なぜThe Bibleは、にわかに信じ難いのか? February 13, 2025

「なぜThe Bibleは、にわかに信じ難いのか?」February 13, 2025

創世記5章には、以下の内容が記されている。
アダムの全生涯は930年、セツは912年、
エノシュは905年、ケナンは910年、
マハラルエルは895年、ヤレデは962年。

エノクは365年神とともに歩み、
そのまま天に召された。

メトシェラの全生涯は969年、レメクは777年。
箱舟で有名なノアは500歳の時に3人の息子、
セム、ハム、ヤフェテを生んだ。

なぜThe Bibleは、にわかに信じ難いのか?
理由は、天地万物を創造された神が比類なき永遠の神であり、
永遠に生きるために人間を神の似姿にデザインされたから。

荒野に導かれて February 9, 2025

「荒野に導かれて」February 9, 2025

韓国のクリスチャンアーティストHisWillの曲に、
「荒野をとおって(광야를 지나며)」という歌がある。
以下に歌詞を引用する。

なぜ闇の中に 深き闇に 
ひとりで捨てられたのか
私はなぜ 寂しくなり
低くなり 頼りなくなったのか
荒野 荒野にいる

主だけ助けになり 
主だけ光になり
主だけ友になれる 荒野
主を離れて とても生きられない
荒野 荒野にいる

主に用いられるように
きよめられるように
主に送られた所 荒野
御霊によって 生まれ変えられる 
荒野 荒野にいる

心を明け渡して
華やかな夢も 主の手にささげる
主の御旨が わが主だけが
私に現れるように
荒野をとおって

実はJESUSも、荒野をとおられた。
神がJESUSを荒野に導かれた目的は、
荒野を通って十字架の死に至る従順を学び、
神のみこころを成し遂げるためだった。

そして神が私たちを荒野に導かれる目的は、
荒野を通って自分を捨ててJESUSに従う従順を学び、
神のみこころを成し遂げるため。

なぜヨナは主の御顔を避けて逃げたのか? January 20, 2025

「なぜヨナは主の御顔を避けて逃げたのか?」January 20, 2025

ヨナは、批判されることが多い預言者だ。
なぜなら彼は、初め主の御顔を避けて、
ニネベとは反対のタルシシュに逃げたのだから。

なぜヨナは、主の御顔を避けて逃げたのか?
ヨナ書4章には、ヨナ自身の言葉で、
その理由が明らかにされている。
ヨナが魚の腹から救われ、
再び神から命じられ、
ニネベに行って叫ぶと、多くの人々が悔い改めた。
それをご覧になった神が、わざわいを思い直された。
それに対して怒り狂ったヨナの言葉だ。

「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、
このことを申し上げたではありませんか。
それで、私は初めタルシシュへ逃れようとしたのです。
あなたが情け深くあわれみ深い神であり、
怒るのに遅く、恵み豊かで、
わざわいを思い直される方であることを知っていたからです。
ですから、主よ、どうか今、私のいのちを取ってください。
私は生きているより死んだほうがましです。」
(ヨナ書4章2−3節)

なぜヨナは、主の御顔を避けて逃げたのか?
それは主なる神が、
「イスラエルの敵国アッシリアの大きな都ニネベに行って、
神からのメッセージを叫べ」とヨナに命じたから。

今日に当てはめるなら、
イスラエルが、「敵であるテロ組織ハマスの本拠地に行って、
神からのメッセージを叫べ」と命じられたような状況だ。

批判することは簡単だ。
だからヨナは、批判する者にこう言うだろう。
「だったらあんたがやってみな!」

なぜ神は善悪の知識の木を生えさせたのか? January 16, 2025

「なぜ神は善悪の知識の木を生えさせたのか?」January 16, 2025

神である主は、その土地に、
見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、
そして、園の中央にいのちの木を、
また善悪の知識の木を生えさせた。
(創世記2章9節)

神である主は人に命じられた。
「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。
その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
(創世記2章16−17節)

神は「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」と語られた。
そして、思いのまま食べてよい木が数えきれないほどある中、
たった一本だけ、食べてはならないと命じられた。
神はあなたに禁欲主義を押し付ける方ではない。

善悪の知識の木から食べないことは、神を基準とすること。
善悪の知識の木から食べることは、自分を基準とすること。

自分を基準とすると、自分を測る時には甘く、他人を測る時には厳しくなる。
自己中心なものさしで測ると、自分は善になり、他人は悪になる。
いつも自分は正しく、責任はすべて他者に転嫁される。

善悪の知識の木から食べたいという思いは、自分が神になりたいという思い。
自分が神になれば、何をしても許されるから。
都合のいい人間や神は利用し、都合の悪い人間や神は殺してもいいから。
しかし神が実在する以上、善悪の知識の木、絶対的な善悪の基準も実在する。

悪とは殺すこと

こんどの主日はペンテコステ(聖霊降臨日)であり、国外宣教デーです。ぜひお集いください。

悪とは殺すこと

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礼拝メッセージ「希望は失望に終わらない」ローマ11

礼拝メッセージ「希望は失望に終わらない」ローマ11(クリックで聴けます)

聖書箇所:ローマ人への手紙5章1ー5節

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。ローマ5章1-5節

主イエス・キリストにすべてを信託する信仰によって義と認められた時、3つのギフトがあなたに与えられます。

1、王なる神との平和:
 王なる神、絶対主権者である神との絆が回復する時、あらゆる不安や恐れが消え去り、神との平和を体験することができます。それは死にも打ち勝つ平安と守りです。

2、王なる神への自由なアクセスと面談:
 王の息子であられる主イエスの御腕に導かれるなら、王がおられる至聖所の中に自由にアクセスし、王なる神と面談することができます。

3、失望に終わらない希望:
 宝石だって磨かなければ光りません。原石のような私たちをカットし磨き上げ、誰も消せない希望の光を放つために、全能の神はあなたに患難と聖霊を与えます。

神の痛みの神学のキリスト中心的理解

神の痛みの神学のキリスト中心的理解