卒論再考

このページは、私が祈りながら考えていることを書いたノートです。
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卒論から説教へ-オープンソースによる神学と教会形成の提言

 私が卒論をインターネットで公開している理由は、ネットの利点を生かして、多くの方と一緒に「イエス・キリストの福音」の深さ、広さ、長さ、高さを理解していきたいと思っているからです。全文公開しているのは、テーマが大きすぎて、書 いた本人がまだうまくまとめることができないからです。でも、卒論で学んだことを少しずつ説教にしていく中で、改めて教えられつつあります。

 いつくしみ深い神の献身 大喜びする父  イエス様の顔は7度を70倍するまで

 特に神学はその性質上、一人で書斎にこもってする学ではないと思います。 交わりの中で、共に祈りつつ、理解が深められていくことが本来のあり方だと思います。そして教会に仕え、教会を建て上げるための学が神学であると私は東海聖書神学塾で学びました。

 フィンランド出身のリーナス・トーバルズによって提示された、リナックス(LINUX)というオペレーティングシステム(OS)をご存知でしょうか。リナックスは、いままで探求してきたノウハウをネット上で全面的に公開している故に、多くの方の協力を得て、非常に短期間に、しかも良質なOSを共同で作り上げています。これはオープンソースと呼ばれる研究開発のあり方です(このサイトのロゴはオープンソースの環境の中で開発されたフリーの画像処理ソフト、GIMPで作っています)。2000年の歴史を持つキリスト教会は、数え切れないほどの書籍や信条、信仰告白、注解、説教といった共有すべき財産を持っています。21世紀に教会も、インターネットを利用したオープンソース、チームワークの時代を迎えるような気がします。

 21世紀に主の教会を全世界に建て上げるために、 世の光、地の塩、祝福の基として他者のために共に生きるために、 福音によって世に勝利するために、 皆さんの考えや理解などを聞かせていただきながら、世界教会的な神学を構築していきたいと思っています。そのために私の卒論や説教をたたき台として、恥も顧みず公開しているわけです^・^。オープンソースによる神学と教会形成の提言に賛同して下さる方を求めます。メールをお待ちしています。

オープンソースによる神学のホームページ

日本のキリスト教会の将来のために
赦された過去を心に刻んで告白する

 今なお日本は、教科書問題や首相の靖国神社参拝などで、アジア諸国の非難を浴び続けている。日本のキリスト教会の将来のために、また、祝福の基、世の光、地の塩としての使命に生きるために、主イエスの十字架と復活による赦しの宣言をしっかりと聴き取り、赦された過去をしっかりと心に刻むことから始めたい。

 戦時下において、ほとんどの日本のキリスト教会は日本政府によって日本基督教団として一つにまとめられた。その時私共日本同盟基督教団は第八部に所属していた。敗戦後、教団に加わった教会は二つの道を選択しなければならなかった。すなわち、教団に留まって再出発するか、それとも離脱して旧教派を再建するかの選択であった。日本同盟基督教団は、後者の離脱の道を選んだ。しかしその際、旧教派の宣教団体からの宣教師が再来日したため、その関係を回復するということが、離脱した一番の動機であったようである。やはり私たちも、過去の罪責を告白し、心に刻むことなしに再出発してしまったのである。おそらくはそのため、キリスト教会に多くの人々が訪れたが、多くの人が潮が引くように去って行ったのではないか。また、未だにキリスト者の数が日本の人口の1パーセントの壁を越えることができないのではないかと私は思う。

 一方、留まって再出発した日本基督教団は1967年になって、「第二次大戦下における 日本基督教団の責任についての告白」を提示している。時期を考えると、非常に真摯な告白がなされていて、私共すべての日本のキリスト教会が、真剣な課題として「明日の教団・教会」を考える道備えをして下さったと私は考える。 この告白に続くものとして、日本同盟基督教団も1991年10月10日、宣教100周年記念大会にて100周年記念宣言を告白しているのではないだろうか。

  さらに日本同盟基督教団・横浜上野町教会役員会一同は、1995年2月26日付けで『アジアの中の日本にある基督教徒に送る手紙』を発信した。これは『日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書翰』につながる流れとはっきり決別し、和解の福音に生きるための真摯な公文章である。この手紙を通して、私は「日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書翰」というものの存在を初めて知った。最悪の形で、主の御名が冒涜されている。いわゆる日本的キリスト教が行き着く終着点が、この書翰だと思う。悔い改めに先行する主のあわれみによる赦しを覚え、破れ果てた破れをも包む主を覚えていなければ、この書翰を取り扱うことは出来ない。聖書にエルサレム陥落と捕囚に至るまでの恥ずべき、しかし赦された神の民の罪責の歴史がしっかりと書き記されていることからも、日本のキリスト教会がこの書翰を水に流し、忘れ去ることは主のみこころではないと思う。キリスト者日本人の一人として心に刻むために、私は神学校に提出した卒論に書翰の全文を引用した。

 そして同じ1995年4月27日に、日本福音キリスト教会連合は『第二次大戦における日本の教会の罪責に関する私たちの悔い改め』を告白した。過去を断罪することではなく、正確に過去を知り、今後同じ罪を犯さず、堅くキリストに立つことができるようにという願い。そして悔い改めが一時的なものではなく、将来に向かっての証となるようにという願いがこめられた罪責告白である。この告白は、現在日本のキリスト教会の中で、赦された罪責の一つ一つを最も詳しく告白しているものではないかと思う。 この告白に続くものとして、日本同盟基督教団も1996年11月19日、宣教105周年記念大会にて、横浜宣言を出すことが出来たのではないかと私は考えている(横浜宣言は英語版ハングル版、そして広東中国語版もあります)。

キリスト者日本人の罪責宣言草稿 -ダルムシュタット宣言・日本版のために(2001年)

第一項−罪責の認識はキリストによる和解に基づいてのみ存在する

 われわれには、イエス・キリストの十字架と復活において、世界が神と和解されたという福音が語られている。 この和解の福音をわれわれはまず聞き、それを本当に味わうことによってそれに生き、また伝えなければならない。もしわれわれが、自らのすべての罪責、つまり父祖たちとわれわれ自身の罪責から解き放たれておらず、われわれが日本人として、われわれの政治的意図・行動において過ちに踏み込んでしまったすべての誤った悪しき道から、良い羊飼いであるイエス・キリストによって呼び戻されていないとするならば、この和解の福音は聞かれておらず、受け入れられておらず、行われても伝えられてもいないことになるのである。

第二項−ナショナリズムと日本民族優越主義に対して

  われわれは、あたかも世界は日本的本質(国体)に触れることによって救われるかのように、特別に日本には使命があるなどという夢を見始めた時、過ちに踏み込んでしまった。 また、われわれは、われわれが聞くべき王の王、主の主としてのイエス・キリストに聞くことをしなかった。そのことによってわれわれは、政治的権力の無制限の使用に対して道を備え、われわれの民族を神の御座の上に置いた。われわれは自分たちの国家を内に対してはただ強い政府の上に、外に対してはただ軍事的な力の展開の上に基礎づけ始めたが、これは致命的に誤っていた。そのことによってわれわれは、われわれ日本人に与えられている贈物をもって、諸国民の共通の課題に仕えつつ協力するという召しを否定してしまったのである。

第三項−教会と保守勢力との同盟

 われわれは、人間の社会生活の中で必要となってきた新しい秩序に対して、「キリスト教的戦線」なるものを結成し始めた時、過ちに踏み込んでしまった。古い・在来のものを維持する保守勢力と教会の同盟は、われわれに対するきびしい報復となって帰ってきた。われわれは、人間の共同生活がそのような変革を求めているところで、生活の諸様式を変えることをわれわれに許しかつ命ずる、キリスト教的自由を売り渡してしまった。われわれは革命への権利は否定したのに、絶対的独裁制への発展は許容し、歓迎したのである。

第四項−悪しき者たちに対する善き者たちの戦線

 われわれは、政治的な生活の中で、政治的手段によって、悪しき者たちに対する善き者たちの、暗黒に対する光の、義しからざる者たちに対する義しき者たちの戦線なるものを結成しなければならないと考えた時、過ちに踏み込んでしまった。それと共にわれわれは、政治的、社会的、世界観的な統一戦線の結成によって、すべての人に対する神の恵みの自由な提供を変造し、世界をその自己義認にゆだねてしまったのである。

第五項−共産主義が提示している、忘れられた教会の使命

 われわれは、マルクス主義的教説の経済的な唯物主義が、この世における人間の生活と共同生活のために与えられている教会の委託や約束を果たすように、教会に注意を促さなければならなかったのだということを見過ごした時、過ちに踏み込んでしまった。われわれは、来たるべき神の国の福音にふさわしく、貧しい人々や権利を奪われた人々の事柄を、キリスト教会の事柄とすることをなおざりにしたのである。

第六項−キリスト者・教会に与えられている自由

 われわれが以上のことを認めて告白するとき、われわれは自分たちがイエス・キリストの教会として、神の栄光と人間の永遠的また時間的な救いのために、新しく、そしてより良く奉仕するべく自由にされていることを知るのである。キリスト教と日本文化といったスローガンではなく、イエス・キリストの死と復活の力によって神のもとへ立ち戻り、隣り人のところへ赴くことこそが、われわれの民族、また民族の真只中で、とくにわれわれキリスト者に必要なことである。

第七項−正義と福祉と内なる平和と諸民族の和解に仕える新しい日本国

 われわれは、「イエス・キリストによって、この世の神なき束縛から脱して、彼の被造物に対する自由な感謝に満ちた奉仕へと赴く喜ばしい解放がわれわれに与えられる」と告白した。そして、今日新しくそれを告白する。それゆえにわれわれは、切に訴える。絶望をあなたの主たらしめるな。なぜなら、キリストが主なのであるから。すべての不信仰な無関心に別れを告げよ。昔はもっと良かったといったたぐいの夢想や、来たるべき戦争の思わくなどに惑わされず、この自由において、また大いなる冷静さをもって、われわれのすべて、われわれの各自がより良き日本の国の建設のために負っている責任を自覚せよ。新しい日本国は、正義と福祉と内なる平和と諸民族の和解に仕えるものなのです。

 参考文献
 ベルトールト・クラッパート 『和解と希望−告白教会の伝統と現在における神学』、新教出版社、1993年
 J.モルトマン 『二十世紀神学の展望』、新教出版社、1989年


 教会学校に来ているある中学生が、学校の社会の先生に、 「なぜ歴史を学ぶのか」という理由を次のように習ったそうです。
「それは過去の過ちを二度と繰り返さないためだよ」と。 かつてのドイツ大統領ヴァイツゼッカ−の有名なことば、

「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」
「心に刻むことなしに和解はありえない」
「心に刻むというのはユダヤの信仰の本質である」

    を思い出しました。

 しかし、聖書に記されている罪責は、個人的なものではありません!

私は、私の神、主に祈り、告白して言った。
「ああ、私の主、大いなる恐るべき神。あなたを愛し、あなたの命令を守る者には、契約を守り、恵みを下さる方。私たちは罪を犯し、不義をなし、悪を行ない、あなたにそむき、あなたの命令と定めとを離れました。私たちはまた、あなたのしもべである預言者たちが御名によって、私たちの王たち、首長たち、先祖たち、および一般の人すべてに語ったことばに、聞き従いませんでした。主よ。正義はあなたのものですが、不面目は私たちのもので、今日あるとおり、ユダの人々、エルサレムの住民のもの、また、あなたが追い散らされたあらゆる国々で、近く、あるいは遠くにいるすべてのイスラエル人のものです。これは、彼らがあなたに逆らった不信の罪のためです。主よ。不面目は、あなたに罪を犯した私たちと私たちの王たち、首長たち、および先祖たちのものです。あわれみと赦しとは、私たちの神、主のものです。これは私たちが神にそむいたからです。…
ダニエル書 9章4−9節

 少し前に、森首相が「日本は天皇を中心とする神の国だ!」との発言をしました…。

 非常な痛みをもって言わなければなりませんが、 かって私たち日本のキリスト教会は、イエスが主であると口で告白しつつ、同時に、 「日本は天皇を中心とする神の国だ」という思想と、 大東亜共栄圏の野望を持った天皇教会になっていました。恵みの神を捨てて偶像礼拝の罪を犯しつつ、第二次世界大戦に積極的に協力しました。その中で、アジア諸国のキリスト者に対しても偶像礼拝を強いました。その結果、祝福の基となるという神から委託された使命を捨て、禍の基となりました。戦後しばらくは、神に対するそれらの罪責に心を痛めることもありませんでした。

…私の神よ。耳を傾けて聞いてください。
目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている町をご覧ください。
私たちが御前に伏して願いをささげるのは、
私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。
主よ。聞いてください。主よ。お赦しください。主よ。心に留めて行なってください。
私の神よ。あなたご自身のために遅らせないでください。
あなたの町と民とには、あなたの名がつけられているからです。」
ダニエル書 9章18−19節

砕かれた魂、悔いた心を持つ人によって揺り動かされる神

神なしで自分勝手に生きようとする者に対しての神の怒り

ローマ書一章に書かれている神の怒り=「勝手にしなさい!」という引き渡し。
放蕩息子が出て行くのを引き止めない父。愛するが故のはがゆさ。怒り。
関係が深くないと怒れない!

スプランクニゾマイが放蕩息子が出て行くときではなく、帰って来た時に用いられている理由。
先行する神の赦しと神による和解。
息子を遠くに見つけ、心底からの歓喜(スプランクニゾマイ)をもって走り寄る父なる神!!

悔改めに先行する神の恵み、赦し、愛

「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んで下さったことにより、
神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」
ローマ人への手紙5章8節

神の恵み、神の愛を体験することのみが、私たちを真の悔改めへと導く!
⇔罪の強調から始める福音提示

救いとは?(痛みという側面から見た救い)

他者(神と隣人)の痛みを感じることが出来るようになること。
つまり、信仰者自身が、キリストに似た者に変えられること!

全世界の祝福の基として、他者のために生きる新しい人間への再創造!
⇔自分の痛みしか考えられず、他者(神と隣人)の痛みを感じれない罪人。

キリスト中心(Christ-centric)に聴くことの大切さ


卒論

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野町 真理