想定外に備えよう!
人はある日突然、自分の死に出会うことが多い。
だから、今日が最後の一日かもしれないことを覚えて毎日を生きよう。
大地震はある日突然、忘れたころにやってくることが多い。
だから、今日大地震が来てもいいように毎日を生きよう。
主の再臨はある日突然、思いがけない時にやってくる。
だから、今日主が来られてもいいように毎日を生きよう。
礼拝メッセージ「ノアの子孫たち The clans of Noah’s son」(クリックで聴けます)
聖書箇所:創世記10章1節-32節
以上が、その国々にいる、ノアの子孫の諸氏族の家系である。大洪水の後にこれらから、諸国の民が地上に分かれ出たのであった。創世記10章32節
大洪水が全地に襲いかかった後のことです。ノアの息子たち、セム、ハム、ヤペテそれぞれの家族に、新しい命が次々と誕生しました。それは、人間の罪や恥をおおってくださる神の恵みでした。
今、東北地方太平洋沿岸を中心とする被災地において、妊婦さんの存在や赤ちゃんの誕生が人々に計り知れない慰め、思いやり、そして生きる力を与えているように、ノア夫婦と3人の息子夫婦は、子どもたちや孫たちから元気や勇気をもらい、「また、再建しましょう!」と力を合わせ、再建が続けられました。
創世記10章には、そのようにして歩み続けたノアの子孫たちの歴史が記されています。2節からはヤペテの子孫、6節からはハムの子孫、21節からはセムの子孫が、それぞれ氏族、国語、地方、国ごとに記録されています。
しかし大震災の後、今私たちが注目すべきは、「何を指針として再建すべきか」です。ハムの子孫は神に反逆しつつ再建し、バベルを築くニムロデ、ペリシテ人、カナン人、ソドム、ゴモラを生み出しました。一方、セムの子孫は神に従って再建を試み、アブラハム、ダビデ、そしてイエス・キリストへとつながる再建となりました。
礼拝メッセージ「虹の彼方に Over the Rainbow」(クリックで聴けます)
聖書箇所:創世記9章1−17節
わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」創世記9章13-16節
ノアの真摯な礼拝に応答して、神は虹の契約を立ててくださいました。けれども、終末時代に生かされている私たちには、以下のような神の忍耐と望みが、虹の彼方に啓示されています。
『当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。』2ペテロ3章6-9節
話す祈りと聞く祈り
会話が「話すこと」と「聞くこと」によって成り立つように、祈りにも「話す祈り」と「聞く祈り」があります。聖書は、「話す祈り」よりも「聞く祈り」の方が大切であることを覚えています。
伝道者の書5:1-2には、
『神の宮へ行くときは、自分の足に気をつけよ。近寄って聞くことは、愚かな者がいけにえをささげるのにまさる。神の前では、軽々しく、心あせってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。…』
と語られています。
イザヤ書48:17-18には、
『あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに。…』
と語られています。
主の祝福を受ける秘訣は、「日毎に御言葉に耳を傾けて聞く祈り」にあります。そして、その時にこそ、神に自らの自己中心な願いを聞いてもらうための熱心な祈りではなく、神が自分に対して願っておられるみこころに生きるための熱心な祈りを捧げることが可能となる。そんなことを覚えさせられています。
礼拝式における祝祷について
主の日(日曜日)ごとの礼拝式において、キリスト教会で行なわれていることは何でしょうか?
それは、一つ所(教会堂)に呼び集められた神の民(教会)が、御言葉(聖書)によって取り扱われ、自らのからだを、十字架の故に、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげること。そして、自らを委ねた復活の主の御手の中から、一人一人、それぞれの生活の場に、祝福の基として派遣される、散らされるということではないでしょうか。
祝祷は、もう一度散らされて、一人一人、それぞれの生活の場に、祝福の基として派遣される際になされます。
その時、牧師は何をしているのでしょうか?
その時、牧師は、三位一体の主の祝福が、散らされて派遣されていくお一人お一人の上に、豊かに限りなくありますようにと祈ります。牧師は祝祷において、派遣されるお一人一人の上に、祝福の祈りを捧げています。そしてそれは同時に、お一人お一人に対する派遣の宣言でもあります。
私たちは、祝福の基として世界に遣わされるために集められるのですから、礼拝式において、司会者、奏楽者、説教者、そしてすべて集められた礼拝の民が目指すべきことは、祝祷においてクライマックスを迎えると言っても過言ではないと私は考えています。
世界を変えるために派遣されるお一人お一人が聖霊に満たされ、上からの祝福に満ち満ちるようにと、祝祷の時牧師は祈っているのです。