八ヶ岳主峰赤岳を目指して

八ヶ岳主峰赤岳を目指して

杉戸キリスト教会牧師 野町真理

今年の夏も、本当は妻と一緒に山登りがしたかったが、妻が怪我をして松葉杖だったのでそれは無理。それで一日だけ、妻に家でおとなしくしてもらい、妻にはきつい登山計画を一人で実行することにした。

日曜日の間に、つまり午前0時になる前に高速に乗れば、高速代1300円で行けること。
午後の雷雨や霧を避けるため、朝早くから登頂を始め、午後の早い時間に山を降りること。

この2点を考え、日曜の午後9時すぎに夕拝を終えた後、妻のために留守中簡単に食べれるものを買いに走り、ガソリンを満タンにし、そして川越ICを目指した。さすがにこの時間だと16号もすいている。

無事に日付が変わる前に高速に乗り、圏央道から中央道へと抜けていく。須玉ICで高速を降り、清里方面に車を走らせる。清里駅周辺の街明かりを後にしてしばらく走ると、野ウサギが車の前を横切った。

美し森駐車場に無事到着したのは午前2時だった。エンジンを止めて外に出る。うわー!すごい!!!天を見上げると、まさに数え切れないほどの星たちが、静かに瞬いていた。「さあ天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。・・・あなたの子孫はこのようになる。」(創世記15章5節)の御言葉を覚えつつ、祈りをささげる。しかし5分も外にいるとかなり冷えてきてしまう。星空の写真を撮ろうとしたが、三脚がないのであきらめた。車の中で仮眠をする。

午前4時に荷物を抱えて車を後にする。舗装された道路を30分ほど歩くと登山口。そこから県界尾根を目指して歩き始める。途中夜明けとなり、遠くに雄大な八ヶ岳連峰が姿を現した。

県界尾根は長野県と山梨県の県境に位置する尾根。小天狗から大天狗、そして赤岳山頂を目指す。八ヶ岳は小屋ヶ岳とも言われるほど、山小屋が多い。しかし東側からの赤岳登山ルートには山頂付近にたどりつくまで山小屋が一つもない。駐車場から考えると約5時間の登りとなる。だから水分を2リットルほどリックサックに入れて来た(ポカリスエットとカインズでまとめ買いした緑茶)。食料はカロリーメイト、クリームパン、そしてメロンパン。

大天狗を越えたあたりからは鎖や梯子が用意されている急峻な登りになるので、軍手も用意している。クマ鈴の代わりに、iPhoneをスピーカーで鳴らす。クリス・トムリンのアルバム、Hello Loveを繰り返し聴きながら賛美する。

大門沢に沿って1時間ほど歩くと、いよいよ小天狗を目指しての急な登りとなる。そこから小天狗までは約1時間、小天狗から大天狗までが約1時間30分、大天狗から山頂までが2時間弱となる予定。途中で朝日を背に迎えた後は、Power Filmの折りたたみ太陽電池パネルをリックの上に広げ、iPhoneを充電しながら音楽を聴く。

山登りにおいては、一歩前に歩き出さないかぎり、目指す山頂にたどりつくことはできない。人生においても、とにかく一歩前に歩き出さなければ、目指す所にたどりつくことはできない。

山登りにおいて、苦しさの裏側にあるのは、尾根や山頂にたどり着いた時に味わうことのできるすばらしい景色と喜び、そして達成感。人生において、苦しさの裏側にあるのは、目指す所にたどり着いた時に味わうことのできる歓喜。そして、十字架の苦しさの裏側、死の向こう岸にあるのは、復活のいのちと永遠の喜び。

人生には、地図とコンパスが絶対に必要だ!

Yokotake

八ヶ岳の主峰赤岳を目指して、県界尾根から登山した際に迫ってきた横岳の姿。

横岳の標高は2,829m。八ヶ岳の主峰赤岳に次ぐ高さを誇る。

Wikipediaで横岳を調べると、

夏山登山でも硫黄岳から硫黄岳山荘にむけて下ってきた辺りから横岳大同心、小同心を中心とした赤岳方面まで一帯の稜線を縦走する登山道は、吹き上げる西風の影響などから(時として足元が見えないぐらいの)濃霧に見舞われやすく、落石や道を見失って迷ったり、転落、スリップに注意を要する。横岳付近の登山道には逸れ行き別れになってしまった仲間への書置きや追悼登山の石積みが多く見られる。

とある。

その通りに赤岳を目指して登っていた時にはその姿を現していた横岳は、赤岳登頂後には霧に包まれてしまった。

yokotake mist

山の天気は変わりやすいと言われるが、まさにその通り。

人生の天気も変わりやすいことを覚える。

晴れ間が見えていたかと思えば、たちまち五里霧中で道に迷うこともよくある。

だからこそ、人生には、地図とコンパスが絶対に必要だ。

正確で信頼に足る人生の地図でありコンパス、それは聖書以外にはない。

礼拝メッセージ「いと高き方にならいて」

礼拝メッセージ「いと高き方にならいて」

聖書箇所:使徒の働き7:46ー60

そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。使徒の働き7章60節

捨て身で神のことばを語ったステパノは、キリスト教会の歴史において、最初の殉教者となりました。

上記のみことばは、ステパノが地上の人生を終える最期に叫んだ、勝利のことばです。

ステパノが一生懸命祈っている彼らは、その時、怒りと憎しみと殺意に歪んだ恐ろしい形相で、次々にステパノに大きな石を投げつけていました。

しかしステパノは、そのような彼らの罪を、彼らに負わせないでくださいと、祈ることができたのです。

人はいと高き方・主イエス・キリストにならう日常生活の中で、少しずつキリストのように変えられる。そして人は、遂に憎しみよりも強い愛に生きることができる。愛と勝利の高嶺に登ることができる。

ステパノは身をもってそのことを実証し、一粒の麦として、しばらくの間、眠りについたのでした。そしてそこには、サウロという青年がいました。

礼拝メッセージ「預言者モーセ」

礼拝メッセージ「預言者モーセ」

聖書箇所:使徒の働き7:17ー37

このモーセが、イスラエルの人々に、『神はあなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。』と言ったのです。使徒の働き7章37節

創世記が語っている父祖たちに続けて、モーセによる出エジプトの出来事を、ステパノは語ります。来週までに出エジプト記をお読みになってください。

『彼の子孫は外国に移り住み、四百年間、奴隷にされ、虐待される。』、『彼らを奴隷にする国民は、わたしがさばく。その後、彼らはのがれ出て、この所で、わたしを礼拝する。』そのようにアブラハムに語られた神の言葉は、時が来ると出来事になりました。

その時、『だれがあなたを支配者や裁判官にしたのか。』と言って人々が拒んだモーセを、神は柴の中で彼に現われた御使いの手によって、支配者また解放者としてお遣わしになりました。

このモーセが、神の民を導き出し、エジプトの地で、紅海で、また四十年間荒野で、不思議なわざとしるしを行いました。そしてこのモーセが、イスラエルの人々に、『神はあなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。』と言ったのです。

ステパノが引用した神の言葉。それは預言者モーセによる、主イエスに関する預言でした。

礼拝メッセージ「父祖たちの神」

礼拝メッセージ「父祖たちの神」

聖書箇所:使徒の働き6:8-7:16

そこでステパノは言った。「兄弟たち、父たちよ。聞いてください。私たちの父祖アブラハムが、カランに住む以前まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現われて、・・・使徒の働き7章2節

歴史はいつでも、静まって神の御声を聴くことができ、いのちをかけて神に従うことを選び取ることのできた一人一人によって、切り開かれて来ました。

これからの歴史、ネクスト・ステージもそうです。静まって神の御声を聴くことができ、いのちをかけて神に従うことを選び取ることのできる一人。そのような一人によって、フロンティアは切り開かれていきます。

今日から4回に分けて、最初の殉教者ステパノの、いのちをかけた説教に耳を傾けます。今日の部分では、旧約聖書の創世記に記されている父祖たちと、父祖たちの神について、語られています。

ぜひ来週までに創世記を全部お読みになってください。そこには、父祖たちと呼ばれる人たちの人生が記録されています。

アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてヨセフを中心とした12人の族長たち。父祖たちの神は、彼ら一人一人をお用いになって、歴史を切り開かれました。

礼拝メッセージ「普通の人を用いる神」

礼拝メッセージ「普通の人を用いる神」

聖書箇所:使徒の働き4章1-22節

彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。使徒の働き4章13節

神に豊かに用いられたペテロとヨハネ。ふたりは、無学な、普通の人でした。

ペテロは主イエスに呼ばれるまで漁師でした。彼は一番弟子であると自負していましたが、鶏が鳴くまでに3度、受難の主イエスを否みました。しかし先行する主イエスのとりなしの祈りによって、彼は涙の中から立ち直り、兄弟たちを力づける者に変えられていきました。

ヨハネも主イエスに呼ばれるまで漁師でした。彼は「ボアネルゲ」(「雷の子」の意)と呼ばれたほどに、短気で激しい性格の持ち主でした。しかし主イエスの愛によって、やがて彼は「愛の使徒」に変えられていきました。

ふたりはかつて、主イエスとともにいました。そしてふたりは、いつも主イエスとともにいました。無学な、普通の人が、神に豊かに用いられた秘訣がここにあります。

復活され、今も生きておられる主イエスは、現代を生きる私たちにも『見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。』と語っておられます。

礼拝メッセージ「邪悪な生活からの救い」

礼拝メッセージ「邪悪な生活からの救い」

聖書箇所:使徒の働き3章17-26節

神は、まずそのしもべを立てて、あなたがたにお遣わしになりました。それは、この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださるためなのです。」使徒の働き3章26節

生放送や生演奏等をライブと言います。ライブとは、生きているなまの状態であり、躍動するいのちです。緊張感の中でいきいきと輝き、元気はつらつの状態。それがライブです。

大変興味深いことに、英語においてライブ(LIVE)を反対から綴ると、悪を意味する言葉(EVIL)になります。ライブ(LIVE)をひっくり返したものが悪(EVIL)だとすると、「悪とはいのちを奪い、元気を奪うものである」と定義できます。

「あなたがたひとりひとりが、いのちや元気を奪う邪悪な生活をしている」と聖書は告発します。しかし続けて聖書は、「驚くばかりの恵みによって、人の悪が、人を生かし元気づけることのできるライブに変えられる」と福音を宣べ伝えています。

あなたから有害な毒のようなものをすべて取り除き、あなたをいきいきと生かす。その時、人々に元気を与え、人々を生かすことのできるライブな人としてあなたが生かされる。それが、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださる神の祝福です。