聖書と祈り会2024-09-18 流れのほとりに植えられた木 ぶどうの木に接木された枝

2024年9月18日の聖書と祈り会メッセージ。流れのほとりに植えられた木 ぶどうの木に接木された枝。
聖書は詩篇1篇とヨハネの福音書15章1−16節。
聞くドラマ聖書はこちら⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠http://graceandmercy.or.jp⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠
資料はこちら⁠⁠⁠⁠https://flic.kr/p/2qh8Ruv

杉戸キリスト教会では、水曜午後2時からと20時から、聖書と祈り会の時を持っています。
どなたでもお集いください。

聖書と祈り会資料2024-09-18

人生のブレーキ 礼拝のご案内

人生のブレーキ

杉戸キリスト教会では、日曜日10時半からと20時から、礼拝を行います。マスクをしてお集いください。後からホームページで配信も行います。オンラインもご利用ください。
gospel.sakura.ne.jp/sugito/

杉戸キリスト教会地図2016

そのときあなたは栄える 礼拝のご案内

そのときあなたは栄える

杉戸キリスト教会では、日曜日10時半からと20時から、礼拝を行います。マスクをしてお集いください。後からホームページで配信も行います。オンラインもご利用ください。
gospel.sakura.ne.jp/sugito/

杉戸キリスト教会地図2016

聖書と祈り会資料2018年6月6日

聖書と祈り会資料2018年6月6日

毎週水曜14:00〜15;30 聖書と祈り会
毎週水曜20:00〜21:00 聖書と祈り会

杉戸キリスト教会地図2016

聖書が約束する桁外れに幸せな人

聖書が約束する桁外れに幸せな人

杉戸キリスト教会地図2016

もしも主が私たちの味方でなかったなら?

詩篇124篇より(祈祷会ノート)

もしも主が私たちの味方でなかったなら、
長くて苦しい都上りの旅は、途上で敗北、挫折、失敗に終わる。
決してエルサレム(約束の地)にたどり着けない。
地上のエルサレムにも、天上のエルサレムにも。
津波のような荒れ狂う水(敵のわな)が襲いかかってくるから。

しかし、
もしも主なる神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるか?
(ローマ8:31)➡誰も敵対できない!
主なる神が私たちの味方であるから、(ローマ8:32−39)
1、ご自分の御子といっしょにすべてのものを惜しまずに恵んでくださる
2、義と認めてくださる
3、とりなしていてくださる(罪に定められることがない)
4、すべてのことの中にあっても圧倒的な勝利者となる
5、何も神の愛から私たちを引き離すことはできない!

「もしも主が私たちの味方でなかったなら。」
さあ、イスラエルは言え。(1節)

「もしも主が私たちの味方でなかったなら、
人々が私たちに逆らって立ち上がったとき、
そのとき、彼らは私たちを生きたまま
のみこんだであろう。
彼らの怒りが私たちに向かって燃え上がったとき、
そのとき、大水は私たちを押し流し、
流れは私たちを越えて行ったであろう。
そのとき、荒れ狂う水は
私たちを越えて行ったであろう。」(2−5節)

ほむべきかな。主。
主は私たちを彼らの歯のえじきにされなかった。
私たちは仕掛けられたわなから鳥のように助け出された。
わなは破られ、私たちは助け出された。
私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。(6−8節)

礼拝メッセージ「罪をおおわれた人たちの幸い」ローマ9

礼拝メッセージ「罪をおおわれた人たちの幸い」ローマ9(クリックで聴けます)

聖書箇所:ローマ人への手紙4章1ー16節

それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」 ローマ4章1-8節

今年も受難週を迎えました。春を迎えるために厳しい寒さを通らなければならないように、イースター(復活祭)を迎えるためには、厳しい受難週を通らなければなりません。

同様に、あなたが罪をおおわれた人たちの幸いに至るには、あなたが自分の罪深さと無力さをごまかさずに認め、自分で自分を救えないことを素直に認め、神に降伏することがどうしても必要です。

何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、アブラハムやダビデのように、その信仰が義とみなされるのです。罪がおおわれるとは、神があなたの罪を完全に忘れてくださり、すべてなかったことにしてくださるという恵みです。