「組織神学・教会教義学」カテゴリーアーカイブ
ペンテコステ礼拝メッセージ「聖霊とは何か」ローマ17
ペンテコステ礼拝メッセージ「聖霊とは何か」ローマ17(クリックで聴けます)
聖書箇所:ローマ人への手紙8章1ー17節
1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が
罪に定められることは決してありません。
2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、
罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、
神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、
罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、
肉において罪を処罰されたのです。
4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、
律法の要求が全うされるためなのです。
5 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、
御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
6 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
7 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。
それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
8 肉にある者は神を喜ばせることができません。
9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、
あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。
キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
10 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、
からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
ローマ人への手紙8章1-10節
聖霊とは何か
礼拝メッセージ「人間とは何か」ローマ16
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聖書箇所:ローマ人への手紙7章1ー25節
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。ローマ人への手紙7章24-25節
聖書が語る私たち人間について、共に学びましょう。
1、非常に良かった神の作品としての人間
あなたは偶然の産物ではない。人間は神のかたちに似せて造られた神の作品だと聖書は語ります。創造主なる神によって人間が造られた時、人間は神の栄光を現す最高傑作として非常に良いものでした。
2、非常に悪くなったみじめな存在としての人間
堕落した天使(悪魔)に誘惑された人間は、罪の奴隷となり、美しい神のかたちを失ってしまいました。「神と隣人(他者)のものをむさぼってはならない」という神の戒めによって機会を捕らえた罪が、人間を欺き、戒めによって人間を殺したのです。
その結果私たち人間は、自分がしたいことではなく、したくないことをするようになりました。優しくなりたいけど優しくなれない。わかっちゃいるけど止められない。非常に悪い自分をどうしても自分で変えることができないみじめな存在。救い主が必要な存在。それが私たち人間の本当の姿です。
礼拝メッセージ「洗礼とは何か」ローマ14
礼拝メッセージ「洗礼とは何か」ローマ14(クリックで聴けます)
聖書箇所:ローマ人への手紙6章1ー14節
1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。ローマ人への手紙6章1-5節
自分に都合のいい解釈をしたい人間は、恵みが増し加わるために罪の中にとどまるべきだと主張します。それに対してパウロは、絶対にそんなことはないと反論し、洗礼(バプテスマ)とは何かを語ります。
キリストの死にあずかるバプテスマによって、私たちはキリストとともに葬られたのだとパウロは語ります。それは私たちが、キリストとともに復活し、新しい歩みをするためです。
礼拝メッセージ「希望は失望に終わらない」ローマ11
礼拝メッセージ「希望は失望に終わらない」ローマ11(クリックで聴けます)
聖書箇所:ローマ人への手紙5章1ー5節
ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。ローマ5章1-5節
主イエス・キリストにすべてを信託する信仰によって義と認められた時、3つのギフトがあなたに与えられます。
1、王なる神との平和:
王なる神、絶対主権者である神との絆が回復する時、あらゆる不安や恐れが消え去り、神との平和を体験することができます。それは死にも打ち勝つ平安と守りです。
2、王なる神への自由なアクセスと面談:
王の息子であられる主イエスの御腕に導かれるなら、王がおられる至聖所の中に自由にアクセスし、王なる神と面談することができます。
3、失望に終わらない希望:
宝石だって磨かなければ光りません。原石のような私たちをカットし磨き上げ、誰も消せない希望の光を放つために、全能の神はあなたに患難と聖霊を与えます。
イースター召天者記念礼拝メッセージ「死者を生かす神」ローマ10
イースター召天者記念礼拝メッセージ「死者を生かす神」ローマ10(クリックで聴けます)
聖書箇所:ローマ人への手紙4章17ー25節
17 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。23 しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。 ローマ4章17-25節
パウロがローマ人への手紙において語るアブラハムの姿は、罪や不信仰がおおわれたアブラハムの姿です。
おおわれる前のアブラハムの姿は、創世記17章17節に以下のように記録されています。
アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」