2000年11月12日 主日礼拝式説教
(野町 真理)

大喜びする父

聖書個所:ルカの福音書15章11−32節

主題:私たち(あなた)が、父なる神の愛を体験するために必要なことは、
    ただ十字架を仰ぎ、父のもとに帰ることである

15:11 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。
15:12 弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
15:13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
15:14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
15:15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
15:16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。 『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
15:21 息子は言った。 『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。 『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。
15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、
15:26 しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、
15:27 しもべは言った。 『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
15:28 すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
15:29 しかし兄は父にこう言った。 『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
15:31 父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

導入:神観がその人の生き方を決定する

 神様という言葉を聞いた時、あなたはどのようなお方を、心に思い浮かべるでしょうか? あなたにとって、神様とは、どのようなお方でしょうか?

 実は、この質問が問いかけている「神様のイメージ」というものは、私たちにとって、非常に大切です。なぜなら、私たちが持っている神様のイメージが、その人の祈り方やその人の生き方、そしてその人の永遠をも決めてしまうからです。

  「神様は、隠れた所を見ることは出来ない」、もしそう考えるなら、その人は裏表のある生き方をするでしょう。その人は、人が見ていないと思うところで、本当の姿を見せていることでしょう。

 「さわらぬ神にたたりなし」というような言葉がありますが、神様というのは気難しくて恐ろしい方だ、と考えるならば、その人はびくびくしながら生活して、神様に近づこうとはしないでしょう。

 また、神などいないと考えるなら、その人は、絶対的な善悪の基準、なにが善いことでなにが悪いことかを判断する絶対的なものさしを持つことが出来ません。 神はいないと考える人は、「みんなやっていることだから」とか、「自分にとって不都合なことがなければ、人は何をしてもいい」などと言いながら、自分勝手な物差しを持って、恐ろしく自己中心に生きるでしょう。

  神はいないと考える人が行き着く考えは、「神はいないのだから何をしても許される」という考えです。実際、もし本気で神はいないと考えるならば、「なぜ人を殺してはならないのか?」、あるいは「何のために人は生きるのか?」というような問いに対して、答えることが出来なくなるのです。

  このように、その人の持っている神様のイメージ、神様に対する考えが、その人の生き方を決定的に決めてしまいます。

  イエス様はよく、たとえ話によってわかり易く、本当の神様のイメージを教えて下さいました。今日の聖書の個所は、おそらくイエス様の語られたたとえの中でも、最も有名なたとえです。 多くの人がこのたとえを、「放蕩息子のたとえ」と呼んでいます。けれども、このたとえをじっくりと味わうと、中心人物は二人の息子を持つお父さんであることがわかります。

 イエス様が語って下さったこのたとえには、本当の神様のイメージが、鮮やかに描かれています。それは、私たち一人一人を、愛するために造って下さった神様。私たち一人一人を、高価で尊いかけがえのない存在として、愛してやまない神様です。 「あなたも、あなたを造られたこの神様に、大切な存在として愛されていますよ!」 そう聖書は語っています。

 今日は、おとうさんと弟息子の関係を中心に見ながら、ゴスペル・福音と呼ばれる神様の大きな愛を、ご一緒に味わっていきたいと思っています。

本論1 弟息子の旅立ち・弟息子の要求に応えて好きにさせる父の怒り 15:11―13a

 15章の11―12節を見てください。イエス様がこう話されました。

15:11 …「ある人に息子がふたりあった。
15:12 弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。 それで父は、身代をふたりに分けてやった。

 このたとえでは、まず、二人の息子を持つ父と弟息子にスポットライトがあたります。そしていきなり、弟息子の爆弾発言が飛び出してきます。

  「おとうさん。私に財産の分け前を下さい」。なんと弟息子は、おとうさんが生きていて、まだ死んでもいないのに、財産の分け前を父親に要求したのです! ですからこの要求は、言い換えれば、「おやじ早く死んでくれ。俺にとってはおやじよりお金の方が大切なんだ!」というような意味の、耳を疑う衝撃的な言葉なのです。

 親を親とも思わない息子、感謝のひとかけらもない息子、そして父を全く敬わない親不孝な息子。それが弟息子だったようです。

  さらに注目すべきことは、この息子の要求に対する、父親の驚くべき反応です。12節後半にそのことが書かれています。「それで父は身代をふたりに分けてやった」。おまえがそのようなことを望むのなら、おまえの好きなようにしなさい!という父親の姿がここに描かれています。

 13節を見ると、財産を得た弟息子の旅立ちが記されています。彼は幾日もたたないうちに、身辺の整理をし、荷物をまとめて、遠くへと旅立って行きました。 父が財産を息子たちに分け、弟息子が家から出て行くのを引き止めませんでした。そのことに、息子を愛する故の、父の怒りを見ることが出来ます。

 ローマ人への手紙の1章には、神の怒りについての説明があります。そこには、造り主なる神は、神を神とせずに欲望を愛する者を、汚れや恥ずべき情欲、よくない思いに引き渡されると書かれてあり、そして引き止めないことが神の怒りである、と説明されています。 「親を親とも思わず、もらったお金をもって家出しようとする弟息子を、引き止めないで引き渡す」ということが、愛する故の父の怒りなのです。

 さて、弟息子は旅先で、求めていた自由を得ることが出来たのでしょうか?父から遠く離れて、自分のやりたいように生きるという夢がかなって、本当の幸せをつかんだのでしょうか? 次に、旅先での弟息子の様子を、見ていきたいと思います。

本論2 旅先にて 罪と欲望の奴隷となった放蕩息子の回心 15:13―19

 旅先での弟息子の様子は、13―19節に書かれてあります。家を遠く離れた異国の地で、彼は放蕩して湯水のように財産を使ってしまいます。 何もかも使い果たした後で、さらにその国に大飢饉が起こります。彼は食べるものにも困り、ついに豚の世話をすることになりました。彼は豚の食べるいなご豆でおなかを満たしたいほどに落ちぶれました。けれども、誰一人、彼に与えようとしなかったのです。

 弟息子が求めていたのは自由でした。けれども今、彼は自らの罪と欲望の奴隷となって、落ちるところまで落ちてしまいました。飢え死にしそうな中で、彼は我に返ります。そしてこう言うのです。

15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。
    『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。 「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』

 飢え死にしそうな中で、彼は再び父の家に心を向けました。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいる」。そのことを彼は思い出したのです。 そして彼は、自分が天の神と父とに対して、罪を犯したことを認めたのです。「もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください」。そう父に言おうと決心して、彼は自分の父のもとに帰って行ったのです。

 罪にまみれたそのままの姿で、彼は父のもとに帰って行きました。「いまさらどの面をさげて、父のもとに帰ったらいいのだろうか?」、そのような不安が、家に帰る彼の足取りを重くしたことでしょう。 けれども彼は、「雇い人としてなら、おとうさんはきっと自分を受け入れてくれるだろう」という父への信頼(信仰)を持って、家に帰っていったのです。

 さて、父はどのような態度で、この放蕩息子と再会したのでしょうか?

本論3 帰省 父は罪にまみれて帰ってきた放蕩息子を大喜びで迎えた! 15:20―24

15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。
    ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。

 放蕩息子は罪に汚れたそのままの姿で、家に帰っていきました。ところが、ところがです! 父はずっと、いなくなっていた息子を待っていたのでしょう。まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけたのです!そして父はかわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけをしました。

 ここで「かわいそうに思い」という言葉があります。この言葉は、前回私が話させていただいた良きサマリヤ人のたとえの中にも使われていました。良きサマリヤ人が、強盗に襲われて倒れていたユダヤ人を見た時の心の動き、「内臓が震えるほどの深いあわれみに揺り動かされて」というあのことばです。

 同じ言葉が、ここでは帰って来た放蕩息子を見つけた時の、父親の心の動きを描くために用いられています。しかしここでは、激しい痛みを通り越して、「はらわたが喜び踊る」というような心が描かれています。 いなくなっていた息子を見つけたお父さんの、大喜びする心が、いきいきと描かれているのです。そしてその喜びは、父の威厳など捨てて、乞食のようになって帰って来た息子に走り寄り、彼を抱き、口づけをするという驚くべき行動に父を駆り立てたのです。

 父は、息子がまだ遠くにいたときに彼を見つけたのです。父は、弟息子が罪の告白をする前に、大喜びで走り寄り、放蕩息子を抱き、口づけをしたのです。

 明らかなことは、息子が悔い改める前に、彼が帰ってくる前に、既に父は放蕩息子のすべての罪を赦して、彼が帰ってくるのをずっと待っていたということです。 おそらく弟息子は、この父の先行する愛を体験した時に初めて、父に対する罪の大きさを知ることが出来たのではないかと思います。そしてこの大きな父の愛に促されて、彼は自らの罪を告白することが出来たのでしょう。

15:21 息子は言った。
『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』

 そして父は彼の告白を途中でさえぎり、しもべたちに言います。

15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。
    『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。

 ずっと父の家にいて、働いていた兄息子は、父親とはまったく正反対の反応を示します。兄息子は、弟が帰って来たのを大喜びで迎え、祝宴を開いている父の姿を見て、激しく怒ったのです。けれども父はそのような兄に対しても優しく愛を持って接します。

15:28 すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
15:31 父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

 32節を見ると、父親がなぜ大喜びをしているのかという理由が、お父さんの兄息子に対する言葉としてはっきりと記されています。

 「いなくなっていた息子が見つかったんだよ!死んでいた息子が生き返って帰って来たんだ!だから私は心の底から、やった〜息子よ!よく帰って来た!という湧き上がる喜びで満たされ、大喜びしているんだよ!」。そのような父の喜びに満ちた声をここに聞くことができるのです。

結論:私たち(あなた)が父なる神の愛を体験するために必要なことは、
    ただ信仰をもってイエス様の十字架を見上げ、父のもとに帰ることである

 ここで私たち自身のことに目を向けたいと思います。 私たちは親不孝をする前に神不孝をしています。それはちょうど、放蕩息子と同じです。私たちは、私たちの造り主なる神に対して、こう言っています。

  「わたしはあなたよりもお金のほうが大切なんです。」、「私はあなたに造られた覚えはないしあなたに生かされているわけでもありません。」、「私はあなたから離れて自分の好きなように、自由に生きたいんです」、「神様、早く死んでくれ」と…。

 そしてその言葉の通り、私たち一人一人が、わたしが、そしてあなたが、あの罪のないイエス様を十字架につけて殺したのだと聖書は語っています。 造り主なる神を神とせず、感謝もせず、その愛を裏切り、神から遠く離れて、自分の欲望のままに自己中心に生きることを聖書では罪といいます。そして「すべての人が罪を犯した」と聖書は語っています。

 私たち人間が、造り主に背を向けて自分勝手に歩む時、そこには本当の自由も幸せもありません。むしろ、あの放蕩息子のように、罪と欲望の奴隷として、死と滅びに向かって落ちて行くしかないのです。 「罪から来る報酬は死です。」と聖書に記されているとおりです。

 けれども私たちの天の父なる神は、決して、私たちが罪の中で滅んでいくことを望んでおられません。 私たちの天の父なる神は、私たちが罪を悔い改め、向きを変えて父のところに帰ってくることを切に願って、今も待っておられるのです。

 私たちが、そしてあなたが、このたとえによって語られている父なる神の愛を体験するために必要なこと、それは父のもとに帰ることです。 そして、私たちが父のもとに帰るための道は一つだけです。それは、このたとえを語られたイエス様の十字架を見上げていく道です。それはイエス様が、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)と言われているとおりです。

 なぜなら、この大喜びする父のたとえに語られている罪の赦しの宣言は、イエス様が、私たちのすべての罪を身代わりに背負い、十字架にかかって死ぬことによって成し遂げられたからです。イエス様は、私たちの罪と恥を取り去って下さるために十字架にかかって死んで下さいました。そしてイエス様は、三日目に死人の内からよみがえって、今も生きておられます。

 私たちがすべきことは、ただ自らの罪を認め、十字架を見上げて父のもとに帰ることです。 その時、私たちの天の父は、大喜びで私たちを迎え、神の子どもとして受け入れて下さることは間違いありません。神の子どもとして受け入れられる所、そこにすべての祝福があります。

祈り

天にいます私たちの父なる神様!
私はあなたに対して、またあなたの前に罪を犯しました。
もうあなたの子と呼ばれる資格はありません。
けれどもイエス様が、私たちがまだ罪人であったとき、 この私の罪のために、十字架で死んで下さったことを心から感謝します。
あなたが、こんな私を、喜んであなたの子として受け入れてくださったことを、 心からありがとうございます。
これからのわたしの歩みを、あなたが導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。


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