イースター召天者記念礼拝メッセージ「死者を生かす神」ローマ10

イースター召天者記念礼拝メッセージ「死者を生かす神」ローマ10(クリックで聴けます)

聖書箇所:ローマ人への手紙4章17ー25節

17 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。23 しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。 ローマ4章17-25節

パウロがローマ人への手紙において語るアブラハムの姿は、罪や不信仰がおおわれたアブラハムの姿です。

おおわれる前のアブラハムの姿は、創世記17章17節に以下のように記録されています。

アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」

礼拝メッセージ「価なしに義と認められる」ローマ8

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聖書箇所:ローマ人への手紙3章19ー31節

さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。ローマ3章19-24節

ローマ人への手紙の主題は、「信仰義認」という四文字熟語で言い表すことができます。これは「イエス・キリストを信じる信仰によってのみ、あなたは神の前に価なしに義と認められる」という聖書の真理、イエス・キリストの福音を要約したものです。

けれども多くの人になじみ深いのは、「信仰義認」ではなく「行為義認」です。これは「自分の努力と頑張り、行為によって、代価を払うことのできた者だけが神の前に義と認められる」という考えです。

「信仰義認」の真理は、あなたを義と認め、罪責感や良心のとがめ、劣等感や優越感から解放し、あなたに喜びと平安と神への賛美を与えます。

礼拝メッセージ「怒りを下す神は不正か」ローマ7

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聖書箇所:ローマ人への手紙3章1ー18節

しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。「善を現すために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか‐‐私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。‐‐もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。ローマ3章5-9節

悲惨な出来事の中で、「神がいるならどうしてこんなことが起こるのか?」という問いが生じます。

この問いの背後には、「怒りを下す神は不正である」という人間中心的な神学があります。「愛の神は正しいが、怒りを下す神は正しくない」、「赦す神は正しいが、裁く神は間違っている」というような考えです。このような神学は、「十字架を必要としない見せかけの神の愛と赦し」に行き着きます。

このような人間中心的な神学に対して、パウロは、「絶対にそんなことはありません」と強調します。

本当の神は、私たちの身代わりとして、十字架に磔にされたひとり子イエス・キリストの上に、容赦のない怒りを下された神です。

使徒信条

使徒信条

われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、
死にて葬られ、よみにくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。
われは聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、
罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。
アーメン

礼拝メッセージ「ハレルヤコーラス」

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聖書箇所:ヨハネの黙示録19章1ー21節

また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」黙示録19章6-8節

ヘンデルのハレルヤコーラスで有名なハレルヤという言葉は、次のような意味が込められたヘブル語です。

ハレルヤ=ハ レ ル  + ヤー(YHWH)
    =ほめたたえよ + 主なる神を

ハレルヤは旧約聖書の詩篇において多用されています。けれども新約聖書の中では、黙示録19章でしか使われていません。なぜ未来に人々がハレルヤということばを用いて主なる神を賛美するのでしょうか。その理由は上記のみことばに語られています。

未来に大群衆(マスクワイア)がハレルヤと神を高らかに賛美する理由。それは、やがての未来に、主イエスが全地の王となられ、キリストと教会の喜ばしいウエディングの時が来たからです。

主イエスこそ、クリスマスに天から飼い葉桶に降りて来られ、私たちの罪のために十字架で死なれ、死と悪魔に勝利して墓から復活され、再び来られ王となられる主なる神、メサイア・キリストです。

礼拝メッセージ「心の扉を叩く音」

礼拝メッセージ「心の扉を叩く音」(クリックで聴けます)

聖書箇所:ヨハネの黙示録3章20節

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。黙示録3章20節

聖書が語る信仰とは、イエス・キリストを信頼し、受け入れるために、心の扉を開く行動です。それは飲食物、薬、ワクチン、点滴などを信頼して、自分の体内に取り込むことによく似ています。イエス・キリストを信頼して受け入れるためには、イエス・キリストを良く知る必要があります。聖書が語るイエス・キリストは、以下のような素晴らしいお方です。

1、イエス・キリストは、暗くて汚くて臭い所に、喜んで入ってくださるお方です。

2、イエス・キリストは、暗くて汚くて臭い所を、おいしく食事ができる所に、明るくてきれいで良い香りのする所に変えてくださり、いっしょに食事してくださるお方です。

3、イエス・キリストは、毒やウイルスや危険因子ではなく、薬やワクチンや健康食品のような方であり、まさに「神の手」であられる名医です。

イエス・キリストは、今あなたの心の扉をノックしておられます。あなたはどうなさいますか?