「偏在する神」November 17, 2024
以前、遍在と偏在を書き間違えて、「聖書の神さまは、偏在ではなく遍在です」と、指摘されたことがあった。
どこにでも遍く(あまねく)存在するという遍在(へんざい)と、偏って(かたよって)存在するという偏在(へんざい)。日本語ではどちらも「へんざい」と読むが、意味が反対になる。
これまで私も「聖書の神さまは、偏在ではなく遍在。聖書の神さまは、かたよっておられるのではなく、どこにでもあまねくおられる」と考えていた。ところが、先日読んだ本には正反対のことが書かれてあり、その認識がひっくり返った。
それで今日の礼拝メッセージの題は「偏在する神への賛歌」になっている。朝10時半からと夕8時から、マリアの賛歌と呼ばれる歌が、実は偏在する神への賛歌であることをお話しする予定だ。
マリアは言った。
「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。
この卑しいはしために目を留めてくださったからです。
ご覧ください。
今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。
力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。
その御名は聖なるもの、
主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。
主はその御腕で力強いわざを行い、
心の思いの高ぶる者を追い散らされました。
権力のある者を王位から引き降ろし、
低い者を高く引き上げられました。
飢えた者を良いもので満ち足らせ、
富む者を何も持たせずに追い返されました。
主はあわれみを忘れずに、
そのしもべイスラエルを助けてくださいました。
私たちの父祖たちに語られたとおり、
アブラハムとその子孫に対するあわれみをいつまでも忘れずに。」