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結婚前のセックス(婚前交渉)について考える
浜田省吾の曲を紹介しますので、きちんと語っておかなければならないことがあります。
それは結婚前のセックス(婚前交渉)についてです。性的関係。それはとても刺激的な関係だと言えます。だから一度でも肉体関係を持つと、相手と依存的な関係になってしまいます。
つきあっている相手と結婚前にセックスし、もしももしもその後、その人と結婚に至らなかった場合、どうなるのか?
私はこの時代に立てられた牧師なので、これまで多くそのような現実に直面してきました。そのような場合、間違いなく言えることは、女性のだれもが、深くて重い傷を負ってしまうということです。
本当に悲惨です。自分がかわいそうで仕方がないという自己憐憫。もうだれも信じられないという人間不信。いっそ死んでしまいたいという自殺願望。将来結婚する相手と神に対しての後ろめたさ。そして自己嫌悪・・・。
でも大丈夫。あなたがもし教会に、神のもとに帰るなら、神はあなたに走り寄り、「お帰り!よく帰ってきてくれたね。どんなに大変だったか、わたしはよく知っているよ。」と言って、ありのままのあなたを抱きしめてくださる。決して毛嫌いなんかなさらない!神は放蕩息子のたとえを通してそのように教えています。
本当の神は、あなたが将来本当に幸せな結婚をし、幸せな家庭を築くことを誰よりも切に願っておられます。そして、あらゆるマイナスをプラスに変えてくださり、万事を益に変えてくださいます。
「性・セックスを一番楽しんで満足(サティスファクション)を得ているのは、フリーセックス(結婚外性交渉)をしている人たちではなく、結婚関係の中だけで性を用いている人たちである!」これは、アメリカのシカゴ大学による、アメリカ人の性についての研究調査の結果です。
世の観点から見れば驚くであろうこの結果は、実は聖書的に見るならば、あたりまえのことと言える。創世記を見ると、創造主が人を男と女に創造されたことが記されてある。聖書では、「知る」という言葉が性的関係を持つという意味で用いられている。そして、性的関係を持つということは、相手と一体になることだとはっきり記されてある。
つまり、もし性的関係を持った後にその人と別れ、別の人と関係を持っていくなら、一体になった自分が引き剥がされ、どんどん自分の一部を失っていくことになる。バラの花のような自分。しかし結婚前に性関係を持っていくなら、花びらがどんどん失われて、将来幸せな結婚をすることが難しくなる。
それ故に、結婚外での性的体験を持つ人たちの自殺率は、そうでない人たちの3倍に跳ね上がっているという恐ろしい現実が生じている。また、うつ病といった心の病になりやすいのもフリーセックスの体験者だという報告がある。
しかしテレビや映画、スポーツ新聞やティーンエージャーが読む雑誌において描かれているセックスは、ほとんど結婚外の関係であるのが事実。学校での性教育においても、個人の権利と自由が尊重され、結婚外でのセックスを奨励しているとしか言いようがない。
そのようにして、現代はまさに、かつてなかったほど、性的に危機的な状況となっている。首都圏では、かなりの若者が性体験をし、妊娠中絶や性病、そしてポルノ中毒が蔓延している。
正しい情報と知識を知り、それを早急に伝えていかなければならない。性に伴うリスク、危険をも伝えるべき。それと同時に、聖書に記された、性の祝福と正しい用い方を学ぶ必要がある。
性は三位一体の神の本質があらわされている故に尊いもの、素晴らしいものである。セックスは、知性、感情、意識、肉体、全人格において夫婦が一体となるための接着剤である。
もし罪を犯してしまった人には、「神が赦すことの出来ないほど大きな罪はない!」ということを伝えて悔い改めに導き、二度と同じ過ちを犯さないために、正しい情報と助けを提供する必要がある。聖書は、あなたの祝福のために、アブステナンス(ABSTINENCE:結婚まで性的関係を持たない、結婚関係以外で性を用いないということ)と純潔(PURITY)を教えている。
それぞれの置かれている所で、アカウンタビリティグループ(責任を問い、互いに支えあうグループ)を作ることは、非常な助けになる。性的被害者・加害者については、プロのカウンセラーや牧師などに相談し、神による癒しと赦しを体験する必要がある。
God Bless You
教会形成の目指すべきゴール
以前、寺田由弘・ジンジャー宣教師を迎えての国外宣教研修会において教えられ、さらに河野勇一師を迎えての伝道懇談会においても教えられたことがあります。
それは、教会形成(伝道、牧会、宣教)の目指すべきゴールです。
まずは一番パーソナルな、個人伝道というレベルで考えてみましょう。ある人に祈りつつ福音を語って伝道する時、伝える側の責任は、いつ終わるのでしょうか。相手がバプテスマを(洗礼)を受けた時点で導いた人の責任が終わると考えやすいのですが、そうではありません。導かれた人が別の人を導くところまでフォローアップ&フォロースルーし、導かれた人を通して新たに救われる魂が起こされる時、はじめて導いた側の責任が終わると考えるのがより聖書的です。
教会形成というレベルでも同様のことが言えます。新しく生み出した教会を、自立するところまで導けばゴールと考えられやすいのですが、そうではないのです。新しく生み出した教会を自立させ、さらにはその教会が新しく教会を生み出すところまで涙と祈りをもって育て上げる。その教会から新しく直接献身者が起こされるまでフォローする。さらには、その教会から宣教師が派遣されるまで養い育てる。その時はじめて、教会開拓、教会形成のゴールにまで導いたということになり、産みの苦しみをした母教会の責任が終わると考えるのがより聖書的です。
それを英語で言うと、Reproduction。一言で言えば、教会形成(伝道、牧会、宣教)の目指すべきゴールは、再生のサイクルを形成するということです。