刹那に生きない理由 オンライン礼拝2020-05-10

動画(YouTube)によるオンライン礼拝はこちらです。

音声(LOVE SUGITO RADIO)によるオンライン礼拝はこちらです。

式次第は以下の通りです。

2020年 5月10日 第2主日母の日オンライン礼拝式
前   奏
賛   美  讃美歌354 かいぬしわが主よ

使徒信条
 われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
 われはそのひとり子、われらの主、
 イエス・キリストを信ず。
 主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより
 生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
 十字架につけられ、死にて葬られ、よみにくだり、
 三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、
 全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより
 来たりて生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。
 われは聖霊を信ず。聖なる公同の教会、
 聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、
 とこしえの命を信ず。アーメン

主の祈り(マタイ福音書6章、ルカ福音書11章参照)
 天にましますわれらの父よ。
 願わくは御名をあがめさせたまえ。
 御国をきたらせたまえ。
 みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
 われらの日用の糧を、今日も与えたまえ。
 われらに罪を犯す者を、われらが赦すごとく、
 われらの罪をも赦したまえ。
 われらを試みにあわせず、
 悪より救いいだしたまえ。
 国と力と栄えとは、
 限りなくなんじのものなればなり。アーメン

祈   り  
賛   美  讃美歌122 みどりもふかき
聖   書  1コリント人への手紙15章20−34節
メッセージ 「刹那に生きない理由」
賛   美  讃美歌532 ひとたびは死にし身
献   金  感謝と献身の告白として
祈   り  
頌   栄  讃美歌543 主イエスのめぐみよ
祝   祷  
後   奏  主に栄光あれ
報   告  その他

メッセージアウトラインは以下の通りです。

刹那に生きない理由(メッセージアウトライン)
2020年 5月10日 第2主日 母の日オンライン礼拝式 杉戸キリスト教会から
聖書:1コリント人への手紙 15章20−34節

導入:なぜ人は一瞬の刹那に生きるのか?「どうせ明日は死んで終わり」という刹那的考えに囚われているから。

母の日を覚えて。お母さんありがとう。昔母に尋ねた質問「お母さんは何のために生きてる?」「家族の幸せのために」。
あなたは、何のために生きておられるでしょうか? 生きる目的、生きる意味、生きる動機が問われている。

刹那に生きない理由
刹那=きわめて短い時間。瞬間。一瞬「―の快楽を求める」
刹那的=① 非常に短い時間であるさま。瞬間的。② 目の前の快楽を求めるさま。

なぜ人は一瞬の刹那に生きるのか?「どうせ明日は死んで終わり」という刹那的考えに囚われているから。
儚いこの地上の人生が、すべてだと考えているから。死んだらすべてが終わり。死んだらすべてがゼロになると考えているから。

起:アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリスト(第二のアダム)にあってすべての人が生かされるのです。(20-22節)

20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。 21 死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。 22 アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリスト(第二のアダム)にあってすべての人が生かされるのです。

承:最後の敵として滅ぼされるのは、死です。(23-28節)

23 しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。 24 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。 25 すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。 26 最後の敵として滅ぼされるのは、死です。 27 「神は万物をその方の足の下に従わせた」のです。しかし、万物が従わせられたと言うとき、そこには万物をキリストに従わせた方が含まれていないことは明らかです。 28 そして、万物が御子に従うとき、御子自身も、万物をご自分に従わせてくださった方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。

転:毎日死にそうで、毎日死ぬことばかり考え、やがて死で終わりになるのだとしたら、何のためにバプテスマ・洗礼を受けるのか?死者の復活がないなら、それは無意味だ!(29-31節)

29 そうでなかったら、死者のためにバプテスマを受ける人たちは、何をしようとしているのですか。死者が決してよみがえらないのなら、その人たちは、なぜ死者のためにバプテスマを受けるのですか。 30 なぜ私たちも、絶えず危険にさらされているのでしょうか。 31 兄弟たち。私たちの主キリスト・イエスにあって私が抱いている、あなたがたについての誇りにかけて言いますが、私は日々死んでいるのです。

河野勇一先生の本「わかるとかわる!《神のかたち》の福音」より引用(p170)
「この聖句は、死者のための代理洗礼などと解釈されるのですが、初代の教会にそのような習慣があったことは認められていません。むしろ、この世では迫害と殺害の危険のもとに生き、死に運命づけられている私たちのいのちが死で終わりになる(死者)なら、何のためにバプテスマを受けるのか、復活がないならばそれは無意味ではないか、と理解できます。」

結:もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。(32-34節)

32 もし私が人間の考えからエペソで獣と戦ったのなら、何の得があったでしょう。もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。33 惑わされてはいけません。「悪い交際は良い習慣を損なう」のです。 34 目を覚まして正しい生活を送り、罪を犯さないようにしなさい。神について無知な人たちがいます。私はあなたがたを恥じ入らせるために言っているのです。

結論:なぜキリスト者は一瞬の刹那に生きないのか。
 「たとえ今日死んでも終わりではない」という復活信仰へと招かれ続けているから。

適用:「たとえ今日死んでも終わりではない」という復活信仰を覚えつつ、よみがえられて共に生きてくださる主イエスといっしょに生活しよう。

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