ガリラヤのナザレという町の一人の処女 November 26, 2024

「ガリラヤのナザレという町の一人の処女」November 26, 2024

さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、
ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。
この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、
名をマリアといった。
(新約聖書ルカの福音書1章26−27節)

受胎告知を受けてJESUSの母とされたマリアは、
「ガリラヤ」の「ナザレという町」の一人の処女だった。

ガリラヤとは、
ユダヤのエルサレムとは対照的な異邦人の地、
アウトサイダーの地である。

見捨てられている苦しみがあり、
闇の中を歩み、
死の陰の地に住んでいた者たちの地。
閉塞感に覆われた地。
それがガリラヤである。

さらにナザレという町は、
「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」
と馬鹿にされていた田舎町である。

「ユダヤのエルサレムではなく、ガリラヤのナザレという町」
それは私に言わせれば、
「メトロのトーキョーではなく、フルトネのスギトという町」となる。

JESUSは、首都ではなく地方を顧みて、特別祝福してくださる。

今日も杉戸町、宮代町に住んでおられる方々、
杉戸町、宮代町に来られる方々の上に、
JESUSの祝福と守りが豊かにありますように。

杉戸キリスト教会牧師 野町真理

苦しみのあったところに闇がなくなる November 25, 2024

「苦しみのあったところに闇がなくなる」November 25, 2024

書き記された神のことばであるThe Bibleには、
多くの約束が記されている。
その中から、クリスマスの約束を一つ覚えたい。

しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。
(旧約聖書イザヤ書9章1節)

「苦しみのあったところに闇がなくなる」と約束されている。
「苦しみのあったところに、苦しみがなくなる」とは約束されていない。
だから、苦しみがなくなるわけではないかもしれない。
しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。

出口の見えないトンネルのような闇の中にいると、
絶えず不安や恐怖が襲いかかって来る。
そこにあるのは、ずっと緊張している耐え難い苦しみ。
しかし、夜明けを迎えて、
出口から一筋の光の糸が差し込んで来るなら、闇がなくなる。
闇がなくなるなら、たとえ苦しみが残っていても、
それは耐えることの出来る苦しみ、
ほんの一時の軽い患難になる。

しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。
先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、
後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、
異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。
闇の中を歩んでいた民は大きな光(JESUS)を見る。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に光(JESUS)が輝く。
(旧約聖書イザヤ書9章1ー2節)

神のことばは出来事に 礼拝・WORSHIPのご案内

神のことばは出来事に

杉戸キリスト教会では、日曜朝10時過ぎから賛美と祈りを始めます。
10時半から朝の礼拝(ワーシップ)の時を持っています。
夕礼拝は夜8時から9時です。
どなたでもお集いください。

杉戸キリスト教会地図2014

振り向くとそこにおられるJESUS November 24, 2024

「振り向くとそこにおられるJESUS」November 24, 2024

「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子(JESUS)を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」 それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。(新約聖書マタイの福音書1章23節)

The Bibleが語る悔い改めとは、後悔することではない。
悔い改め(メタノイア)とは、向きを変えること、方向転換。
JESUSに背を向けていた人が、JESUSの方に方向転換する。それが悔い改めだ。

JESUSは、振り向くとそこにおられるリアルな方。
だからクリスチャン作家の三浦綾子さんは、
「孤独のとなりに神はいる」と表現した。

JESUSに背を向けて生きると、
地球を一周するほど遠くにJESUSを感じてしまう。
けれどもJESUSは、振り向くとすぐそこに、いつもおられる。
だから大丈夫。あなたは、決して一人じゃないから。

見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(新約聖書マタイの福音書28章20節)

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。(旧約聖書イザヤ書41章10節)

神は われらの避け所 また力。苦しむとき そこにある強き助け。(旧約聖書詩篇46篇1節)

目から鱗が落ちた人 November 23, 2024

「目から鱗が落ちた人」November 23, 2024

「目から鱗が落ちる」とか、「目からうろこ」という表現がある。
実はThe Bible・聖書の中に起源がある。
その部分、新約聖書、使徒の働き9章17ー18節を以下に記す。

そこでアナニアは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中であなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」するとただちに、サウロの目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった。そこで、彼は立ち上がってバプテスマを受け、…

目から鱗が落ちたのは、サウロ、別名パウロという人物。
彼はJESUSをメシア・キリストと信じる者を熱心に迫害していた。
しかし復活されたJESUSに待ち伏せされ、
天からの光によって地に打ち倒され、目が見えなくなった。
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」とJESUSは問われた。

やがてサウロのもとにアナニアという人物が遣わされる。
アナニアがサウロの上に手を置いて祈った時、
サウロの目から鱗のような物が落ち、目が見えるようになった。
サウロは、JESUSこそがメシア・キリストであることを確信し、
バプテスマ・洗礼を受け、JESUSの証人として走り始める。

JESUSをメシアとして信じたユダヤ人をメシアニック・ジューと呼ぶが、
メシアニック・ジューは、裏切り者として、ユダヤ人から迫害を受ける。
しかし目から鱗が落ちたユダヤ人は、
JESUS(ユダヤ名はイエシュア)をメシアとして信じ受け入れる。

パウロは、ユダヤ人同胞に迫害され、終始いのち狙われても、
同胞が救われることを捨て身で願いつつ、
異邦人の救いのために、地中海沿岸諸国で豊かに用いられた。
彼は小アジアやヨーロッパにJESUSの福音を届ける最初の宣教師とされた。

使徒の働きの中に、サウロ(パウロ)に関することが多く記録されている。
そして新約聖書として収められた多くの手紙は、パウロによる。
彼はキリストの奴隷、罪人のかしらとして、
獄中でも喜び祈りつつ手紙を書き続け、やがてローマで殉教した。

「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私(パウロ)はその罪人のかしらです。(テモテへの手紙第一1章15節)

「お金が神さまから、JESUSが神さまへ」November 22, 2024

「お金が神さまから、JESUSが神さまへ」November 22, 2024

イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。 (マタイ福音書9章9節)

マタイという人が収税所に座っていた。彼は取税人。
ローマ帝国に雇われ、ユダヤ人同胞から税金を多めに徴収する。
罪人、ローマの犬、売国奴と同胞からののしられても、彼はお金を選んだ。

そんな取税人マタイが、空しく収税所に座っているのを見て、
JESUSは彼を見つめながら声をかけられた。
「わたしについて来なさい」
するとマタイは、立ち上がってJESUSの弟子になった。

お金が神さまから、JESUSが神さまへと変えられたマタイ。
彼はJESUSの12弟子の一人とされ、やがてマタイの福音書を書き記した。
取税人マタイが記した福音書には、お金に関することがたくさん書かれている。
神はそれぞれの才能・タレントを聖別して、豊かに用いられる。

JESUSは今、あなたを見つめながら声をかけておられる。
「わたしについて来なさい」

「即戦力にならない人がフロンティアに」November 21, 2024

「即戦力にならない人がフロンティアに」November 21, 2024

昔も今も、求められることの一つは「即戦力」だろう。
切羽詰まって余裕がないから、すぐに動ける働き人を切に求める。
しかし、最初から上手にできる人などいない。

The Bibleには旧約聖書と新約聖書があるが、
新約聖書にThe Gospel・福音書と呼ばれる4つの特別な書物がある。
2000年ほど前、全く新しいジャンルの書物として書かれた。

取税人マタイが書いたマタイの福音書、
へたれ青年マルコが書いたマルコの福音書、
医者ルカが書いたルカの福音書、
そして雷の子が書いたヨハネの福音書。

どれが最初に書かれた福音書だろうか?
実は即戦力にならなかったへたれ青年マルコが、
一番最初に福音書を書き記した。

彼はマルコ・ヨハネと呼ばれていた人物だが、
使徒の働きを読むと、あのパウロでさえ、
「あいつは使えないから切り捨てる!
 あんなやつとは二度と一緒に行動できない!」
と評価を下した人物であった。

バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネを一緒に連れて行くつもりであった。しかしパウロは、パンフィリアで一行から離れて働きに同行しなかった者は、連れて行かないほうがよいと考えた。こうして激しい議論になり、その結果、互いに別行動をとることになった。バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行き、…(使徒の働き15章37ー39節)

しかしパウロとの大喧嘩の後、バルナバがマルコを引き受け、
別行動の中、ゆっくりと彼を育てていったのだ。
後にパウロも悔い改めて、
「マルコは役に立つ人物だから連れて来てほしい」と再評価するに至った。
即戦力は、じっくりと時間をかけて熟成する。

ルカだけが私とともにいます。マルコを伴って、一緒に来てください。
彼は私の務めのために役に立つからです。(テモテへの手紙第二4章11節)