礼拝メッセージ「父を用いられる神」

09 Father's Day

礼拝メッセージ「父を用いられる神」

聖書箇所:ヘブル人への手紙12章1-13節

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。ヘブル人への手紙12章11-12節

父というのは、山の稜線の急峻な岩肌に、しがみつくようにして立っている大きな木のようです。

稜線は山々における馬の背のような部分ですから、いつも風や雨の当たりが強く、しばしば落雷がある所です。しかしどこにも逃げ場はなく、まさに矢面です。そんな過酷な所に、父は立ち続けなければならないのです。

ですから父の一週間は、まるで懲らしめを受け続けるかのような毎日です。週末になる前に、「やってられない今日この頃!」と叫びたくもなるでしょう。

しかし上記のみことばは、そのような苦しみの中に置かれている父、そして私たちに対する、天の父からの語りかけです。

天の父なる神は、地上の父たちに平安な義の実を結ばせようとしておられます。天の父なる神は、地上の父たちを豊かに用いて、やがて矢面に立ち、明日の家族と社会を背負って立つ子どもたちを、将来に備えて育成されるのです。

Trees like Father

バトンタッチ その3

Just like Mt. Doom

今週月曜に、久しぶりに休暇を取ることが出来、妻と一緒に那須岳登山をした。この風景、まるで指輪物語(The Lord of the Rings)の中に出てくる滅びの山(Mt. Doom)みたいでしょ。(実際この山は今も活火山です。硫黄臭い煙を立ち上らせている山肌なのです。もし噴火すれば文字通り滅びの山になるでしょう。)

すべてを支配することができる権力の象徴である「力の指輪」を滅ぼすために、フロドとサムがこのような山を登ったことを思い浮かべながら写真を撮りました。

バトンタッチにおいて、打ち勝たなければならないものの一つ。それは、力あるポジションが持つ魔力ではないでしょうか。まるで重力場のように、強力な吸引力を持つポジション。だからこそ、バトンタッチの時期が来ていることを覚えても、なおその座を譲ることができないほどその人を捕らえてしまうのです。

しかし、祈りの力によるなら、そのような力の誘惑にも、見事に打ち勝つことができるでしょう。なぜなら祈りにおいて、私たちは自分の意義と安全を、ポジションにおいて見いだすのではなく、神御自身の中に見いだすことができるからです。

ペンテコステ(国外宣教デー)礼拝メッセージ「神の国の門」

ペンテコステ礼拝(国外宣教デー)メッセージ「神の国の門」(ここをクリックするとメッセージが聞けます)

聖書箇所:ルカ福音書13:22-30

努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。ルカ13:24

今週の説教のあらすじ

「主よ。救われる者は少ないのですか。」と問う人に対して、主イエスは上記のみことばを語られました。神の国の門は、以下の3つの意味で狭いのです。

1、対象的な狭さ:世の中には様々な信仰の門戸があります。しかしイエス様だけが、神の国の門なのです。ヨハネ福音書10章9節に「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」とある通りです。

2、時間的な狭さ:門戸は今、全世界に向かって大きく開かれていますが、やがて閉じられる時が来ます。ノアの箱舟の戸が閉ざされたように、やがて神の国の戸は閉じられるのです。戸が閉まってしまうと、戸をいくらたたいても、神の国にはいれません。今がチャンスです。

3、実質的な狭さ:学んでも不法を行っていては、神の国にはいれません。聞いたことを行う信仰、みこころを行う信仰が必要です。マタイ福音書7章21節に「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」とある通りです。