2000年8月27日 主日礼拝式説教
(野町 真理)
10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。
「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
10:26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えて言った。
「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
10:30 イエスは答えて言われた。 「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。
強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、あるサマリヤ人が、 旅の途中、そこに来合わせ、 彼を見てかわいそうに思い、
10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、 ほうたいをし、
自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、 介抱してやった。
10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、 宿屋の主人に渡して 言った。
『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」
するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」
イエス様はこの地上での生涯の中で、いろいろな人に出会い、そしていろいろな人と話をされました。聖書の中には、イエス様がいろんな人と会った時、どんな話をされたのか、その一言一言とその時の状況が書き記されています。 けれども、おもしろいことに、イエス様が、質問をしてきた相手に対して、直接答えられることはほとんどありません。むしろイエス様は、質問をしてきた相手に、逆に問い返される。そういうことのほうが多いのです。今日の聖書の個所でも、そのような対話をみることができます。
10章25節から26節までを見て下さい。
10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。 「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
10:26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」これは、聖書が語っている福音、良い知らせと呼ばれるメッセージの中で、いちばん大切な、永遠のいのちについての質問です。聖書も、「どのようにすれば永遠のいのちを自分のものとして受けとることができるのか」、そのことを知らせるために書かれたのです。
けれどもここで、ある律法の専門家は、「イエスをためそうとして」この質問をしたことが、はっきりと記されています。「イエスをためそうとして」。これが彼がイエス様に対して、質問をした理由でした。イエス様は、彼のこの心を見透かされました。そして彼に対して、イエス様は逆に、「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」、と、問い返されたのです。
なぜイエス様は、質問をしてきた彼に、逆に問い返されたのでしょうか?それは、そうすることによって、彼が真剣になって、その質問に向き合うことができるためでした。彼が「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるのか」という質問の答えを、自分の問題として本気で求め、そして永遠のいのちを受け取ることができるために、イエス様は逆に質問されたのです。
イエス様が彼に対して、「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」、と、問い返された時、彼は「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」。そういうふうに答えました。この2つの命令は非常に的を得た答えでした。イエス様自身も、「これは律法の中でもいちばん大切な命令です。」と教えておられたのです。
ですから彼に対してイエス様は、「そのとおりです。」と言われました。これはイエス様が「あなたの答えは模範解答ですね」と言われたようなものです。しかしイエス様は、「さすがあなたは律法の専門家ですね」とは言われず、続けて彼に「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」と言われました。
律法の専門家である彼の、その後の反応を見ると、とても注目すべき言葉が記されています。
29節。しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」。
ここには、自分の正しさを示そうとしてという注目すべき言葉があります。彼は「私は正しい人間だ。私は神を愛し、隣人を愛する正しい生き方をしているではないか。イエス様、私がそのようなことを実行してないとでもおっしゃるのですか?」といわんばかりの自信とプライドを持って生きていたようです。言い換えれば、「彼は自分の正しさによって生きていた」といってもいいでしょう。そして、自分の正しさを示そうとして、イエス様に「では、私の隣人とは、だれのことですか?」と問いかけるのです。
おそらく彼は、隣人を自分の好きな人たちということに限定するなら、自分自身のように隣人を愛しているという自信があったのでしょう。 そして、「では、私の隣人とは、だれのことですか?」という彼の問いに対する答えとして、イエス様はこの、よきサマリア人のたとえを語られたのです。
イエス様がこのたとえを彼に語った理由は、神の憐れみによって生きてないことを彼に悟らせ、彼が自分の正しさではなく、神の憐れみによって生き、そうすることによって永遠のいのちを、神からの一方的なプレゼントとして受け取らせるためだったのです。 イエス様が律法の専門家である彼に語られた、「良きサマリア人のたとえ」を味わいたいと思います。
(ルカ10:30−35を読む)
エルサレムからエリコへ下る道というのは、距離約27キロメートル、高低差は約1200メートルの道のりです。岩の多い下り坂が続く、見通しが効かない道です。強盗がよく出没したことから、別名「血の道」と呼ばれていたほどの難所で、今でもこの道は危険だそうです。
ここでエルサレムからエリコへ下る道で強盗に襲われた人は、ユダヤ人であったと考えられます。 ある一人のユダヤ人が強盗に襲われ、半殺しにされて、道端に倒れていました。そこに三人の人が順番に通りかかります。最初は祭司、2番目はレビ人、そして3番目はサマリア人でした。
最初の二人、祭司とレビ人は神様と人々に仕える人たちで、困っていた人がいたら当然助けてあげる人たち、人格的に立派な人たちだろうと期待される人たちでした。けれども彼らは、同じユダヤ人の同胞が道端に倒れている姿を見ても、なんと反対側を通り過ぎていったのです。
しかし3番目にそこに通りかかったあるサマリヤ人は、前の2人とは違いました。反対側を通り過ぎるようなことはせず、強盗に襲われた人の隣人になったのです。
サマリア人とユダヤ人とは敵対関係にありました。ユダヤ人にとってサマリア人は、とても隣人とは思えない存在でした。ですからこのたとえで驚くべきことは、ユダヤ人とは民族的に敵対関係にあったサマリア人が、ユダヤ人が倒れている姿を見て、かわいそうに思い、応急処置をし、宿屋に連れて行って介抱したということです。
次の日、このサマリア人は、宿屋の主人にお金を払って倒れていた人を介抱してくれるように頼んで用事に出かけようとします。しかもその際、もっと費用がかかったなら、私が帰りに払うという約束までするのです。
ここに強烈な対照があります。強盗が惜しみなく奪う者なら、このサマリア人は惜しみなく与える者です。強盗が傷つける者なら、このサマリア人は介抱する者です。祭司やレビ人が行き過ぎる者なら、このサマリア人は近寄る者なのです。
サマリヤ人は旅の途中で、そこに来合わせた状況でした。危険を冒してこの道を通っていたことを考えると、とても大切な用事があっての旅であったと考えられます。ひまがあったわけではありません。むしろ一刻も早く、危険な所を通り過ぎたい、という思いであったと考えられます。 しかしこのサマリア人は、3つのものをその人のために割いたのです。それは時間と労力とお金です。なぜサマリヤ人はこれら3つのものを割いたのでしょうか?その理由を33節の言葉の中に見つけることができます。
10:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。…
33節に、彼を見てかわいそうに思いという言葉があります。これは、サマリア人が旅の途中で、強盗に襲われて倒れているユダヤ人を見た時の、心の中の動きを表わしている言葉です。この言葉は、「内臓、はらわた」を表わす言葉から作られていて、「はらわたわななく」、とか「内臓が痛む」、「心の最も深いところから揺り動かされる」というような意味の言葉です。サマリア人が、時間、労力、お金を割き、危険を犯し、出来るかぎりのことをして彼を介抱する行動に移ったことを見ても、「心の底から揺り動かされるほどの憐れみに駆られて」というような意味がこめられていることがわかります。
この言葉によって表現されている強い憐れみは、サマリア人が強盗に襲われた敵(ユダヤ人)の隣人になった動機そのものです。それは民族間の敵意の壁を打ち破るほどの情熱です。心の最も深いところから揺り動かされた時、その揺り動かされた心が、愛の行動を生み出したのです。
ここで、このたとえを語られたお方、私たちの主、イエス・キリストによって明らかにされたいつくしみ深い、憐れみ深い神に思いを向けたいと思います。それは、このたとえのなかで登場するサマリア人の姿こそが、まさにイエス様御自身の生き様を指し示しているからです。
イエス・キリストはこの愛と希望の無い世界に、競争によって殺伐とした世に降りて来て下さり、飼い葉桶の中に生れて下さいました。それが世界ではじめのクリスマスに起こった驚くべき出来事であり、このイエス・キリストの誕生を境にして世界の歴史が二つに分けられたのです。
今年私たちは西暦2000年を迎えていますが、このイエス様が、天地万物を創造された神御自身が、私たちと同じ肉体を身にまとわれ、倒れている私たちのそばに来てくださった。その時から数えて約2000年たったということなのです。
なぜイエス様は天から下って私たちの所に来てくださったのでしょうか?なぜイエス様は人となって私たちの所に来てくださったのでしょうか?
それは、強盗に襲われた人の傍らを祭司やレビ人が通り過ぎたように、倒れている人の傍を通り過ぎることが、イエス様にはどうしても出来なかったからです。羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている私たちをごらんになったイエス様には、私たちを滅びの中に見捨てることは、どうしてもできなかったのです。
イエス・キリストによって明らかにされたいつくしみ深い神、憐れみ深い神。それは神に敵対した結果、罪にまみれて倒れている私たち人間の隣人となってくださるために、考えられないほどの犠牲を払って、献身して下さった神です。まず神が、私たちのために献身して下さったのです。神が仕える僕となって、私たちと共に苦しむ、十字架の道を歩まれたのです。
神はそのような事実においてこそ偉大なお方です。また真の神はそのような仕える姿においてこそ真の神として御自身を表わして下さるのです。ここにおいて、仕えられることを求める人間の高慢を映し出す偶像の神々と、真の神との違いが最もあきらかになります。
そのイエス・キリストが私たちを罪の中から解放し、永遠のいのちに生かすために、私たちの罪の負債をすべて背負って、十字架に架けられ、すべてを惜しみなく捧げて下さったのです。ちょうどあのサマリア人が「もっと費用がかかったら私が代りに払います。」と言ったように、イエス様は私たちの罪の負債をすべて、十字架の上で支払って下さったのです。 そして、キリストは3日目に復活されました。そして今も、目に見えませんが私たちと共に生きておられ、いつもわたしたちのために、良き隣人としてとりなしの祈りをしてくださっているお方です。
イエス・キリストは、どこか遠くにおられる神ではありません。イエス様は、どんなときでも私たちと共にいてくださって、喜ぶ者と共に喜び、苦しむ時には共に苦しみつつ私たちを介抱し、背負って、共に歩んでくださっている本当にいつくしみ深い神なのです。
今日ここに、「だれも私の苦しみなんか知らない。だれも私の悩みを理解してくれる人などいない。」という叫びを持って、孤独の中をひとりぼっちで歩んでいる方がおられますか?その人は是非知って下さい。たとえ誰一人あなたの苦しみや悩みを知らなかったとしても、イエス様だけはあなたのすべての苦しみや悩みを知っていて下さるということを。だれも私の悩みを知らない、でも、イエス様だけは知っているというゴスペルソングに歌われているとうり、イエス様だけは、あなたのすべての悩みや苦しみを知っています。ですから、あなたは決して一人ではありません。
イエス様がこのようなことをして下さっている動機が、倒れている人を見たとき、あのサマリア人を心の底から揺り動かしたあの憐れみではないでしょうか?それは、神と人との間の、敵意の壁を打ち破る、イエス様の心の底からの憐れみです。それは、罪によってもたらされ、神と人とを隔てていた深いみぞに橋を架けるために、神様が献身して下さった動機です。
自分が憐れみによって生きていないことを知る者は、この神の憐れみといつくしみ、めぐみと信実を無条件に受け取ることができ、愛されているという喜びと感謝と共に、永遠のいのちに生きることが出来ます。
あの律法の専門家は、ただ憐れみによってのみ生きることができ、ただそのようにしてだけ永遠の生命を受け継ぐ者になることができる、ということを知らなかったのです。 彼は神の憐れみによってではなく、自分の正しさによって生きていました。 彼は、罪人の隣人となる神の憐れみをもってこの地上に来てくださり、十字架へと向かわれる神の献身の姿、すなわち自分の目の前におられる、このイエス様の憐れみに満ちた心を知らなかったのです。それ故に彼は「私の隣人とは誰ですか?」と問うことしか出来ず、自分の正しさを示そうとすることしか出来なかったのです。
永遠のいのちを自分のものとして受けとるために必要なこと。それはあなたの所に来られて、あなたの隣人となってくださるいつくしみ深い神の献身を知り、その神の愛と憐れみによって生かされることです。その時に私たちは、神を愛し、人を愛し、隣人となって憐れみ深く共に生きることが出来るのです。
イエス様はこの憐れみ深いサマリア人のたとえを語られた後、「では私の隣人とは誰ですか?」と問うた律法の専門家にこう問われます。
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
そして、彼はこう答えるしかありません。
10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」
するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」
この「あなたも行って同じようにしなさい。」というキリストの命令、チャレンジは私たちにも語られています。それは、良き隣人イエス様に罪の中から助け出された者として、他者のために生きる苦難へのチャレンジです。敵意や自ら造ったすべての隔ての壁を越えて、私自身が、あなた自身が、困っている人、助けを必要としている人、疲れている人、弱っている人の傍に寄って隣人になり、共にあわれみ深く生きることを意味しています。
私たちが、罪人の隣人となる神の憐れみ、神の献身によって生かされる時、十字架の上で、いのちまでも惜しまずに、与えてくださった神の愛と憐れみに揺り動かされる時、「あなたも行って同じようにしなさい。」という神からのチャレンジに生きることができます。
そして神の憐れみによって永遠のいのちに生かされた者は、敵をも愛する良き隣人、イエス様のように将来必ず変えられることが、聖書にはっきりと約束されています。 キリスト者がこの地上に生かされている使命。それはこのチャレンジが指し示しています。それは、祝福の基として、つまりこの憐れみのない砂漠の中のオアシスのような存在として、他者のために生き、隣人として共に憐れみ深く生きるということです。
私たちは、たとえ今日死んでも天国に生けるという確信を持つことが出来ます。しかしすぐに天国に入れられるわけではありません。多くの場合、長い間、この地上を歩むことになります。なぜすぐに苦しみも悩みもない天国に行けないのでしょうか? それは私たちがこの地上にあって良き隣人となって共にいきるためなのです。
毎日のニュースを見ても、私たちは本当に憐れみのない世界に生かされています。愛のない、砂漠のような現実のただ中に置かれています。ともすると私たちは自分のことだけで手一杯で、人が苦しもうが痛もうが痛くもかゆくもないという生き方しかできません。しかし、もし私たちが、愛の源、憐れみに満ちたイエス様を心に迎え入れ、神の憐れみ、神の献身によって生かされるなら、私たちはこの砂漠のような世の中にあって、まず自分が潤され、そして周りの人を潤すオアシスのような存在として生きていくことが出来るのです。
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」
するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」
お祈りをしたいと思います。
憐れみ深い天の父なる神様。あなたが罪にまみれて倒れていた私のところに来てくださり、介抱して生かして下さったことを心から感謝します。あなたの十字架の上で流された血潮によって、私の罪の負債のすべてが赦されていることを感謝します。主よ。ともすると私も自分のことだけで手一杯になり、他の人が助けを必要としているとき、その傍を通り過ぎてしまうようなことがあります。けれども主よ。どうか憐れんで下さって、私も良き隣人として他者のために生きることができますよう、砂漠の中のオアシスとなることができますよう、助け導いてください。
主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
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野町 真理