映画「パウロ 愛と赦しの物語」

PAUL

少し早いクリスマスプレゼントとして、映画鑑賞の機会が与えられた。感謝します!
忘れないうちに、渋谷まで出かけて観た映画に対する私の応答(レスポンス)を記します。

聖書はアカデミックな神学論文ではない。書斎や研究室ではなく、獄中や隠れ家のような所で書き記されたから。

聖書は愛の手紙である。絶望的な現実の中にいる仲間を励まし支えるために、命がけで書き記されたから。

聖書は真の平和を造り出す真理のメッセージである。迫害や暴力や虐殺や処刑や殉教のただ中で、それでもなお武力による報復ではなく、主イエス・キリストの十字架の赦しの愛に生きるようにと語る神からのメッセージだから。

映画『パウロ 愛と赦しの物語』オフィシャルサイト

セックスについて考える

テレビ、映画、小説、音楽、スポーツ新聞、マンガ、雑誌などにおいて描かれているセックスのほとんどは、結婚前や結婚外です。

学校の性教育においても、個人の権利と自由が大切にされ、避妊用具を用いたフリーセックスを奨めています。

セックスを拒まないことが愛していることだと考えられています。

かなりの若者が性体験をし、ポルノ、中絶、性病、セクハラがはびこっています。

正しい情報と知識を知り、それを早急に伝えていく必要があります。

性に伴うリスク・危険も伝えるべきでしょう。

聖書に記された、性の祝福と正しい用い方を学ぶ必要があります。

性は三位一体の神の本質があらわされている故に尊いものです。

性的関係を持つことは、相手と一体になることです。

セックスは、知性、感情、意識、肉体、全人格において、夫婦が一体となるための接着剤です。

つきあっている相手と結婚前にセックスし、もしその人と結婚に至らなかった場合、どうなるでしょうか?

そのような場合、女性が深くて重い傷を負ってしまいます。

もし性的関係を持った後にその人と別れ、別の人と関係を持っていくなら、一体になった自分が引き剥がされ、どんどん自分の一部を失っていくことになります。

バラの花のようなあなた。しかし結婚前に性関係を持っていくなら、花びらがどんどん失われて、将来幸せな結婚をすることが難しくなります。

結婚関係以外で性的関係を持つと、自殺率は3倍になると言われます。

うつ病といった心の病になりやすいのもフリーセックスの体験者です。

でも大丈夫。神が赦すことの出来ないほど大きな罪はありません!

あなたがもし、そのままの姿で神のもとに帰るなら、神はあなたに走り寄り、ありのままのあなたを抱きしめてくださいます。

あなたが将来本当に幸せな結婚をし、幸せな家庭を築くことを、誰よりも願っておられる神がおられます。

神はあらゆるマイナスをプラスに変えてくださり、万事を益に変えてくださいます。

聖書は、二人の祝福のために、アブステナンス(ABSTINENCE:結婚まで性的関係を持たない、結婚関係以外で性を用いないということ)と純潔(PURITY)を教えています。

それぞれ置かれている所で、アカウンタビリティグループ(責任を問い、互いに支えあうグループ)が与えられますように。

性的被害者・加害者は、プロのカウンセラーや牧師などに相談し、神による癒しと赦しを体験してください。

Q & A

Q1、付き合ってますが、すでに性的関係を持ってます。今さら拒むと嫌われたり浮気されたりしそうで拒めません。
A1、今我慢できない人は結婚しても我慢できずに浮気します。高価なあなたを安売りしないでください。相手があなたを本当に愛しているなら、結婚までちゃんと待ってくれるはずです。「大切な人だからこそ簡単に手を出したりしない」、「本当に大事な人だから責任とれないことはしない」というのが真実です。

Q2、性的な誘惑に弱くてすぐ負けてしまいます。どうしたらいいですか。
A2、まずは二人きりになれる部屋や場所を避けることを心がけてください。車も二人だけで乗るなら助手席ではなく後部座席に座ってもらうといいです。

続く

『氷点』解凍 森下辰衛

『氷点』解凍 森下辰衛

神から離れているために生きる目的がわからないとき、人は自分の存在価値を見失って凍える。
神から離れているために愛されていることがわからないとき、人は自分の存在価値を見失って凍える。
神から離れているために愛することができなくなるとき、人は自分の存在価値を見失って凍える。
神から離れているために罪をゆるされることがわからないとき、人は自分の存在価値を見失って凍える。
p239-240

同じことをしても、人がしたら悪く、自分がしたら悪くないのだ。不倫の場合などは更に顕著だ。他人のしている不倫は世にも汚らわしいものだが、自分がするのは美しい運命の恋ということになる。そして他人のした善行は「当たり前のこと」なのに、自分のそれは世界に伝えるべき美談になるのだ。人間を計る尺度に自分用と他人用がある。それは、神の方を向かないから可能なのだ。そして、人は皆、自己中心に生きたいので、神の方を向こうとはしない。p69

漱石は、自由や独立や自己という概念をよきものとして移入してきた近代の日本人の心を観察して、その「淋しみ」を描いたのだが、三浦綾子はもうひとつの日本近代の節目であり、また彼女自身の人生の転換点でもあった敗戦後において、日本人の心の実験を始めようとしている。見本林の「すぐ傍ら」に辻口家が設定され、戦後の十七年余の時代を背景にその家族と彼らをめぐる人間たちの愛し憎み、葛藤する心が実験観察されることになる。つまり辻口家は戦後の日本の家族と日本人の心の見本であるのだ。「和、洋館から成る辻口病院長邸」にもそれは表れている。・・・日本的なものと西洋的なものが折衷した家、それはそのまま戦後の日本人の心の時代状況なのだ。p57

「地獄とは、もう愛せないということだ」by ドストエフスキー
「罪とは、もう愛さないということだ」by 森下辰衛

ここには三浦綾子の、そして同時に神の、胸の裂けるような痛みと懊悩と涙があるように感じられる。誰でもいいほど淋しかったのに、誰にも愛されず、誰をも愛せない。それが人間なのか。そこに愛の本源たる神を離れた人間の悲惨がある。p105

寺田祐一牧師を天に送って

寺田祐一牧師を天に送って
霞ヶ関キリスト教会の池田勇人牧師に続いて、吉川福音教会の寺田祐一牧師。日本同盟基督教団の関東宣教区において、現役の牧師が天に召されるのはこれで2人目。関東フィールドにおいて親しくさせていただいていた同労者がまた天に行かれたことで、心の空白、喪失感を覚えざるを得ない。
寺田祐一牧師は一級建築士として活躍されていたが、信仰熱心な韓国系アメリカ人と国際結婚なさることによって、キリスト教の牧師へと召された。長い間踏ん切りがつかず、神学校に入学することをためらっていた寺田師。「牧師になるために神学校に行かないならアメリカに帰る」と言う言葉を残し、夫人を乗せた翼はアメリカに向かった。
引き止めることができず、空港から一人ドライブしていた帰り道、彼女がいるはずのない助手席に主イエスがおられることに気づかされ、寺田師は涙ながらにすべてを主イエスに明け渡す祈りをされた。その時寺田師は、設計事務所を辞めて神学校に入学する決心をしたのだ。「今度こそ神学校に入学するからアメリカから帰って来て欲しい。」口先だけでなく心からの決心であることが夫人に伝わり、夫人は日本に帰って来られた。そして神学校在学中から全力で吉川福音教会を開拓なさり、これまで教会を形成されてきた。
日本人と韓国人の違いから突然勃発する大げんか。寺田牧師の家庭には、まさに今日深刻化している日韓問題が存在した。しかしそのような家庭生活を通して、日本人でありつつ夫人を愛するが故に半分韓国人になった寺田牧師だからこそ言える言葉が紡ぎ出された。
「日本人は韓国に謝罪しなければならない。韓国人は日本を赦さなければならない。」
「日本と韓国が和解し協力していくことが日本宣教の希望であり、突破口である。」
日本同盟基督教団においても、今日韓国人の牧師が多く与えられている。日本人と韓国人による宣教協力。そのようなことを日本の牧師が考えてもいなかった何十年も前に、寺田師は一冊の本を執筆して上記のような言葉を発信している。ますます韓国からの宣教師や牧師に頼らざるを得ない日本のキリスト教会の現状において、寺田牧師の言葉は、預言者的響きを持って、日韓両国に真摯に受け止められることを待っている。

http://www.flickr.com/photos/nomachishinri/sets/72157635562676211/

堤岩里教会

堤岩里教会会堂
三一運動殉国記念塔
MONUMENT FOR VICTIMS OF CHEAMRI MASSACRE
ここは第一級のダークツーリズムスポットです。

「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。
犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
そのとき、イエスはこう言われた。
「父よ。彼らをお赦しください。
 彼らは、 何をしているのか自分でわからないのです。」
彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
ルカ福音書23章33−34節

33 When they came to the place called the Skull, they crucified him there, along with the criminals—one on his right, the other on his left. 34 Jesus said, “Father, forgive them, for they do not know what they are doing.” And they divided up his clothes by casting lots. LUKE23:33-34(TNIV)

礼拝メッセージ「道」

礼拝メッセージ「道」(クリックで聴けます)
聖書箇所:ヨハネ福音書14章1ー11節

1「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。4 わたしの行く道はあなたがたも知っています。」5 トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」8 ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」9 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。10 わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。11 わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。ヨハネ福音書14章1−11節

礼拝メッセージ「陽のあたる場所」

礼拝メッセージ「陽のあたる場所」(クリックで聴けます)
聖書箇所:ヨハネ福音書8章1ー12節

1イエスはオリーブ山に行かれた。2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、 地面に書かれた。9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」〕12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」ヨハネ福音書8章1−12節

礼拝メッセージ「罪をおおわれた人たちの幸い」ローマ9

礼拝メッセージ「罪をおおわれた人たちの幸い」ローマ9(クリックで聴けます)
聖書箇所:ローマ人への手紙4章1ー16節

それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」 ローマ4章1-8節

今年も受難週を迎えました。春を迎えるために厳しい寒さを通らなければならないように、イースター(復活祭)を迎えるためには、厳しい受難週を通らなければなりません。
同様に、あなたが罪をおおわれた人たちの幸いに至るには、あなたが自分の罪深さと無力さをごまかさずに認め、自分で自分を救えないことを素直に認め、神に降伏することがどうしても必要です。
何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、アブラハムやダビデのように、その信仰が義とみなされるのです。罪がおおわれるとは、神があなたの罪を完全に忘れてくださり、すべてなかったことにしてくださるという恵みです。