父の日歓迎礼拝メッセージ「神の国の宴への招待」

07父の日歓迎礼拝

父の日歓迎礼拝メッセージ「神の国の宴への招待」

聖書箇所:ルカ福音書14:12-24

『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。』ルカ14:23-24

神の国の宴に招かれるということは、最高に光栄なことです。なぜならその宴は、天地万物の造り主である神が招いて下さる、盛大な宴だからです。実はあなたも、そんな素晴らしい宴に招待されています。

ところが、イエス様が語られたたとえでは、宴に招待された人々がみな、畑や牛や結婚に心奪われて、せっかくの招きを断ってしまいます。神の国の宴に招かれるということは、お返しが出来ないほど光栄なことなのに、彼らはそのことを理解できなかったようです。

断られた主人は怒り、「急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい者、からだの不自由な者、盲人、足のなえた者たちを連れて来なさい。街道や垣根のところに出かけて行って、無理にでも人々を連れて来なさい。」としもべに命じます。

神は、見返りを期待できない者たちを、気前よく招いて下さいます。しかし、「自分は神に対してもお返しができる、神に招かれて当然の者だ」と考えて、軽率にも神の招きを断ってしまうなら、そういう人は、「あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。」という言葉を聞くことになります。

礼拝メッセージ「安息日の食卓」

礼拝メッセージ「安息日の食卓」

聖書箇所:ルカ福音書14:1-11

なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。ルカ14:11

メッセージのあらすじ

ある安息日に、イエス様は食事に招かれました。しかしその食卓は息の詰まるような雰囲気でした。安息日の食卓なのになぜそうだったのか。理由が2つありました。

1、裁きの眼差しを持った人々がいた

イエス様の真正面に、水腫をわずらっている人がいました。そしてみながじっとイエス様をみつめていたのです。イエス様は、「安息日に病気を直すことは正しいことですか。」と言われ、その人を抱いて直してやり、お帰しになりました。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」と問うイエス様に、彼らは答えることができませんでした。

2、人々に上座を選ぶ高慢があった

招かれた人々は上座を選んでいました。イエス様は彼らを、たとえをもって教えられました。「婚礼の披露宴に招かれたときには、上座にすわってはいけません。(中略)招かれるようなことがあって、行ったなら、末席に着きなさい。そうしたら、あなたを招いた人が来て、『どうぞもっと上席にお進みください。』と言うでしょう。そのときは、満座の中で面目を施すことになります。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

礼拝メッセージ「ああそれなのに」

礼拝メッセージ「ああそれなのに」

聖書箇所:ルカ福音書13:31-35

ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。ルカ13:34

今週の説教の背景

ルカが書いたルカ福音書と使徒の働きは、前後2巻セットになっています。そのつなぎ目にあるのがエルサレムという都です。

ルカ福音書では、ガリラヤからエルサレムに向かって旅をされるイエス様の姿が記されています。エルサレムには、十字架の死に至る受難と葬りが待っていました。しかし主イエスは、3日目の朝に復活され、天に上げられました。

使徒の働きでは、エルサレムから始まって、ユダヤとサマリヤの全土、そして地の果てへと向かう教会の旅が記されています。その原動力となったのが、ペンテコステにエルサレムで起こった聖霊降臨でした。

今日の所は、主イエスがエルサレムに向かって、旅を続けておられた一場面です。エルサレムは預言者殺しの都でした。そこに預言者が向かうということは、自殺行為でした。主イエスは、上述の嘆きとともに、神の敵となった罪人の都エルサレムに向かわれました。

ペンテコステ(国外宣教デー)礼拝メッセージ「神の国の門」

ペンテコステ礼拝(国外宣教デー)メッセージ「神の国の門」(ここをクリックするとメッセージが聞けます)

聖書箇所:ルカ福音書13:22-30

努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。ルカ13:24

今週の説教のあらすじ

「主よ。救われる者は少ないのですか。」と問う人に対して、主イエスは上記のみことばを語られました。神の国の門は、以下の3つの意味で狭いのです。

1、対象的な狭さ:世の中には様々な信仰の門戸があります。しかしイエス様だけが、神の国の門なのです。ヨハネ福音書10章9節に「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」とある通りです。

2、時間的な狭さ:門戸は今、全世界に向かって大きく開かれていますが、やがて閉じられる時が来ます。ノアの箱舟の戸が閉ざされたように、やがて神の国の戸は閉じられるのです。戸が閉まってしまうと、戸をいくらたたいても、神の国にはいれません。今がチャンスです。

3、実質的な狭さ:学んでも不法を行っていては、神の国にはいれません。聞いたことを行う信仰、みこころを行う信仰が必要です。マタイ福音書7章21節に「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」とある通りです。

礼拝メッセージ「からし種とパン種」

礼拝メッセージ「からし種とパン種」

聖書箇所:ルカ福音書13:18-21

「神の国は、何に似ているでしょう。何に比べたらよいでしょう。それは、からし種のようなものです。それを取って庭に蒔いたところ、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。」またこう言われた。「神の国を何に比べましょう。パン種のようなものです。女がパン種をとって、三サトンの粉に混ぜたところ、全体がふくれました。」ルカ13:18ー21

今週の説教のあらすじ

イエス様は様々なたとえを用いて、神の国について教えて下さっています。今日の箇所では、「神の国はからし種やパン種のようなものです。」と教えられています。

からし種はとても小さな種です。しかし蒔かれると大きく成長して、空の鳥が枝に巣を作ることが出来るほどの木になります。『昔主イエスのまきたまいし、いとも小さき生命の種。芽生え育ちて地の果てまで、その枝を張る樹とはなりぬ。』と讃美歌には歌われています。

パン種は少量であっても、大きな影響力を持っています。わずかな量を粉に混ぜるだけで、大量の粉全体をふくらませることが出来るのです。

しかし種を蒔かなければ、大きな木を見ることも、粉全体が膨らむのを見ることも決してできません。福音宣教も同じです。収穫を期待して福音の種を蒔き続けなければ、教会の将来はないのです。

母の日歓迎礼拝メッセージ「アブラハムの娘」

母の日歓迎礼拝式のご案内

母の日歓迎礼拝メッセージ「アブラハムの娘」

聖書箇所:ルカ福音書13:10-17

しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか。この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」ルカ13:15-16

今週の説教のあらすじ

あなたの造り主なる神は、誰よりもあなたを愛し、両手を広げて、あなたを歓迎しておられます。あなたの造り主なるイエス様は、「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」と約束しておられます。(イザヤ49:15参照)

希薄な人間関係は、傷ついた孤独をもたらします。そしてそのような孤独は、心に病と死をもたらすのです。しかしイエス様は、孤独のとなりにいつも共におられ、あなたの味方になって下さいます。

イエス様は、十八年もの間サタンが縛っていたアブラハムの娘に、安息日に触れられ、輝かしいみわざを行われました。イエス様の愛に触れられる時、私たちはサタンの束縛から解き放たれます。その時、生きることをあきらめかけていた者が、愛されている実感の中で、神をあがめる者へと変えられるのです。

礼拝メッセージ「実を結ぶための叱責」

礼拝メッセージ「実を結ぶための叱責」

聖書箇所:ルカ福音書13:1-9

みことば

『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」ルカ13:7-8

今週の説教のあらすじ

現代において失われつつあるもの。それは愛をもって厳しく叱るということではないでしょうか。主イエスは、私たちを本当に愛して下さっているからこそ、厳しく叱って下さるお方です。

災難に遭ったり、事故で亡くなった方々を覚える時、「その人たちは特別罪深い人たちだったのだ」と考えてしまうことはないでしょうか。そのような思いを抱く人々を、主イエスは厳しく叱責されます。「そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」と。

続けて主イエスは、実を結んでいないいちじくの木について語られます。これまで実を結んでいないからということで、すぐに木を切り倒してしまうことを、主イエスは望まれません。憐れみ深い主イエスは、その木が実を結ぶために、至れり尽くせりのことをして下さり、実のなるのを待っていて下さるのです。