項 聖霊の力〉

 われわれは、聖霊の力を信じる。父なる神は、ご自身の御子をあかしするために、ご自身の御霊を送りたもうた。御霊のあかしがなければ、われわれのあかしは不毛に終る。罪の自覚、キリストへの信仰、新生、キリスト者としての成長−これらはみな御霊の働きである。この御霊は、また、宣教の御霊でもある。ゆえに、伝道は、御霊に満たされた教会のうちより自発的に湧き上がるべきものである。したがって、宣教的でない教会というものは、自己矛盾であり、御霊を消そうとするものである。世界大の伝道は、御霊が、真理、知恵、信仰、聖潔、愛、力において教会を新しくつくり変えられる時にのみ、真の意味で可能となるのである。それゆえ、われわれは、御霊のすべての実が神の民全体のうちに現れ、御霊のすべての賜物がキリストのからだなる教会を豊かに潤すような、神の主権的な御霊の干渉が与えられるように祈ることを、すべてのキリスト者に呼びかける。そのような時にのみ、全教会は初めて、ご自身の御手のうちにあってご用にふさわしい道具となることができ、全地が神の御声を間くことができるようになるのである。

 Iコリント二・四、ヨハネ一五・二六、二七、一六・八−一一、Iコリント一二・三、ヨハネ三・六−八、IIコリント三・八、ヨハネ七・三七−三九、Iテサロニケ五・一九、使徒一・八、詩篇八五・四−七、六七・一−三、ガラテヤ五・二二、二三、Iコリント一二・四−三一、ローマ一二・三−八

〈第十五項 キリストの再臨〉

 われわれは、イエス・キリストが救いと審判を全うするために、力と栄光のうちに、人格的、可視的に再臨されることを信じる。この再臨の約束は、われわれの伝道に一層の拍車をかけるものである。なぜなら、福昔はまず全世界に宣べ伝えられて、それから終りが来ると言われた主のことばを与えられているからである。われわれは、主の昇天と再臨までの中間期は、神の民による宣教活動によって満ちあふれるべきであり、神の民は終末以前にそれをやめてしまう自由を持っていないと信じる。さらに、さまざまな偽キリストや偽預言者が最後の反キリストの前触れとして現れると言われた主の警告を覚える。したがって、われわれは、人間がこの地上に楽園を建設できるという考えを、高慢な自己過信に基づく夢想として拒否する。われわれキリスト者の確信は、あくまでも神がみ国を完成なさるということである。ゆえに、われわれは、正義が住み、神が永遠に支配する新天新地の出現するかの日の到来を熱心に待ち望む。こうした状況の中でわれわれは、生活の全領域に及ぶご自身の権威に喜んで服しつつ、キリストと人々ヘの奉仕のために、献身の念を新たにするものである。

 マルコ一四・六二、ヘブル九・二八、マルコ一三・一○、使徒一・八−一一、マタイ二八・二○、マルコ一三・二一−二三、ヨハネ二・一八、四・一−三、ルカ一二・三二、黙示二一・一−五、IIペテロ三・一三、マタイ二八・一八

〈結び〉

 われわれは、以上の信仰と決意とに立って、全世界の伝道のために、ともに祈り、ともに計画を練り、ともに労することを、神に対し、また参加者相互の間に厳粛に誓約する。われわれは、他の人々にも、これに参加するように呼びかける。願わくは、神が御恵みによって、ご自身の栄光のために、われわれをこの誓約に忠実たらしめたもうように助けたまわんことを。アーメン、ハレルヤ!

新キリスト教辞典より

ローザンヌせいやく 〜誓約

1974年7月,スイスのローザンヌで開かれた第1回ローザンヌ世界伝道会議(The International Congress on World Evangelization)が生み出した文書.この会議の最大の成果とされる.教会とその責務について,福音信仰の立場からのこれまでの最高の文書であるとの評価もある.この会議以後,この文書が世界の福音派の協力関係を刺激し,交わりと共働の基盤を提供することとなった.誓約文は英文で3千語,15項目から成る.*英国教会の*福音主義のリーダーの一人,J・*ストットを中心として起草され,会議期間中を通して補足,修正が加えられた.ローザンヌ会議の名称は正しくは「世界福音化についての国際会議」であり,会議自体も伝道についての研究会議以上のものを意図していた.世界福音化のための戦略を協議し,その推進のために会議の参加者が当事者となることを強調して「誓約」という表現が用いられたと思われる.

1.誓約の背景.

ローザンヌ会議は,1966年以来の福音主義の群の宣教協力のための新しい胎動を背景にして開かれた.1966年4月には米国ホイートンで,世界教会宣教会議が開かれている.福音主義の宣教団体の協力機関であるEFMA(Evangelical Foreign Missions Association)とIFMA(Interdenominational Foreign Mission Association)の共催による会議であった.同年10月から11月にかけては*ベルリン世界伝道会議が開かれた.世界の百か国以上から,ほとんどの教派から参加しての,世界の福音派の存在を意識させる画期的な集いであった.ローザンヌ世界伝道会議は直接にはこのベルリン会議からの新しい流れの継続,発展であると考えてよいと思われる.

このローザンヌ会議が時代の変化と挑戦に応え,宣教のための新たな一致の機会となるために,直面しなければならない問題は少なくなかった.その一つは,宣教についてのいわゆるエキュメニズムの立場への対応である.一方にはホッキング報告に見られるような,他宗教との関係における相対主義,楽観主義の第2次大戦前からの流れがある.他方,戦後に新たに高揚され,その影響力を強めていく,″正義,公正,解放,人間の発展の努力こそ宣教活動である″とする考え方がある.これに対し,いわゆる[+]福音派は長い間,防衛的,反動的な対応に終始していたと言われる.福音派には,他宗教を通してもキリストが働いておられるとする相対主義の実体を明らかにし,それに有効に対応する責任があった.正義,公正を巡る問題は福音派の説く福音の本質への重大な問であった.伝統的な宣教活動への挑戦であり,その否定でもあった.すでに1966年のベルリン会議は,これらの挑戦に対して対応を始めている.しかし第三世界におけるクリスチャン人口の急速な増加,教会の飛躍的な成長が彼ら自身の宣教への深刻な反省と見直しを迫るものとなっていた.それは多くの場合,義と公正を著しく欠いていた第三世界にある教会が自ら宣教の主体となろうとする段階での当然の痛みであった.こうした現実が契機となって,キリスト者また教会の社会的責任が新たに問われることとなる.それを無視できないということだけではない.宣教との関係,さらには宣教の内容としての社会的責任の問ともなる.このことは,いわゆるエキュメニカルな立場での宣教論に反対するのみではすまないことを欧米の福音派の教会にも意識させる.先進国の教会は,前世紀以来の自分たちの国による帝国主義,植民地主義が現在の第三世界の状況と決して無縁ではないことを改めて問われる.第三世界との欧米のクリスチャン人口の割合が逆転していることも,世界宣教を考える上での重大な変化であった.こうしたもろもろの状況が教会に新しい対応を求めることとなったのは当然である.教会は自らの本質とその責務について,新たな理解と積極的な取組をしなければならない時期を迎えていた.第2次大戦後の世界の福音派の*聖書学,神学,*宣教学における新たな成長,成熟が,こうした積極的な取組のための側面での準備となっていたことも摂理的であった.一方エキュメニズムの組織の枠の中でも,福音主義と非福音主義の分極化が進んでいた.「今日における救い」を「被抑圧者の解放」にあるとする[+]世界教会協議会(WCC)のウプサラでの総会(1968年)の決定は,組織内の教会の一致を不可能にすることとなった.エキュメニズムの枠内の福音主義の人たちがWCCの外にある福音主義の人たちとの連帯を求める状況も熟していたと言える.エキュメニズムの組織の内外を貫いての,福音的協力の新たな可能性がこのように準備された.70年代に入って,第三世界のエキュメニカル・リーダーの中から欧米よりの宣教師活動の休止(モラトリアム)が訴えられたことも,世界宣教についてのさらなる危機感となっていた.

2.誓約の内容.

ローザンヌ誓約が世界宣教の進展のためのものであることは言うまでもない.しかし事前に問われていたことへの応答という面からは,伝道とは何かということ,中でも第6項「教会と伝道」が中核となっているように思われる.そこには「世界の福音化は全世界に全福音を全教会がもたらすことを求める」と記されている.「全教会が全福音を全世界に」はもともとW・R・ホッグによるもので,福音の伝達が何よりも教会の使命であることの確認である.同項の「十字架を説く教会は自ら十字架に刻印された存在でなければならない」とする訴えは,教会の働きとしての伝道が何であるかを,その社会的責任をも含めて包括的に,深く表現している.教会が一つであることは目に見える形で表現されなければならない.そして見える一致は,宣教という主の目的に従順であることによって促される(第7項).

3.残された問題.

誓約の内容はよく整理され,現代の福音主義の信仰告白に近いものとなっている.しかし問題提起にとどまっている点も多い.ただこのことが,かえって福音主義の教会での問題意識を刺激したことも事実である.会議後「福音と文化」(1978年,ウィローバンク),「*シンプル・ライフスタイル(簡素な生活様式)」(1980年,ロンドン),「伝道と社会的責任」(1982年,グランド・ラピッズ)等多くの研究会議が開かれたのも,誓約の衝撃の大きさを示している.しかしローザンヌが福音主義のかつてない範囲での連帯を生み出したとすれば,その一つの原因は,誓約の「*キリスト者の社会的責任」についての言明であろう.誓約の第5項は,キリスト者が社会的責任を怠り,時には伝道と社会的関心が両立しないと考えてきたことへの悔い改めを明らかにしている.社会的責任と伝道の統合は,第三世界のキリスト者がローザンヌの将来に少なからぬ期待を持つようになった最大の要因とされる.しかし社会的な働きは伝道のパートナーであってパート(部分)ではないという,北米のローザンヌ委員会のリーダーの態度は,ローザンヌの将来についての失望ともなっていると言う.事実,1989年7月のマニラでの第2回ローザンヌ世界伝道会議はこの問題との正面からの取組を避け,世界福音化のための協力範囲の拡大に焦点を置いたと考えられる.ローザンヌ誓約の核心はローザンヌ運動そのものによって必ずしも重んじられてはいない,との感を免れない.→ホイートン宣言,ベルリン宣言,エキュメニカル運動,キリスト者の社会的責任,福音主義.

〔参考文献〕『日本の福音派―21世紀に向けて』日本福音同盟(いのちのことば社発売),1989;J・ストット『現代の福音的信仰―ローザンヌ誓約』オランダキリスト教文庫(いのちのことば社発売),1989;「誰もが知りたいローザンヌ宣教シリーズ」関西ミッション・リサーチ・センター,日本福音同盟,1983― .(舟喜 信)