礼拝メッセージ「まず祈るべきこと」

礼拝メッセージ「まず祈るべきこと」

聖書箇所:ルカ福音書11:1-13

そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。ルカ福音書11章2節

人間の心の一番深い所から、密かに頭をもたげてくる願望は、「自分の名前が、自分自身があがめられますように」という願いである。そう言っても過言ではありません。心の王座からまことの神を追い出し、代りに自分が王座に座り、自分があがめられることを求めて生きること。これこそが、聖書の語る本物の罪です。

いのち、健康、能力、仕事、結婚相手、子供、食べ物、着る者、住む所。数え上げたらきりがありませんが、どれ一つとして、神から与えられたものでないものはありません。けれども、これらすべてのものを、あたかも自分で勝ち得たかのように、神を無視し、感謝もせずに生きる者はすべて、聖書が語っている罪人です。罪人は、他人はもちろん神様でさえも、自分のために利用します。まるで自分の召使であるかのように。

主の祈りの内容は、その一番最初から、人間が自分からは決して願えない祈りです。しかし聖霊に促されて、「父よ!私の名前ではなく、あなたの御名があがめられますように!」と本気で祈るなら、人はエゴイズムから解放されて、神の栄光を現す真の人間となることが出来ます。

礼拝メッセージ「天の父なる神」

礼拝メッセージ「天の父なる神」

聖書箇所:ルカ福音書11:1-13

そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。…ルカ福音書11章2節

            
祈り:「天の父なる神よ!あなたは私たちが苦しむ時、どこにおられるのですか?」

答え:『わたしはあなたが苦しむ時、そこにいて、共に苦しんでいる。』

祈り:「ではなぜあなたは、全能の御手をもって、暴虐を止められないのですか?」

答え:『もしあなたに苦しみや痛みがなければ、あなたはわたしに叫ぶこともなく、わたしに背を向け続け、永遠の滅びに至ることをわたしはよく知っているからだ。けれども、どの苦しみもまずわたしを刺し貫き、それから後、あなたの所に向かうのだ!』

聖書は、父なる神が確かにおられることを語っています。あなたが苦しむ時、天の父はそこにおられ、腸がわななくほどの痛みを味わっておられます。そして、あなたが天の父を呼ぶずっと前から、天の父はあなたを呼んでおられます。天の父は、私たちの呼びかけを待っておられます。

そのことを身をもって明らかにして下さったのが、神のひとり子、主イエス・キリストです。すべての苦しみと悲惨が、十字架上のイエス様を刺し貫きました。それは私たちの罪を赦し、神の子どもとするためでした。

礼拝メッセージ「世界を変える祈り」

礼拝メッセージ「世界を変える祈り」

聖書箇所:ルカ福音書11:1-13

さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。…ルカ福音書11章1-2節

主イエスに聴く祈りをする時にだけ、静まって聖書に耳を傾ける時にだけ、祈ることが出来る素晴らしい祈りがあります。それが「主の祈り」と呼ばれている祈りです。「主の祈り」は、神が私たち人間に与えて下さった「世界を変える祈り」です。

いじめ、虐待、家庭内暴力、離婚、心の病、自殺、殺人、テロ、報復戦争、地球規模の異常気象災害。この世界は今、孤独と絶望と無関心に満ちた不毛の地になっています。なぜなら、私たち人間が神を神とせず、自分を神として歩んでいるからです。「自分さえよければそれでいい」と考え、どこまでも自己中心に生活しているからです。人間の罪がこの世界を不毛の地に変えているのです。

しかし私たちが「主の祈り」を祈るなら、不毛の地に信仰と希望と愛の木が芽生え、豊かなオアシスが現れます。いのちを奪い取っていくのではなく、いのちを与え、活き活きと生かしていく世界が育まれていくのです。なぜなら「主の祈り」とは、「罪人の自己中心な祈り」とは正反対の祈りだからです。

主の祈りを、その一つ一つの言葉の意味を考えながら祈る時、あなたも世界を変える一人となることができます。

教会創立記念礼拝メッセージ「原点に立ち返って」

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教会創立記念礼拝メッセージ「原点に立ち返って」

聖書箇所:ルカ福音書10:38-42

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」ヨハネ福音書7:37-38

信仰の原点は、神の御言葉に聴く祈りにあります。

神の御言葉に聴く人は、山からの豊かな流れ込みを受けている湖のようです。主イエスの足もとに座って、静かに御言葉に聴き入るマリヤの心は、いのちの水で豊かに潤されていったことでしょう。

神の御言葉に聴かない人は、流れ込みを受け入れない湖のようです。しばらくは、蓄えた水を外に注ぎ出すことができます。しかし受けることを止めて流し続ければ、どんなに豊かな水瓶も、やがて枯れてしまいます。

受けることを止めて流し続ける。これがマルタの心の状態でした。最初は喜んでイエス様をもてなしていましたが、すぐにその心は渇いてしまいました。熱心に忙しく動き回っている姿とは裏腹に、義務感だけがあり、不満やいらだちで一杯になって、疲れを覚えたことでしょう。

しかしもしマルタが、忙しく動いていても休憩の時を持って、主イエスの御言葉に耳を傾けたとしたら、どうでしょうか。たとえ忙しい中にあっても、不平不満で一杯になることはなかったでしょう。そして、喜びと感謝の心をもって、最後までイエス様に喜んで頂けるおもてなしをすることができたことでしょう。