礼拝メッセージ「一つのからだ 互いに器官」ローマ31

礼拝メッセージ「一つのからだ 互いに器官」ローマ31(クリックで聴けます)

聖書箇所:ローマ人への手紙12章3ー8節

3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。ローマ12章3−8節

礼拝メッセージ「すべてのことの意味」ローマ19

礼拝メッセージ「すべてのことの意味」ローマ19(クリックで聴けます)

聖書箇所:ローマ人への手紙8章26ー30節

26 御霊も同じようにして、
  弱い私たちを助けてくださいます。
  私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、
  御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、
  私たちのためにとりなしてくださいます。
27 人間の心を探り窮める方は、
  御霊の思いが何かをよく知っておられます。
  なぜなら、御霊は、
  神のみこころに従って、
  聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
28 神を愛する人々、
  すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、
  神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、
  私たちは知っています。
29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、
  御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。
  それは、御子が多くの兄弟たちの中で
  長子となられるためです。
30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、
  召した人々をさらに義と認め、
  義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
ローマ人への手紙8章26-30節

すべてのことが益とされる。万事が益とされる。
そこにすべてのことの意味があります。

1、まずあなたが神を愛する者となるために、
  神はすべてのことを働かせて益としてくださいます。

2、次に召されたあなたを磨き上げ、
  キリストのような栄光の姿にあなたを変えるために、
  神はすべてのことを働かせて益としてくださいます。

礼拝メッセージ「苦しみの意味」ローマ18

礼拝メッセージ「苦しみの意味」ローマ18(クリックで聴けます)

聖書箇所:ローマ人への手紙8章18ー25節

18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに
 啓示されようとしている栄光に比べれば、
  取るに足りないものと私は考えます。
19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを
  待ち望んでいるのです。
20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、
 服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、
  神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、
  ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、
  心の中でうめきながら、子にしていただくこと、
  すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
24 私たちは、この望みによって救われているのです。
  目に見える望みは、望みではありません。
  だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、
  私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
  ローマ人への手紙8章18-25節

パウロは福音信仰の山頂で語ります。私たち人間だけでなく、神に造られた被造物全体、すなわち宇宙全体が苦しんでいる。今の時のいろいろな苦しみは、産みの苦しみである。苦しみがもたらすものに目を向けるなら、苦しみが取るに足らないものに見えてくる。苦しみがもたらすもの、それは、神の子どもとしての栄光と自由、私たちのからだの贖いである。

礼拝メッセージ「洗礼とは何か」ローマ14

礼拝メッセージ「洗礼とは何か」ローマ14(クリックで聴けます)

聖書箇所:ローマ人への手紙6章1ー14節

1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。ローマ人への手紙6章1-5節

自分に都合のいい解釈をしたい人間は、恵みが増し加わるために罪の中にとどまるべきだと主張します。それに対してパウロは、絶対にそんなことはないと反論し、洗礼(バプテスマ)とは何かを語ります。

キリストの死にあずかるバプテスマによって、私たちはキリストとともに葬られたのだとパウロは語ります。それは私たちが、キリストとともに復活し、新しい歩みをするためです。