The Bibleとユダヤ人の奥義 January 5, 2025

「The Bibleとユダヤ人の奥義」January 5, 2025

The Bibleには、旧約聖書と新約聖書があるが、
旧約聖書がなければ、新約聖書はない。

理由は、The Bibleを富士山に例えるとわかりやすい。
旧約聖書は、雄大な裾野から五合目までの下半分で、
新約聖書は、五合目から頂上までの上半分だから。

そして、実はユダヤ人がいなければ、
旧約聖書も新約聖書もなくなってしまう。

なぜなら、
旧約聖書はユダヤ人の言葉(ヘブル語)で書かれており、
それを書くように啓示と霊感を受けたのはユダヤ人だから。

そして、
新約聖書でメシアとして来られたJESUSもユダヤ人、
JESUSはユダヤ人の祖アブラハムの子孫、ダビデの子孫だから。

さらに、
JESUSの12弟子もユダヤ人、
ペンテコステ(聖霊降臨祭)によって、
最初のセンターチャーチとされたエルサレム教会も、
JESUSを信じたユダヤ人(メシアニック・ジュー)が核となっていたから。

そして新約聖書のほとんどの手紙を書いたのは生粋のユダヤ人パウロ。

反ユダヤ主義や置換神学が、
いかに反聖書的か、
あなたにもぜひ理解していただきたいと切に祈りつつ。

主はアブラム(ユダヤ人の祖、後のアブラハム)に言われた。
「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、
わたしが示す地へ行きなさい。
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。
あなたは祝福となりなさい。
わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、
あなたを呪う者をのろう。
地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
(旧約聖書創世記12章1ー3節)

目から鱗が落ちた人 November 23, 2024

「目から鱗が落ちた人」November 23, 2024

「目から鱗が落ちる」とか、「目からうろこ」という表現がある。
実はThe Bible・聖書の中に起源がある。
その部分、新約聖書、使徒の働き9章17ー18節を以下に記す。

そこでアナニアは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中であなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」するとただちに、サウロの目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった。そこで、彼は立ち上がってバプテスマを受け、…

目から鱗が落ちたのは、サウロ、別名パウロという人物。
彼はJESUSをメシア・キリストと信じる者を熱心に迫害していた。
しかし復活されたJESUSに待ち伏せされ、
天からの光によって地に打ち倒され、目が見えなくなった。
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」とJESUSは問われた。

やがてサウロのもとにアナニアという人物が遣わされる。
アナニアがサウロの上に手を置いて祈った時、
サウロの目から鱗のような物が落ち、目が見えるようになった。
サウロは、JESUSこそがメシア・キリストであることを確信し、
バプテスマ・洗礼を受け、JESUSの証人として走り始める。

JESUSをメシアとして信じたユダヤ人をメシアニック・ジューと呼ぶが、
メシアニック・ジューは、裏切り者として、ユダヤ人から迫害を受ける。
しかし目から鱗が落ちたユダヤ人は、
JESUS(ユダヤ名はイエシュア)をメシアとして信じ受け入れる。

パウロは、ユダヤ人同胞に迫害され、終始いのち狙われても、
同胞が救われることを捨て身で願いつつ、
異邦人の救いのために、地中海沿岸諸国で豊かに用いられた。
彼は小アジアやヨーロッパにJESUSの福音を届ける最初の宣教師とされた。

使徒の働きの中に、サウロ(パウロ)に関することが多く記録されている。
そして新約聖書として収められた多くの手紙は、パウロによる。
彼はキリストの奴隷、罪人のかしらとして、
獄中でも喜び祈りつつ手紙を書き続け、やがてローマで殉教した。

「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私(パウロ)はその罪人のかしらです。(テモテへの手紙第一1章15節)

高氏博史師をお招きして 70周年記念礼拝のご案内 2023-07-30

高氏博史師と共に

おはようございます。はじめに一言お祈りさせていただきます。

聖なる教会の神様、尊いあなたの御名を心からほめたたえて賛美をいたします。
12年間、あなたによって遣わされ、この所において、この町において、あなたと隣人に仕えることを許された者でございますけれども、しばらくの時間を経てこうして、もう一度この場所に立つことが許されていることを、心から感謝をいたします。集まられたあなたの愛する方々一人一人の上に、どうかあなたがあなたのみことばによって、また聖霊によって、祝福をお与えくださるように心からお願いをいたします。

今から、あなたの再臨と、そしてまた未伝地の伝道のことについて話そうとしておりますけれども、神様どうか、集まられたお一人お一人の上に、豊かにみことばによって臨んでください。祝福とまた豊かな導きを与えてくださるように、心からお願いいたします。語る者は取るに足らないしもべでありますけれども、どうか上からの力を豊かにお与えくださるように、心からお願いを申し上げます。

また、今日は主の日でありますけれども、全世界において、あなたの御名がほめたたえられていることを覚えて、心から感謝いたします。そしてまた、やがて私たちの救いの完成として、イエス様が帰って来られることを心から待ち望んでいます。その思いをもって、御前にこの礼拝を捧げることができますように、御導きをお与えください。主イエス・キリストの尊いお名前によって、お祈りいたします。
アーメン。

この杉戸教会に遣わされた時、私は53歳で、そして65歳までの12年間、この所において、奉仕が許されたことを心から感謝をしております。今日は特に70周年という記念すべき時でありますけれども、その70年の中の12年間はですね、二代目の牧師としてここで働くことが許されたことを心から感謝をしております。そしてまた皆さんと共に、この愛する杉戸のために働くことが許されたことを改めて感謝をしております。

で、電車を降りて、懐かしさを覚えながら、あの駅から歩いて参りました。まず駅そのものが非常に変わったというか立派になったのを見ました。そして降りて来て、杉戸の方を見た時に、きちんとですね、昔はこんなに狭かったんですけれども、今はこんなに広くなってですね、杉戸の方まできちっとこう見えるようになっていたのを見ました。

で、それから私は来る時にですね、昔のあの古利根川の所を歩くのかなと思って来たんですけれども、その道路も非常に立派になって、下の方には歩道ができてしまって、川の方に降りてその所をずっと歩いて来ました。杉戸の町も立派になったというふうに思って、大変喜んでおります。そしてまた、汗をかきながらやってきたのですが、古い皆さんの顔も見ることができて、心から感謝をしておるところであります。

さて、今日は「再臨と未伝地伝道」というタイトルで、この70周年の記念すべき礼拝の時をお話ししようと思っているんですけれども、初めの方の再臨ということについては、まだクリスチャンになってない人、に対してお話をしてみたいというふうに思いました。それから未伝地伝道ということについては、すでにクリスチャンになっている人ですね、その人たちはこれからどうしたらいいのか、特に70年経っているこの教会は、いったいどういう方向に向かっていかなければならないのかについて話してみたいというふうに思いました。

まず再臨のことについてでありますが、今読んでいただいたマタイの福音書25章31−46は、イエス様がいよいよ十字架にかかられる、そういう状況の中で、24章から25章にわたってイエス様は、最後の長い説教をいたしました。そのイエス様の語られたことを直に聞いたマタイという人がそれを書き留めたんですね。そしてそれが聖書として今の私たちにも読むことが出来るようにしてるわけであります。

ここの所で、特に31節をもう一度読みますと、このようにイエス様は言われました。「人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。」このことを私たちは、イエス・キリストの再臨の時というふうに理解しています。イエス様は再臨されるわけ。初臨のことを私たちは今はクリスマスとして祝っているわけでありますけれども、イエス様はもう一度、この地球に帰って来られる。その時のことをイエス様はここで語っているんですね。十字架にかかるということは、死んで神の国に帰っていくわけですけれど、その帰って行くにあたって、わたしはもう一度来るんだよ。再臨するんだ。今の私たちには再臨というよりも私は降臨と言った方が良いと思いますが、イエス様は降臨されるわけであります。

その時のことをイエス様はこのように言ったんですね。人の子は、その栄光を帯びて、すべての御使いたち、天国にいるすべての御使いたちを従えて、帰って来る。初臨の時、つまりクリスマスの時は、家畜小屋にお生まれになりました。でも再臨される時はそうではない。こう言っているわけ。すべての御使いたちを従えて、イエス様は凱旋将軍のようにして、この地球に帰って来られる。そしてイエス様は栄光の座に着きますというふうに言われました。

で、ここで特に私は、まだクリスチャンになっていない方に勧めたいのですけれども、「イエス様は、何のために、再臨されるのか?」ということです。そのことについて、イエス様ははっきりとここで語っています。

32節ですが、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、人の子というのはイエス様本人のことです。ですから分かりやすく言うと、わたしは、羊飼いが羊をやぎからより分けるように、彼らをより分けます。羊を自分の右に、やぎを左に置きます。というふうに言っていますね。

イエス様が再臨される目的というのは、今現在、この地球上には80億と言われる人々が生きております。生活しております。そしてまた、今日イエス様が再臨されるとするならば、今日までこの地球上に生きたすべての人、その多くの人たちはもう死んでいないんですけれども、その人たちも、イエス様の裁きの対象になります。

イエス様は人類を二つに分ける。今の言葉で言うと分断するわけです。羊とやぎとに分ける。まあこのように言ってるんですね。こういうものの言い方なんですけども、イエス様が生活しておられたパレスチナにおいては、いわゆる牧畜が主な仕事でした。羊飼いたちは、昼間羊ややぎたちをいっしょくたにして、連れ出して草を食べさせるわけです。草を食べるのが羊ややぎの仕事なわけですけども、夜になって連れ帰って来る。その時に分けるんですね。羊はこっちの部屋に、やぎはこっちの部屋に分けて、そして夜を過ごしていくわけです。で、そのように人類を二つに分断するというふうにイエス様は言いました。そのためにわたしは再臨するんだということなんです。

なぜそういうことをするのか?それまでは、人類は、やぎもそれから羊も、みんな一緒です。あるいはもっと具体的に言うと、クリスチャンもクリスチャンでない人も一緒に生活をしています。そのためにいろいろなことが起こっていると思いますけども、ありますけども、イエス様が再臨されるときは、クリスチャンである人とクリスチャンでない人とを分けるんだ。というふうにおっしゃっております。

さて、分けられるのはいいんですけれども、分けるときに、どういうことが起こるのかというと、46節を見ますと、このようにイエス様はおっしゃいました。「こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」と言いました。永遠の刑罰に入る人たち。それはここではやぎと判断される人たちですね。永遠の刑罰に入る。

そしてもうひとつの方においては、おもしろいと私は思うんですが、正しい人たちというふうに言っています。再臨のイエス様にとって、正しい人と正しくない人がいるということですよね。ですから、この永遠の刑罰に入る人は正しくない人なんですね。そして反対に、永遠のいのちに入る人は正しいというふうに判断される人なんだということです。

皆さんはどうでしょうか?再臨のイエス様が来られる時に、自分は神様の目からご覧になって、正しいというふうに判断される立場にあるのか?それとも正しくない者というふうに神様に判断される立場に立っているのか?そのことをよく考えてほしいんです。

これは神様との関係の物語であります。クリスチャンでないということは、まことに残念ですけれども、この再臨のイエス様に会う時は、悲しい物語になってしまいます。その時イエス様は、その人を永遠の刑罰に入れるんだ。こう言っているわけ。まあ、わかりやすい言葉で言うと、地獄という言葉で、日本の文化の中ではそのように表現されていると思います。地獄に入れる。片っ方の方の、永遠のいのちというのは、天国に入れるということです。

私たちは神様の前に、罪があります。罪というのは、私の理解するところにおいては、まず原罪というものがあります。私たちがアダムとエバの子孫であるということにおいて、神様との関係の中で、私たちは誰でも原罪があります。先ほど言いましたようにこの地球上に住んでいる80億の人々は、全員原罪にあります。そういう根本的な罪がある。このことだけでも、私たちは結果としては、地獄に行くべき立場です。

それからもうひとつの罪があります。それは私たちの先祖の罪というものもあります。あるいは私たちが所属している民族とか、それから国の罪を、私たちは民族の一人として、あるいは国民の一人として罪を持っています。その罪のために、私たちはニュースでいろいろなことを聞かせられます。私たちは韓国の人たちに対して大きな罪を犯した。中国の人たちに対しても、東南アジアの人たちに対しても、罪を犯した。その罪の結果を、私たち今いる人たちは大半、何のことを言ってるのかわからないほど、罪というふうに理解していないかもしれませんけれども、その罪はあります。そしてその罪の結果として、私たちはおもしろくない生活をこの地上で送らなければなりません。神様の国の隣人愛という視点から考えると、そういう罪も私たちは負わなければなりません。

また、私たちは個人的にも、そういう罪を持っています。私個人で言うと、私の父も母も、おじいさんもおばあさんも、キリスト教徒ではありませんでした。それだけでも私は先祖から、マイナスの遺産としての罪を持っているわけです。そのことのためにも私たちは、神様の前に見るならばですね、正しくない存在なんですよ。正しくないというのは、イエス様が再臨される時には、永遠の刑罰に入れられる立場です。というふうに、イエス様はここでこう語っているんですね。

ですからぜひ皆さんはですね、クリスチャンでない皆さんは特に、考えてほしいと思います。自分は神様の前に、この天地万物を造ってそれを支配しておる神様の前にどういう者なのか、よく考えてほしいと思います。そしてイエス様が再臨される前に、そしてまた自分が死ぬ前に、イエス様を信じて、神様から正しいというふうに評価される者になっていただきたいと思います。

それから続いてもう一つ、次に未伝地の伝道のことについて考えてみたいと思います。これはクリスチャンに対して特に、私は申し上げたいんですけれども、第二ペテロの3章の8節から13節を読んでみたいと思います。

「しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」

これはイエス様の一番弟子と言われたあのペテロの書いた手紙です。ペテロが後の私たちに対して書き残した遺言のような言葉ですが、ここでもイエス様の再臨のことが書いてあります。私は時々こう思いました。ここではこの地球は、いや地球ばかりじゃなくて、太陽も月も星も、天の万象は焼け溶けてしまうんだ。というんですね。えーっと皆さん思うかもしれません。でも聖書は語るんですね。太陽も月も星も、この地球も、それは神様によって創造されたものなんだ。ということです。そしてここでは、この天地万物が、みんな焼けてしまう。消えてなくなってしまうんだ。と言ってるんです。

今日はやたらに暑い日ですね。特に杉戸は暑いと私は思います。東京もですね、今日は36度になるというふうになっています。私は北海道生まれなんですけれども、北海道の天気予報もいろいろテレビなどで見るんですけども、北海道でも暑くなってるんですね。私が北海道で生活してた頃はですね、一夏に一回か二回、30度越せばいいかなということだったと思います。でもこの頃ですね、北海道の天気予報を聞いていると、北海道でもエアコンを買わないとやってけないねという感じがする。

いったいこんなに暑くなって大丈夫なのか?山火事が発生したり、洪水になったり、いろんなことが起こってきますが、その度に私はこのことを思うんですね。これくらいはまだ涼しい方だ。これからはますます暑くなって、遂には天の万象も焼け溶けてしまうんだ。それがスタートするのが、実はイエス様の再臨の時なんですよね。再臨の時ががらっと変わってくる。

今日特に、イエス様の再臨のことを話しているんですが、12節の所でこういうふうに言っています。「到来を早めなければなりません。」というふうに言うんですね。この到来というのはイエス様の再臨のことです。イエス様の再臨を早めなければならない。その前の所に、えーイエス様は再臨すると言われたのに、そういう約束したのになかなか来ないじゃないか。私もそのタイプでした。私が神学生になる頃思いました。私が死ぬまでにはイエス様は再臨するだろう。と言うふうに期待しました。でもですね、この頃は、いやーまだ先だな。というふうに思っています。はっきり言って。

なぜならば、ここで私たちが理解しなければならないのは、再臨を早めることができるか、遅くすることができるかは、そういう鍵は教会が握っているというふうにペテロは言っていると、私はここから読んでいます。再臨、イエス様の再臨を早める方法がある。私は毎日祈っているのは、この二つの鍵です。イエス様の再臨を早めるには、二つの鍵が必要です。

原爆とか水爆をですね、落とすというか飛ばすためには、一つの鍵ではだめだと言っていますが、二つの鍵を一緒にぐっと入れなければ、発射されないようになっていると聞いています。それと似てるんですね。イエス様の再臨というのは、これは人類にとって大変なことです。水爆や原爆が飛んで来るっていう話どころではありません。ある人たちは決定的に、永遠の滅びに落とされてしまうわけです。今のクリスチャン人口から見ると、人類の大多数は、地獄に行かざるを得ないというのが現実です。ですから、イエス様が再臨するということは、神様にとって大変なことをしなければならないということなんですね。

ですから神様は、義の神様で、正義の神様で、愛の神様であるから、正しいやり方をしなければなりません。神様は正義をもって、公義をもって、世界を治めなければならないというふうに、神様はアブラハムに、ソドム・ゴモラを滅ぼす時に言われました。だから当然、再臨に伴って出て来る最後の人類の審判ということになると、神様は正義をしなければならないということになります。

さて、その再臨の鍵のことについてお話ししますが、私は、聖書を読んで理解しているのは、一つの鍵は教会が持っているということです。一つの鍵は教会が持ってる。マタイの福音書の24章の所に、イエス様がお話しになった終末預言の一つなんですけれども、この中でこういうふうに言っています。マタイの福音書の24章14節、まあそのままお聞きになってください。「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。」

神の国の福音は、まず全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来るんだ。だからもっとわかりやすく言うと、世界宣教が完成した時に、わたしは再臨します。こう言っているわけです。

皆さんは、世界宣教ということが、イエス様が再臨することの鍵だということをご存知ですか?私は、長いこと50年間牧師をやって、そして何回もここの所語ったと思うんですけれども、私の意識の中では、そういう意識を持っていませんでした。ほとんどのキリスト教会は、牧師も伝道者も宣教師も、私はそう言う考え方を持ってないんじゃないかと思います。これが大きな問題だと思います。

世界宣教を完成させる。ここで言っているなぜその、何て言いますかね、民族、全世界民族に伝道しなければならないのか。それは全民族が、全世界の人々が、イエス様の再臨に伴う裁きによって、決定的な裁きを受けるからです。マイナスの裁きをうけるからです。だから、そういう裁きをする前に、あなたがたこのまんまじゃ地獄行きだよ。だから悔い改めなさい。救い主なるイエス様を信じなさい。こう言ってるんです。

教会は、教会は何なのか?教会の仕事は何か?それは伝道することだと聞いていると思います。だけども、現実の教会を見れば、そのことを忘れていると私は思います。同盟教団の一つの理念として、一番最初にこう出てくるんですね。教会形成。伝道の目的は教会を形成することだと。はたしてそうでしょうか?

イエス様が来られて、ガリラヤで開拓伝道を始めました。イエス様を追っかけてくる人たちはもう大変でした。今の言葉で言えば大リバイバルです。来てくださいなんて言わなくてもですね、4000人も5000人も弁当を出さなければならないほど、イエス様を追っかけて来ました。

あんなに、僕は思うんですね。牧師をやった者として思うんですよ。あんなに調子良かったんならば、イエス様はガリラヤのカペナウムに、どこかの今の教会のようにですね、教会を建てればよかったんじゃないですか。そうすると、ガリラヤばかりではなくして、パレスチナ全域からですね、何百万という人たちが集まって来て、巨大な教会ができたんじゃないですか。

でもイエス様は教会を作りませんでした。イエス様は、伝道させたわけです。最初は12人の使徒たちを集めました。12人の使徒たちを集めて、使いものになるなと思った時にですね、イエス様は12人を2人づつペアにして、伝道に出しました。おまえたち行ってこい。こういうふうに出したんですね。2人づつペアにした。この時どう考えました?お前たちは行って、隣の町に教会を作りなさい。そのまた隣に教会を作りなさい。というふうには言いませんでした。福音を宣べ伝えるように言っただけです。

12人ではまだ足りませんでしたので、ルカの福音書を見ますと、72人を集めました。そしてまたイエス様は言いました。72人を2人づつペアにして、伝道に出しました。この時はですね、どこに伝道に派遣したかということ書いてないんですね。おまえたちはまだ出来損ないで力もないから、72人を一緒にやって、たとえば杉戸で伝道しなさい。そこに教会を作りなさい。というふうに言ったかと言うとそうじゃないんですね。イエス様はイエス様が行こうとしている所に、彼らを先に遣わされたと書いてある。

イエス様は再臨されようと、今はしています。その前に私たち教会は、全世界に、すべての民族に、福音を宣べ伝えるように遣わされているんですよね。そういうことをこの物語は表していると思います。

そういうわけで、マタイの福音書の、皆さん何回も聞いたことがあると思いますけれども、マタイの福音書の28章の一番最後の所で、こういうふうに言いました。イエス様が天に帰られる時に言った、いわゆる大宣教命令ですが、『イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」』と言って、イエス様は天に帰られて行ったわけです。

ここにも書いてある通りに、あらゆる国の人々なんですね。この人たちが教会の伝道すべき相手であります。彼らが100%クリスチャンになるとかならないとか、そう言う話ではないんです。大多数の人は信じませんけども、信じる人少ないんですけれども、最後の裁きがあるので、正義という意味において、福音を宣べ伝えなさい。こう言われたわけです。

そしてわたしは世の終わりまで、あなたがたとともにいる。このようにイエス様は言いました。ですから私たちと共に神様いるんだから、私たちは恐れることはない。恥とすることはない。それが教会に与えられている鍵だと私は思います。ですから教会が全世界のすべての民族、あるいはすべての個人に対して、福音を語った時に、それが完成した時に、教会の鍵はオンになると、ということです。

けれどももう一つの鍵があります。それはユダヤ人という鍵です。このことについては意義のある人もいると思います。ユダヤ人も旧約においては神によって選ばれた民です。そしてイエス様が来られて、イエス様がメシアとして来られたにもかかわらず、イエス様を拒否してしまいました。ユダヤ民族としては、イエス様を死刑にしました。十字架にはりつけにして、偽預言者だという立場を取りました。そして今日に至っています。

イエス様は先ほど言いましたように、12人の弟子たち、72人の弟子たちに対して、伝道するように言いました。伝道させました。たぶんそういう段階において、紀元70年までの間、特にユダヤ教会は、ユダヤ全体に対して伝道したんだと思います。けれども、全体としては、ユダヤ人たちは、キリストを受け入れませんでした。でその結果、70年において、ローマとの戦争を始めて、ローマに潰されてしまいました。それ以来、彼らはあのパレスチナから追い出されて、今日に至っているわけです。

今日、この地球上にユダヤ人は何人いると思いますか?正確に調べた所によると、約1500万います。1500万のユダヤ人がおります。皆ユダヤ教徒であるというわけではありません。例えば今、パレスチナにイスラエルという国を作って、800万くらいの人たちがあそこに国を作っています。中にはユダヤ人だけではなくアラブ人もおります。その中でいろいろともめごとをやっておりますけども、この人たちが第二の鍵を持っています。第二番目の鍵を持っています。・・・

高氏師70周年記念礼拝2023-07-30

再臨と未伝地伝道

70周年記念礼拝挨拶文

証し集巻頭言

聖書と祈り会2023-07-05 使徒の働き56 わたしはあなたを遠く異邦人に遣わす

2023年7月5日の聖書と祈り会メッセージ。使徒の働き56 わたしはあなたを遠く異邦人に遣わす 。聖書は使徒の働き22章17−30節。
聞くドラマ聖書はこちらhttps://graceandmercy.or.jp/app/
資料はこちらhttps://flic.kr/p/2oMtk37

聖書と祈り会資料2023-07-05

杉戸キリスト教会では、水曜14時からと20時から、聖書と祈り会を行います。マスクをしてお集いください。祈ってほしいことなどがありましたら、祈りのリクエストもお寄せください。義人は祈りによって生きます。

自分を教えない者に対する警告 礼拝のご案内

自分を教えない者に対する警告

日本同盟基督教団・杉戸キリスト教会の礼拝は2月19日(日)10時半からと20時からです。マスクをしてお集いください。後からホームページで配信も行います。オンラインもご利用ください。
gospel.sakura.ne.jp/sugito/

杉戸キリスト教会地図2016

礼拝メッセージ「福音を伝える足」ローマ25

礼拝メッセージ「福音を伝える足」ローマ25(クリックで聴けます)

聖書箇所:ローマ人への手紙10章1ー15節

9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」ローマ人への手紙10章9−15節

福音が語られています。もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で、神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるという福音です。

この福音において、ユダヤ人と異邦人、韓国人と日本人との区別はありません。主の御名を呼び求める者は、だれでも救われます。けれども、福音を伝える足として神が誰かを派遣しなければ、聞くことも、信じることも、呼び求めることもできません。