NEW! 2001年 1月28日 主日礼拝式メッセージ
(野町 真理)

「イエス様の顔は7度を70倍するまで」

主題:人を赦す秘訣は、神中心に生き、十字架の赦しを心に刻み続けることにある

聖書個所:マタイの福音書18章21−35節

18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。 「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。
    七度まででしょうか。」
18:22 イエスは言われた。 「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。
18:23 このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。 王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
18:24 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、 王のところに連れて来られた。
18:25 しかし、彼は返済することができなかったので、 その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。
18:26 それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、 『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。
18:27 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。
18:28 ところが、そのしもべは、出て行くと、 同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。
   
彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。
18:29 彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』 と言って頼んだ。
18:30 しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。
18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、 行って、その一部始終を主人に話した。
18:32 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。 『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。
18:33 私がおまえをあわれんでやったように、 おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』
18:34 こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。
18:35 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、 天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」

導入:赦しについて

 日本では、「仏の顔も三度まで」ということがよく言われます。これは、罪を犯した人を赦すことについての言葉です。 誰かが罪をあなたに犯した時、3回までは、なんとかあわれみ深く接することができる。けれども、もし、あなたに対して4回も、同じように罪を犯したならば、あなたの顔からスーッと笑顔は消えて、怒った顔になってしまう。というような意味でしょう。どんなに優しい人であっても、いやなことをたびたびされれば、しまいには怒る。ということでしょう。

 聖書には、イエス様が語られた言葉が書き記されていますが、イエス様は、人を赦すということについて、どのように考えておられるのでしょうか?  ちょうどそのことをイエス様に質問した弟子のことが、聖書には記録されています。彼は、シモン・ペテロという名前の弟子でした。 18章の21節を見てください。ペテロはイエス様のところに来てこう質問しました。

18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。
 「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。 七度まででしょうか。」

 ここでペテロは、3度までではなくて、7度まで赦すべきでしょうか?とイエス様に尋ねています。7という数字は聖書の中では完全数として使われている数字です。ペテロはいつもイエス様の一番弟子でありたかったので、7という完全数を使ったのかもしれません。

 それに対してイエス様が答えられますが、これにはペテロも唖然としたと思います。皆さんもビックリされるでしょう。22節を見てください。

18:22 イエスは言われた。 「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。

  「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまで」。これが、イエス様が、弟子たちに教えられたことでした。 皆さん、これだからキリスト教なんか信じることは出来ない、イエス様にはとてもついていけないと思わないで下さい。 イエス様は、私たちが、現実の生活の中で、難しい人間関係の中で、本当に人を赦していくことが出来るために、この後、一つのたとえ話を語られたのです。今日はそのたとえ話を味わっていきたいと思っています。

本論1:わたしがおまえをあわれんでやったように
     −まず神の赦し、神のあわれみを受けることが人を赦すための秘訣

  このたとえ話の前半部分を、まず読んでみたいと思います。23節から27節までを読みますので、聞いていて下さい。

 まず登場するのは、王様と王様に対して莫大な借金をかかえていたしもべです。そしてその最初の場面は、王様が「清算をする」という場面です。この「清算をする」という言葉は、マタイの福音書だけに使われているお金に関することばで、借りたお金を返してもらう、といった意味です。この福音書を書いたマタイは、イエス様に呼ばれるまでは収税人だったので、お金に関するたとえが非常に印象深かったのだと思います。そしてマタイらしく、「清算する」ということばを用いて、このたとえを記しているのだと思います。

  王様の前に、まず1万タラントの借りのあるしもべが、連れてこられます。この1万タラントという金額は、今の日本円にすると、6000億円という、途方もない額の借金です。 彼は返済することが出来なかったので、主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って、返済するように命じられます。それでこのしもべは、主人の前にひれ伏して、あわれみを求めました。『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』、と。彼は、とても自分で返済することなど出来ない負債を、抱えていたのです。彼には、あわれみを求めることしかできなかったのです。

 けれどもその時、驚くべきことが起こります。27節を見てください。

18:27 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。

 日本語で「かわいそうに思って」ということばを聞いても、ほとんどの場合、非常に表面的で、心を痛めない程度に同情を示す。というような意味でしか使われません。けれども、このしもべの王様は、心の底から彼をあわれんで、6000億円という借金を、すべて免除されたのです。 23節で、「このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。」、と語られていたことを考えると、実はこのあわれみ深い王様こそ、私たちの主なる神様の姿だということがわかります。

 ここで、このたとえを語られたイエス様と、わたしたちのことを考えてみたいと思います。聖書はこう言っています。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」と。 しもべが王様の前に立たされて、清算を受けなければならなかったように、私たちも、死んだ後、まことの神であり、裁き主であるイエス様の前に立って、さばき、つまり清算を受けることが定まっている。そう聖書は警告しているのです。 聖書は、すべての人は、このたとえの中に登場するしもべのように、自分では絶対に返済することができない罪の負債をもっている。そう語っています。そして、罪を持ったままでは、決して天の御国、神の国を見ることは出来ません。罪から来る報酬は、死であり、永遠の滅びだからです。

 けれども、聖書は同時に、素晴らしく良い知らせ、福音を語っています。イエス様は、まことの神であり裁き主なるお方です。けれどもイエス様は、莫大な罪の負債を抱えて、よろよろとさまよいながら、永遠の滅びに向かっている私たちをご覧になって下さいました。そして、心の最も深い所から、はらわたがわななくほど、あわれんで下さったのです。 そしてイエス様は、肉体を持った人となられ、私たちの所に来てくださいました。

 イエス様が私たちの所に来てくださったのは、私たちの代わりに十字架につき、私たちの罪の負債を、支払うためだったのです。つまり裁き主なる神が、裁かれる罪人の立場に立ってくださったのです。 イエス様は両手両足を釘で打たれ、磔にされた十字架の上で、あなたのために、こう祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)」

 そして、イエス様は、息を引き取られる直前には、「完了した」という言葉を語られました。このことばは、商売の時によく使われた言葉で、「借金はすべて返済した!」という、意味の言葉でもあります。 復活され、今も生きておられるイエス様は、「私はあなたを、7度を70倍するまで赦したよ!私があなたのために、十字架で身代わりになって死んだので、あなたの罪はすべて赦されていますよ!」と、あなたに語っておられます。

 次にこのたとえの後半を、見ていきましょう。この後、さらに驚く展開が続いています。

本論2:おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか
    −赦された者が赦しに生きるチャレンジ

  28節から35節までをお読みします。

 100デナリというのは、今の日本円にすると、約100万円です。6000億円という借金を、ただ王様のあわれみによって赦されたばかりのしもべは、100万円の貸しがあったしもべ仲間を赦すことが出来なかったのです。彼はしもべ仲間の首をしめて『借金を返せ。』と言い、あわれみを示すことなく、しもべ仲間を牢に投げ入れてしまったのです。

赦せなかった理由1―自己中心なものさしをもって生きていたから

 ここで、6000億円という借金を、あわれみによって帳消しにされたはずのしもべが、なぜ100万円貸していたしもべ仲間を赦すことができなかったのか?そのことを、考えたいのです。そこに赦すことが出来る秘訣が隠されていると私は思うからです。

  多く赦されたはずのしもべが、わずかなことを赦すことが出来なかった。その理由は、2つほど考えられます。 まず1つ目は、彼が、「自己中心なものさし」をもって生きていたからではないでしょうか。「すべての人は罪人である」と聖書が語るとき、それは「すべての人間は、自己中心に生きている」ということでもあります。 自己中心なものさしというのは、自己中心に、自分に都合がいいように長さが変わってしまうものさしです。それは、自分をはかる時には非常に短くなりますが、他人をはかるときには、非常に長くなります。

 例えば、あなたが大切にしているもの(車や自転車、花瓶、服、楽器など)に傷がつくことを考えて下さい。 もし自分で傷つけた時には、「ああやってしまった。まあしかたがないか。」ということで終わってしまうでしょう。けれどももし、あなたではなくて他の人が、傷つけた場合にはどうでしょうか?同じように傷がついたとしても、「あー!よくもわたしの大切なものを傷つけたね。どうしてくれるんですか。弁償してください。」ということになるでしょう。

 大きな借金を、帳消しにされたはずのしもべが、なぜしもべ仲間のささいな借金を赦すことができなかったのか。その理由としてまず考えられることは、彼が自己中心に生きていたからだということです。私たちが自己中心に生きる時、人を赦すことは決してできないのです。

赦せなかった理由2―神のあわれみの大きさと自らの罪の大きさを理解できなかったから

 2つ目に考えられる、彼が赦せなかった理由は、ただ王様のあわれみによって赦されたということを、彼が理解していなかったからではないかと思います。彼は王様の深いあわれみを、本当の意味で感謝して受け止めていなかったのではないでしょうか?

 言い換えれば、彼は、自分の正しさや熱心さによって赦されたのだと勘違いして、自分を誇っていたのではないでしょうか? このような勘違いが行き着くところは、「まず私たちが人を心から赦すならば、神も私たちの罪を赦して下さる」、「まず私たちが人を心から赦さないならば、神も私たちの罪を赦して下さらない」というような、非常に律法的な考えでしょう。実際、このたとえの一番最後、35節の「 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、 天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」 というイエス様のことばは、そういうふうに受け止められやすいと思います。

  けれども考えて見てください。まず「私たちが人を赦す」ということが、神様の赦しを受けるための条件であるとするならば、いったい誰が、神の赦しを受けることが出来るのでしょうか? イエス様は、このたとえを通して、2重の意味で「人を赦す」ということは、神の赦しを受けるための条件ではないことを教えてくださっています。そして、神の赦しは無条件であることを語っています。ただあわれみによってだけ、私たちは赦されることを語っているのです。

 まず、たとえの前半において、しもべは人を赦したから赦されたわけではありませんでした。彼はただ、王なる神様の、考えられないあわれみによって、赦しを受けることが出来たのです。 さらに彼は、そのようなあわれみ深い神の赦しを受けたはずなのに、なお人を赦すことが出来なかったのです。

  カール・ヒルティという人は、こう言いました。「赦すということは、忘れるということである。赦しはするが忘れはしないというのは赦していないことだ」と。そうです。聖書が語る心からの赦しというのは、「忘れる」という完全な赦しなのです。 赦すということは、忘れることである。そう考えると、「人を赦す」ことが、神の赦しを受けるための条件であるならば、誰も赦しを受けることが出来ないことはますます明らかです。なぜなら、私たちは、自分の力では、決して人を心から赦すことなど出来ないからです。

 このたとえの中で、しもべが王様の怒りを買った理由は、ただあわれみによって赦されているのに、他人を赦さなかったからです。まず赦されているからこそ、王様はしもべに赦すことを命じられたのです。

 聖書の中には、たくさんの命令がありますが、神様が私たちに命じておられるということは、すべて約束でもあります。イエス様が「7度を70倍するまで赦しなさい。」と命じておられるということは、「わたしはあなたを、7度を70倍するまで赦すことが出来る者にしてあげよう。」という約束でもあるのです。 イエス様は、あなたが自らの罪を認めて、あわれみを求めるなら、7度を70倍するまで、いや、何度でも、罪を完全に赦して下さるお方なのです。

本論3:赦すための具体的ステップ

 さて、このたとえを通して、イエス様が私たちに一番伝えたいことは、33節にあるように、「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」ということです。 けれども、信仰を持っていても、なかなか人を赦すことが出来ないのが現実ではないでしょうか。 どうしたら、人を赦すことが出来るのか?そのことを具体的に考えていきたいと思います。

A、適応1:自己中心にではなく、神様中心に生きる

 大きな借金を、赦されたしもべが、なぜ仲間のささいな借金を赦すことができなかったのか。その理由としてまず考えられたことは、彼が、自己中心に生きていたからでした。 自己中心だからこそ、人の罪が大きく感じられ、人を赦すことができないのです。自己中心だからこそ、自分は正しいとしか思えず、人を裁くことしか出来ないのです。 そう考えると、人を赦す秘訣は、まず第一に、自己中心にではなく、神様中心に生きることであると言えます。

  あなたが信仰を持っていてもそうでなくても、「イエス様。私のこころの王座に座ってください。そして私の主として、私の心と思いを導いてください!」と真剣に祈るならば、自己中心な生き方をやめて、神中心の生き方をすることができます。そのときに、私たちは、神様の赦しの中を生きることができる。それが聖書の約束です。

  イエス様を心の王座に迎え、イエス様と一緒に生活する中で、私たちは少しずつ、神様の視点に立って、自分が置かれている人間関係を見ることが出来るようになります。 「イエス様がわたしをどう見ているのか、イエス様が私の周りの人をどう見ているのか。」そうゆう神様の視点に立って相手を改めて見る時、私たちは少しずつ、相手の立場に立って状況を見ることができるようになります。 そうすると、次第に憎しみや苦々しい思い、ことばにならないいらだちを、神様が少しずつ忘れさせて下さり、神様の力によって、相手を赦すことが出来るようになります。赦せなかった相手のために、祝福を祈ることが出来るようになれば、神の力によって、心から赦すことは、そう遠くはない所に来ています。

B、適応2:神のあわれみの大きさを知り、ただあわれみによって赦されたことを心に刻むこと

 人を赦す秘訣において次に大切なことは、神のあわれみの大きさを知り、ただあわれみによって赦されたことを心にしっかりと刻むことです。神様のあわれみの大きさを知るということは、神様に対する自分の罪の大きさを知るということでもあります。 しもべの場合も、たとえ仲間に対して100万円の貸しがあったとしても、神に対する自らの借金が6000億円であったことを覚え、しかもそれがただあわれみによって帳消しにされたということをよく理解するなら、あわれみ深く赦すことが出来たはずです。

 ある時私は、雄大な富士山の絵を見ました。その時にふと思ったことは、ああ、神様に対する私の罪が、この富士山ぐらいの大きさだとしたら、人が私に対して犯す罪なんて、幼稚園の砂場の砂山ほどのものなんだろうな。という思いでした。そして、そう考えると、改めて十字架の赦しの大きさを覚えることが出来ました。

結論

 主イエス様は、言われます。

18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』

 十字架がなければ、決して赦されることのなかった者。それが私たちの本当の姿です。そのことをいつも覚え、心の中に、しっかりと十字架の赦しを刻んで、新しい週も、イエス様を中心にして、共にあわれみによって歩んでいきましょう。

祈り

恵み深い、主イエス・キリストの父なる神様。
あなたが考えられないあわれみをもって、私の罪の負債をすべて赦してくださったことを覚え、ありがとうございます。
しかし、あなたに多くのものを赦されていながら、なんと小さなことが赦せない者でしょうか。
どうかあなたが私の心の王座に座ってくださり、自己中心な思いから解放してください。
どうか十字架の赦しの大きさをしっかりと心に刻んで、新しい週も、あわれみ深く歩んでいくことができるように助けてください。
イエス様の御名によって祈ります。
アーメン。

賛美歌271 いさおなきわれを


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