礼拝メッセージ「いのちの回復」

礼拝メッセージ「いのちの回復」

聖書箇所:ルカ福音書15:1-7

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。ローマ6:23

ルカ15章には3つのたとえが記されています(羊のたとえ、銀貨のたとえ、息子のたとえ)。しかし3つのたとえは関連した1つのたとえです。「たとえ」という単語が単数形であること、いずれもパリサイ人や律法学者たちに対して語られていること、以下のような共通点を持っていることが、このことを裏付ける根拠です。

1、3つの失われたもの(いのち、価値、関係)
2、3つの回復されたもの(いのち、価値、関係)
3、3つの歓喜:失われたものが見つかることによってわき起こる非常な喜び(天、神の御使いたち、父に)
4、悔い改め、主イエスと共に喜ぶことへの3度の招き:「恵みを知って、わたしといっしょに喜んで下さい!」

しかし3つのたとえはまったく同じことを語っているわけではありません。羊のたとえはいのちの回復、銀貨のたとえは価値の回復、息子のたとえは関係の回復という視点で、福音の豊かさを味わうことができます。

罪とは神から離れて生きることです。神から離れた人間は、羊飼いから離れた羊のように、いのちを失いました。しかし良き羊飼いなる主イエスは、失われた人を捜して救うために来られました。主イエスは、永遠のいのちを賜物として与えて下さるために、十字架であなたの身代わりに死なれ、よみがえられた救い主です。

礼拝メッセージ「弟子の代価」

礼拝メッセージ「弟子の代価」

聖書箇所:ルカ福音書14:25-35

ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。耳のある人は聞きなさい。ルカ14:23ー24

キリスト者は地の塩だと言われます。今日のみことばを文脈から読むと、キリスト者の塩けとは、人がキリストの弟子になるために、次のような代価を払う時に与えられるものだということがわかります。

1、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎む(26節)
2、自分の十字架を負って従う(27節)
3、自分の財産全部を捨てる(33節)

家族や自分のいのちまでも憎むとは、父や母、息子や娘、兄弟や姉妹、そして自分を、キリストよりも愛さないということです。

自分の十字架を負うとは、福音宣教のために、キリストと共に苦しみを味わうことです。

自分の財産全部を捨てるとは、経済的にもキリストだけに頼るということです。お金の問題ほど信仰と深く結びついている問題はありません。

信仰による確信と勝算の幻がなければ、このような代価を払うことも、塩けを保つこともできません。

父の日歓迎礼拝メッセージ「神の国の宴への招待」

07父の日歓迎礼拝

父の日歓迎礼拝メッセージ「神の国の宴への招待」

聖書箇所:ルカ福音書14:12-24

『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。』ルカ14:23-24

神の国の宴に招かれるということは、最高に光栄なことです。なぜならその宴は、天地万物の造り主である神が招いて下さる、盛大な宴だからです。実はあなたも、そんな素晴らしい宴に招待されています。

ところが、イエス様が語られたたとえでは、宴に招待された人々がみな、畑や牛や結婚に心奪われて、せっかくの招きを断ってしまいます。神の国の宴に招かれるということは、お返しが出来ないほど光栄なことなのに、彼らはそのことを理解できなかったようです。

断られた主人は怒り、「急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい者、からだの不自由な者、盲人、足のなえた者たちを連れて来なさい。街道や垣根のところに出かけて行って、無理にでも人々を連れて来なさい。」としもべに命じます。

神は、見返りを期待できない者たちを、気前よく招いて下さいます。しかし、「自分は神に対してもお返しができる、神に招かれて当然の者だ」と考えて、軽率にも神の招きを断ってしまうなら、そういう人は、「あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。」という言葉を聞くことになります。

ペンテコステ(国外宣教デー)礼拝メッセージ「神の国の門」

ペンテコステ礼拝(国外宣教デー)メッセージ「神の国の門」(ここをクリックするとメッセージが聞けます)

聖書箇所:ルカ福音書13:22-30

努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。ルカ13:24

今週の説教のあらすじ

「主よ。救われる者は少ないのですか。」と問う人に対して、主イエスは上記のみことばを語られました。神の国の門は、以下の3つの意味で狭いのです。

1、対象的な狭さ:世の中には様々な信仰の門戸があります。しかしイエス様だけが、神の国の門なのです。ヨハネ福音書10章9節に「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」とある通りです。

2、時間的な狭さ:門戸は今、全世界に向かって大きく開かれていますが、やがて閉じられる時が来ます。ノアの箱舟の戸が閉ざされたように、やがて神の国の戸は閉じられるのです。戸が閉まってしまうと、戸をいくらたたいても、神の国にはいれません。今がチャンスです。

3、実質的な狭さ:学んでも不法を行っていては、神の国にはいれません。聞いたことを行う信仰、みこころを行う信仰が必要です。マタイ福音書7章21節に「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」とある通りです。

礼拝メッセージ「からし種とパン種」

礼拝メッセージ「からし種とパン種」

聖書箇所:ルカ福音書13:18-21

「神の国は、何に似ているでしょう。何に比べたらよいでしょう。それは、からし種のようなものです。それを取って庭に蒔いたところ、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。」またこう言われた。「神の国を何に比べましょう。パン種のようなものです。女がパン種をとって、三サトンの粉に混ぜたところ、全体がふくれました。」ルカ13:18ー21

今週の説教のあらすじ

イエス様は様々なたとえを用いて、神の国について教えて下さっています。今日の箇所では、「神の国はからし種やパン種のようなものです。」と教えられています。

からし種はとても小さな種です。しかし蒔かれると大きく成長して、空の鳥が枝に巣を作ることが出来るほどの木になります。『昔主イエスのまきたまいし、いとも小さき生命の種。芽生え育ちて地の果てまで、その枝を張る樹とはなりぬ。』と讃美歌には歌われています。

パン種は少量であっても、大きな影響力を持っています。わずかな量を粉に混ぜるだけで、大量の粉全体をふくらませることが出来るのです。

しかし種を蒔かなければ、大きな木を見ることも、粉全体が膨らむのを見ることも決してできません。福音宣教も同じです。収穫を期待して福音の種を蒔き続けなければ、教会の将来はないのです。

母の日歓迎礼拝メッセージ「アブラハムの娘」

母の日歓迎礼拝式のご案内

母の日歓迎礼拝メッセージ「アブラハムの娘」

聖書箇所:ルカ福音書13:10-17

しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか。この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」ルカ13:15-16

今週の説教のあらすじ

あなたの造り主なる神は、誰よりもあなたを愛し、両手を広げて、あなたを歓迎しておられます。あなたの造り主なるイエス様は、「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」と約束しておられます。(イザヤ49:15参照)

希薄な人間関係は、傷ついた孤独をもたらします。そしてそのような孤独は、心に病と死をもたらすのです。しかしイエス様は、孤独のとなりにいつも共におられ、あなたの味方になって下さいます。

イエス様は、十八年もの間サタンが縛っていたアブラハムの娘に、安息日に触れられ、輝かしいみわざを行われました。イエス様の愛に触れられる時、私たちはサタンの束縛から解き放たれます。その時、生きることをあきらめかけていた者が、愛されている実感の中で、神をあがめる者へと変えられるのです。

礼拝メッセージ「実を結ぶための叱責」

礼拝メッセージ「実を結ぶための叱責」

聖書箇所:ルカ福音書13:1-9

みことば

『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」ルカ13:7-8

今週の説教のあらすじ

現代において失われつつあるもの。それは愛をもって厳しく叱るということではないでしょうか。主イエスは、私たちを本当に愛して下さっているからこそ、厳しく叱って下さるお方です。

災難に遭ったり、事故で亡くなった方々を覚える時、「その人たちは特別罪深い人たちだったのだ」と考えてしまうことはないでしょうか。そのような思いを抱く人々を、主イエスは厳しく叱責されます。「そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」と。

続けて主イエスは、実を結んでいないいちじくの木について語られます。これまで実を結んでいないからということで、すぐに木を切り倒してしまうことを、主イエスは望まれません。憐れみ深い主イエスは、その木が実を結ぶために、至れり尽くせりのことをして下さり、実のなるのを待っていて下さるのです。