アブラハムの子イシュマエルの歴史 November 23, 2025

「アブラハムの子イシュマエルの歴史」November 23, 2025

これは、サラの女奴隷、エジプト人ハガルがアブラハムに産んだ、アブラハムの子イシュマエルの歴史である。イシュマエルの子は、生まれた順に名を挙げると、イシュマエルの長子ネバヨテ、それからケダル、アデベエル、ミブサム、ミシュマ、ドマ、マサ、ハダド、テマ、エトル、ナフィシュ、ケデマである。これがイシュマエルの子孫である。これらは、集落と宿営ごとにつけられた彼らの名で、十二人の、それぞれの氏族の長である。以上がイシュマエルの生涯で、その年数は百三十七年であった。彼は息絶えて死に、自分の民に加えられた。イシュマエルの子孫は、ハビラからシュルまでの地域に住んだ。シュルはエジプトに接し、アッシュルへの道にあった。彼らは、すべての兄弟たちに敵対していた。創世記25章12ー18節

サラの女奴隷、エジプト人ハガルがアブラハムに産んだ、アブラハムの子イシュマエル。彼は野ろばのようにすべての人に逆らい、北アラビアの遊牧民となり、アラビア人の祖先になりました。

イスラム教(ムスリム)の教祖マホメットは、自分をイシュマエル人と呼びましたが、さらに遡ると先祖はアブラハムです。キリスト教会が堕落する時、アブラハムの神はイシュマエルの子孫からイスラム教を起こし、キリスト教会を裁くために用いられます。イスラエルが堕落した時にバビロンやアッシリアが用いられたのと同じです。

ひざまずくことさえしないなんちゃってキリスト教徒は、ひれ伏して礼拝を献げるムスリムに負けています。10分も祈らない自称キリスト信者は、10時間の題目をあげる創価学会員に負けています。

なぜヨナは主の御顔を避けて逃げたのか? January 20, 2025

「なぜヨナは主の御顔を避けて逃げたのか?」January 20, 2025

ヨナは、批判されることが多い預言者だ。
なぜなら彼は、初め主の御顔を避けて、
ニネベとは反対のタルシシュに逃げたのだから。

なぜヨナは、主の御顔を避けて逃げたのか?
ヨナ書4章には、ヨナ自身の言葉で、
その理由が明らかにされている。
ヨナが魚の腹から救われ、
再び神から命じられ、
ニネベに行って叫ぶと、多くの人々が悔い改めた。
それをご覧になった神が、わざわいを思い直された。
それに対して怒り狂ったヨナの言葉だ。

「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、
このことを申し上げたではありませんか。
それで、私は初めタルシシュへ逃れようとしたのです。
あなたが情け深くあわれみ深い神であり、
怒るのに遅く、恵み豊かで、
わざわいを思い直される方であることを知っていたからです。
ですから、主よ、どうか今、私のいのちを取ってください。
私は生きているより死んだほうがましです。」
(ヨナ書4章2−3節)

なぜヨナは、主の御顔を避けて逃げたのか?
それは主なる神が、
「イスラエルの敵国アッシリアの大きな都ニネベに行って、
神からのメッセージを叫べ」とヨナに命じたから。

今日に当てはめるなら、
イスラエルが、「敵であるテロ組織ハマスの本拠地に行って、
神からのメッセージを叫べ」と命じられたような状況だ。

批判することは簡単だ。
だからヨナは、批判する者にこう言うだろう。
「だったらあんたがやってみな!」

礼拝メッセージ「国家的悔い改め」

礼拝メッセージ「国家的悔い改め」(クリックで聴けます)

聖書箇所:ヨナ3章

そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た。このことがニネベの王の耳に入ると、彼は王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中にすわった。王と大臣たちの命令によって、次のような布告がニネベに出された。「人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。人も、家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐な行いから立ち返れ。もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない。」ヨナ書3章5−9節

恵み深い主から、再びチャンスを与えられた預言者ヨナは、ニネベに行って主のことばを伝えました。そのとき津波のような衝撃が起こり、上記のような、「国家的悔い改め」が起こりました。

イエス・キリストは、以下のようにニネベの人々の悔い改めに太鼓判を押しておられます。

「ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。(マタイ福音書12章41節)」

聖書が語る「悔い改め」とは、向きを変えることです。それは、神に背を向けて生きることを止め、神の方に方向転換をし、神に向かって生きることを意味します。主なる神はあわれみ深い方ですから、向きを変える私たちを、大喜びで迎えてくださいます。