死に至るまで忠実なれ Even to the point of death

死に至るまで忠実なれ Even to the point of death

父の日歓迎礼拝メッセージ「父の涙」

父の日歓迎礼拝メッセージ「父の涙」

聖書箇所:使徒の働き25章13-27節

私としては、彼は死に当たることは何一つしていないと思います。しかし、彼自身が皇帝に上訴しましたので、彼をそちらに送ることに決めました。使徒25章25節

パウロの生き様は、くっきりと主イエスの姿を描き出しています。ゴスペルシンガー岩渕まことさんが作詞作曲した歌の中に、「父の涙」という素晴らしい歌があります。父なる神とひとり子主イエスの姿を描き出しているその詩を、以下に引用します。

一、心にせまる父の悲しみ
  愛するひとり子を十字架につけた
  人の罪は燃える火のよう
  愛を知らずに今日も過ぎてゆく

  十字架からあふれ流れる泉
  それは父の涙
  十字架からあふれ流れる泉
  それはイエスの愛

二、父が静かに見つめていたのは
  愛するひとり子の傷ついた姿
  人の罪をその身に背負い
  父よ彼らを赦して欲しいと

  十字架からあふれ流れる泉
  それは父の涙
  十字架からあふれ流れる泉
  それはイエスの愛

iTunesのようなポッドキャストの受信ソフトにこのバナーをドラッグ&ドロップすることで、番組を登録できます。詳しくはこちら

礼拝メッセージ「父を用いられる神」

09 Father's Day

礼拝メッセージ「父を用いられる神」

聖書箇所:ヘブル人への手紙12章1-13節

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。ヘブル人への手紙12章11-12節

父というのは、山の稜線の急峻な岩肌に、しがみつくようにして立っている大きな木のようです。

稜線は山々における馬の背のような部分ですから、いつも風や雨の当たりが強く、しばしば落雷がある所です。しかしどこにも逃げ場はなく、まさに矢面です。そんな過酷な所に、父は立ち続けなければならないのです。

ですから父の一週間は、まるで懲らしめを受け続けるかのような毎日です。週末になる前に、「やってられない今日この頃!」と叫びたくもなるでしょう。

しかし上記のみことばは、そのような苦しみの中に置かれている父、そして私たちに対する、天の父からの語りかけです。

天の父なる神は、地上の父たちに平安な義の実を結ばせようとしておられます。天の父なる神は、地上の父たちを豊かに用いて、やがて矢面に立ち、明日の家族と社会を背負って立つ子どもたちを、将来に備えて育成されるのです。

Trees like Father

08 Father’s Day 父の日歓迎礼拝メッセージ「神の親友」

08 Father's Day

礼拝メッセージ「神の親友」

聖書箇所:ヨハネ福音書15章1ー27節

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。ヨハネ福音書15:13-14

「What a friend we have in Jesus」という賛美歌は、日本では「いつくしみ深き(讃美歌312番)」や「罪とがを荷のう(聖歌607)」という名で親しまれています。ジョセフ・スクライブンという方が、深い悲しみの中で詞を書き、チャールズ・C・コンバースが作曲しました。この歌は、深い悲しみに打ちひしがれる時にも、心躍る喜びの時にも、歌うことの出来る曲です。以下、野町試訳。

『なんと素晴らしい友だろうか、イエス様あなたは!私たちのすべての罪や悲しみを、背負ってくださるのだから。なんと素晴らしい特権だろうか、祈りのうちに、神にすべての悩みを打ち明けることができるとは!

ああ。なんとよく私たちは心を騒がせてしまい、なんとしばしば、味わう必要のない痛みを味わうのか。すべては、私たちが祈りのうちに、神にすべての悩みを打ち明けないことによるのだ。』

iTunesのようなポッドキャストの受信ソフトにこのバナーをドラッグ&ドロップすることで、番組を登録できます。詳しくはこちら

父の日歓迎礼拝メッセージ「神の国の宴への招待」

07父の日歓迎礼拝

父の日歓迎礼拝メッセージ「神の国の宴への招待」

聖書箇所:ルカ福音書14:12-24

『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。』ルカ14:23-24

神の国の宴に招かれるということは、最高に光栄なことです。なぜならその宴は、天地万物の造り主である神が招いて下さる、盛大な宴だからです。実はあなたも、そんな素晴らしい宴に招待されています。

ところが、イエス様が語られたたとえでは、宴に招待された人々がみな、畑や牛や結婚に心奪われて、せっかくの招きを断ってしまいます。神の国の宴に招かれるということは、お返しが出来ないほど光栄なことなのに、彼らはそのことを理解できなかったようです。

断られた主人は怒り、「急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい者、からだの不自由な者、盲人、足のなえた者たちを連れて来なさい。街道や垣根のところに出かけて行って、無理にでも人々を連れて来なさい。」としもべに命じます。

神は、見返りを期待できない者たちを、気前よく招いて下さいます。しかし、「自分は神に対してもお返しができる、神に招かれて当然の者だ」と考えて、軽率にも神の招きを断ってしまうなら、そういう人は、「あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。」という言葉を聞くことになります。