バルメン宣言の後に続くもの


朝岡勝牧師の著書、お勧めの本です。

私も神学校で卒論を書く時に、バルメン宣言に出会いました。その後、待ったなしの牧会伝道の現場(自殺未遂、リストカット、ホームレス、うつ、離婚、病気、介護、事故、疎外、いじめ、虐待、DV、ハラスメント、リストラ、酒乱、各種中毒・依存症、姦淫、詐欺、堕胎、悪霊つき、孤独、死、葬儀を味わっている人間たちが呻いている所。まさに戦場です)に派遣されつつ、かろうじてまとめ上げた、キリスト者日本人の歩く道を以下に記します。

バルメン宣言の後、シュトゥットガルト罪責告白(1945年)、ダルムシュタット宣言(1947年)と続く、ドイツ告白教会の足跡があります。

特にダルムシュタット宣言の中には、世界が今なお直面し、行き詰まっている問題解決の糸口が提示されています。

ダルムシュタット宣言・日本版のために(2001年)

第一項-罪責の認識はキリストによる和解に基づいてのみ存在する
第二項-ナショナリズムと日本民族優越主義に対して
第三項-教会と保守勢力との同盟
第四項-悪しき者たちに対する善き者たちの戦線
第五項-共産主義が提示している、忘れられた教会の使命
第六項-キリスト者・教会に与えられている自由
第七項-正義と福祉と内なる平和と諸民族の和解に仕える新しい日本国
参考文献

第一項-罪責の認識はキリストによる和解に基づいてのみ存在する †
 われわれには、イエス・キリストの十字架と復活において、世界が神と和解されたという福音が語られている。この和解の福音をわれわれはまず聞き、それを本当に味わうことによってそれに生き、また伝えなければならない。もしわれわれが、自らのすべての罪責、つまり父祖たちとわれわれ自身の罪責から解き放たれておらず、われわれが日本人として、われわれの政治的意図・行動において過ちに踏み込んでしまったすべての誤った悪しき道から、良い羊飼いであるイエス・キリストによって呼び戻されていないとするならば、この和解の福音は聞かれておらず、受け入れられておらず、行われても伝えられてもいないことになるのである。


第二項-ナショナリズムと日本民族優越主義に対して †
 われわれは、あたかも世界は日本的本質(国体)に触れることによって救われるかのように、特別に日本には使命があるなどという夢を見始めた時、過ちに踏み込んでしまった。また、われわれは、われわれが聞くべき王の王、主の主としてのイエス・キリストに聞くことをしなかった。そのことによってわれわれは、政治的権力の無制限の使用に対して道を備え、われわれの民族を神の御座の上に置いた。われわれは自分たちの国家を内に対してはただ強い政府の上に、外に対してはただ軍事的な力の展開の上に基礎づけ始めたが、これは致命的に誤っていた。そのことによってわれわれは、われわれ日本人に与えられている贈物をもって、諸国民の共通の課題に仕えつつ協力するという召しを否定してしまったのである。


第三項-教会と保守勢力との同盟 †
 われわれは、人間の社会生活の中で必要となってきた新しい秩序に対して、「キリスト教的戦線」なるものを結成し始めた時、過ちに踏み込んでしまった。古い・在来のものを維持する保守勢力と教会の同盟は、われわれに対するきびしい報復となって帰ってきた。われわれは、人間の共同生活がそのような変革を求めているところで、生活の諸様式を変えることをわれわれに許しかつ命ずる、キリスト教的自由を売り渡してしまった。われわれは革命への権利は否定したのに、絶対的独裁制への発展は許容し、歓迎したのである。


第四項-悪しき者たちに対する善き者たちの戦線 †
 われわれは、政治的な生活の中で、政治的手段によって、悪しき者たちに対する善き者たちの、暗黒に対する光の、義しからざる者たちに対する義しき者たちの戦線なるものを結成しなければならないと考えた時、過ちに踏み込んでしまった。それと共にわれわれは、政治的、社会的、世界観的な統一戦線の結成によって、すべての人に対する神の恵みの自由な提供を変造し、世界をその自己義認にゆだねてしまったのである。


第五項-共産主義が提示している、忘れられた教会の使命 †
 われわれは、マルクス主義的教説の経済的な唯物主義が、この世における人間の生活と共同生活のために与えられている教会の委託や約束を果たすように、教会に注意を促さなければならなかったのだということを見過ごした時、過ちに踏み込んでしまった。われわれは、来たるべき神の国の福音にふさわしく、貧しい人々や権利を奪われた人々の事柄を、キリスト教会の事柄とすることをなおざりにしたのである。


第六項-キリスト者・教会に与えられている自由 †
 われわれが以上のことを認めて告白するとき、われわれは自分たちがイエス・キリストの教会として、神の栄光と人間の永遠的また時間的な救いのために、新しく、そしてより良く奉仕するべく自由にされていることを知るのである。キリスト教と日本文化といったスローガンではなく、イエス・キリストの死と復活の力によって神のもとへ立ち戻り、隣り人のところへ赴くことこそが、われわれの民族、また民族の真只中で、とくにわれわれキリスト者に必要なことである。


第七項-正義と福祉と内なる平和と諸民族の和解に仕える新しい日本国 †
 われわれは、「イエス・キリストによって、この世の神なき束縛から脱して、彼の被造物に対する自由な感謝に満ちた奉仕へと赴く喜ばしい解放がわれわれに与えられる」と告白した。そして、今日新しくそれを告白する。それゆえにわれわれは、切に訴える。絶望をあなたの主たらしめるな。なぜなら、キリストが主なのであるから。すべての不信仰な無関心に別れを告げよ。昔はもっと良かったといったたぐいの夢想や、来たるべき戦争の思わくなどに惑わされず、この自由において、また大いなる冷静さをもって、われわれのすべて、われわれの各自がより良き日本の国の建設のために負っている責任を自覚せよ。新しい日本国は、正義と福祉と内なる平和と諸民族の和解に仕えるものなのです。

参考文献 †
ベルトールト・クラッパート『和解と希望-告白教会の伝統と現在における神学』、新教出版社、1993年
J.モルトマン『二十世紀神学の展望』、新教出版社、1989年

栄光在主
日本同盟基督教団・杉戸キリスト教会牧師 野町真理

霊肉二元論の克服のために

敬虔のための鍛錬(マタイ4:1-4)
河野勇一(緑キリスト教会牧師・現東海聖書神学塾塾長)
クリスチャン市民の会「アーモンド」No.3より引用

物質文明を謳歌している現代。その豊かさを楽しむ一方で、人間性や心の回復の必要を訴える声があちこちから聞こえてきます。そんな時に、クリスチャンならずともよく引用する聖書の言葉に、「人はパンだけで生きるのではない」があります。これを引用する人は、人間は物質的なものだけでは満たされない精神的・霊的な存在だから、パンによって肉体の必要が満たされるだけでなく、神の言葉によって心(霊)も満たされなければ生きることはできない、と言いたいようです。

しかし、このポピュラーなみ言葉の使い方は、誤った解釈に基づいています。ギリシャ的な霊肉二元論の影響を受けて、パン(物質的領域)と神の言葉(霊的領域)を別々の領域のものと考えているからです。物質も大切だが霊も大切だ、という考え方は、物質の問題は霊の問題とは関係ない、という考えに容易におちいってしまうのです。

荒野での誘惑において、サタンは空腹のイエス様に向かって、「あなたには人人を救うための大事な仕事がある。あなたは生きなければならないし、あなたは神の子で奇蹟を行う能力もある。いま、その力を使って石をパンに変え、そして神から託された仕事をしなさい」と語ったのでした。

それに対する答えとして、イエス様が引用されたのがこのみ言葉で、申命記8章からのものです。そこには、荒野での40年間、食べ物も水もままならない環境の中で、神が天からの食物(マナ)によってイスラエルの民を養われたのは、人は神に養われ、守られ、生かされている存在であるということをわからせるためであった、と書かれています。

ですから、イエス様がこのみ言葉を引用しておっしゃりたかったことは、「サタンよ、黙れ。人はパン自体で生きているのではなく、パンを創造し、それをご配慮によって与える神ご自身のみ言葉によってこそ生かされているのだ。だから、私は自分の力でパンを獲得することはしない。この父なる神のみ心に全てをゆだねて生きるのだ」ということです。ここにおいて二元論は克服され、パンをも含めた一元的な神の支配への信頼が語られています。

このように考えますと、飽食の時代に生きるクリスチャンにもサタンが同じように誘惑の手を伸ばしていることが見抜けてきます。あり余る食料に囲まれて自分のお金で自由に好きなものを選べる私たちの生活から、日毎のパンを主に求める祈りが消えます。また、日毎の糧が主から与えられているという感覚がマヒして、感謝がなくなるのです。

そんな中でのこのみ言葉の二元論的誤用は、物質的な事柄を信仰の範囲外のこととする考えを生み、浪費やぜいたくの是認につながりかねず、サタンの誘惑を助長しこそすれ、これに打ち勝つ力にはならない、と言えるのではないでしょうか。

クリスチャンのシンプルライフ指向が、単なる資源の節約や博愛精神ーそのこと自体、もちろん大切なことですがーに終わらないで、信仰生活に統合されるためには、霊肉二元論的な思考からくる、肉体的・物質的な生活と霊的・信仰的な生活との遊離という誤りを克服しなければなりません。

テモテへの手紙第一(4:1-11)において、パウロも二元論に基づく禁欲主義という悪霊の教えに警告をうながし、すべてのものに感謝する生き方を教えています。

ここでパウロが言う「敬虔のための鍛錬」(4:7)とは、まず、すべてのものが神の口から出たみ言葉によることを理解し、次にそれらを「神のことばと祈りとによって、聖めて」(4:5)用いる生き方のことです。すなわち、ひとつひとつのものを神の目的にしたがってふさわしく、適量、しかも楽しんで用いるところの「感謝の鍛錬」です。その意味で、シンプルライフとは、クリスチャンが「本当に霊的なライフスタイル」を確率するための鍛錬としてとらえるべき信仰のわざなのです。

礼拝メッセージ「すべての意味」

礼拝メッセージ「すべての意味」

聖書箇所:ローマ人への手紙8章18ー39節

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。ローマ8:28

被造物全体が今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしている。しかし、今のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないもの。聖書はそのように語っています。

そして聖書は、「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」と語ります。ここにすべての意味を見出すことができます。すべてのこと、特に患難は、私たちをキリストのように変えるために、神が用いられるものの一つなのです。

私たちがキリストのように変えられ、キリストのように生きる。キリストのように父なる神を礼拝し、キリストのように隣人を愛し、キリストのように成長し、キリストのように仕え、キリストのように福音を宣べ伝える。そこにこそ神の栄光が現れ、神にすべての栄光を帰すことができるのです。

そのために、父、御子、御霊なる三位一体の神は、十字架のもとに力を合わせて、弱い私たちを圧倒的な勝利者にしてくださいます。

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08 Mother’s Day 母の日歓迎礼拝メッセージ「一時的な務め」

08Mother'sDay

礼拝メッセージ「一時的な務め」

聖書箇所:マタイ福音書25:31ー46

『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』マタイ25:40

神の視点から見た人生は、テストであり、預かりものであり、一時的な務めです。

特に子育てはそうです。神から預けられた子どもに、親としてどう向き合い、どう育てるのか。神の代理人である父と母は日々問われ、子どもと共に成長します。しかし時が来ると、子どもは巣立っていきます。産みの苦しみは一時的ですが、重い永遠の栄光をもたらします。

なぜなら、王である主イエスが、『あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』と言われるからです。

子育てに限りません。最も小さい者たち、すなわち空腹な者、渇いた者、宿なき旅人、裸の者、病気の者、牢にいる者と共におられる主イエスにどう接したのか。主イエスがあなたに問われるのはそのことです。御霊の実(愛:ガラテヤ5:22-23)を、結んでいるかどうかが問われるのです。

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礼拝メッセージ「神の視点から見た人生」

礼拝メッセージ「神の視点から見た人生」

聖書箇所:マタイ福音書25:14ー30

天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。マタイ25:14

聖書に耳を傾けるなら、神の視点から人生を見ることができます。神の視点から見た人生、それはテストであり、預かりものであり、一時的な務めです。

1、人生はテストである
 テストは、バリアと言い換えることもできます。段差があると、つまずいて転んでしまう可能性も十分あります。しかし段差等のバリアが全くないと、体力等が著しく衰えてしまうのです。神は私たちの成長のために、バリアフリーではなくバリアアリーの人生を、深い配慮と共に備えてくださっています。

2、人生は預かりものである
 収入を得るために必要な健康、仕事、能力、意欲。これらはすべて、神からの預かりものです。いのちや時間もそうです。あなたが神から預かっているものには、次のような形(SHAPE)もあります。状況、心意気、才能、性格、経験。レッツ・シェイプアップ!

3、人生は一時的な務めである
 やがてテスト期間は終わり、主なる神から預かったものをどう用いたのかが問われます。人からではなく、神から良い評価をいただける者は幸いです!

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礼拝メッセージ「永遠に生きるために」

礼拝メッセージ「永遠に生きるために」

聖書箇所:2コリント4:15ー5:10

今の時の軽い艱難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。2コリント4章17節

どこの学校で何を学ぶのか。どんな仕事に就くのか。誰と結婚するのか。どこに住むのか等。この地上の人生には、多くの選択肢があります。しかし死の向こう側、すなわち永遠には、2つの選択肢しかありません。天国か地獄かです。

この地上で、神とどのような関係を奏でるのか。その音色は、永遠へと響いていきます。この地上の人生における神とあなたの関係。それが永遠における神とあなたの関係になっていくのです。

もしあなたが、あなたのためにいのちまで捨ててくださった神の御子イエス・キリストを信頼して受け入れるなら、あなたは永遠を天国で、神と共に過ごすことになります。そこに死や苦しみはありません。

しかしもしあなたが、キリストの十字架の愛と赦しを拒み、差し出されている救いのプレゼントを受け取らないなら、あなたは永遠を地獄で過ごすことになります。そこは永遠の苦しみと後悔の場です。

永遠をどこで過ごすかは、あなたの選択にかかっています。あなたは、永遠をどこで過ごしますか?

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礼拝メッセージ「人生を動かしていもの」

礼拝メッセージ「人生を動かしていもの」

聖書箇所:ピリピ1章1ー30節

人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、・・・他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。ピリピ1章15-17節

どんな人でも、何かに動かされて生きているものです。あなたの人生をドライブしているもの、あなたを駆り立て、突き動かしているものは何でしょうか?

使徒パウロは、ピリピにいるクリスチャンに、獄の中から書き送った手紙で、善意、愛、そして真実をもってキリストを伝える人たちがいる一方で、ねたみや争い、党派心といった不純な動機から、見せかけの伝道をする人たちがいることに言及しています。

ねたみ・嫉妬、罪責感、怒り、憎しみ、恐れ、物質主義、受け入れられたいという必要等が、多くの人たちの人生をドライブしています。

聖書を通して人生の目的を知り、目的にドライブされて生きるなら、人生に意味が与えられ、よりシンプルになり、焦点が定まり、動機づけが与えられ、そして永遠への準備が整います。

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