礼拝メッセージ「召されたときのままで」

礼拝メッセージ「召されたときのままで」(クリックで聴けます)

聖書箇所:1コリント7章1−16節

2013年10月27日に杉戸キリスト教会にて

メッセンジャー:野町真理(のまちしんり) 杉戸キリスト教会牧師

主題:召されたときのままで歩む(互いに愛し合う)べき理由は、
神がそのままで私たちを召し、救い、受け入れてくださっているから。

ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、
また神がおのおのをお召しになった(救われた)
ときのままの状態で歩むべきです。
私は、すべての教会で、このように指導しています。
1コリント7章17節

パウロはすべての教会において適用されるべき原則として、
7章17節の内容を教えている。
独身か結婚か離婚か?割礼か無割礼か?奴隷か自由人か?
この原則は、それぞれの立場、状態に置かれている私たちそれぞれに適用できる。
救われた後、神に喜ばれるために、今の状態、現状を無理やり変える必要はない。
召されたときのままで歩むべき。置かれた場所で花を咲かせるべき。
なぜなら、神はそのままで私たちを召し、救い、受け入れてくださっているから。
今置かれている場所・状況・状態は、みこころの場所。
計り知れない深い神のご計画の中にあって、主が共におられ、主が植えられた場所。

礼拝メッセージ「罪をおおわれた人たちの幸い」ローマ9

礼拝メッセージ「罪をおおわれた人たちの幸い」ローマ9(クリックで聴けます)

聖書箇所:ローマ人への手紙4章1ー16節

それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」 ローマ4章1-8節

今年も受難週を迎えました。春を迎えるために厳しい寒さを通らなければならないように、イースター(復活祭)を迎えるためには、厳しい受難週を通らなければなりません。

同様に、あなたが罪をおおわれた人たちの幸いに至るには、あなたが自分の罪深さと無力さをごまかさずに認め、自分で自分を救えないことを素直に認め、神に降伏することがどうしても必要です。

何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、アブラハムやダビデのように、その信仰が義とみなされるのです。罪がおおわれるとは、神があなたの罪を完全に忘れてくださり、すべてなかったことにしてくださるという恵みです。