礼拝メッセージ「怒りを下す神は不正か」ローマ7

礼拝メッセージ「怒りを下す神は不正か」ローマ7(クリックで聴けます)

聖書箇所:ローマ人への手紙3章1ー18節

しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。「善を現すために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか‐‐私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。‐‐もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。ローマ3章5-9節

悲惨な出来事の中で、「神がいるならどうしてこんなことが起こるのか?」という問いが生じます。

この問いの背後には、「怒りを下す神は不正である」という人間中心的な神学があります。「愛の神は正しいが、怒りを下す神は正しくない」、「赦す神は正しいが、裁く神は間違っている」というような考えです。このような神学は、「十字架を必要としない見せかけの神の愛と赦し」に行き着きます。

このような人間中心的な神学に対して、パウロは、「絶対にそんなことはありません」と強調します。

本当の神は、私たちの身代わりとして、十字架に磔にされたひとり子イエス・キリストの上に、容赦のない怒りを下された神です。

使徒信条

使徒信条

われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、
死にて葬られ、よみにくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。
われは聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、
罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。
アーメン

十戒

十戒

わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。(だから)

1、あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

2、あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。

3、あなたはあなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

4、安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

5、あなたの父と母を敬え。

6、殺してはならない。

7、姦淫してはならない。

8、盗んではならない。

9、あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

10、あなたの隣人の家を欲しがってはならない。

礼拝メッセージ「義人は信仰によって生きる」ローマ3

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聖書箇所:ローマ人への手紙1章16ー17節

私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。ローマ人への手紙1章16-17節

帝国の首都ローマにおいて、福音を恥と思ってしまうキリスト者がいたとしても不思議ではありません。パウロはそんな人々に配慮して、「私は福音を恥とは思いません」と語ります。なぜパウロが福音を恥と思わないのか、その理由は2つです。

①福音は信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力だから。

もし福音が、人を救うことができない無力なものであれば、あなたは福音を恥じることしかできないでしょう。けれども福音はあなたを救うことのできる神の力です。

②福音には神の義が啓示されていて、神の義は信仰によって人を義人として生かすから。

「義」という漢字は「我」の上に「羊」と書きます。「羊」とは主イエスです。主イエスを信頼し、あなたの上に迎えるならば、あなたは救われ、神との正しい関係・絆を回復することができます。主イエスは、あなたの罪を十字架によって取り除き、3日目に墓から復活され、今も生きておられます。

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