聖書が語るのは世界泥沼論!

日本泥沼論で終わっていたら、井の中の蛙!聖書が語るのは、世界泥沼論!

ユダヤ人も異邦人も同じ泥沼。日本もアジア諸国も、アメリカもヨーロッパもみんな泥沼。

全ての人間の心の中が泥沼である!つまり、あなたの心の中も泥沼である!

しかし、どんな泥沼であっても、福音の花は美しく咲き乱れ、いつまでも残る豊かな実を結ぶ。

ちょうど泥沼から美しく咲く蓮の花のように。

ペテロを始めとする12弟子たちは全員踏み絵を踏んだような弱い者たち。

主イエスを見捨てて全員逃げ出したから。

特にシモン・ペテロは、3回駄目押しのように、踏み絵を踏みにじったような弱い者。

しかし彼は、先行する恵み、先行する赦し、先行するとりなしによって立ち直り、兄弟たちを力づけることができる強い者、岩(ペテロ)へと変えられた!

ふさわしくない時・弱い時にあなたを愛して、将来必ずあなたをふさわしい者・強い者・勝利者に変えてくださる!これが聖書が語る福音。

泥沼から咲き出でる蓮

日本と世界への挑戦状

日本と世界への挑戦状

火曜日、レイトショーでサイレンス・沈黙を観た。

世界的に見ても非常に厳しいキリシタン迫害が起こった国、日本。

数々の拷問の中で呻き叫ぶキリシタンたち。神が沈黙されているようにしか思えないパーデレ(宣教師)たちの危機。問われる信仰の本質。

殉教する者と転ぶ(棄教する)者。強い者と弱い者。

沈黙という題であるが、踏み絵の前でためらっている時に、沈黙を破って聞こえてくる「踏めばいい」という声。

日本という土壌は、キリスト教の種子を根から腐らせてしまうという日本泥沼論。

棺桶の中に納められた元パーデレの遺体。仏式の葬儀の後、火葬される。その手に置かれた十字架の主イエスの木彫。

最後の誘惑のマーティン・スコセッシ監督が28年の歳月をかけて制作したこの映画は、日本宣教、そして世界宣教への挑戦状だ。

閉塞感に囚われた者は、神が沈黙しておられるようにしか感じられない。

小畑進著 小説「沈黙」論

いのちのことば2017-1

いのちのことば2017-1

いのちのことば社というキリスト教出版社がある。そのいのちのことば社の書評誌、月刊「いのちのことば」の巻頭言を3回シリーズで書かせていただいた。世界を覆っている、閉塞感という名の暗雲を、跡形もなく吹き飛ばすはじめの一歩となりますように。

閉塞感を突き破る神の言葉1

閉塞感を突き破る神の言葉<1>
日本同盟基督教団・杉戸キリスト教会牧師 野町真理

『ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。』ルカ福音書1章20節

 ルカ福音書1章には、閉塞感に囚われていた祭司ザカリヤと彼の妻エリサベツが登場します。忠実な二人でしたが、祈りが答えられない年月によって年輪を重ねた結果、御使いによって子どもを授かると聞いても信じられませんでした。もう年ですから。長い間祈りが答えられない中での高齢化は、じわじわと効いて私たちを閉塞感へと誘います。けれども不妊の女だったエリサベツは、全能の神によって身ごもり、高齢出産でも守られ、キリストの道備えをするバプテスマのヨハネの母とされました。

 ザカリヤは不信仰であった故に、神の言葉が出来事になるまで、期間限定でものが言えなくなりました。けれども神の言葉は、人の不信仰を超えて、その時が来れば実現したのです。『私のことばを信じなかったからです。(けれども)私のことばは、その時が来れば実現します。』と聖書は語ります。「信じなかったから、あなたはもうおしまい。あなたの信仰の通りにしかならないから。」と切り捨てると、もはやキリスト教ではなくキリステ教になってしまいます。聖書の語る福音は、信じられない者にとっても福音です。

 厳密な意味で、私たちが信じたとおりにしかならないのなら、全能の神の素晴らしいご計画は、計画倒れになるでしょう。世界宣教によって宇宙を再創造するという神の壮大なご計画は凍結し、私たちは閉塞感の中で滅んでいくしかありません。しかし神の言葉は、私たちの不信仰を突き破って、時が来れば必ず出来事になります。そのことを聖書は力強く証言しています。閉塞感を突き破る神の言葉を体験する。それが世界を覆っている暗雲を跡形もなく吹き飛ばすはじめの一歩です。

先行する恵み

聖書の中に命令が出てきたら、まず神がその命令を私に対して実践してくださったこと(先行する恵み)に思いを向ける。例えば、マタイ22章34−40節に記されている聖書の中で一番大切な命令について、実践してみよう。

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ

<1>まず神が、心(カルディア・ハート・感情)を尽くして私を愛してくださったことに思いを向ける。

 まず神が、喜ぶあなたとともに喜び、泣くあなたとともに泣いてくださっている。

<2>まず神が、思い(プシュケー・ソウル・魂)を尽くして私を愛してくださったことに思いを向ける。

 魂の叫び、心の奥底から、スプランクニゾマイ(内臓がわななく)

<3>まず神が、知力(ディアノイア・マインド・アンダスタンディング・頭・考え、理解)を尽くして私を愛してくださったことに思いを向ける。

  知力を尽くして
  総合的・統合的・包括的・全人的知識・情報を尽くして
  設計、デザイン
  人体の不思議、地球、宇宙の不思議
  Designed by God in Heaven

あなたの隣人を自分自身のように愛せよ

 まず神が、私の良き隣人となって寄り添い、私をご自身のように愛してくださったことに思いを向ける。(ルカ福音書10:30−37 良きサマリヤ人のように、反対側を見て見ぬふりをして通り過ぎずに)

このようにまず私を愛してくださった神に思いを向けるなら、神を喜び、神に感謝し、神を愛することはそんなに難しいことではなくなる。これが福音的な聖書の読み方のコツ。先行する恵みにいつも思いを向けること。

十戒における先行する恵み

一番大切な十戒の前文=まず語られている先行する恵み(救い、愛、赦し)

 出エジプト20章、申命記5章

 わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した(自由へと解放した)、あなたの神、主である(救い主・キリストである)。(だから)

そして先行する恵みの後に続く十戒

 十戒の前半と後半で、それぞれ具体的に展開されていく大切な二つの戒め(十字架の縦棒と横棒)

前半:たいせつな第一の戒め=十戒の前半=対神関係=十字架の縦棒
  「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
  1、ほかの神々をもたない
  2、自分のために偶像を造らない
  3、主の御名をみだりに唱えない
  4、安息日を覚えて聖なる日とする

後半:同じようにたいせつな第二の戒め=十戒の後半=対人関係=十字架の横棒
  『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』
  5、生まれてきた時に最初の隣人となってくれた父と母を敬う
  6、隣人を殺さない
  7、隣人と姦淫しない
  8、隣人のものを盗まない
  9、隣人に対して偽りの証言をしない
 10、隣人の家・妻を欲しがらない=むさぼり

主の祈りにおける先行する恵み

マタイ6章7−8節に、「先行する恵み」が明記されています。驚くべきことに、私たちが願う前に、父なる神は、私たちに必要なものを知ってくださっています!

また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです

だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

⭐️先行する恵みをいつも覚えることができるように

私たちは愛しています。**(なぜなら)神がまず私たちを愛してくださったから**です。
1ヨハネの手紙4章19節

ヨハネ福音書の主イエスの新しい戒め 福音的な聖書の読み方

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。**わたしがあなたがたを愛したように**、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。ヨハネ福音書13章34−35節

互いに愛し合いなさい。なぜなら、主がまず私たちを本気で愛してくださったから。
互いに仕え合いなさい。なぜなら、主がまず私たちに仕え、汚れた足を洗ってくださったから。
互いに赦し合いなさい。なぜなら、主がまず私たちを赦してくださったから。

実は主の愛と赦しは、実は私たちの悔い改めにも先行します。
あらゆるものに先行する恵み。それを知った時初めて、私たちは真に悔い改めることができるのです。
ルカ福音書23章34節には、私たちの悔い改めに先立つ神の赦しが、十字架の主イエスによって明確に啓示されています。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」
 私たちがまだ神の敵であった時。

内藤容子LIVE 090621 キリスト賛歌

閉塞感を突き破る神の言葉<1>

閉塞感を突き破る神の言葉<1>
日本同盟基督教団・杉戸キリスト教会牧師 野町真理

『ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。』ルカ福音書1章20節

 ルカ福音書1章には、閉塞感に囚われていた祭司ザカリヤと彼の妻エリサベツが登場します。忠実な二人でしたが、祈りが答えられない年月によって年輪を重ねた結果、御使いによって子どもを授かると聞いても信じられませんでした。もう年ですから。長い間祈りが答えられない中での高齢化は、じわじわと効いて私たちを閉塞感へと誘います。けれども不妊の女だったエリサベツは、全能の神によって身ごもり、高齢出産でも守られ、キリストの道備えをするバプテスマのヨハネの母とされました。

 ザカリヤは不信仰であった故に、神の言葉が出来事になるまで、期間限定でものが言えなくなりました。けれども神の言葉は、人の不信仰を超えて、その時が来れば実現したのです。『私のことばを信じなかったからです。(けれども)私のことばは、その時が来れば実現します。』と聖書は語ります。「信じなかったから、あなたはもうおしまい。あなたの信仰の通りにしかならないから。」と切り捨てると、もはやキリスト教ではなくキリステ教になってしまいます。聖書の語る福音は、信じられない者にとっても福音です。

 厳密な意味で、私たちが信じたとおりにしかならないのなら、全能の神の素晴らしいご計画は、計画倒れになるでしょう。世界宣教によって宇宙を再創造するという神の壮大なご計画は凍結し、私たちは閉塞感の中で滅んでいくしかありません。しかし神の言葉は、私たちの不信仰を突き破って、時が来れば必ず出来事になります。そのことを聖書は力強く証言しています。閉塞感を突き破る神の言葉を体験する。それが世界を覆っている暗雲を跡形もなく吹き飛ばすはじめの一歩です。

閉塞感を突き破る神の言葉<2> 天を見上げて地上を旅する

閉塞感を突き破る神の言葉<2> 天を見上げて地上を旅する
日本同盟基督教団・杉戸キリスト教会牧師 野町真理

『さあ天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。・・・あなたの子孫はこのようになる。』創世記15章5節

上記のみことばから3つのことを記します。第1に、このみことばは北極星のように不動です。ですからこのみことばを指針とし、天を見上げて地上を旅するなら、確かな方向性をもって旅ができます。目先のことに囚われて見るべきものを見失ってしまう。そのような私たちには、北極星のように変わらない確かなみことばが必要です。

第2に、天を見上げて生きていくように人間はデザインされています。ギリシア語で人間を意味する「アンスローポス」には「上を見上げる」という意味があります。自分の内側を見ても、横を見て人と自分を比べても、暗くて頑固で厳しくなり、俯くことしかできません。上を向いて歩く時、明るく柔和で優しい人に変えられます。人間は上を見上げて生きていくようにデザインされているからです。天を見上げる一番楽な方法は、仰向けになることです。朝目覚めた時、車に轢かれて干からびたカエルのような心であっても、仰向けで天を見上げればいいのです。天を見上げて主を待ち望むなら、新しく力が与えられ、元気に起き上がることができます。

第3に、天国はにぎやかな所です。閉塞感に囚われている人は、天国にはあまり沢山の人がいないというイメージを持っています。しかし全知全能の神は、そのような私たちの不信仰を突き破って、数え切れない人々を天国に招かれます。星の数ほどの人々、だれにも数えることのできない人々を、神は救いに招かれます。天国はにぎやかな所です。私は信じます。神のことばは私たちの不信仰を突き破って、時が来ると出来事になると。私は信じます。万軍の主の真実と熱心によって、注がれる聖なる神の霊によって、近い将来、日本のキリスト者にリバイバルが起き、青年は幻を見、老人は夢を見、そして諸教会に行列が出来ることを。

牧師を辞める、または辞めたくなる13の理由

牧師を辞める、または辞めたくなる13の理由

ウイリアム・ウイリモン著『牧師 その神学と実践』の第13章より

牧師 その神学と実践

1、教会の奉仕(仕事)には終わりがない
 小学校の教師と一緒に仕事をしているある人物にインタビューをしたことことがある。「良き教師は、刈り取る者であるよりも、種蒔く者であることに満足しなければならない」と、彼は言った。「教師は自分の努力が、即座に、明確に、そして具体的に成果を上げるのを見ようと思ってはならない。もしそうした努力が生徒に何らかの影響を与えるとしたら、それは彼らのその後の人生においてであって、生徒たちが学校を去ってからずいぶんたった後のことなのだ。」牧師の働きにもこれと同じことが言える。パウロが記しているように、彼が植え、誰かが水を注ぎ、そしてまた、別な誰かがその収穫にあずかることになるのだが、いずれにしても成長させてくださるのは神なのである(1コリント3:6)。

2、教会が明確な「良い牧師像」を共有していない
 ひとりひとりの教会員の思い描く「良い牧師像」が漠然としており、彼らが牧師の果たすべきことがらとして期待するものがあまりにも多岐にわたりばらばらであるために、あわれにも、教会員に十分な仕事を果たしていないと感じる牧師があまりにも多く存在する。

3、教会は、非常に困窮している人々の港であり、避難所である
 よく言われるように、教会は「病人にとっての病院」のような存在である。病気のせいで痛みを抱えている人々は、往々にして気難しく、また要求過多になることがある。こうした人々は、空虚さや混乱、困窮、そして期待を抱えながら、教会にやって来る。多くの場合、人間は傷ついているときに敵対的な姿勢を示すことがある。一方では助けが欲しいと感じているにもかかわらず、助けを拒み、かえって、助けようとしている人に向かって非難を浴びせることすらある。もし教会がこうした仕事を引き受けようとするなら、おそらく教会の中には、他のいろいろな施設よりも高い割合で、このような傷つき困窮した人々が存在することになるだろう。

4、牧師はペルソナのもとで多くの時間を過ごさなければならない(仮面の道化師の心理)
 ペルソナ(仮面)は、必ずしも演技でもなければ、欺瞞的なゼスチャーということでもない。それは、私たちの中のある部分を隠すことによって、自分自身を守る手段である。それは、私たちが自分の責任を果たすために世の中に出て行くときの職業上の顔なのだ。牧師がジェームズ・スミス氏のところに行ってお悔やみを言い、そのケアをするとき、それは決して彼を欺いているわけではない。そうしたとき、牧師は悲嘆にくれている人間に対して牧師としての心遣いを示すという、より大きな善を行うために、自分の個人的感情を脇においているだけなのである。

 けれどもペルソナがうまく機能しないときもある。牧師の役割から離れる機会を拒む牧師はひじょうに多い。そうした人々はつねに牧師であろうとする。彼らは、マスクをはずし、足を投げ出して休むような時を、片時も持たない。・・・このマスクをつけっぱなしにして、あまりに多くのエネルギーを使いすぎると、すなわち、牧師という役を降りてマスクをはずし、自分自身の姿に戻る機会が失われてしまうと、本当の自己と私たちが演じている役割との間に根本的な分離が生じることになる。

5、困難な状況のストレスで、疲労困憊する
 「あなたは外科医に何を期待しますか」と、彼女は答えた。「私たちのする仕事の90パーセントは、ただ患者のそばに立って、自然の成り行きによって状態が好転するか、それともまったくの機能不全に陥るかを見守っているだけなのです。重い脳の障害や損傷に対して、実際に対処できることはほとんどありません。無力なまま、どうすることもできずに、何日間もそばに立ったまま、その人の寿命が尽きるのを見ているだけです。それが、私たちがその人にしてあげれることなのです。」

 教会の牧師もまた、人々が死んでいくのを、彼らの結婚が失敗に終わるのを、彼らの癌が治らないのを、彼らの情熱が衰えていくのを、そして、彼らの以前からの自殺願望がふたたび頭をもたげてくるのを、どうすることもできないまま、ただそばに立っているしかないという経験を、何度も何度も繰り返すことになる。それが牧師のしなければならないことなのだ。だからこそ、アクィナスは、牧会者の徳目表の最初に「弱っている人々のために忍耐すること」と挙げたのである。

6、物質主義の時代的・文化的背景との大きなギャップ
 現代の私たちは、金銭に価値を置き、給料の額で人の値打ちを決めるような文化の中に暮らしている。脳外科医の仕事は難しく、緊張の連続で、きつい仕事である。そして、それに相応して、外科医は高給取りでもある。他方、牧師の仕事は、人々から賞賛されはするものの、その給料のことを考えてみると、物質主義的な階級制度の中で自分がどの辺りに位置するかを、牧師ははっきり知らされることになる。もっとも愛他主義の精神に満ちた牧師であっても、この給料の低さでは、自分の値打ちが十分に測られていると実感することは困難である。

7、「教勢の低下」という状況の下で失望する
 ふたりの宗教社会学者が著した『アメリカの主流派宗教ー変わりゆく形態と未来』の中で、著者たちは、教会に属する人々の動向を包括的に研究し、以下のような予言を記している。

 主要なプロテスタントの諸教派は、長期にわたって減衰の一途をたどってきたが、数的な面においても、社会的な実力や影響力においても、今後も引き続きその地盤を失い続けていくことになるだろう。プロテスタントに属する人口の割合は、来る数十年の間に徐々に低下し続けるだろう。

8、教会の働きの多くは「頭中心」のデスクワークになりがち
 感情的な問題や人間関係の問題は、肉体を無視した結果だったということがよくあるものだ。多くの研究が、肉体の運動はストレスを大いに軽減することを示している。一般的に言って、仕事の内容が頭脳に関わるものであればあるほど、身体に養分を補給する必要がある。人は、脳だけの存在でもなければ、肉体を持たない魂というわけでもない。私たちは被造物であり、その行動のすべてにおいて心身の相関性を備えた動物なのである。人間の生き物としての被造性を忘れることは危険である。

9、時間管理の不手際による精神的消耗
 故ヘンリ・ナウエンが語ったように、「もし、牧師が自らの職務における絶対的本質が何であるかを知らないなら、その牧師は、『いわゆる大切とみなされること』を行うようになっていく。」牧師の行うことの大半はいずれも「大切なこと」なのだから、本質的なことを見分けることができないとすれば、任職された牧師の上には、飽き飽きするほどの達成不能な重荷の数々が負わされることになるだけである。

10、牧師の職務は通常混乱状態の中で行われることを認められない性格
 ある牧会カウンセラーから教えられたことだが、牧師という職務を幸いな形で成し遂げる上で欠くことのできない性格とは、「曖昧さに対する許容度の高さ」であるという。「几帳面であること。正確であること。そして秩序だっていることをとりわけ重視する正確の牧師は、その職務において悲惨な結果を迎える。人生とは混乱したものであり、人々は不可解な存在であり、(あなたが人々のことを知れば知るほど)牧師の望む基準に達するような人間はわずかしかいないことが分かるようになる。印刷関係の仕事や写真家のような仕事をしていた人々は、決して牧師になどなるべきではない。

 もちろん、この発言には冗談も含まれている。しかし、彼の示す禁止事項はなかなか興味深い。緻密であることを求められる印刷業者、読みやすく整然とした仕事を求められる印刷業者からすれば、教会生活は混乱したものに見えることだろう。また、もしあなたが人生というものを、ピントを合わせ、すべての動きを固定した上で、カメラの小さな穴を通して見えることがらに限定するような仕方で理解しているとすれば、教会の中で牧師は正気を失ってしまうことだろう。

11、所属教派の価値観、神学的立場、職制、規則などとの不一致
 牧師や信徒が教派の中のリーダーや計画のことであれこれと言い合っても構わないが、それでも、自分たちがその教派の一員であり、全体の方向性には共感を持っているという状態が保たれていなければならない。教派の方向性もしくは性格の転換、あるいは牧師や信徒の神学もしくは性格の転換は、個々人と教会組織の間に深刻な亀裂を生み出すことがある。

12、女性教職の受ける性差別的な意識の犠牲
 私たちが二十世紀の後半に学んだことは、単に女性の任職を実施し、女性にも牧師としての召命に応えることを認めるだけでは、彼女たちが牧師の職務を果たすことを支えるには不十分だということであった。女性教職に対する抵抗、偏見、敵意との絶えざる闘いが、彼女たちを疲弊させている。

13、「この世の諸々の支配と権威」が福音と説教者に敵対している
 これまでに列挙した多くの要因が示していることは、教会そのものが牧師の職務に対する敵となることがあるという事実である。否、聖書によれば(エペソ6:12)、福音は宇宙的な諸々の力と敵対するものなのだ。任職された牧師のリーダーシップに対する挑戦は、社会学的なものだけでなく、神学的なものである。サタンとその仲間は、私たち牧師の職務を打倒しようとして躍起になっているのだ。

国内宣教と国外宣教の関係について

国内宣教と国外宣教の関係について

スカンヂナビア人宣教師の日本伝道事始

1、国内宣教の原点、私たちの救いの原点は何か?それは国外宣教である。

 国外から宣教師が外国に派遣され、海や国境を越えて国外宣教がなされる。宣教師は、外国に住み、外国の言葉を覚え、そして外国の文化の中で生活する。宣教師は、現地の人々を愛し、現地の人々のために祈り、現地の人々に仕え、聖書を翻訳する。宣教師は、肌の色、目の色、髪の毛の色を越えて、言葉や文化の壁を越えて、福音を宣教する。宣教師は、現地の魂の救いから人育てに深く関わり、現地の教会を形成をする。

2、国外宣教は、現地の働き人にバトンタッチされる時、国内宣教となる。

 自分たちがやった働きだと思わせる宣教、それが最高の宣教。新しい教会を生み出していくことのできる教会。そのような生殖健康(リプロダクティブ・ヘルス)を持った教会を、現地に建て上げる。

3、国外宣教と国内宣教はコインの裏表である。

 国外宣教と国内宣教はコインの裏表の関係にある。どちら側から見るかによって、国外宣教も国内宣教も入れ替わってしまう。

教会は全地に 国外宣教50周年記念誌

かわぐちかいじ氏の漫画『ジパング』

かわぐちかいじ氏の漫画『ジパング』では、「みらいを知る機会が与えられ、それを恐れず勇気を持って見つめた者は、その生き方が変えられる。」という主題が巧みなイマジネーションによって見事に描かれている。

この漫画にインスパイアされて、私は牧師としてこう思う。

「聖書、特に一番最後のヨハネの黙示録という啓示によって未来を知る機会が与えられ、それを恐れず勇気を持って見つめた者は、その生き方が変えられる。」そしてその時、人は、反転するかみなりをもたらす、祈りという武器によって、歴史を大きく動かすことができる。

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