イエスの御名で

Wed, 27 May 2009 10:46:47 JST (2889d)

Oct. 26, 2001

TTS(東海聖書神学塾) OB・読書会資料(豊橋ホサナキリスト教会 野町真理)

イエスの御名で【聖書的リーダーシップを求めて】

ヘンリ・ナーウェン著 後藤敏夫訳 あめんどう(1993年) 791円+税

In the name of Jesus - Reflection on Christian Leadership(1989) by Henri J. M. Nouwen

はじめに

 ヘンリ・ジョーセフ・マイケル・ナーウェン(1932〜1996)は、オランダ生まれのカトリック祭司である。ナーウェンは、オランダの神学校から始まってアメリカのノートルダム、イェール、ハーバード大学の神学部で牧会学、牧会心理学の教授を務めた。約20年間のアカデミックな生活の間に、教育者、著作家、説教者として人々から賞賛を得ていた。

 しかしナーウェンは、50代に入ってから、成功の背後で霊的な深い渇きと恐れを体験する。そして祈りのうちにハーバード大学でのアカデミックな生活を捨て、カナダのトロントにある知能障害者の施設、ラルシュ共同体(創設者ジャン・バニエ)の司祭となり、残された生涯の間、約10年間、知能障害者とその介護者に仕えた。

 ラルシュでの生活を通して、ナーウェンは、奉仕した人々から多くの良きものを受け取るという体験をし、真の魂の安息を得たと語る。『イエスの御名で』はそのころの体験を基に記されている。この著作でもナーウェンは、自らの過去が、いかに能力を誇示し、人々の歓心を集め、権力を手にしようとする欲求に影響されていたかを赤裸々に告白している。本書には、葛藤や誘惑、弱さや迷いが告白されている中で、聖書的リーダーシップの在り方が提示されている。それらはすべて、ラルシュでの生活を通してかたちを結んだものである。

 1996年、ナーウェンは心臓麻痺で64年間の生涯を閉じた。彼の著作はカトリック、プロテスタントの枠を超え、幅広い支持を受けており、近年日本ではナーウェンの著作もきっかけになって「霊性(スピリチュアリティ)」への関心と求めが深まっている。すでに召されたヘンリ・ナーウェンによる、クリスチャン・リーダーシップについての豊かな洞察と指針がこの本にはある。

目次

プロローグ

はじめに

[1]能力を示すことから、祈りへ

 誘惑−自分の能力を示すこと

 問い−「あなたはわたしを愛するか」

 訓練−観想的な祈りの恵み

[2]人気を求めることから、仕えることへ

 誘惑−人の歓心を買うこと

 務め−「わたしの羊を飼いなさい」

 訓練−告白とゆるしの回復

[3]導くことから、導かれることへ

 誘惑−権力を求めること

 チャレンジ−「ほかの人があなたを連れていく」

 訓練−神学的思索への希望

むすび、エピローグ、[訳者あとがき]

プロローグ

 この本が生まれたのは、ナーウェンが友人から、21世紀におけるクリスチャンのリーダーシップについて話してほしいとの依頼を受けたことによる。その時ナーウェンは、次のように自問する。「私は、二十年間、主の務めに備えて学んでいる若い男女に語ってきた。しかし私は今、自分が語り、教えた言葉に、日々誠実に生きているだろうか。今の自分の働きについて、どのように考えているだろうか。そしてその考えは、私の毎日の言葉や行動に、どのような影響を与えているだろうか」と。しかし祈りの中でナーウェンはその講演を引き受ける。

 ワシントンDCでの講演に、著者は、障害者の一人ビル・バン・ブーレンと共に行く。「ぼくたちは、その務め(ミニストリー)をいっしょにするんだよね」と何度も確認し、ヘンリを助けに行くという強い確信をもつビル。彼の方が、自分よりよくことをわきまえていた、とナーウェンは後で知る。この本は、フェローシップミニストリーによる、二十一世紀におけるクリスチャン・リーダーシップについてのプレゼンテーションである。

 アカデミックな世界で20年。司祭になって25年。50代に入り、ナーウェンは深い内面的恐れを感じる。そして「年を重ねて、私はよりイエスに近づいただろうか?」と自問する。霊的に燃えつきた状態(霊的死)を感じた著者は、自分がどこに行ったらいいのか、と祈るようになる。「行って、心の貧しい人々の間に住みなさい。彼らは、あなたを癒してくれるだろう。」それが神の答えであった。ハーバード大を辞め、カナダのトロントにある知能障害者の施設、ラルシュ共同体の司祭となったナーウェンは、そこでの新しい生活の中で、これからの時代のクリスチャン・リーダーシップについて、語るに足る新しい言葉が提供されていることに気づく。なぜなら、著者はそこに、神のことばに仕える者が直面すべき、すべてのチャレンジがあることを見いだしたのである。

 ナーウェンは、荒野の誘惑の物語(マタイ4:1−11)とペテロの羊飼いへの召しの物語(ヨハネ21:15−19)から、二十一世紀におけるクリスチャン・リーダーシップのあるべき方向性を提示する。

[1]能力を示すことから、祈りへ

誘惑−自分の能力を示すこと

 ナーウェンが、知能障害者と共に、ひとつ家に暮らすようになって最初に受けた衝撃は、彼らが自分を好いてくれるか嫌いになるかについて、ナーウェンがそれまでに成し遂げた多くの貢献のどれも、いっさい関係がないということだった。かつては有効だった能力がどれも使えないということは、ナーウェンを非常に不安に陥れた。そして、このことによって彼は、自分の真のアイデンティティを再発見せざるをえなくなった。

 心破れ、傷つき、まったく自分を装うことをしないこれらの人々を前に、能力を持つ自分というもの、すなわち、何かができる自分、何かを示せる自分、何かを証明できる自分、何かを築ける自分というものを手放すしかなかったという。そして、どのような業績にも関わりない、ただ愛を受け、与えるだけの、弱くて傷つきやすいありのままの自分に、自らを改めざるを得なかったと。

 このことからナーウェンが深く確信して語りたいのは、これからの時代のクリスチャン指導者は、まったく力なき者として、つまり、この世にあって、弱く傷つきやすい自分以外に、何も差し出すものがない者になるように召されている、ということである。それはまた、イエスが来られて神の愛を明らかにされた方法でもあった。神は、私たちの行ないや成し遂げることのゆえに私たちを愛されるのではなく、愛の内に私たちを創造し、贖われたゆえに私たちを愛される。これが、私たちの持つべきメッセージである。

 イエスの最初の誘惑は、自分の能力を示すことにあった。石をパンに変えるように、と。しかし、イエスはあくまで御言葉を宣べ伝えるという使命に徹した。

 主の務め(ミニストリー)に携わる者が経験するおもな悩みの一つは、自己評価の低さに苦しむということである。人々にほとんど感化を与えることのできない自分に気づき、悩んでいる。心理学者、精神療法士、結婚カウンセラー、医師のほうが、自分よりも信頼されているように思える。世俗化の風潮の中で、クリスチャンの指導者は、ますます自分が対応力を失い、周辺に押しやられていると感じ、この務めに留まる理由があるのかと、疑問を感じ始めている。

 しかし、それとはまったく異なる見方もある。うわべだけの自信に満ちた社会をよく見つめると、『社会に適応できない』という感覚は、私たちが考えるよりはるかに広い範囲の人々に行き渡っている。クリスチャンの新しいリーダーシップの求められる場がここにある。現代世界の中にあって、あえて異質であることを主張する者となる、それが神の使命である。そしてその使命は、成功の裏に潜む苦悩と深く連帯し、そこにイエスの光をもたらすように私たちを導く。

問い−「あなたはわたしを愛するか」

 この問いこそ、私たちを主の働き人たらしめ、自らの名声を求めずして、同時に真の意味で、確信に満ちた者としてくれる。問われているのは、あなたがイエスと愛の関係にあるかだけである。

訓練−観想的な祈りの恵み

 クリスチャン指導者に特に求められるものがあるとすれば、それは、「あなたはわたしを愛するか」、と問い続けられる方のご臨在の内に住み、主の愛の内に憩う訓練を受けることである。これが観想的な祈りの訓練である。「神学」という言葉の本来の意味は、「祈りにおいて神と結ばれる」ということである。クリスチャン指導者のリーダーシップは、受肉したことばであるイエスとの絶えざる、親密な交わりに根ざしていなければならない。

[2]人気を求めることから、仕えることへ

誘惑−人の歓心を買うこと

 ハーバードからラルシュに移ったことでナーウェンが学んだもう一つのこと、それは務めを分かち合うということであった。それはナーウェンにとって、いままでの個人主義的なライフスタイルを根本から変えさせられる体験であった。心に深い傷を負った人々と共同生活をすることによって、それまでの生活が、まるで綱渡りをしているようなものであったことにナーウェンは気付かされる。それまでナーウェンは、まるでスタントマンのように、落下して脚を折らないことへの拍手喝采をいつも求めて、神のためにではなく、自分のためにパフォーマンスをしていたのである。イエスが荒野で直面した「神殿の頂から下に身を投げて、御使いの腕に抱きかかえられるところを見せない」という第二の誘惑はまさに、人々の注目を浴び、大きな称賛を勝ち得る何かをして見せることであったとナーウェンは受け止める。イエスはスタントマンになることを拒否された。

 今日の教会をよく見ると、牧師や祭司の間に、競争社会の影響を強く受けた個人主義が浸透している。もし少しでも誇示できるチャンスがあれば、それは自分一人でしなければならないと、多くの人は思っている。すべて自分一人で行なわなければという個人主義的指導者のイメージが支配的なのである。

務め−「わたしの羊を飼いなさい」

 イエスはいろいろな仕方で、務めが共同のものであり、私たち人間の相互の経験であることを明らかにしておられる。イエスが十二弟子を二人一組で遣わされた意味もそこにある。自分一人では、良い知らせを携えて行くことはできない。私たちは共同体において共に祈り、いっしょに福音を宣べ伝えるようにと召されている。共に宣教することによって、私たちが自分の名によってではなく、私たちを遣わされた主イエスの御名によって来たことを、人々は容易に認め得るのである。

 イエスは、相手を知ると同時に自分が知られ、世話をすると同時にこちらも世話をされ、赦すと同時に自分も赦され、愛すると同時に愛される−。そのような傷つきやすい兄弟姉妹として羊を牧することを望まれている。

 医療や精神治療や社会奉仕の働きのすべては、一方通行でなされる「奉仕」がモデルとなっている。しかし、深い人格的関係に入ることさえ許されない人のために、どうして自分のいのちを捨てることが、他の人々と分かち合うことができるだろうか。

 主の務めの持つ神秘は、私たちの持つ限界と条件つきでしかない愛を、無限で、しかも無条件に与えられている神の愛の通路と成すために、私たちが選ばれたということである。真の主の務めは、相互的でなければならない。つまり、信仰による共同体のメンバーが、自分たちを世話する牧者を真に知り、愛することができなければならない。もしそうでないなら、牧会の業はすぐに、他者に対して狡猾に権力を行使するようになり、権威主義的で独裁的な色を帯び始めるであろう。

 教会には、しもべとしての指導者、イエスを模範とするしもべとしてのリーダーシップこそが、求められている。そしてそれは、この世の教える仕えられることを求めるリーダーシップとは根本的に異なっている。

訓練−告白とゆるしの回復

 自分が英雄になりたいという誘惑に打ち勝つために指導者に必要な訓練とは、告白と赦しであるとナーウェンは語る。これからの指導者は、観想的な祈りに深く心を浸すと同時に、いつも自分の罪を心から告白し、自分が仕えている人々から赦しを請う者でなければならない。告白と赦しは、罪深い私たち人間が互いに愛し合うことを、具体的な形に表わしたものである。ナーウェンが指摘していることは、司祭や牧師は、クリスチャンの共同体の中で、もっとも告白することの少ない人種ではないかということである。

 自分が仕えている人々に自分の罪や失敗を隠しているために、小さな安らぎと慰めを求めに、遠くの見知らぬ人のところに逃げ込まなければならないのだとしたら、どうすれば自分が人々から真に愛され、心に留められていると感じることができるだろうか。そして、いっしょにいる人が自分たちの牧者について知らず、その人を深く愛することができないのだとしたら、どのようにその牧者のために心を用い、聖なる務めに忠実たらしめることができるだろうか。

 霊的な指導に自らを献げている男女が、たやすく淫らな肉欲にふけってしまう理由は、どのように受肉の真理を生きたらよいかを知らないからである。自分が属する具体的な共同体から自らを切り離すと、自分の最も個人的な内面的世界と、自らが伝えている良い知らせとの間に深い分裂を招く。霊性が肉体を離れた精神化になると、肉体のいのちは肉欲に陥る。もし牧師や祭司が、ほぼ観念の世界だけの務めに生き、自分が伝えている福音を一連の価値ある認識や思想にしてしまうならば、肉体は愛情と親密さを求めて叫び声をあげ、復讐をしかけてくる。

 クリスチャンの指導者は、御子の受肉に生きるように召されている。すなわち、肉体において生きるために、しかも自分の肉体に生きるだけではなく、共同体という集合的なからだにおいても生き、そこに聖霊の臨在を見出すために召されている。告白と赦しという訓練によって、肉体を離れた精神化と肉欲を避け、真の受肉に生かされることができる。告白することにより、肉体的な孤独感から闇の力が引き離され、明るみに出されて、共同体の目にさらされる。そして赦しによって、それらの武装は解除され、追い散らされて、体と霊との新しい統合が可能となる。

 ナーウェンは、牧師や司祭が自分の罪や失敗を、講壇や日々の働きの中に持ち込み、誰にでもしらせるようにすべきだと言っているわけではない。しかし、クリスチャン指導者は、傷ついている自己を含めた、自分の全存在をもって仕えるように召されている。

[3]導くことから、導かれることへ

誘惑−権力を求めること

 ハーバードからラルシュに移ったことでナーウェンが経験した3つ目のこと、それは導く者から導かれる者へと変えられたということである。それまでナーウェンは、成熟していくとは、より大きな指導力を発揮できるようになることだと考えていた。ところが、知能障害者やそのアシスタントと共に生きる共同体に加わるや、いままで自分の築いてきたものがすべて崩れ落ちた。直接的な反応をする彼らを前に、ナーウェンは依然としてその場を支配しようとする指導者であった。しかしそのような中で、ナーウェンはリーダーシップというものの主要な役割が、主に導かれることにある、という神秘を少しづつ学んだ。

 イエスが受けた第三の誘惑、それは権力への誘惑であった。「私は、この世の国々とその栄華を、すべてあなたにあげよう」と、悪魔はイエスを誘惑したのである。イエスは、神の子としての「権力」にしがみつくことなく、ご自身を無にして、私たちと同じようになられた。

 キリスト教の歴史の最大の皮肉の一つは、指導者たちがそのイエスの御名を語りながら、権力の誘惑、すなわち政治的、軍事的、経済的、あるいは道徳的、霊的能力という力の誘惑に、絶えず負けてきたということである。権力を福音宣教の有効な手段であると考える誘惑は、あらゆる誘惑の中でも最強のものであるとナーウェンは記す。

 その理由は、神を愛するより自分が神になるほうが、人々を愛するより人々を支配するほうが、生命を愛するより、生命を所有するほうが、ずっとやさしいように思えるからである。荒野から始まって十字架に至るイエスの道は、この愛を権力に置き換える誘惑との、もっとも苦悩に満ちた戦いであった。 教会の歴史は、神の民が、ときには愛よりは権力を、十字架よりは支配を、導かれる者よりは導く者になろうとする誘惑にさらされた歴史だと言える。権力からの誘惑は、互いの親密な関係が脅かされているときに、最も大きくなる。

チャレンジ−「ほかの人があなたを連れていく」

 イエスは3度ペテロに、「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛するか」と問われ、そして3度彼を牧者に任命したのちに、非常に厳粛にこう言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」ヨハネ21:18

 この聖句は、ナーウェンをハーバードからラルシュへと導いた御言葉であり、クリスチャン・リーダーシップのあり方の核心に触れるものである。成熟とは、むしろ自分の行きたくない所に、喜んで導かれて行けるようになる、ということである。クリスチャンの指導者がたどる道は、この世が多大な精力を費やして求める上昇の道ではなく、十字架にたどり着く下降の道である。

 クリスチャン・リーダーシップに必要とされる、もっとも重要な資質とは、権力と支配によるリーダーシップではなく、神の苦難のしもべであるイエス・キリストが人々の目の前で示された、「無力さとへりくだりのリーダーシップ」である。それは愛のためにはいつでも、権力を放棄することのできるような真の霊的リーダーシップである。霊的生活における無力さとへりくだりを持った人とは、イエスに導かれる所ならどこへでも従う用意ができているほどイエスを深く愛する人、イエスと共にあればどこであってもいのちを見出し、しかもそれを豊かに見出せることをつねに信じている人のことである。 クリスチャン指導者は、いのちの糧を除いては、何も持たないで旅する徹底した貧しい者であるべきである。貧しくあるということには、ただ自分が導かれる者になるというリーダーシップを手に入れる可能性があるだけである。もしこれからの教会に、何らかの希望があるとすれば、その教会の指導者たちが、喜んで導かれる者となることによって、貧しい教会になることである。

訓練−学的思索への希望

 自分の手を伸ばして生きるために必要な訓練は、たゆまぬ神学的思索である。祈りが、私たちを最初の愛に結びつけ、告白と赦しが、私たちの務めを共同体のものとするのと同様に、たゆまぬ神学的思索こそが、私たちの導かれて行く所を批判的に見分けることを可能にする。

 真に神学的な思索とは、キリストの心で考えるということである。クリスチャン指導者とは、人類を死の力から解放し、永遠のいのちへの道を開くために来られたイエスの御名によって考え、語り、行動する者のことである。神がいかに人類の歴史において行動なさるかを、絶えず見分けられるようになることが大切である。

 クリスチャン指導者は、神学者であるべきである。ここで言う神学者とは、神の心を知る者のことであり、祈りと学びと注意深い分析によって、一見、意味も目的もなく起こっているかのように見えるその時代の出来事のただ中で、神の聖なる救いの業をはっきりと示すことのできる訓練を受けた者のことである。

 神学的な思索とは、日々経験する苦しみと喜びの現実を、イエスの心で思い巡らし、そのことによって、人々の意識を、神の恵みに満ちた導きを知ろうとするようになるまでに引き上げることである。クリスチャン指導者は、人々が細い主の御声を聴き取り、力と慰めを受け取ることができるよう助けるために召されている。

 将来のクリスチャン・リーダーシップは神学的なリーダーシップであるべきである。神学校は、時の徴を正しく見分けるために人々を訓練する、中心的な場とならなければならない。単なる知的訓練だけでなく、体と精神と心からなる全人格を含めた、深い霊的な人間形成が要求される。

むすび

 自分の能力を示そうとする関心から祈りの生活へ、人気を得ようとする気遣いから、相互になされる共同の働きへ、権力を盾にしたリーダーシップから、神は私たちをどこに導いておられるのかを批判的に識別するリーダーシップへと、私たちが移行することを主イエスは求めておられる。

 手を伸ばし、あえて下降する生涯を選び取る指導者のイメージ。祈る指導者、傷つきやすい弱さを持った指導者、主に信頼を置く指導者のイメージが最後に映し出されてこの本は閉じられている。